関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

Ⅰ.4-10月8日

一日の流れ

9:00 ロビー集合、松園別館、忠烈祠、吉野村、慶修院へ
12:30 昼食、自由行動
14:00 サキザヤ族の村到着後、村長さんのお話
16:00 フィールドワーク班と取材班に別れる
18:00 火祭り見学、夕食は池上弁当
21:00 ホテル到着後、自由行動




 花蓮2日目の午前中は、日本統治時代ゆかりの土地巡りに充て、最初に日本軍の基地であったという「松園別館」に向かいました。


 松園別館は「歴史的風景特区」に制定されており、さらには「台湾の歴史百景」に指定されている建築物です。民国32年(1943)に軍の兵事部として建設され、付近には「放送局」(現在「中広花蓮放送局」)「海岸ラジオ局」(現在「中間電信」)「水道局」(花蓮美侖浄水場)もあります。名前の由来は建物の周囲にある台湾では珍しい黒「松」群からで、これらは沖縄から移植されたものだそうです。



戦時中、この施設は軍事基地であると共に日本軍の高級将校用招待所ともなっていました。太平洋戦争末期、「カミカゼ」で知られる特攻隊隊員はこの施設で一時滞在をし、そこでは昭和天皇から隊員達に贈られた「御前酒」が振る舞われた後、南方へと出撃していったそうです。戦後に日本軍が引き揚げると、民国36年(1947)に台湾国民党の陸軍施設になった後、米軍の顧問団将校用の保養所となりました。この後は国が管理をしていたのですが、現在は民間企業が管理しているそうです。


彼らが引き揚げた後、この施設をホテルにする案もあったそうですが、景観の商業的利用によって美観が損なわれると市民の反対の声が挙がりました。その結果、現在ギャラリーやレクリエーションなどの活動の場を提供する公共施設のような存在となっており、市民に親しまれているようです。


この施設は長年各国の軍事部によって何らかの形で利用されてきましたが、一番の理由は立地の良さでしょう。松園別館は北濱海岸の美侖河口部を直接見渡せる高台にあったため、花蓮港を一望でき、行き交う船舶や空港を離着陸する飛行機などを簡単に把握できることから戦局における要所であったと言えます。

この施設の所々にはかつて基地として利用されていた名残といえるものがあります。
まず、防弾門。

こちらにはこのような説明書きがあります。



前為鐵質、後為鋼筋水泥之賽心厚重門板、厚達四公分、慶為国民政府接収後配合前方木造建築物水泥牆所修築的後門新増物、地方盛傅為弾薬庫之防爆門。
本海報牆古蹟修復大師甘玄龍先生於2003年以日本廟宇形式建構、造型簡潔。




また、この付近には奥行き5m、高さ2mで約20人程避難出来るという防空壕もあります。


そしてビオトープの池の前にあるカフェには以下の文が説明としてありました。




這個空間原為主建築後棟通道式木造住宅、相傅是炊事及洗衣勤務等位階較低的士兵宿舎或慰安婦移住的兩側房間、修復後成了餐坊的厨房及、男用洗手間。
這裡目前是松園提供身心霊餐宴的最佳場所、除了創意美食、可口蚤糕。松香珈琲興茶香、生態池的生活美学體験外、裸露木桁架及無障礎空間之透明玻璃電梯、更是本園特色之一。




前半の文脈から察するに現在のカフェや男子トイレがある場所は、修復前下級兵士の宿舎であったということでしょうか。

現在、建物自体は前述した通りギャラリーとして利用されており、私達が訪れた時は現代アートの展示が行われていました。外観はほとんど当時のまま保存されていますが(※例外としてベランダに車椅子の方でも利用できるようガラス張りのエレベーターが設置されている)、建物内部の構造はほぼ現代的なものに改築されています。




 では次に、かつては開拓神などを祀っていた日本式神社でしたが、日本の敗戦後には中国の宮殿様式へと改築された忠列祠(旧:花蓮港神社)に行ってみましょう。




 忠烈祠は戦争で亡くなった軍人、兵士または著名政治家など国家に貢献した人々の霊を祀る廟です。台北、台中、高雄、淡水などの台湾主要都市にある忠烈祠は辛亥革命などの近年の戦争で亡くなった人を祀っているのに対し、花蓮の忠烈祠では、鄭成功といった歴史上の人物をも祀っているという特色があります。




左右の祠内部

中央の祠内部




 次に台湾花蓮県吉安郷村中興路に位置する慶修院について紹介します。



かつてこの慶修院の周辺は「吉野村」と呼ばれていました。台湾植民地時代、日本はこの地に居住する先住民を武力制圧した後、官営移民吉野村として開拓が始められ、主に四国の徳島県及び香川県から移住者が多かったそうです。そもそも何故日本人がここに住むようになったのでしょうか。


