関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

Ⅰ.2‐10月6日

一日の流れ

9:00 ロビー集合、順益台湾原住民博物館へ
10:30 原住民博物館到着
14:30 昼食 班ごとで自由行動
16:00 忠孝復興からバスで九份へ
18:00 九份到着、自由解散


 9時の集合までに朝食を済ませるため、8時頃私の班は台北から地下鉄で善導寺駅へ。朝食専門店で有名な「阜杭豆漿(フーハン・ドゥジャン)」で台湾ならではのごはんを頂きました。長い行列に並んで私たちが注文したのは、鹹豆漿(小エビやザーサイが入った豆乳の茶碗蒸しのようなスープ)、薄餅油條(台湾風揚げパン)など。パン類は少し油っこかったですが全体的にあっさりとした味付けで、一気に平らげてしまいました。さて、今日も一日頑張りましょう。余談ですが、台湾の友人によると、台湾では多くの人が朝食を摂るのは家ではなく、外で買った物を会社や学校で食べるそうです。特に台北は朝食の店が充実し、朝食文化が発達しているそうです。島村先生の喫茶店モーニング文化を思い出しました。




 朝9時にロビーに集合し、士林でバスに乗り換え、故宮博物院の前で下車。多くの観光客が来るからか道路はかなり広く舗装されていました。故宮博物院は主に中国漢族の歴史的遺物を所蔵した大規模な博物院で、多くの観光客はこの博物院を訪れます。しかし今回の私たちの目的は、そのすぐ側にある台湾原住民の文化を知る上でとても重要となる順益台湾原住民博物館。






当館は順益企業公司董事長、林清富氏が趣味の一環で20年間収集してきたコレクションの寄贈により1994年に設立され、現在では1000点あまりの収蔵物が展示されています。林氏自身は漢族ですが、この博物館には、林氏の「台湾原住民の文化を理解することで中華文化の多様化促進と台湾社会の融和に貢献したい」という思いが込められています。順益企業公司が三菱関連のディーラーということで、当館が運営する財団には多数の車関連の会社が関わっているそうです。そのバックアップを受けながら、林氏や研究者で構成されたグループで現在も原住民研究とコレクションの収集が進められています。




 展示フロアはそれぞれ「信仰・祭儀(B1F)」、「自然・環境(1F)」、「生活・器物(2F)」、「衣服装飾・文化(3F)」となっており、ほかにも映画館のようなシアタールームやDIY教室があります。



ここからはフロアごとに記述していきます。
(※館内は撮影禁止だったため、画像はありません。多少分かり辛い部分もありますが、ご了承ください。)




1階「自然・環境エリア」では、台湾原住民の概説や分布地図、映像資料により、原住民のルーツや現在それぞれが暮らしている地域分布、現在の原住民問題などが紹介されています。
映像資料によると、台湾原住民はオーストロネシア語族に分類されています。オーストロネシア語族は主に太平洋やインド洋地域に多く分布していますが、そこからは少し離れた西アフリカのマダガスカルも同語族とのことです。台湾原住民文化である刺青や首狩りなどは、フィリピン、インドネシア、マレーシアなどにも類似した文化が見られ、やはり同語族としてルーツに共通性を感じます。物質文化や祖霊信仰の風習、言語などにはマダガスカルオセアニアと多く共通点が見られるようです。また、一説によるとオーストロネシア語族は台湾から拡散していったのではないかとも考えられているそうです。


現在では都市原住民問題といって部落から都市へ出てきた原住民の人々が、土木工事などの危険で流動的な仕事につく傾向が指摘されています。出稼ぎに多くの若者は都市へ出ていきます。しかし原住民族に対する差別も未だに存在しているためか、安定した職にはつけず日雇や肉体労働が主になっており、出稼ぎに来ていても2,3週間仕事がない場合もあるとのことです。なお一方で、台湾で歌手や野球選手として活躍している原住民出身者の人もたくさんいるそうです。




2階「生活・器具エリア」では、原住民の食文化、住居、楽器などが展示されていました。
その中でいくつか興味を持ったものを紹介したいと思います。


・ツォウ族の男子集会場。男性の団結を象徴し強める役割を持った集会場は、アフリカ、メラネシアインドネシアポリネシアミクロネシア南アメリカにもあったようです。


パイワン族の鼻笛。高尚な楽器とされ、頭目が死去した際か頭目家の男子が女性に求愛するときしか演奏されなかったそうです。他にも口琴や木琴などの楽器がありました。口琴は世界各地にあるようですが、タイヤル族口琴アイヌのものに似ていました。



当館ではコレクションを基に設立したからか、他民族に比べパイワン族の収蔵物が多いように感じました。展示を見ていて気づかされたことは、上記の種の壺には男壺(左)と女壺(右)の性別があること、そして蛇の模様が多いことでした。
パイワン族には壺と蛇にまつわる神話があり、実際私たちが見た中にも陶器や衣服には渦を巻いた形や蛇模様が多くありました。壺と蛇の神話は、壺から生まれた女性と百歩蛇が結婚して産んだ3人の子がそれぞれ古楼社と武潭村の頭目、巫師となったというものです。そのため古楼大社地区とそれに属する小社はその末裔であると考えられているようで、現在15代目だそうです。男壺には百歩蛇の模様、女壺には太陽紋もしくは乳状の突起をしるしていたのには神話の表象としての意味があったことが分かりました。





