関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

旅館から見た小樽‐越中屋旅館を中心にして‐

中村知希


はじめに
 本題に入って行く前に、小樽において旅館を調査しようと考えたいきさつを述べたいと思う。北海道という土地は人々によって開拓されることにより街が興り、それに伴い全国各地から多様な人々が行き交うようになった。小樽市は当時道内だけではなく、全国の都市と比較しても大都市であり旅館は外部から訪れた人は誰しもが訪れる安らぎの場所であった。私はそこに着眼し、調査を行うことでより当時の小樽に関してより鮮明に理解すること出来ると感じ旅館を調査しようと決意した。また、小樽は中継都市として栄えた都市であるので小樽を調査することで北海道全体も把握することもできると考えたので小樽市を調査することにした。
 調査方法としては聞き取り調査を用い、調査を行った。


第一章:小樽と越中屋旅館のはじまり

1−1 越中屋旅館のプロローグ
 現在越中屋旅館は四代目の上谷征男氏が旅館を経営しているが、先祖代々北海道で暮らしていたという訳ではない。征男氏は四代目の主であるが、初代は富山県氷見において上谷家の次男として命を授かった。富山県で暮らしていた際は稲作を中心として、その他漁業などによって生計を立てていたが大きな災いによってその生活は大きく乱れてしまった。それは江戸時代に生じた大飢饉である。飢饉によって稲作による収入が全くなくなってしまい生活していくことが非常に困難になってしまった。小さな田んぼであったので長男しか継ぐことが出来ず、さらに大飢饉によって次男以下の兄弟は新たな職を求めて移動しなければいけなかった。その際に次男夫婦の目に止まったのが小樽という都市であった。
 明治以前、小樽は北限の街であり小樽より北側は海が凍ってしまって行くことができなかった。また、北海道は開拓途上の土地であり、次男夫婦もこれに目をつけ一攫千金を夢見て明治元年北前船を利用し、小樽へとやってきた。これが小樽にやって来るまでの過程である。
 小樽に来てからいきなり旅館経営を始めたという訳ではない。まずは廻船問屋として新生活をスタートした。海岸線付近に網小屋・魚小屋を真似て小屋を作り、そこを起点として商売を始めた。アイヌから買い取った毛皮を全国各地に船を用い、担いで周った。出身地である富山県福井県までにも売買しに行った。それは毛皮を売ったお金で米を買う為であった。米は北海道では作ることができない貴重なものであり、生活する為にも必須のものであった。このようにして小樽での商売も成功し、落ち着いた生活を送ることができた。
 次男夫婦が旅館経営を始める経緯となったものは、新しい希望を持って小樽にやってきてから約十年後のことであった。坂本龍馬の命令によって北海道をより開拓するために数多くの屯田兵や罪人たちが出向させられた。毎日のように重労働をさせられていたが当初は寝泊りする場所がなかった。そこで、彼らは次男夫婦に頼み込んで越中屋の軒先や土間を簡易宿泊施設にして宿泊させてもらったのだ。これが小樽での越中屋旅館の始まりと言える。木を切って作った丸太に布を巻きつけて、それを枕代わりとして使用していた。朝になっても起きないときは気の端をカナヅチで叩いて起こしていた。食事も用意されており、現在の旅館形態と大きく変わらない印象を受ける。また、それを知った全く関係ない人々があちこちで越中屋という名前で旅館営業を始めだしたそうだ。その数は三十数件にのぼったようである。このことから見ても、小樽における旅館業の躍進をひしひしと感じることが出来る。現在でも越中屋という名の旅館は北見、ルモン、エリモ町などに六〜八件残っているそうである。ここから旅館としての越中屋が始まったのである。






















■写真1 明治初期時の海岸線跡


1−2 小樽が栄えた経緯
 上記でも述べたように小樽は北限の町であり、そこよりも北部へは船で行くことは出来なかった。夕張で掘られた炭坑やしゃこたんの海産物など北海道で扱う商品のすべては一度北限である小樽に集まり、そこから全国各地へと出荷された。小樽が栄えたのは中継都市として北海道と全国各地とを繋いでいたためである。内地との窓口であっただけでなく経済の中心として栄えた。明治二十二年、小樽の人口は六万人になり、地方都市に限定されるが全国で十五番目に大きい都市にまで成長した。また当時の隆盛を顕著に表わすものとして一度だけではあるが所得番付において小樽の商人が何年もの間一位の座を保持し続けていた松下幸之助氏を抜いて一位を獲得したことがあった。小樽の勢いは大正時代に入っても衰えを知らず、ロンドンの相場を動かすほど凄まじいものであり、越中屋旅館もこの流れに乗じて規模を拡大させ発展していった。


第2章:小樽旅館史―戦前・戦中編―
 小樽が中継都市として栄えていた戦前は個人や観光客として宿泊する者は全くと言っていいほどおらず、各地から特産品を持って訪れてくる行商人がほとんどであった。タオル屋(松山市)・繊維(山形県)・洋服(岐阜県名古屋市)・製薬(富山県)。他に大阪府新潟県など関西・中部・東海地方を中心として、様々な職種の行商人が来ては1週間ほど滞在して行商を行っていた。またそれに伴い、各企業が指定している旅館に滞在していた。

 ここではそれぞれの旅館ごとにどのような職種の人々が宿泊されていたのか、またそれぞれの旅館ごとに調査した内容が多様なのでそれぞれにまとめていきたいと思う。


2−1 魚松旅館
 魚松旅館は大正十三年から現在まで続いている旅館で、現在は二代目の松塚カツエさんと妹さんの二人で営業している。カツエさんは秋田県の出身で、父親は鰊漁師をしており、買い付けで様々な島を行き来していた。それに伴い、島の子供たちの通学の迎えを並行しており子供たちの面倒を良く見ていたそうである。それが現在の旅館経営に繋がったそうである。
 魚松旅館は当時、部屋数は六部屋で一人部屋のみであった。魚松旅館がある南小樽周辺は駅に非常に近かったこともあり、たくさんの問屋街が出来非常に賑わっていた。列車が出来る以前は荷物を馬車に乗せあちこち移動をしていたそうである。また、行商人の他に一攫千金を求めて地方から樺太に鰊漁を行いに行く人々も小樽の旅館に1泊していたようである。それは先程も述べたように、小樽は当時、北限の街であったためである。
 魚松旅館における特徴として基本的には「折足会席膳」という旅館で一般的に利用されている膳が利用されていたが、中には「箱膳」と呼ばれる自分専用の棚を利用していた人々もいた。「箱膳」というものは蓋付きの箱の中に一人分の食器や箸を入れておき、食事の際には蓋を裏返して膳として使用するものである。魚松旅館の他には、現在はないが坂田旅館で利用されていたようである。また現在と違い、どのような人々が宿泊していたのかを確認するために宿帳には身分を書く欄があった。
また、カツエさんには当時宿泊していた社員の夜の遊びに関しても教えて下さった。社長は宿に残り、他の社員は会社のお金で当時この辺りで「番屋」と呼ばれていた現在のクラブ、集会場で豪遊していたそうである。社長は全体を見守る役割を担っていた。その為、宿泊する旅館を選ぶ際にも社長自身が下見に訪れ、宿を確認してから社員を連れて訪れていたようである。






















■写真2 魚松旅館






















■写真3 魚松旅館で当時使われていた膳






















■写真4 魚松旅館で当時使われていた膳②






















■写真5 宿帳


2−2 海老屋旅館
 海老屋旅館は大正十年から平成二十一年まで続いた旅館である。女将であった海老節子さんにお話しをお伺いしました。
 海老屋旅館がある色内町あたりも問屋街があったが特に鉄屋街が広がっていた。その為、繊維(新潟県)の行商人だけでなく鉄鋼関係の人々も良く宿泊していた。また、海老屋旅館の横には倉庫があったのでそこで各地方から持ってきた荷物を整理し、各地へ運んでいた。また港に近かったということもあり、苫小牧などから派遣されてきた検数協会の人々が船の荷物を確かめるために小樽を訪れ、そのままその日は旅館に宿泊していた。検数協会とは小樽に来た船の荷物の積荷・揚荷の数量を調べる職業である。また、不正な荷物などがないかを確認する機関である。






















■写真6 海老屋旅館


2−3 越中屋旅館
 越中屋旅館に宿泊していた人々も繊維や製薬関係の行商人が多かった。
 戦前までの越中屋旅館に宿泊していた職業及び、時代の推移を示したいと思う。

屯田兵(明治六年〜)→商人→富山の薬売り(明治二十六年〜)→京都の呉服屋などの繊維関連企業(大正〜)→漁業関連企業

 宿泊形態としては繊維関連の行商人は大部屋で共に過ごしており、荷物を盗まれないように荷物を囲うようにして寝ていた。それと比較して、薬売りの商人の場合は同じ大部屋でもそこに仕切りをすることで一人一室にして宿泊していた。同じ部屋であっても職種によって利用の仕方は大きく異なっていた。また征男氏によると、繊維関連の行商人が訪れて来ている際には、「繊維祭り」というものがあり紅白の幕を街全体に掲げ、街全体で歓迎していたそうである。これは繊維関連の行商人が帰るまで続いた。
 上記のような形態で本館を経営していくと同時に、昭和六年には東北地方では初の鉄柱のホテルである洋館を開業した。素泊まりは八円であったのだが、これは当時の国鉄社員の初給料と同じ額であった。また、朝食は二円、昼食は一円五十銭、夕食は二円であり、ベニヤ板の買い付けに来日した英国人が主に宿泊していた。米国人は下品という理由で門前払いであったようだ。さらに、本館において、昭和十七年には陸軍大将の梨元宮が小樽に宿泊する際、越中屋旅館に指示し、福井県から書院造りによる「庄屋」の部屋をそのままの状態で船を利用して持ってきたという逸話も残っている。
 順調に経営を続けていたが、太平洋戦争前後は波乱であった。昭和十八年に一週間ほどであるが陸軍の暁部隊に占領されていた。軍隊の言うことは絶対であり、強制的に退去させられたそうだ。その時、征男氏は幼少であった為ほとんど記憶に残っていないそうだ。






















■写真7 越中屋旅館






















■写真8 「庄屋」の部屋






















■写真9 「庄屋」の部屋②






















■写真10 「庄屋」の部屋③


第3章:小樽旅館史―戦後編―
 日本は戦争に敗れ、マッカーサー率いるGHQに占領された。様々な事業に介入し、日本全体は混乱に陥ったが、越中屋旅館もその一つであり、多大なる影響を被った。
 昭和二十年八月、戦争が終結したばかりの頃であるが、天狗みたいな鼻をした米国軍がジープに乗っていきなり旅館にやってきた。そしてそのまま占領されてしまった。大規模の旅館であった為、GHQの目に止まり占領という流れになったそうである。征男氏の父親以外は旅館から追い出された。父親だけは支配人として雇われ、給料を貰っていた。しかし、米軍の行為は歴史ある旅館を踏みにじるものであった。畳には土足のまま上がっていたし、ペンキで好き勝手に壁を塗ったりしていた。「米国人が土足のまま部屋に上がるという習慣があることを当時の日本人が知るはずもなく、そのまま憎悪へと繋がったのではないか。」と私は考える。
 一方、追い出された征男氏らが暮らしていた住居も一階以外の二・三階は米軍に占拠された。米軍の食事は越中屋旅館が提供していた。人によって戦争という悲惨な歴史に対する感じ方は違うが、越中屋旅館の人々は上記のような行為を通して敗戦の重みを感じたのではないだろうか。このことを契機として、立派過ぎた洋館を手放し、これまで共に歩んできた本館のみでの再建を試みた。米軍による占拠は昭和二十八年まで続いた。
 戦後、小樽の街はどんどん衰退していきそれに伴い、旅館の数も減少して行った。また、小樽を訪れて来る行商人の数も減って行き現在では全く訪れなくなってしまった。その代わりに、小樽運河などの観光地化が進んだことで現在では、宿泊客のほとんどが観光客の人々で成り立っている。現地調査させて頂いた旅館の人々が口を揃えて仰ったことは、「旅館の形態は時代によって流動的に変わっていくものである。」ということである。その時代にどのような人々が宿泊しに来るのかを把握し、それに伴った旅館作りをしていくことが大切である。






















