関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

Ⅳ.サキザヤ族と火祭り

1.アミ族とサキザヤ族
2.加礼宛事件
3.「サキザヤ族」の認定
4.沙基拉雅村の暮らし
5.火祭り 



1.アミ族とサキザヤ族

 台湾の東部中央に位置する花蓮県は、台湾の中でも一番広い面積を占めている。その大部分が山岳地帯となっていて、僅かな平地地帯に人口が密集している。この地域にも原住民は多数存在し、中でも最大人口を誇るのが「アミ族」である。近年このアミ族の中から「サキザヤ族」が独立し、固有の民族であると台湾の行政院から2007年に認定された。
 認定されるまで、サキザヤ族がアミ族と「同じ民族」とされた理由の一つとして、文化・習俗の類似が挙げられる。二つの民族の分布はとても近く、その境界線も曖昧であったため、客観的視点からすると大きな相違点が見られなかったのである。しかし、彼らが使う言語には決定的な違いがあった。話し言葉としてのみ存在してきた言語だが、アミ族と同化している時にも、サキザヤ族同士ではサキザヤ語を使うことでその言語を守ってきた。それは同時に、彼らの中にサキザヤ族としての民族意識が強く根付いていたことを表している。

S17頃のサキザヤ族の民族衣装(現在のアミ族の衣装と類似)

2.加礼宛事件
 サキザヤ族がアミ族の中に身を潜めることとなったきっかけが1878年に起きた「加礼宛事件」である。サキザヤ族とカバラン族が共同で清国の統治に反抗したことに始まるが、今回委員長に伺った話によると、アミ族の中の一人が、竹やぶに囲まれ見つけることが困難であったサキザヤ族の村まで清軍を案内したという。このことによってサキザヤ族の村は襲来に遭い、逃げるようにサキザヤ族は元あった村を離れ、アミ族の村々へと散らばり身を隠すこととなる。我々がここで疑問に思ったことが一つある。なぜ彼らは自分たちの村を売った張本人であるアミ族に身を隠すこととなったのか。アミ族は恨むべき存在ではないのか、ということであった。そのことを委員長に伺うと、「それはアミ族の内の一人がしたことであって、アミ族全体を恨む理由にはならない。」とのことであった。日本社会に生きる私たちと、彼達との価値観の大きな違いを目の当たりにしたエピソードであった。
 更にこの地帯は元々水害が多い地帯であったため、1944年に日本統治時代にダムが建設されるまで、住む土地を転々としながら暮らしてきたという。今回伺った「沙基拉雅村」は、ダム建設以来定住している場所であり、本来の村は後に触れる「火神祭」が行われる辺りに存在していたという。


3.「サキザヤ族」の認定

 台湾は過去にオランダ統治時代(1624-1662年)、鄭氏政権時代(1662-1683年)、清朝統治時代(1683-1895年)、日本統治時代(1895-1945年)を経て、1945年からは中華民国政府の支配へと移行した。その間も台湾の原住民たちは自分たちの文化・習俗を守ってきた。それぞれの文化を持ちながらも2001年以前に認定を受けたのは9族のみであった。タイヤル族ルカイ族パイワン族、ツォウ族、ブヌン族プユマ族アミ族、サイシャット族、ヤミ族である。しかし実際に存在する原住民族はこの9族のみではなく、未だ認定されないでいる民族が多数存在する。
その中でも正名運動を通して、2001年に先陣を切って認定を受けたのがサオ族であり、後に続くように2002年にはクヴァラン族が、そして現在はタロコ族(2004年)、サキザヤ族(2007年)、セデック族(2008年)も加わり、計14の原住民族が中華民国政府によって認定されている。


4.沙基拉雅村の暮らし
 
 「沙基拉雅村」は、花蓮市区から北東に進んだ奇來山の麓にある。人口約460人、住居は170軒の村である。うち3分の2が漢民族であり、アミ族や他の民族の人たちも住居を構えているという。
 人々の多くは工場労働者だそうで、他の原住民族と同じように台北などの大都市へ働きに出る人も多いという。

村の地図  

学校

集会所

集会所の中の様子

集会所をバックに集合写真

日本統治時代のサキザヤ族と日本人の写真

川沿いには平屋建て家屋が多い

集落中心部には2階建て家屋が多い  

家屋の中の様子

山側に立つマンション

漢民族が住む明元聖堂  


橋を渡ってすぐ左側に食堂があり、食堂内には日本絵画が飾ってあった。
食堂にはカラオケが設置されていて、日本語や英語を話す女性がいた。店内にはサキザヤの織物や祭りで使われる弓矢などといった民芸品に加え、日本画も飾られていた。

サキザヤ族の織物弓矢


村では様々な植物が植えられ育てられていたが、農業を生業としている訳ではなく、家庭菜園の規模であった。


村で出会った3人組のおばあさん(91歳、81歳、?歳)に話を聞いてみると91歳、81歳のおばあさんは小学6年生まで日本語の授業を受けていたため、現在でも日本語を話すことが出来るという。村の中には2007年の民族認定のためのモニュメントやイベントに用いられる道具などがよく見られた。



5.火祭り

 「火神祭」は100年以上前から口伝で伝わってきた行事である。長らく行われてこなかったそれは、サキザヤ族の民族認定のために復活することとなった。起源は、洪水による被害が大きかったこの地域で犠牲になった人々を弔い、神を祀り洪水を鎮めるためであった。その後、加礼宛事件で犠牲になった人々を弔う、マラタウ(MALATAW)神を祀るなどといった意味合いも含むようになったという。現在、この火祭には4つの部族が参加している。(1. 撒固兒(Sakol)、2.馬立雲(Maifor)、3. 磯崎(karuruan)、4.噶瑪蘭(Kavalan))


委員長による開会の言葉

関係者・来賓席より

会場を囲むようにスタンバイした子どもたちが太鼓のようなものをたたいてる。

会場に入る準備をしている人たち

このわらをまたいで入場する。わらは後に火をつける。

会場で一般向けに配給されている民族料理。日本のおこわのような味。

神へのお供え物

神へのお供え物2

整列し始める

整列完了

子どもたちが歌い始める。マイクを持った少年が唄をリード。

その間に列の後尾に松明が。

一同が注目する中身体をうねらせるように踊る子どもたち。

列のサイドで長老と思われる女性の儀礼

献上と何かを唱えている。

前列で女性たちがお酒を飲んでる。

たばこに着火

たばこも献上

たばこの献上をもって点火、移動

移動、先ほどのわらにも点火

男性陣がこの弓をもち、絵に向かって火を放つ。(1〜3)

最後に、この中に火を納める。この建物は会場、お供え物の100メートル程先に一直線上にある。

これ以降、女性陣の踊りに移る。

祭りは18時に始まり、22時ごろまで続いた。当日大雨に見舞われても神への忠誠だろうか、御祭は続行されてた。




担当:金、呉