昔、四国吉野川は頻繁に氾濫を起こしており、その付近に住む住民の生活は苦しいものでした。そこで日本政府は住民達を当時植民地であった台湾へ移住させることで、住民達にその地域の開拓をさせるとともに彼らの暮らしの安定を図りました。ちなみに名前の由来は、村の付近に元々「七(月卻)川」と呼ばれる川がありましたが、故郷の吉野川に想いを馳せた移民達がその川と吉野川とを重ね、いつしか「吉野川」と呼ぶようになり、その付近の村ということで「吉野村」と呼ばれるようになりました。



 慶修院は、真言宗の寺院「吉野布教所」として1917年に川端満二によって建てられました。当時は移民者達の信仰の拠り所となっており、敷地内には診療所・教会・葬祭場などが設置され、吉野村民のコミュニティーセンターといえる存在でした。当時の布教所には弘法大師不動明王が祀られ、建造物に高野山の建築様式が取り入れられていました。しかし、敗戦後の日本人の引き上げで管理者がいなくなったこと、台湾の民間信仰と関わりがないものであること、そして日本統治時代を彷彿とさせるということで、徐々に廃れていきました。その後、慶修院は1997年に花蓮県の第三級古蹟として認定を受けたことを機に修繕され、今の姿となりました。



寺院に入ってすぐの左手に「手水龕」があります。これは日本の「手水舎(ちょうずや)」を台湾語で表記したもので、日本のものと変わりません。手水舎とは、神仏を拝む前に参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盆が置かれている建物のことを指します。慶修院のものは1人用の小さなものでした。また、手水舎の隣には中国語・英語・日本語の3ヶ国語で「神域に入る者が身や心を洗い清めるための施設。参拝者は、手水舎の水で両手を清め、次いで左手に水を受けて口をすすぐ。」との説明書きがあり、訪れた方々は皆説明通りに行っていました。



これが古跡建築本體です。

この建物の中には、本尊の他に後述する住職さんの幼少時の写真や毘沙門天の像、曼荼羅などが展示されています。また、護摩の燃え殻を包装したものをお守りとして配布しています。



では建物の外に注目してみましょう。



 
百度石」は社寺の境内で一定の距離を100回往復し、その度に拝することで祈願と礼拝を行う百度参りの標識として立てられるものです。この裏には「昭和三年七月 主施 川端満二 あさの」と刻まれています。

また、真言宗の開祖・弘法大師の像を始めとした真言宗ゆかりの物がいくつかあります。四国八十八か所霊場に点在する八十八体の石仏が鎮座しています。慶修院は真言宗の寺院であり、吉野村で暮らしていた人々が徳島県香川県の出身者が占めていたからでしょうか。


 寺院の奥には休憩所のような施設があり、その中には吉野村に関する図書資料や映像資料があります。

そこで1冊の絵本を見つけました。それは、寺院の住職の長子の佐伯憲秀さんのライフストーリーと寺院の歴史を描いたものでした。本の概略を簡単に紹介します。


彼の父親である先代住職は元々日本に住んでいましたが、寺に住職が欲しいという吉野村の住民の要望により台湾に移り住んだそうです。

主人公である佐伯憲秀さんは、この寺院や吉野村で幼少時代を過ごしています。成長した彼は父の跡を継ぎ僧侶になりましたが、徴兵令によりシベリアに送られ、敗戦後は収容所に収容されていました。過酷な日々の中で彼を励ましたものは、かつて慶修院で過ごした楽しい日々だったそうです。

釈放後、彼は日本で徴兵される以前と同じく僧侶として勤めていました。そして時代が流れ、かつて吉野村で暮らしていた人々や花蓮地域の住民の協力により、慶修院を復興しようという動きが起こりました。慶修院の復興活動の中で、かつての住職だった佐伯さんを再び招きたいという声もあり、彼は故郷である吉野村、そして慶修院の地を踏むことが出来ました。


この絵本に描かれている絵は、憲秀さんが暮らしていた時代を知らない私達にもその様子を伝えてくれます。この後、吉野村の中の集落の一つ、宮前集落があった場所に移動しました。



 現在、絵本に描かれていた田畑はすっかり無くなっており、アスファルトの道路にコンクリートの建物といった現代的な風景が広がっていました。花蓮吉野開村記念碑はありますが、吉野村に関する資料となるものはそれ以外になく、しかも手前の建物の陰となって解りにくい場所にありました。



更にその奥に進んでいくと空き地があり、そこにはこのような石碑が建てられていました。

これはお墓に見えますが、「鎮座紀念」と記されてあります。なお、後から調べたところ、このあたりには昔の日本家屋の建物もいくつか残っているようです。



午後からは新たに台湾原住民として登録された、サキザヤ族の調査に充てられました。どのような調査を行い、どのような発見を得られたかは「Ⅳ.サキザヤ族と火祭り」という記事をご覧ください。




担当:光川、谷岡