■写真11 洋館跡






















■写真12 洋館跡②






















■写真13 洋館のパンフレット


まとめ

4−1:これから旅館を経営する人々にむけて
 四代目、征男氏が言うにはこのような商売は大きくすれば大きくするほど悪い方向に向いていくという。借金までして大きくしていくという時代は過ぎ去ってしまっており、現在は顧客ニーズに合した設定をして行くことが大事なのである。

4−2:小樽におけるこれからの課題
 小樽における旅館の数は年々減少してきている。統計的に見てもそのことが実証される。昭和三十五年に二百二十三件あった旅館は平成十九年には三十四件まで減少してしまっている。これは旅館の多くがホテルに移行してしまっている現状があるからである。坪単価がビジネスホテルで四十五万円であることに対して、旅館は木材を利用することもあり、七十五万円〜九十万円もかかってしまうのである。また、近年のお客様は安く宿泊することが出来ればどこでも良いという風潮が広まっており、旅館の減少に繋がっていることも事実である。しかし、旅館側は旅館に対する希少価値、伝統ある旅館を守っていくことにやりがいを感じている。いかにして現在の観光客のニーズを汲み取り、改善していくことが、これから旅館が生き残っていく為の重要な鍵になってくるのではないだろうか。


謝辞
 調査をするにあたり、越中屋旅館の上谷征男氏、魚松旅の松塚カヅエ氏とカヅエ氏の妹様、海老屋旅館の海老節子氏、小樽総合博物館の石川直章先生、島村恭則教授など多くの方にご協力をいただきました。本当にお世話になりました。


参考文献

宮本常一(2006)『日本の宿』八坂書房
松尾定行(2008)『駅前旅館をいとおしむ―昭和の面影が残る昭和の宿―』クラッセブック
――――(1989)『旅風俗 Ⅲ宿場編』雄山閣出版株式会社
北澤博(2004)『純翁追憶記』三和プリント

小樽 喫茶店を通して見えるもの―老舗と革新派―

竹中佑里


はじめに
小樽には、戦後から昭和の末まで多くの“喫茶店”が存在した。戦後の日本に純喫茶や、ジャズ喫茶、カラオケ喫茶などさまざまな喫茶店があったように、小樽にも多くの名喫茶店が存在したのだ。喫茶店について記された『喫茶店の時代―あのときこんな店があった―』のなかでも紹介されている喫茶「光」は現在も営業している純喫茶として有名である。調査を始めるにあたって、私は、小樽の喫茶店を調査することでまちや人々の物語の記憶を思い起こしたいと考えていた。そして、調査の途中で小樽のなかでも特殊な喫茶店として開店、発展し、そして閉店していったひとつの喫茶店に出会うこととなった。それが「喫茶エンゼル」であった。この喫茶店については、小数の文献やインターネット上にて紹介されているが、その実態・歴史を詳細に記録したものはない。小樽の老舗として現在も営業されている喫茶店の取材も通して、この喫茶店の歴史を振り返り、これにて記録を残したい。

1. 喫茶店とは
今のように応接間がなかった時代、喫茶店は客人と話をする場、又仕事での取引の場としてビジネスにも利用されてきた。そして、自分の憩いのスペースとしてサラリーマンが利用したり、朝からモーニングをゆっくりと食べたりと、生活の一部としての場でもあった。このように、戦後の日本において喫茶店は公私ともに利用される空間として、大変重要な役割を担ってきたといえる。又、ここでいう喫茶店とはカフェーとは全くことなるものである。昔は女中さん(今でいうウェイトレスのようなもの)がいて、お酒を取り扱う店をカフェーといい、スナックやバーといった感覚の店であった。今ではカフェはおしゃれなコーヒー店として気軽に入れるものであったが、昔のカフェーは基本的に男の場であったのだ。

■写真1小樽運河プラザ1番庫カフェオーナー/佐々木一夫様のコレクションより抜粋

1−1. 日本における喫茶店の歴史概要
茶店の歴史については、明治22年4月に昔鄭永慶によって開かれた可否茶館(かひぃ さかん)が本格的なコーヒー店の始まりであったとされるが、日本ではその後銀座に開かれた「カフェープランタン」や「カフェ・ライオン(精養軒)」によってコーヒーを飲む文化が庶民にも普及し、戦前には多くの喫茶店が庶民にも親しまれる存在となっていた。銀座や新宿などを代表とし、全国各地で1920年代には空前の喫茶店ブームが到来した。1950年代後半にはジャズ喫茶、歌声喫茶名曲喫茶など個性的な店が続々と表れ、1970年代には大ヒットしたスペースインベーダーゲームの登場により多くの喫茶店がゲーム機を設置して、若者にとっても喫茶店は親しみやすいものであった。しかし、昭和の時代とともにそのブームにも終焉が見え始め、日本を代表する数々の喫茶店はその歴史に幕を閉じていった。今では“喫茶店”というと古びたイメージをする若い世代が増えた一方、スターバックスドトール・コーヒーといったチェーン店やカフェがおしゃれなスポットとして親しまれるような新たな喫茶ブームが到来しているともいえる。

2.小樽の喫茶店
上記で記したように、日本では戦後から昭和の終わりにかけて喫茶店ブームが巻き起こった。北海道小樽市ではどうだったか。小樽での聞き取り調査によると小樽でも戦後から昭和末にかけて多くの喫茶店が軒を連ねた。昭和39年小樽市の人口が20万6000人とピークになった年には200件以上の喫茶店が点在したという。現在小樽市内の電話帳にはカフェ7件、喫茶店77件、コーヒー専門店10件が登録されており、全てを合わせてもピーク時の半数以下に落ち込んだことが伺える。

■写真2 小樽運河プラザ1番庫カフェオーナー/佐々木一夫様のコレクションより
    小樽の喫茶店のマッチケースも多く残っていた


2−1.小樽喫茶店 あまとう
小樽を代表する老舗喫茶店として有名なのが「あまとう」である。最近では、「マロンコロン」や「クリームぜんざい」が百貨店の北海道物産展などで人気を呼ぶなど、「あまとう」という名前をご存知の方も多いのではないか。ここでは、3代目の柴田明さんにお話を伺った。
今では、洋菓子が注目を集めているが、あまとうの歴史は昭和4年(駒ケ岳噴火・世界恐慌の年)に当時、まるいちラムネに勤めていた初代柴田昇さんがまるいちの印を用いて「喫茶と食事の店 まるいち 黨党」を開店させたことに始まる。

■写真3 柴田昇さんが当時勤めていたまるいちラムネ

■写真4 初代柴田昇さん

■写真5 創業当時の店の様子/女給さんの姿は着物である

当時メニューは飲み物から酒、洋食、寿し、支那食(中華)、そば類など80種類以上を揃えており、昭和11年当時の写真には着物を着た「女給」さんが映っている。当時の客層は近所の家族連れから女性や労働者など様々であったそうだが、初代柴田昇さんは午前10時から午後11時まで営業し、寝る暇がなかったという程の盛況ぶりだった。昭和18年に「まるいち甘黨」から「まるいち甘党」へ改名、昭和20年以降には着物であった制服から洋服へと変わっていった。以下の写真では洋風の制服にオードリーヘップバーンを意識した髪型の女給さんが写っている。大正期から多くの外国航路の船を迎えてきた小樽では、服装や髪型にも外国の影響を受けやすかったのだろうか。
そして、戦後にはメニューを洋菓子専門へ変更、砂糖の供給が少なかった時代にズルチンを使用したアイスキャンデーを発売し大ヒット。「キャンデー部」という部署を設置したほどだ。


■写真7 昭和30年頃の制服と髪型/戦後、着物から洋風の制服に・・・
            
昭和27〜28年頃に増改築し今の店の間取りになった。現在の店名「あまとう」になったのは、昭和31年のことで漢字表記かかな表記かという夫婦げんかの末に、2代目柴田さんの奥様が「あまとう」という表記へ変更させたそうだ。昭和35年にクリームぜんざい、マロンコロンを販売して以降、大ヒット商品となり、現在も愛され続けるメニューとなっている。高校生の喫茶店への立ち入りが禁止されていた頃には、高校生の指定喫茶店として小樽で指定された3店のうちの1店として、女子高校生にも人気のお店であった。現在では、その当時の常連客が親子2代、3代と来店し、小樽市だけでなく多くの人々に愛され続けている。

■写真8 昭和18年頃の甘党

■写真9 現在のあまとう

又、冒頭でも紹介したように最近ではクリームぜんざい、マロンコロンが人気を呼び、新たに札幌市に1店舗がオープン、盛況を呼んでいるが、まだ大きな全国展開には踏み出さないと3代目柴田明さんは語っていた。今後も「あまとう」は小樽を代表とし、小樽、そして北海道の人々に愛され続ける店となっていくのだろう。

■写真10 現在の店内のソファー

2−2.小樽の喫茶店 米華堂
昭和3年創業以来、現在も変わらぬ味を守り営業を続けている「米華堂」は、小樽で最も古い洋菓子と喫茶の店として人気のお店である。創業当時、小樽商科大学の前の地獄坂上り口にあったという店舗は商大の学生が多く訪れたそうだ。

■写真11 花園銀座商店街の通りに面する米華堂 

現在は3代目の八木浩司さんが寿司屋通り横の花園銀座商店街(以降、花銀)に店を構えている。私が訪れた際には、八木さんと奥様、お母様が迎えて下さり、当時から使用しているという温かみのある椅子や店内はとても落ち着いた雰囲気であった。

■写真12 店内の様子

戦後に現在の店舗の向かい側へ店舗移転し、7年前に現在の場所へ移転したということだが、昭和30年代には商大生がダンスホール向かう待ち合わせに利用したそうなので、商大近くから稲穂のほうへ移転したのは昭和30年代半ばかそれ以降ということになる。また、これを裏付ける資料として、『小樽商科大学 学園だより NO.152 2008.1.31創刊』に『よく商大生がダンスの待ち合わせに利用していた喫茶店。洋菓子屋さんだが,昔はラーメンなどの食事もできた。もちろんスープもしっかり鶏肉から。また2 代目がクラシック好きで,店内にはレコードが流れており,商大生も聞きいっていたそう。英語の「ベーカー(パン屋)」と仏語「ガトー(菓子)」を組み合わせ,漢字をあてて「米華堂」の店名に。』(以上、資料より引用)という記述で米華堂が紹介されていたことから、当時はケーキやコーヒーといった飲食だけでなく、学生たちが集う場としてよく利用されていたことが伺える。
そして、戦時中や戦後には、コーヒー豆が手に入らない時代もあり、大豆などの代用品でまかなうこともあったそうだが、資料中の元商大生の話にもあるように、洋菓子だけでなく食事も取り揃えた時代もあった。移転して以降は、花銀という立地からスナックや飲み屋街のお客が利用したり、地元客、常連客、更に最近では観光雑誌などに紹介されたりと、多くの人々に利用されている。私が伺った時には、地元客らしい年配の女性が3人程来店していた。