3階「衣服装飾・文化エリア」では、服飾文化や刺青文化が紹介されていました。


タイヤル族の男子の上衣

この服には、白いビニールのボタンが約303粒ついています。このようにボタンを施した服は、頭目や勇者でなければ着られなかったそうで、ボタンの多くは日本人か漢民族との取引で得たそうです。ビニールのボタンがタイヤルの衣服文化に導入されたのは日本統治後かと推測できますが、当館の展示物には年代が記載されていなかったものが多かったので、原住民運動後新たに文化を創出したサキザヤ族のように、近年に再創出された民族衣装も含まれているのではないかと思いました。


パイワン族ルカイ族の喪服

パイワン族ルカイ族の喪服の多くは、赤、オレンジ、黄色などの派手な色を用いるそうで、私たち日本人や漢族がおめでたいことに赤を用いるのと対照的で不思議に思いました。






地下1階「信仰と祭儀のエリア」このフロアには台湾原住民の祭典の写真や図表、それにまつわる器物の展示がされていました。


台湾原住民の写真や資料は日本の植民統治時代に撮影されたものが多く、良くも悪くも日本の植民統治時代が台湾原住民の研究には深くかかわっているようです。






 博物館を出た後は、各班で昼食をとり九份へ。台北駅からMRTという地下鉄に乗りました。台北市内の便利な足となっているMRTですが、車両内の音声案内には多言語・多民族国家台湾ならではの工夫がなされています。台湾人の友人から聞いた話では、MRT内の音声案内は国語である北京語の他に、閩南語、英語が流れているそうです。東へ三つほど駅を行った忠考復興駅で降りて、そこから金瓜石行きのバスに向かって九份へ向かいました。
車内に電光掲示板はありましたが停留所名が表示されておらず私たちは降りる場所が分かりませんでしたが、現地の乗客は慣れているからか降りたいところで下車ボタンを押していました。



一時間半ほどバスに揺られて九份に到着。




「九份」という地名の由来として、九份には九戸の農家しか人が住んでおらず、交通が不便だったため九戸が物資をまとめて購入する習慣があり、何か買うときにはいつも「九份(九戸分)」と言っていたので、九份と呼ばれるようになったと言われています。九份では一年間のうち三分の二は雨が降っているそうです。私たちが訪れた時も雨が降っていました。九份では、家の屋根に特殊な油を塗って防水している家がたくさんあり、油を塗っている家の屋根は黒色になっているそうです。九份ではこの黒い屋根の家がたくさん見られます。


九份は元々、あまり人が住んでいない簡素な村でしたが、砂金が発見され、金鉱山が開発されるにつれて、次第に栄えていきました。1910年代には、「小香港」と言われるほどの賑わいだったそうです。しかし、1971年の金鉱山の閉山により、九份の町は衰退していきました。



九份が再び注目されるのは1989年に発表された候考賢監督の「悲情城市」という映画の撮影地になったことがきっかけでした。その後一気に観光地化され、茶藝館や喫茶店、土産屋が増え、さらに日本で2001年に公開された宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の舞台にもなり、日本人観光客もたくさん来るようになりました。


このような映画に出てきたシーンそのものの街並みが広がっています。


九份の表通りの町並みには飲食店や土産屋のみならず、普通の民家も並んでいます。にぎやかな道筋を逸れて小道へ入ると人々の生活区域が広がっていました。




ここは基山街から賢崎路への通じるトンネルになっています。
壁一面に観光客が書いたと思われる相合傘の落書きがありました。ここは恋愛成就祈願のスポットとして有名なのかもしれません。




九份で有名なのは、穿屋巷と呼ばれる細い階段状の路地が無数にあり、迷路のような街になっていることです。穿屋巷は説明の看板も作られているほどで、九份の名物と化していると思われます。



上の方に昇っていくと聖明宮という寺院がありました。ここには商売繁盛の関公(関聖帝君)という神様が祀られているそうです。



小高い場所から九份の街を見下ろしてみました。



貿易の中心地である基隆港がすぐ向こう側に見えます。
ゴールドラッシュと言われた当時、ここから多くの人やものが流れてきていたと想像されます。





ここから下に階段を下りていくと、九份秘密基地という観光客向けの撮影所がありました。レンタル衣装や、映画のシーンに出てくるような撮影セットなど、「悲情城市」の気分が味わえる観光スポットのようです。



やはり日本人観光客が多いためか、店の看板や料理メニューには日本語表記が多数見られました。



映画の「悲情城市」の名前を使ったお茶を飲む店もありました。



そこからさらに下に降りると、小さい広場があり、そこには炭鉱作業をしていると思われる銅像がありました。


階段を降り終わると、少し歩いたところにバス停があり、行きと一緒のバスに乗って台北市に帰りました。






参考文献
2010『順益台湾原住民博物館ガイドブック』順益台湾原住民博物館


担当:坂口、山口、西岡