■写真13 ご主人と奥様

3.喫茶 エンゼル
小樽を中心に喫茶チェーンを拡大した「喫茶エンゼル」。小崎周平さん(小崎さんは平成18年に他界している)は小樽の大手金物店に勤めていたが倒産し、昭和40年に「エンゼル公園前店」をオープンさせた。その後、昭和40年から53年までに6店舗のチェーン店を開店させた。店の名前は、エンゼルフィッシュの“エンゼル”から由来しているそう。 取材では、奥様で、ご一緒にお店を経営されていた小崎満子さんに当時のお話をお伺いすることができた。

■写真14 当時店内の一部に置かれたグッズ

3−1.小樽初のチェーン店?
まだ小樽にチェーン店が浸透していなかった時代、」ご主人の小崎周平さんは「少し歩けばエンゼルがある」という夢を抱き、小樽にて「エンゼル」チェーン店化を革新的に進めようとした。そして、昭和40年に公園通り店を、昭和44年に和風茶房「嵯峨」(昭和52年6月10日に「エンゼル」銀座店として再開)、昭和46年に綜合ペットセンター「エンゼル」(昭和51年4月20日「エンゼル」駅前店として再開)、昭和51年11月30日サンビルオープンに合わせ「エンゼル」サンビル地下店、昭和53年12月20日一番街店、同年9月18日五番館をオープンさせるという偉業を達成したのであった。

3−2.エンゼル革命
喫茶エンゼルを創業した小崎さんは、喫茶店の経営に関しても革新的であった。当時、喫茶店組合では、喫茶店で提供できるメニューに制限があったが、小崎さんはお客様のために軽食や本格的な料理を提供したいという思いで当時の組合を脱退し、喫茶店としては異例の本格レストランメニュ−を提供した。そして、子供や学生から大人まで楽しめる数々の人気メニューを輩出していく。また、喫茶店としては異例の年中無休、24時間営業、日替わりで色が違う制服、チェーン化のために規律化されたエンゼル厳守事項の徹底をするなど、小樽においてエンゼルを差異化するために様々なスタイルを確立させたといえる。まさに、エンゼル革命である。他にも、一番街店という2階の店舗へエスカレーターを設置したり、内装にシャンデリアやステンドグラス、トレードマークのエンゼルフィッシュが描かれた彫刻画などを配置したりと、店内の内装にかなりこだわりをもってエンゼル革命を行った。エンゼル革命は小樽の人々にとって衝撃的な話題であり、そこへ集う人に幸福な時をもたらす場所であった。

4.エンゼル革命−伝説メニュー
 エンゼルには、数々の伝説メニューがあった。

4−1. ホットサンド
当時の数あるメニューのなかでも人気メニューのひとつであった。今回は特別に当時と同じものを作って下さった。

■写真15 ホットサンド

4−2.ピラフとエンスパ
 小崎周平さんが、このメニューのために組合脱退を決断したというピラフとエンゼルスパゲティー。喫茶にメニューが豊富でなかった当時、学生やサラリーマンなどに大ヒットした。「エンスパ」という略語が客に浸透するほど(エンゼル現象)、盛況なメニューであった。

■写真16 当時のメニュー

4−3.お子様ランチ
 エンゼルのメニューは仕込みから全て手作りであった。手間のかかるお子様ランチは子供だけでなく大人から注文される人気メニューであったという。

■写真17 手間がかかって大変だったというお子様ランチ

4−4.ファンタジー
 カップルに人気のアイデアデザート。大きさの違う2つのグラスを重ねた下に、ドライアイスを入れ、煙の出る細工を施したパフェであった。ここにまで、お客さまを楽しませたいという小崎さんの思いが込められている。

4−5.エンちゃん
 女性や学生に人気のエンゼルパフェ。これも客に「エンちゃん」と呼ばれ、親しまれるメニューであった。

■写真18 エンゼルパフェ

5.フェリー就航と24時間営業(駅前店)
昭和45年のフェリー就航より夜中に小樽へ到着した客がエンゼル駅前店を利用するようになったという。そのため、その客をつかまえようとするタクシーによって店の前がタクシーの待ち場のようになることもあった。フェリー到着前の時刻にはは花園町などのママと客などが利用し、その客が帰る頃に丁度フェリーが就航するため、フェリー到着前の時刻になると従業員が慌しく動き、大量の来客に備えていたという。 

6.エンゼル厳守事項
小崎さんは、エンゼルが初の試みとしてチェーン店ならではのマニュアル「エンゼル厳守事項」を作っていた。ここでは、他業者が視察に来たり、勉強にきたりと、エンゼル現象が起きていた。

■写真19 エンゼル厳守事項

7.日替わりの制服
小崎さんのこだわりは制服にまであった。毎日(月)黄、(火)オレンジ、(水)緑、(木)茶、(金)ピンク、(土)青、(日)赤、と曜日ごとに色分けされた制服で客を迎えるのだ。 この制度には、アルバイトのウェイトレスにも人気であったという。

■写真20 日替わりの色

■写真21 水曜日の制服

8.小崎周平さん
これまで紹介したように、小崎さんは喫茶エンゼルを小樽に広めるにおいて、惜しみなく様々な試みを実行した。小崎さんは、エンゼル創業当初2階で飼っていたペットがきっかけでペットセンターもオープンさせた。動物好きであった小崎さんは、ペットセンター開業のときに『月刊おたる12月号』にも取り上げられ、インタビューを受けたり、小樽市内の全小学校にカブトムシを寄付するなどして、新聞にも取り上げられたりした。エンゼル革命を起こした人物は お客様第一主義であり、人のために尽くす優しい人であったのだ。

■写真22 小崎周平さん

■写真23 北海道新聞に掲載される

■写真24 月刊「おたる」に紹介される

9.エンゼルおばさん
 一方、奥様の小崎満子さんは、学生から「エンゼルおばさん」と呼ばれ、親しまれる存在であった。常連の商大生たちが集った際には、「俺たち、ファンクラブつくろうって言ってんだー」という話があったほどだ。また、客からの置手紙では満子さんを歌に詠ったものが書かれているほど、喫茶エンゼルの顔として客にとって大きな存在であった。

■写真25 エンゼルおばさん 小崎満子さん

10. 時代と共に…
小樽の喫茶店全盛期はちょうど人口ピークに達した昭和30年代後半から40年代前半といえる。この喫茶店ブームに陰りが見え始めた頃、エンゼルは生まれ、その革命的戦略に一時はエンゼルブームが起こることになる。多くのまちの人が夢をもらっただろう。しかし、札幌への人の移動が加速し、小樽の人口減少やひとのながれが変わってしまったことで、客足も減少し、豪華すぎる店内や手間のかかる仕込みなどと採算が合わなくなっていく。そして、「喫茶エンゼル」から「喫茶と食事の店 エンゼル」へ。定食などにメニューを変更した。(駅前店の看板から「喫茶」という部分をを小崎さん夫婦は泣きながら外したというエピソードまで聴かせていただいた。)


11.小樽の人々にとってのエンゼル
インベーダーゲームが流行した昭和54年には、ゲーム機を設置していた駅前店に学校帰りの学生が集まるようになった。そこでは、攻略法の教えあいなどがさかんで、今の個人化されたゲーム機にはない交流の場ともなっていたようだ。話を伺った米華堂奥さんもその一人で、女子高生時代にエンゼルへ通い、インベーダーゲームをしながら「エンちゃん」を食べた記憶があるとおっしゃった。
また、まだ駅前開発がされていない頃、駅前にはビジネスホテルがあったために、エンゼルにモーニングを食べに来る客が多かった。

小樽市立美術館職員 遠藤さん(60代)は浪人中によく勉強しにいったという。勉強の息抜きにお店に来ることもしばしばあったそうだ。

えびぬま歯科 海老沼先生(50代)は平成になってから歯科の前にあったエンゼル駅前店へ毎日通い、エンゼルおばさんとよく話をして癒されたと懐かしんだ。当時、駅前店には、本物のエンゼルフィッシュが大きな水槽に飼われており、この魚にも癒されたという。

12.エンゼル閉店
次第に銀座店、公園前店(昭和55年)、五番街店、一番街店という順に閉店してしまう。平成15年には、駅前の道路拡幅工事により駅前店までもが閉店する。平成18年に周平さんが亡くなり、平成19年駅前開発によりサンビル地下店も閉店することになる。
そして45年間のエンゼルの歴史に幕を閉じたのであった。

13.現在店舗はどうなったか

エンゼル公園前点は現在は美容室へ

■写真28 エンゼル駅前店
昭和51年開業当時の写真と現在(駅前道路拡張のよって店の位置が大幅に減少)


■写真29 サンビル店(シャンデリアがあった)
 現在のドーミーインホテルがサンビルと呼ばれていた。駅前開発により店舗はなくなった。 駅前開発前には現在の紀伊国屋のあるビルが1ビル、長崎屋のビルが2ビル、ドーミーインが3ビルと呼ばれていた。


■写真30 エンゼル銀座店 昭和52年 現在、店はそのまま
(ファッションキャバレーになっている)
現在の花銀通りは、 当時レインボー通りといって各店様々な色のテントが。


■写真31 エンゼル五号館 昭和53年
本格レストランメニュー のあるお店

エスカレーター・ステンドグラスがあるお店
現在のサンモール一番街にあり、エスカレーターは健在であった。

■写真32 エンゼル一番街店のエスカレーター
■写真33 天井にはステンドグラスがある


14.小樽において
エンゼルは地元に徹し、他地域に移転の申し出は一切受け付けなかったという。また、革新的なスタイルを持ち込んだが、当初はおたるのひとには理解されない(ビュッフェスタイルで持ち帰る客が多発する失敗例)こともあり、ゆったりと時間の流れる小樽には早すぎた、あるいは風土にあわなかったのかもしれない。
一方、あまとうは物産展などで、札幌に支店をオープンさせるなど、小樽にありながら、じわじわと全国へ人気がでてきている。米華堂もまた、洋菓子と珈琲専門の確固としたスタイルを維持しながら、観光やグルメ誌に取り上げられるなど、新たな客層に人気を呼んでいる。そして、私が訪れたときも主婦層や女性客が多く目立った。喫茶店には女性に人気のメニューが多いこともあり、現在では喫茶店が主婦の井戸端会議の場所として利用していることが覗えた。時代と共に、日本の住宅事情も変わり、喫茶店が女性の場へと移行しているともいえるだろう。

おわりに
今回、エンゼルを中心に取材をして、エンゼルという喫茶店がおたるの人々に愛された喫茶店であったと感じた。また、おたるには今でも愛され続ける老舗の喫茶店が残っているが、そこには時代が変わってもずっと変わりのない「昭和のノスタルジー」(“あまとう”の柴田明様の言葉より引用)が詰っている。そんな喫茶店の魅力を、次世代の人々に再発見してもらいたい。小樽の喫茶店がこれからもその歴史を深めていってほしい。

謝辞
なお、この論文を作成するにあたって喫茶エンジェル/小崎満子様、小樽博物館/石川様、小樽運河プラザ1番庫カフェオーナー/佐々木一夫様、小樽文学館館長/玉川薫様/遠田様、洋菓子・喫茶あまとう/柴田明様、米華堂/八木浩司様、ご家族の方、えびぬま歯科/海老沼先生、斉藤淳様、等々その他本当に多くの方々にご協力頂きましたことを、この場をお借りして御礼申し上げます。有難うございました。

参考文献
琥珀色の記憶』[時代を彩った喫茶店]/奥原哲志/河出書房新社/2002
『喫茶店の時代―あのときこんな店があった―』/林哲夫編集工房ノア/2002
小樽商科大学 学園だより NO.152 2008.1.31創刊』

知られざる戦後の生活誌―小樽・後志の樺太引揚者たち―

井手正広

はじめに
 私は今回の研究テーマを設定するに当たり、以前の調査で京都府舞鶴市にある引き揚げ記念館を訪問し、引き揚げ者に対して大きな興味を抱いたこと、また実際に私の母方の祖父が、シベリア抑留からの引き揚げ者であり、当時の話をよく聞かされていたことなどから、樺太からの引揚者の方の戦後の生活について興味を持ち、このテーマを設定した。
余談になるが、北海道・樺太の開拓に私と同郷(佐賀)の島義勇氏や鍋島直正公が大きな功績を挙げたことや、私の両親が出会った場所であり、いわば私のルーツがあるということで、個人的には北海道に強い親近感を持っている。
第二次大戦が終結し、ソ連(現ロシア連邦)の進攻を受けた樺太からは4万人以上の日本人が内地へと引き揚げてきた。引き揚げの過程やその後の生活においては、様々な困難があったことであろう。シベリアへ抑留された者や惨殺された者も多数存在した。また樺太は、8月15日の終戦を過ぎてからも攻撃を受けている。しかし、現在の日本でこの悲惨な過去についてしっかりと理解している人は決して多くない。私自身、樺太終戦後に攻撃を受けていたということは、恥ずかしながら今回の調査に取り組み始めるまで知らなかった。また、特に引き揚げ者たちのその後の生活については、知られていないことが多くある。樺太北方領土を巡っては現在も国際的に微妙な状態にあるため、歴史としても記述しづらいという部分もあるのであろうが、私たちは日本人としてこのような悲惨な事態が存在し、引き揚げ者たちが戦後を苦しみながら生き抜いてきたということを、しっかりと理解して後世へと語り継いでいく義務があると考える。そういった問題意識を持ち、おもに引き揚げ後の住まいと暮らしという観点から私は今回の調査を行なった。

第1章 樺太と小樽
第一節 樺太の歴史
 まず最初に樺太の歴史について記述していくが、今回の調査においてはおもに戦後の生活に焦点を当てているのでここでは簡潔に紹介をする。《詳細は前年度、類似の調査研究を行なった当ブログ2010/2/22 「樺太(海馬島)引揚げと小樽」をご参照ください。》
 樺太は北海道とほぼ同じ面積(76,400㎢)を持ち、そのうち約70%が山岳地帯によって占められている。北緯50度を境として北樺太南樺太に分けられ、北樺太はロシア領であるが、南樺太国際法上いかなる国家にも属していない状況である。しかし、実際にはロシアが実効支配している状況となっている。樺太には古くから樺太アイヌなどアジア系の先住民が居住していた。中国が「元」の時代にはすでに国際社会では、樺太は日本の一部であると考えられていたが、大陸に近いという位置関係もあり、中世から近世にかけては常に中国や朝鮮、ロシアなどに脅かされ続けていた。江戸時代の初め、樺太松前藩に従属し正式に日本の領土として扱われるようになったが、その後ロシアの進攻を受け紛争状態が続いた。明治になると、明治五年に副島種臣樺太買収を試みるが失敗に終わり、逆に黒田清隆が唱えた「樺太放棄論」が採用されて、「千島・樺太交換条約」(1875)によって日本は樺太を放棄した。
 転機は1904年に訪れた。日露戦争が勃発し、この戦争で大勝を収めた日本は樺太全島を取り返すことに成功したが、結局その後のポーツマス条約によって、北緯50度を境界としその南を日本領とすることで落ち着いた。1907年には樺太庁が設置され、南樺太都道府県と同等の位置づけをされることになった。同時に、政府が樺太の開拓に様々な支援策を打ち出したため、日本全国から多くの人々が移住し、農業、林業、漁業、鉱業などの産業を振興するなど、日本的な社会を作り上げ独自の文化を形成していった。特に林業関連や炭鉱関係では多くの雇用が創出され、政府の支援もあって景気もよかった。また寒冷地で米作りができなかったため、米は内地との交易によって入手していた。また、日本全国から人が集まっていたため、言葉には強いなまりが少なく標準語に近かった。ピークには40万人以上の人が住んでいたといわれている。
 そして、太平洋戦争が始まり、日本がいよいよ敗色濃厚になってきた1945年8月、長崎に原子爆弾が投下された9日に、樺太にはソ連が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して攻め込んできた。日本軍はなすすべもなく、樺太ソ連に占領された。

第二節 引き揚げ
 1945年8月9日のソ連の進攻に対し住民たちは激しく抗戦したが、15日に天皇陛下による終戦詔勅があったこともあり、降伏して内地への引揚げを開始した。しかし本当の地獄はここからであった。15日以降も各地で攻撃が相次ぎ、多くの犠牲者を出した。そしてついに20日、真岡からソ連軍が上陸し日本最後の地上戦の舞台となったのだ。地上戦といっても、すでに戦う力のなかった日本側は一方的な攻撃を受け、完膚なきまでに叩きのめされた。最悪の場合には、降伏の白旗を振る兵士や女性、子供まで容赦なく虐殺された。各地で集団自決なども相次ぎ、引揚げ船にも攻撃が加えられたという。三船殉難事件では、稚内から小樽へと向かう途中の3隻の引き揚げ船が潜水艇に魚雷攻撃を受けて撃沈され、1700人以上が犠牲となった。また軍人・警官・公務員などはシベリアに連行され、強制労働を課された。日本本土では戦争の終結に一喜一憂し、復興に向けて再起を図っていた頃、北の大地ではまだ悲惨な現実が繰り広げられていたのである。この事実をどれほどの日本人が知っているだろうか。この悲惨な過去は樺太からの引き揚げ者や関係者だけでなく、日本国に生きるものとして当然知っておかなければならないことであると私は考える。この戦闘による民間人の死者は3500人とも3700人とも言われているが、詳しいところはよくわかっていない。それ程資料が残っていないのである。
 引き揚げ港としては稚内、小樽、函館などが指定されたが、戦後すぐに引き揚げることができた人はわずかで、多くの日本人が昭和22年に引き揚げが再開されるまでロシア統治のもとで生活を送った。引き揚げ後、人々は身寄りを頼って各地へちりぢりとなったが、無縁故者と呼ばれる身寄りのない人々は最大の引き揚げ港である函館で10万人にのぼり、その多くが北海道や東北各地に作られた収容施設へと送られた。引き揚げ者たちの戦後の生活は苦しく、特に仕事を見つけるという面で苦労をした者が多かった。

第三節 引き揚げ者と小樽
 小樽は戦前から樺太との交易が盛んで、相互の人やモノの行き来が頻繁になされていたこともあり樺太と深い関係にあった街であるということがいえる。小樽にも戦後多くの人が引き揚げ、最大で約1万人にも上った。無縁故者の受け入れ人数も1390人となり、多くの収容施設が用意された。その収容施設は遊郭跡などを利用しており、古く狭いうえに衛生状態も悪かったため、各地に仮設住宅や郊外住宅が作られ、引き揚げ者たちはそこへ移っていった。その住宅群の一部は今も残っているが、高齢化や家の老朽化により住人が変わったり、建物が建て替えられたりしており、当時の面影を見ることは極めて難しくなってきている。引き揚げ者たちの多くは現金収入を求めて露天商になり、市内の至る所に闇市が構えられた。その闇市が市場へと発展し、現在小樽にはたくさんの市場が存在する。このことを考えると、現在の小樽の礎は引き揚げ者たちによって作られたとも言えるかもしれない。しかし、現在高齢化により樺太引き揚げ者の数は減り続けており、小樽が引き揚げの街であるということを知る人は少なくなってきている。引き揚げ者が始めたとされる市場へ行っても、殆どの方がもうお亡くなりになっているということであり、話を伺うこと自体に苦労をした。



第2章 引き揚げ者の住まいと暮らし

第一節 樺太での生活
 日本領であった時代の樺太は、前章でも述べたように資源が豊富で、王子製紙が島内各地に大規模なパルプ工場などを作って活性化した林業や、鉱業、漁業などがとても盛んだった。なかでもニシン漁は毎回大漁で、浜にニシンが溢れて打ち上げられ、跳ねていたほどであったという。ニシンは内地や他国との交易に使われ、その代わりに米など多くのものが樺太にもたらされた。石炭も良く取れたが、炭鉱夫の給与は樺太庁が移民を呼び込む目的で手厚い優遇策をとったため、本土の倍ほどはあったとされている。このように島内の景気は比較的良く、今回聞き取り調査を行なった5人の話者も樺太での生活は比較的豊かであったと語っている。樺太名物の食べ物に、タラバガニの足をまるごと1本乗せたカツカレーならぬ「タラバカレー」があったというからうらやましい。また、樺太では米が取れないため多くの引き揚げ者は引き揚げ後、田植えをする光景を見て驚いたという逸話もある。

第二節 小樽における引き揚げ後の生活
 引き揚げ後、多くの引き揚げ者はまず住まいと仕事という壁にぶつかった。そのため北海道内や東北を中心に各自治体は、住む家のない引き揚げ者のために収容施設を作った。小樽でも主に梅ヶ枝町や松ヶ枝町の遊郭跡などを再利用して、引き揚げ者を収容した。一方の仕事面では、各自治体の努力もあって運良く再就職先を手に入れることができた人もいたが、そうでない人は現金収入を求めて行商や露天商、日雇いなどに従事し、何もない道端や川の上に木の板で蓋をして闇市を形成した。しかしそういった人々が挫けることなく地道に努力をしていった結果、引き揚げ者たちによって作られた闇市は市場へと変化し徐々に成長していった。その後、高度経済成長とともに市場は最盛期を迎え、市場内は人が多すぎて真っすぐ歩けなかったほどであったという。この頃小樽は市場の町として名を馳せ、遠方からも多くの人が訪れた。その時代はまだ小樽運河が観光地になっていない頃であるから、小樽ブランドを最初に知らしめたのはこの市場たちであったということも言えるのではないか。その市場の代表的なものが、駅前にある三角市場や中央市場、また南樽市場や川の上に築かれた妙見市場などである。三角市場は現在、観光客向けの市場として生まれ変わり、観光名所的な存在になっている。しかし、ここに挙げていない市場を含めて多くの市場は時代の流れとともに活気を失い、妙見市場に至っては最盛期の約100店舗から現在は20店舗未満にまで減少してしまっている。


写真上:南樽市場 写真下:シャッターばかりの妙見市場
 第三節 引き揚げ者住宅
戦後に話を戻すと、収容施設で生活する引き揚げ者たちは、古さや狭さの他に衛生状態の悪さに悩まされ、生活の質は劣悪であった。そんな状態を改善するため行政は、昭和24年に住宅対策を開始し市内各地に引揚者用の公営住宅仮設住宅を建設した(今後引き揚げ者住宅と記す)。引揚者たちは随時それらの住宅へ移住していき、昭和20年代から30年代にかけては至る所に引き揚げ者用の住宅が点在していた。これらの住宅はバラックで作られ、長屋の場合が多かったため決して快適だとは言えなかったが、引き揚げ者にとっては自らの家を持てるということは大きな喜びであった。そんな引き揚げ者住宅も昭和40年代には団地へと姿を変えたり、個人の所有へと変わっていき、長屋型の住宅は姿を消していった。先に紹介した南樽市場もそうであるが、小樽はとても火事の多い町であったため、防火対策のために改修や建て替えが推進されたケースが多い。旧引き揚げ者住宅として現在知られているのが、郊外にあるオタモイ団地などである。
第四節 現存する引き揚げ者住宅
これまで述べたように、小樽に多く作られた引き揚げ者住宅は現存していない場合が多い。市役所で引き揚げ者住宅について尋ねてみると、戦後の混乱期のことであり、市が所有していない土地に関しては資料などもほとんど残っていないとのことであった。だが、市が今も所有しており市民に貸している土地に関しては、今でも現存しているとのことであったので、場所を教えてもらいとにかくその場所に行ってみることにした。しかし市役所の職員さんの話では、その場所の住宅もほとんどが改修や建て替えを行っていて、住人も入れ替わっているため当時の面影を見ることは難しいであろうということであった。
市所有の引き揚げ者住宅として現存している場所は、長橋2丁目21番・南赤岩町25番・南赤岩町412番・南赤岩町139番・最上1丁目21番の5ヶ所である。
このうち赤岩と最上で調査を行った。
 赤岩では予想通り、ほとんどの家が改築されており、当時の面影はあまり感じられなかった。住人の方に尋ねても、もう引き揚げ者の方は住んでおられないということであった。しかし、予想に反し所々に当時のままの建物や街並みが見られたという点は収穫であったといえる。
当時の写真:昭和26年撮影(小樽市役所資料)


(上:写真1 下:写真2)


(上:写真3 下:写真4)
写真4では二件の家が長屋によって繋がっていることがはっきりわかる。また、写真1や写真2のように変わった形をした長屋も存在した。
現在の様子:平成22年8月


(上:写真5 下:写真6)


(上:写真7 下:写真8)
写真5や6は建て替えが行われており、当時の面影はあまり感じられないが、写真6付近の家の配置は引き揚げ住宅当時とほとんど変わらないという。また、写真7と8は若干の改修が行われているものの、トタンや古い木材でできた壁面が当時の面影を残している。

(写真9)
写真9で注目すべきは、元々あった古い家屋と新しい家屋が合わさっているという点である。敷地が狭く、窮屈であった引き揚げ住宅は、このようにさまざまな工夫をすることによって現在にまで引き継がれている。

次に、戦後当時と現在で同じ場所から撮影した写真を比較してみる。


(上:写真10 下:写真11)
写真10は昭和30年代の引き揚げ者住宅の写真であるが、写真11と比べてみると右側の建物は当時にかなり近い形で残っていることがわかる。右手前にある青い屋根の建物は一部が取り壊され、賃貸アパートのようなものが建っている。


(上:写真12 下:写真13)
この家の住人によると、この家は立て替えをしているが、建物の形や場所は変えていないとのことであった。また、当時は手前にも長屋があったが、今は取り壊され、家庭菜園に姿を変えている。右奥に見える塔が当時のまま残されている。

 一方、最上では面白い発見があった。それは、実際に引き揚げ者に関係のある方が現在も住んでおられたということである。最上にそういう事実があったということは、赤岩や長橋にもまだ引き揚げ者と繋がりのある方、または引き揚げ者本人が生活をしている可能性も大いにあると考えられる。


(上:写真14 下:写真15)

(上:写真16 下:写真17〈現在〉 同じ地点)




これらの写真は、最上の現在の様子である。
これらの写真から、赤岩同様建て増しや改築をすることによって引き揚げ者住宅が現在まで引き継がれていることがわかる。しかしその偏移の中でも、住宅が建設された当時の建物は今でもしっかり残っているということがわかった。この傾向は特にこの最上で多く見られた。

長屋の面影
この写真の家屋では、当時の長屋の面影がとても顕著に見られた。建物自体は改修され新しくなっているが、写真からうかがえるように玄関が3つ存在しており、この家屋に昔は複数の世帯が入居していたということがわかる。現在は2世帯が入居しているが、このように現在でも引き揚げ者住宅当時と似た家屋の使用形態が残っているという点は、おもしろい発見であった。
第五節 記録に残っていない引き揚げ者住宅
先にも述べたが、今まで紹介してきた旧引き揚げ者住宅は現在小樽市の資料として残っている場所であり、記録には残っていないが昔は引き揚げ者住宅であったという場所が、小樽市内には数多く存在する。


これらの写真は、赤岩2丁目21番の昭和40年代の写真である。上の写真の奥に見える平屋が引き揚げ者住宅群であった。現在は、跡地に「グループホームはる」という養護施設が建設され、住人の多くは市の斡旋により手宮の市営団地へと引っ越したという。

引揚者住宅跡に建つ特別養護老人ホーム

市の斡旋により多くの人が移り住んだ手宮の市営団
今回の調査で分かったこと

1、建て替えが進みもう残っていないと思われていた、引き揚げ者住宅建設当時の姿が、いたるところで残っていたこと。

2、引き揚げ者住宅は、建て増しや改築を繰り返すことによって時代の流れに取り残されず、現在にその姿を残すことができた

3、多くの引き揚げ者たちは、引き揚げ者住宅から市営団地などに移り住んだ。

4、引き揚げ者の子の世代は、引き揚げ住宅を継がず他の家へ移っていく場合がほとんどである。
    ⇒引き揚げ者から他の住人への入れ替わり

5、戦後に作られた旧引き揚げ住宅は、現在記録に残っていない場所がほとんどであり、姿を変えながら小樽市内のいたるところに点在している。


今回の調査では、3日間という限られた期間のなか、調べきれなかった部分も多くあったと反省している。しかし一方で、引き揚げ住宅は今も当時の面影を残したまま存在しており、引き揚げ者関係の方がまだ住んでおられるということを発見できたことは良かった。

第3章 樺太引き揚げ者の方のライフヒストリー
第2章では、主に引き揚げ者の住宅や仕事について述べたが、第3章では実際に5人の引き揚げ者の方にお話を伺い、戦後樺太から引き揚げてきて現在に至るまでの生活について語っていただいた。

(左:畑澤民之助さん 右:藤田清司さん)
畑澤民之助さん 古平町在住

畑澤さんは樺太敷香町で生まれ育ち、20歳の時に終戦を迎えた。父は昭和初期に開拓のため江差から樺太へ渡り、造材業を営んでいた。現地では生活に困った記憶はないという。畑澤さんは、現地の学校を卒業した後樺太庁へ勤めたが、戦況の悪化によって徴兵され戦地へ赴いた。戦地で終戦を迎えた畑澤さんは、その年の9月にシベリアへ抑留され過酷な労働を課された。シベリアでの生活は、病気や寒さにより困難の連続であったという。そんなシベリアでの生活を耐え、昭和23年7月日本に引き揚げた畑澤さんだが、その家族はというと、母と妹はソ連の空襲から逃れて親戚のいる名寄に身を寄せ、父は戦後すぐに一人で引き揚げ、無縁故者として古平の収容所へ送られていた。古平の収容所は鉱山の社宅を開放したもので、当時はとても荒れた土地であったという。その後家族全員がその家に集まり生活をするようになったが、やはり当時の生活は大変であったという。両親は炭焼きをして生計を立て、妹は郵便局で働いた。畑澤さん自身も仕事を斡旋してもらい、商工所の出所に勤めた。これは畑澤さんが樺太庁に勤めていたためであった。このように引き揚げ者たちには、樺太時代にやっていた職種に再就職するというケースが多く見られたという。その後畑澤さんは古平役場へと移り、古平町長にまで登りつめた。畑澤さんは言う。「樺太の歴史を若い人にもっと知ってもらいたい。ちゃんとした情報が伝えられず、歴史が塗り替えられている。多くの人が8月15日の終戦後にまで攻撃を受け亡くなった。太平洋戦争最後の犠牲者が出たのが樺太であるということをどれほどの人が知っているであろうか。本当にあったこと、事実を知ってほしい。」

藤田清司さん 余市郡仁木町在住
 藤田さんは樺太珍内町で生まれ、終戦までそこで暮らした。父は東北出身であり炭鉱で働いていた。樺太での生活はとても豊かであり、北海道や東北、京都や四国など日本全国様々な場所の出身の人がいた。終戦後も、ロシア人との個人的な仲はとてもよかった。22年6月、藤田さんたち家族7人は函館へ引き揚げ、母の実家のある仁木町銀山で暮らすことになった。内地に来てまず驚いたことは、田植え休みがあることだったという。樺太には田園風景がないのである。時は戦後の動乱期、仕事を探すのが本当に大変であった。父は日雇いで日当を稼ぎ、母は農業を手伝いをした。それでも生活はとても苦しかった。藤田さんも家計を助けるため、中学に上がるとアルバイト漬けの日々を送った。兄は郵便局に勤め家計を支え、藤田さんは高校へ進学することができた。この当時は家族全員が力を合わせ、助け合いながら暮らしていたのだ。昭和30年、藤田さんは銀山の役場に勤務するようになり、臨時職員から正規職員に登りつめた。その後、助役を経て55歳の時仁木町の町長に選ばれた。畑澤さんには同じ樺太出身の町長仲間として、とてもかわいがられたという。このように樺太出身者には強い仲間意識があり、つながりは非常に大きい。以下は藤田さんの言葉である。「引き揚げてきてから常にみんなが助け合っていた。そういう意味では樺太出身で良かった。もし樺太が今日本だったらと時々考える、できることなら樺太に帰りたい。やっぱり樺太が好きなんだ、私の故郷だから。」

(左:佐藤博司さん 右:大森日出雄さん)

佐藤博司さん 小樽市在住
 佐藤さんは樺太の落合町で生まれ育った。両親は北海道出身で、結婚後樺太に移住した。父は王子製紙に勤務していた。現地の方言は北海道と似ているが、本州などの方言と混ざり、独特のなまりがあったという。現在小樽の都通り商店街に町おこしの一環として小樽の方言を紹介する垂れ幕がかかっているが、その方言のほとんどは樺太でも使われていたものらしい。このことからも小樽と樺太がとても深い関係にあったということがうかがえる。佐藤さん家族は、終戦数日後にソ連から機銃掃射の攻撃を受けて防空壕で3日間生活することを余儀なくされた。攻撃が止み防空壕から出てみると、そこはすでに我が国「日本」ではなく「ソ連」という外国になっていたという。ロシア人が早くも入植してきていたのである。その後はロシア統治のもと2年間生活を送った。昭和22年5月、佐藤さん一家は函館へ引き揚げ、母の実家である苫小牧近郊の白老に住んだ。一家は農業で生計を立てる一方、父は建築関係の仕事を見つけ、その父の手によって新しい家が建てられた。昭和33年、佐藤さんは小樽の会社に就職し、その会社で定年まで働き通した。佐藤さんは引き揚げ者という言葉に抵抗があるという。「引き揚げ者には無縁故者の人が多く、みんな本当に苦労している。そういう人たちの気持ちをしっかりと理解してほしい。」佐藤さんのメッセージである。

大森日出雄さん 小樽市在住
大森さんは昭和8年に、10人兄弟の三男として樺太久春内村で生まれ育ち、終戦後は引き揚げまでロシア人とともに学校生活を過ごした。佐藤さんと同様、終戦後5日間で国が変わってしまったと大森さんは言う。また、大森さんは面白い逸話を披露してくれた。学校内に土足で上がり、掃除もロクにしないロシア人たちに腹を立てた大森さんたちは、裏山にロシア人を呼び出して袋叩きにしたそうだ。この出来事に対し、当時担任だった日本人の先生は大森さんの言い分を聞いて、あまり大森さんたちを怒らず黙ってロシア人将校に頭を下げていたという。先生も同じような不満を抱えていたのであろう。この頃学校では、日本人・ロシア人・中国人・朝鮮人が共同で学校生活を送るというとても珍しい状況となっていたという。その後ロシア人ともすっかり仲良くなった大森さんは、一緒に遊んだりしてロシア語もたくさん覚えたそうだ。昭和23年、函館に引き揚げる際には、ロシア人の友達たちが見送りに来てくれたりもした。引き揚げ後は後志の小沢にある父の従兄弟の寺に住み、1ヶ月間本堂で寝泊まりした。その後空き家に移り3年間暮らすことになるが、その頃大森さんは家計を助けるため日々アルバイトに明け暮れた。昭和30年、大森さんは小樽のデパートに就職を果たすが、高給を求めて建設業に転職する。しばらく建設業で資金を貯めた後、大森さんは兄と二人で起業。しばらくしてその事業が軌道に乗り、成功を果たした。バブル崩壊前に会社をたたんだ後、大森さんは札幌の建設業へと転職し、70歳で退職した。大森さんの自宅周辺には、他に3人の樺太出身者が暮らしており、現在は彼らとともに「樺太連盟」に所属して、次の世代に樺太の歴史や現在の状況について考えてもらうための活動をしている。

大森さんだけでなく畑澤さん、藤田さん、佐藤さんも同様に「樺太連盟」に所属され、今回のように当時の様子を語る語り部として、また樺太についてのイベントを行なったりして、私たち若い世代に当時の樺太引き揚げ者のことを知ってもらうための活動をされている。


最後に、戦後の動乱期を小樽で過ごした方の貴重な体験を紹介する。

写真:橋本克久さん
橋本さんは樺太留多加町生まれで、その後豊原町へ移住した。橋本さんの祖母は石川県金沢の出身で、明治時代に開拓のため樺太へ移住した。そのため、親戚も含めて橋本家一族の多くは樺太で暮らしていた。樺太は資源が豊富だったため、食べ物で苦労したことはなかったという。豊原は終戦前後には大規模な空襲を受けたが、当時橋本さんたち子供は家の周辺の弾丸探しを楽しんだり、大通りの着弾跡のクレーターを見学したりして遊んでいたという。子供ならではの感性である。終戦後、45年10月頃には家にロシア人家族がやってきて同居することになり、家屋は二分された。また、街のビルの壁面には一面にスターリンレーニン肖像画が掲げられており、学校ではスターリン賛歌を覚えさせられた。橋本さんは現在でも賛歌を記憶されており、私の前で披露していただいた。ロシア人との仲は個人的には良かったという。46年12月、橋本さん一家は小樽に引き揚げた。橋本さん一家は無縁故者であったため、梅ヶ枝町にあった楼閣に収容された。その楼閣は現在、アパートになっているという。料亭の雰囲気を残した中庭はとてもきれいで、橋本さんもお気に入りであった。しばらく楼閣で共同生活をした後、橋本さん一家は市の住宅対策によって建てられた最上の引き揚げ者住宅へ引っ越した(第2章参照)。引き揚げ住宅では親戚を含め多いときで13人が共同で生活をした。第2章に載せている住宅の間取り図を見れば、それがどれほど大変なことかがわかる。(その頃、同じ最上の引き揚げ者住宅に住んでいたKさん一家は、今も改築を行なって同じ場所で暮らしているという)厳しい生活の中、母は妙見市場の付近でてんぷらなどの販売を行う店を開き、家計を支えた。一方父は起業を繰り返したが、なかなか上手くいかなかった。その後母は店舗の場所を変え、一家6人でその店舗の屋根裏へと引っ越した。店を移した「マルイ裏通り」付近には、当時他にも多くの引き揚げ者たちが店を構えていたという。

橋本さんの母が店を出していた妙見市場川下付近 現在は暗渠となっている。

橋本さん一家が移り住んだマルイ前通り付近。最盛期の頃はまっすぐ歩くのも難しいほど賑わっていたが、今はその面影は感じられない。

小樽の学校へ編入した橋本さんは、漁師気質のクラスメイト達のやんちゃぶりに別世界を感じたと話す。成績が優秀だった橋本さんは学級委員長などを務めるなど、学校の中心的な役割を果たした。しかし、自分が樺太出身の引き揚げ者であるということに対し、心の奥ではコンプレックスを持っていたという。そのことはその後の人生についても同じであったと橋本さんは話す。他人から見れば立派な人生を歩んでいたとしても、本人にしかわからないコンプレックスを常に抱えながら生活をしなければならない、そのことは引き揚げ者たちの宿命なのかもしれない。高校を卒業した橋本さんは、小樽市内のデパートに就職し3年半務めた後、上京して大学病院の職員として勤務。その後も大学内や大学入試センターで定年まで務めた。定年退職後は第二の故郷小樽に戻り、現在はペーパークラフトで建物などを造る職人として活躍している。また、町内会の総務部長や街並みを守るNPO法人にも所属し、小樽の街の活性化に力を注いでいる。橋本さんは樺太に戻れたとしても戻りたいとはあまり思わないという。きっと引き揚げ後に、今回の聞き取りでは話せないような苦労や困難に多く直面されたことと思う。そのような事態を招いた樺太に対し戻りたいとは思わないというのは当然のことなのかもしれない。しかし、少年時代を懐かしむという意味では、樺太に対しても思い入れがあると橋本さんは話す。

部屋に飾られた樺太の地図

まとめ
 今回の調査では、小樽市内に存在する引き揚げ住宅が現在どうなっているのかということを中心に調べ、そこから引き揚げ者の方の戦後の生活についての手掛かりを得ようと試みた。調査では多くの方にお話を聞くことができ、実際に当時のままの姿で住宅が現存していることや、形を変えながら現在まで生き残ってきたことがわかった。また、引き揚げ者関係の方がいまだに居住されているという事実を発見することもできた。しかし、実際にお話を伺えなかった点は悔いが残る。
次に、樺太出身である5名の方に伺ったお話はとても興味深く、学ぶことが多くあった。皆さんがそれぞれに、引き揚げ者であるという事実や苦労を逆にバネにし、人生において普通の人以上に充実した人生を送っておられた。その裏にはきっと人一倍の努力があるのであろう。終戦後のロシア人との関係にしても、資料などに一般的に書かれている「不仲」ではなく、むしろ仲良くやっていたという事実もとても印象的だった。結局は、政治的なものが関係をややこしくしているだけなのである。このことは、中国などと微妙な状態が続いている現在の日本にも当てはめて、よく考えなければならないことだと思う。しかし、今回の調査でも当時の様子を話したくないという方にも何人か出会った。やはり、引き揚げてきてからの生活というものは、今でも思い出したくないほど過酷なものだったのだろう。今回話を聞けた方の中にも、今でも話せないほどつ辛い経験をした方が多くおられたかもしれない。聞き取り中ほとんど戦後の辛かった体験などを話されることはなかった。そんな中、勇気を振り絞って当時の経験などを伝えていこうとする樺太連盟を始めとした樺太出身者の皆さんに対し、深い尊敬の念を感じる。
最後に「故郷」というものについて考えてみる。自分の故郷が無くなってしまったらどのような気持ちなのだろう。私は今回の調査に通してそのことを強く考えるようになった。樺太出身者の方が幼少時代を過ごした大切な故郷はもう存在しない。その事実を自分に置き換えて考えてみると、やりきれなくて胸が熱くなった。私は今回の調査以来、自分の故郷をとても大事な存在として考えられるようになったと思う。里帰りした時にもいろいろな場所に足を運び、故郷の事を深く知りたいと考えるようになった。もっと故郷を大切にしよう、そう考えている今日この頃である。

謝辞
本研究を進めるにあたって、多くの方に協力をしていただきました。

小樽市総合博物館の石川先生 全国樺太連盟北海道支部 小樽市役所の皆さん 松田印刷店の松田和久さん 橋本克久さん 藤田清司さん 畑澤民之助さん 佐藤博司さん 大森日出雄さん 木田商店の皆さん 北洋市場の皆さん 島村恭則教授

本当にありがとうございました。

 
文献一覧

小樽市 1990「小樽市史 10巻 社会経済編」

創価学会青年部反戦出版委員会 1976 「北の海を渡って:樺太引き揚げ者の記録」

北海道新聞社編 2005 「戦後60年100人の証言」

祝祭としての運動会

並川 梓

はじめに
 北海道の運動会は、春(5月下旬から6月上旬)に行われるのが一般的である。小樽も例外でなく、市内の公立小学校全27校が毎年5月の最終から6月の第一週目の土日に運動会を開催している。本州とは違う時期に運動会をすることには、気候の関係や、東京オリンピックの影響など、様々な説があるが、今回は小樽市内で行われてきた運動会の歴史的変遷と、今回の調査で明らかになった小樽市の運動会の実態を紹介する。

第一章 連合運動会の時代
(1) 連合運動会とは
 連合運動会とは、戦前(明治〜大正)に、小樽市内の小学校が合同で行っていた運動会のことである。小樽市史の記述によると、
この運動会は明治二十一年十月二十八日に住吉神社の社地で、量徳、手宮、開蒙、同致の四校、一二〇〇人の生徒が参加して行われたのが始まりで、参観人八〇〇〇人、甚だ盛会であったという。其の後稲穂、高田、小樽簡易、色内、高島等の諸学校も加わり、開催日も五月或は六月になり、場所は花園町の浅羽靖の所有地で行われるようになつたが、三十二年からは小樽公園で開かれた。競技種目は男子の手体操、亜鈴体操、綱引、二人三脚、兎跳、札拾い、人運び、女子の豆嚢送り、旗送り、遊戯等であつた。
とある。当日朝4時ごろに、水天宮山上付近で花火の上がる音がすれば、運動会決行の合図であった。市内各小学校が進軍ラッパを先頭に隊伍を組んで花園公園(現小樽公園)グランドに集合する。出し物は、各校その美を競って伝統の遊戯または行進を行った。

写真1 連合運動会の様子 小樽市花園町にある越後屋店主、越後久司さんに見せていただいた写真

写真2 花園公園へ向け出発 小樽市総合博物館蔵

写真3 連合運動会 体操 小樽市総合博物館蔵

写真4 堺小学校遊戯「旋風」 小樽市総合博物館蔵

写真5 綱引 小樽市総合博物館蔵
(2) 稲垣日誌に見る連合運動会
 市史の記述には、続いて次のようなことが書いてある。
運動会が盛んになるにつれて、これに参加する児童の為に父兄は御祭り騒ぎを演じ「中産階級の者でも、男子ならば着物、袴は必ず新調し、女子ときたら縮面緬の着物に緞子とか博多とかの帯を縦かつぎにさせ、縮緬の帯あげをぶらさげ、それに縮緬のあやだすきを背後で結んでだらりと下げ、祭礼車の行列の如くにして、公園へ練り込むという騒ぎなので、如何に下層の者でも唐縮緬の着物に唐縮緬のあやだすきは大概新調したらしかった。……当日になれば一つは我が子供の自慢と今一つは親達の遊山をかね、重箱詰の馳走を携えて押すな押すなで見物に出かけ……当日は全市休業の様に感じた」という有様であつた。この華美な服装については大きな批判が出て、学校側からの再々の注意があり、後には申し合せにより、女子は割烹服の様な上着を着用、男子は持ち合せのものを着る様にしたという。
この記述に見られるように、連合運動会は、当時市民の間でただの学校行事としての運動会としてではなく、参加者はじめ、その家族や様々な人が楽しめるイベントとして盛大に開かれていたことが分かる。
 同様なことが分かる資料として、『稲垣益穂日誌』がある。稲垣益穂氏は、明治36年から昭和16年まで小樽稲穂尋常高等小学校校長に就任していた人物であり、稲垣日誌は彼が校長就任中に日々書きつづった日記である。
明治三十七年四月廿八日 木曜日 晴
 今日は、連合運動会の件で、午前十時から各校長が区役所に召集せられたが、運動会を開くの可否については、何等の意見も聞かれず、運動会を挙行することには口調において既に決定し、其方法ばかりについて諮問せられた。会議の結果、五月廿日に挙行することに決定した。元来も小樽の運動会は十数年来継続したもので、一種の年中行事となってゐる。児童も教員も之が為めに狂気の如くなり、保護者は不必要の金銭を費やし、学科の進歩には大なる障害を与へ、イザ会がすんだと云へば、今迄過度に緊張した運動熱は、一時に沈静して殆ど痕跡なきに至る。誠に馬鹿気た会である。況んや当年は経費を緊縮し、学級を減し、教員を減し、児童をして学科の不進歩を忍ばせながら、一方に於ては殆どお祭り的の運動会を挙行して、怪しまざるに至っては、局外者からは其常識の如何を疑はるゝであらうと思う。併し、此会は他日必ず廃せらるる時機は来るであらう。真面目に考へたら出来ることで無いから。
このように、稲垣校長は、当初は必要以上にもてはやされ、華美な連合運動会に対して批判的で、開催には反対の立場をとっていたのだ。ところが、その翌年の日記では次のように記述している。
明治三十八年五月廿八日 日 午前一時頃は雨 午前六時前曇
 今日は運動会の当日であるから天気は如何であるかと心配してゐたが、昨夜雨だれの音聞える。サテ降雨となっては困ったものであるとは思ふたが、今頃の日和癖で日中は大概雨は降らぬと見込みをつけてゐた。(中略)稲穂で兵式体操をはじめると、タイムス社の記者が頻りに量徳よりズァトおちると評して居たのには遺憾に思うた。併し余が慾目で見た処もやはり量徳より劣って見えたから、局外者に其の如く見られたのも止を得ぬことである。選手の競争も六人だけ賞をとったから十分の成績ではあったが、鉄砲のうち方が悪かった為に小の組の最も早いものが落等したのが残念であった。
これに見受けられるのは、稲垣校長自身の連合運動会に対する意識の変化で、開催日の朝に天候の心配をしていたり、自校の児童の成績を悔しがったりしている姿は、すでに他の小樽市民と同様に連合運動会のファンとなっている。稲垣校長は、また日記の中で「小樽の運動界では、小学校の連合運動会、第二はボート競漕会、第三は自転車競争会、これ等は皆見物人を吸取する事の多き方である。」とも述べていて、連合運動会の市民にとっての位置づけが格別であったことが見て取れるし、さらに連合運動会の開催を記念して、記念葉書が作られたりもしていたのだ。

写真6 連合運動会開催記念絵葉書 小樽市総合博物館蔵
 このように、小樽市では、戦前から運動会というものが市民の間で特別視されていたのである。

第二章 小学校の運動会
 戦後、児童数の増加に伴って、連合運動会は廃止され、各小学校単位の運動会が開かれるようになった。
(1) 今は無き堺小学校
 小樽市東雲町の水天宮近くに、旧堺小学校跡がある。2006年に児童数の減少により閉校となった同校は、今現在も校舎を残しており、市立小樽病院高等看護学院や、小樽市シルバー人材センターや、職業訓練センターなどが建物をそのまま利用している。そして、一角には堺小学校記念室として、旧堺小学校の資料や記念品などが展示してある部屋がある。

写真7 旧堺小学校
 堺小学校は児童数が多かったころは、運動会を花園公園にて開催していた。そして、当日の朝には、児童たちは学校に集合して、隊伍を組んで花園公園まで行進して入場していたそうだ。これは、連合運動会のなごりであると言えるのではないだろうか。

写真8 堺小学校運動会 旧堺小学校記念室蔵

写真9 堺小学校運動会アーチ 旧堺小学校記念室蔵

写真10 堺小学校運動会当日 花園公園へ向け出発 旧堺小学校記念室蔵

写真11 堺小学校運動会プログラム 旧堺小学校記念室蔵
 写真11に示しているのが堺小学校の昭和28年度の運動会のプログラムである。これを見て分かる通り、種目はかなり多い。さらに、児童以外のPTAや、来賓、幼児、職員が参加する種目も多数あるのが注目すべきところである。このように、児童以外の家族やその他大勢の人も参加しながら楽しめるのが運動会の魅力であった。当日は、家族だけでなく、親戚一同応援に駆け付け、会場はごった返す大賑わいであった。

写真12 PTA参加種目 旧堺小学校記念室蔵

写真13 PTA対職員の玉入れ 旧堺小学校記念室蔵

写真14 大賑わいの応援席 旧堺小学校記念室蔵
(2) 祝津小学校
 小樽市北部に位置する漁村、祝津に行ってきた。そこで出会った住民板垣フサさんに60年前の祝津小学校の運動会の記憶を聞いた。板垣さんは、祝津で生まれ育ち、現在も祝津に住んでいる。実家はやはり漁師で、自身は近年まで魚屋を経営していた。
 朝6時半ごろに花火が上がれば、運動会決行の合図である。当日は、母親が豪勢なご馳走を山のように作り、親戚を遠方からも呼び寄せ振舞っていたという。運動会開催当日は、祝津の漁業は全て休業で、これを「沖止め」と呼んだ。沖止めを行うことによって、漁師は船の仲間を運動会に呼んで、ご馳走を振舞うことができた。大きな船の持ち主は船乗りとして雇っている人たちにご馳走を振舞うことで、見栄を張り合った。ご馳走の中身は、赤飯、おいなりさん、巻きずし、煮しめ、ざんぎ、バナナなどであった。それらを重箱に詰めてリヤカーに乗せ学校まで運んだ。中には、獲った魚やほたてなどを校庭に網を持ちこんでバーベキューを楽しんだり、酒を飲んでお祭り騒ぎを楽しんだりする人たちもいたそうだ。漁師たちは船の大漁旗を持ちこみ、声を張って応援した。「たなげよー!」、「されよー!」これらは漁業言葉で、それぞれ「しっかり持ちあげろよー!」、「どけよー!」といった意味合いである。これらの言葉も会場で飛ばされ合っていたそうだ。
 祝津小学校の運動会は、ただの学校行事としてではなく、大人も子供もみんなが楽しめる娯楽として存在していたのだ。
(3) 高島小学校
 祝津の隣町、高島もまた古くからの漁村である。高島小学校を約40年前に卒業した住友晴美さんに40年前の高島小学校での運動会の記憶を聞いた。
 高島小学校でもやはり祝津と同じように漁村という特徴を持った運動会が開かれていたようだ。応援のための船の大漁旗が、運動場の周りの土手に並べられたり、応援のための場所取りには、前夜に船が港に帰ってきてからの漁師たちの争いだったそうである。そこでは、大人同士のケンカが繰り広げられ、当人たちはそれを楽しんでいたという。母親は朝の3時に起床してお弁当を作るのが仕事で、お弁当の中身は、いなりずし、まきずし、バナナなどがご馳走で、それらをやはりリヤカーに乗せ運んだ。親戚を呼んで、花見のような酒盛りを大人たちが楽しんでいたのを覚えているそうだ。当日は、学校にわたがしの屋台が出たりして、まさにお祭りだったそうだ。観客は家族だけでなく、地区内の魚の加工場の労働者などもたくさん来ていたのを覚えているそうだ。それらの人々もみんな一緒になって参加して楽しんでいたのが、職場対抗リレーという種目だった。酔っぱらった大人たちがどんちゃん騒ぎをしながら走り回る姿を見てみんなが楽しんでいたという。小学生だった住友さんが思い出に残っている種目は、地区対抗リレーで、分団ごとにチームを作って走るリレーだそうだ。

第三章 運動会の現在
(1) 若竹小学校
 小樽市若竹町にある若竹小学校の教頭先生に現在若竹小学校で行われている運動会の様子をお話していただいた。

写真15 小樽市立若竹小学校門
 若竹小学校では、毎年5月の最終日曜日に運動会を開催するそうだ。時期は絶対にずらせないそうで、その理由としては、それより前にすると雪解けが進んでおらず、なかなか練習ができなく、またその翌週には地域の祭りが開かれるので、毎年5月の最終日曜日と決まっているそうだ。若竹小学校では、運動会を午前の部、午後の部と2部に分けており、午前の部を低学年、午後の部を高学年の競技に割り当てている。プログラムを見せていただくと、やはりわりと町の中の小学校ということもあってか、競技内容に特に変わった点などは見られなかった。だが、児童以外に幼児とPTAの種目が用意されており、それに参加した人たちには、記念品を贈与しているそうだ。応援に来る観客は児童の両親、祖父母、従兄弟やその他の親戚、近所の知り合いをはじめ、学区内に2つある老人ホームには毎年案内状を送っており、毎年10人ほどの来客があるそうで、大変な賑わいを見せるという。昼食は、10年ほど前までは家族で焼き肉をしたり、団らんを楽しんでいたが、現在はPTAの声などを受け、焼き肉、飲酒、喫煙が規制されて、昼食も児童は家族とは別に児童だけで取る形になっているそうだ。規制が進んでも、やはり多くの人が運動会を楽しみにしていて、応援の場所取りはみんな必死である。若竹小学校では、前日の14時からPTAが中心となって、並んでいる順番に場所取りをさせているそうだ。毎年40家庭くらいの親が押し掛け、14時からの場所取りと決められているにも関わらず、早い人で朝の7時から並び始めるらしい。
(2) 祝津小学校
 祝津小学校の教頭先生にも運動会の様子を紹介していただいた。

写真16 小樽市立祝津小学校
 現在祝津小学校に通う児童は12名で、昔は漁業関連の家庭ばかりだった祝津も、今は小学生の家庭8軒のうち1家庭のみになってしまった。そういった変化もあり、戦後の祝津小学校の運動会とは雰囲気もがらりと変わったが、児童が12名しかいない小学校の運動会は、大人も参加しなければ成り立たないということで、地域の人々や家族も競技に積極的に参加するそうだ。漁業家庭の減少に伴ってか、現在は沖止めという制度もなくなった。だが、種目に漁業関係のもの(子供が釣り真似をしたり)を取り入れたり、また、運動場の上空に吊るして飾る通常の国旗の代わりにはたくさんの漁船の大漁旗を飾り、漁村独特の運動会の伝統を守ろうという意識も見られる。それらの大漁旗は、祝津の漁師たちの寄付であり、年々その数は増えていっており、見せていただいたものの中にはかなり年季の入ったものもたくさん見られた。

写真17 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)

写真18 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)

写真19 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)

写真20 運動会の飾りに使う大漁旗(祝津小学校)
 また、現在児童の家庭は8家庭しかないので、場所取りをする必要性はまったくないにも関わらず、伝統を変えないためにも、くじ引きによる場所取りの制度は続いているそうだ。当日はキャンプ用のテントを張って、その中でやはり母親の作ったご馳走を家族、親戚と食べるのが楽しみとされている。雨で順延ともなると、児童の親から「せっかくご馳走こしらえたのにー!」というような苦情が入るくらいだというから、最近の運動会のお弁当もやはり中身は豪勢なのであろう。

むすび
 紹介してきたように、小樽市では、昔から運動会が市民の娯楽として親しまれ、重要視されてきたが、近年は児童数の減少や、トラブルを避けるために規制を増やしたり、親や教師たちの運動会に対する価値観の変化により少しずつ伝統の形から新しい形へと姿を変えつつある。しかし、昔からのスタイルに愛着を持つ市民は多く、今後も小樽ではみんなが楽しめる運動会が続いていくことだろう。また、博物館の石川直章先生が、このまま児童数の減少が続けば、連合運動会復活!?なんていう話もある、ということをおっしゃっていたのが印象的だった。

謝辞
今回の調査にあたり、越後久司さん、水口忠さん、板垣フサさん、住友晴美さん、若竹小学校教頭今井兼之先生、祝津小学校教頭相澤正人先生、小樽市総合博物館石川直章先生、島村恭則先生など多くの方のご協力を賜りました。御礼申し上げます。
引用・参考文献一覧

「第十二章 教育と文化 学校行事」『小樽市史』第二巻、敬老社印刷所発行、(1963)
『稲垣益穂日誌』第9巻、小樽市博物館発行、(1988)
『稲垣益穂日誌』第11巻、小樽市博物館発行、(1988)

小樽における修験道

田中李沙

はじめに
日本には無神論者が多い。修験道を調査している私もその1人だ。しかし海外では宗教をもたないことが極めて異例だと考えられる。人間の基礎を形成していく上で宗教はとても大切なものなのではないかと思った。無宗教が一般化している日本だが、少なからず宗教を信仰し、生活している人がいる。そこで、山を神聖視し崇拝の対象とする山岳信仰を仏教に取り入れ、山に籠もり厳しい修行を行う修験道という日本独自の宗教に惹かれた。実習先の北海道は宗教観が本州より希薄だといわれている。しかも修験道は、アイヌ人が住んでいた北海道に和人がもってきたものであるため、北海道における修験道の歴史は本州に比べ浅い。修験道という宗教がもたらす町への影響はどのようなものかを調べるにあたり、北海道唯一の修験道寺院である蔵王寺に焦点をあて、彼らのライフヒストリーから北海道で修験道がどのように根付いているのか、どのようなルーツをたどっているのかを調査した。すると北海道での調査を進めるうちに、高尾了範という人物が浮上した。修験者である彼は明治時代の人物であり、当時彼は小樽市祝津で深く信仰されていたことがわかった。今回は小樽市ほしみにある小樽唯一の修験道寺院蔵王寺と小樽市祝津にいた鷹尾了範という2つに焦点をあて、小樽における修験道の今昔を見ていく。

第1章 鷹尾了範と赤岩岳
第1節鷹尾了範

越中の国富山の小杉村に生まれ、幼少の頃から出家し、真言宗に帰依し善能寺で修行した。成人後は真言宗の総本山である和歌山県高野山の金剛峰寺に登り「行」「学」の両面にわたり真言密教の修得に専念された。高野山における修行は極めて厳しいものであり、ここで得た修学が彼の生涯を通して、祖師弘法大師の精神と真言密教の真髄を得て離れる事の出来ないものとなった。了範はその後宗門人として同郡九度村にある慈尊院の山主に選ばれ就任した。これはまだ若かった了範にとって大変名誉あることだった。明治20年、在任中に師は、困難な修行で得た法縁を広く民衆に伝え、社会生活における大衆の誤念を教化することが、高祖が願っている想いだと考え当時人跡の少ない北辺の地を指して修行にでた。
そして7月、随身の2人と共に訪れたのが小樽の地だった。小樽についた了範は小樽の人々の開拓途上にある心を深く洞察し、北海道移民の多くの人々に対して懇切に信仰の道を布教された。そしてある夜、了範は小樽東北方面にある赤岩山のあることを夢見た。
第2節 鷹尾了範と赤岩神社
明治20年に三ヶ月ほど、了範は小樽に滞在した。そのさい了範は祝津村を訪ね、赤岩山の連峰を仰ぎ、この霊山こそ北辺における自己錬行の聖地であると決意し、一旦高野山に帰山した。翌年の明治21年夏、再度小樽を訪れ随身の他信者数名を従えて祝津村を訪れた。その際師了範を心からお迎えしたのが今回お話を伺った赤岩神社の村上さんのご先祖にあたる同村名望家、丸井喜代七宅だった。
旧暦の盂蘭盆会を間近に迎えた8月1日、赤岩山に入行者として白龍門へと進まれた。
了範はここでただ1人白衣で正座し、読経した。時々岩間にこだまする音は彼が高祖大使の御尊像を刻むノミの音だった。この像は今も赤岩神社の中に眠っている。
21日間の厳しい修行を経た8月21日、了範の下山を祝津の人達は迎えた。
それから3日間、満願法要を営んだ。了範の説いた教義は苦行により体得された慈悲忍辱を基調とした最高の人生観であった。了範が下山して約1ヶ月がすぎたころ、了範のこの村での布教は全て終わり、祝津村を去る日がきたことを丸井宅に集まった人々に知らせた。この村の人々は祝津に永住することを懇願したが、了範はそれを許さなかった。そのため、了範が小樽に滞在していた期間というのは1年にも満たない。

昔は祝津小学校のすぐ下にあった神社だが、今はバスの停留所になっている。

現在は民家の後ろに移された赤岩神社。参拝客も少ないという。
第3節 鷹尾了範と日光院

日光院は最初高野山にあった。明治初年、廃仏毀釈が行われたことで今までもらっていた禄高の給付金が打ち切られた。高野名所図会には、「版籍奉還以後、私領が給せざるによりやむをえず当院に合併」と記されている。一般のスポンサーがついているような財力のあるお寺は経営を維持することができたがそうでないお寺は吸収合併されていき、日光院は和歌山にある増福院に吸収合併された。了範は増福院の坊さんだった。
小樽には当時真言宗のお寺がなく、信者が大師堂に個人的に集まりひっそりと信仰をしていた。明治24年、当時小樽は日本銀行小樽支店や中央・道内銀行の支店、大手の商社や海運会社が次々と現れ、北のウォール街と称される商都の中心となっていた。そんな活気溢れる小樽は外からのものを受け入れる風潮があり、了範は増福院に合併されていた日光院を小樽に移し、大師堂にお寺を開いた。これが現在富岡町に移された日光院だ。
第4節 赤岩岳の了範伝説
(1)昔からの伝説
①明治21年、祝津の漁場で働く漁夫の1人に万助という男がいた。力持ちでなかなかのイケメンだったため、たいそうモテていたそうだ。
ある日、万助はなじみの「花江」に会いに北廓へ出かけた。しかし花江が他の男に気を移したと感じ怒った万助は花江を殴り、大暴れした。そこへ了範が現れ、花江を助けだしたのだ。万助は数珠をもち、衣を見にまとった了範を恐れ、引き返した。了範はこの日、身投げした女郎の供養に廓に立ち寄っただけだった。この事件以後、評判を落とした万助は暴風雨の夜、マキリを携え赤岩の洞窟を目指す。道なき岩山をよじ登り、必死に洞窟にたどり着くと、穴の中から澄んだ鈴の音が聴こえ、闇の中に真っ白い衣を着て座る行者の姿があった。その瞬間、驚くような大音量とともに稲妻が光り、らんらんと目を輝かせた巨大な白竜が現れた。驚いた万助はどこをどう逃げ転げ落ちたのか、翌朝全身傷だらけ漁場の軒下に横たわっていた。三昼夜たってようやく息を吹き返した万助の口からは「赤岩には確かに白竜がいた。おれは了範様にとんでもないことを言ってしまった。大嵐の晩に洞窟にこもって行をなさっていた。それを白竜が守っていたんだ」と泣き叫ぶばかりだったという。そして高僧としてあがめられた了範が開いたのが小樽市富岡の日光院である。
②了範が洞窟にこもった時、ふもとの高島漁場で働いていたある若者が「あんな寂しい山中にたった一人でこもっていられるわけがない。あの坊主、いい加減なことをいっているに違いない」と仲間にたんかを切って、焼酎をひっかけた勢いで山に登った。洞窟近くまでたどりつくと静かな読経の声が聞こえてきた。その瞬間ものすごい雷と共に雨が降り出し、白竜がぼう然と立ちすくむ若者に襲い掛かってきた。酒の酔いもさめ、若者は気絶してしまったが、了範の手厚い介抱で息を吹き返し、その日から彼の弟子になったという。
(2)現在の伝説

赤岩のオタモイ線歩道の途中にある了範の像
了範を守っている村上さんから聞いた話である。今から5、6年前のゴールデンウィークの出来事である。祝津にある青塚食堂のおかみさんはいつも病院帰りに海岸に面して建っている了範の像にむかってお参りをしていた。しかし、その日了範の姿は見えなかった。草も生い茂りだしたころなので草で隠れているだけだと思っていたのだが、札幌にいる信者さんから「鉄鉱泉が欲しい」との依頼を受け、普段はめったに登らない了範の像がある丘の上に登った。すると、了範の像が地面に倒れ落ちているのを発見。了範が座っていた石と後ろの仏像の少し隙間に了範は倒れていた。村上さんは祝津の岐阜墓石に修理を依頼。すると「これは人の力ではどうすることもできない。クレーンを使わなくてはならず、元に戻すには100万円近くかかる。」といわれ、器物破損で警察にも届けた。しかし2、3週間後、再び丘に登ると師了範の像は元に戻り、少しはじがかけただけでほぼ無傷の状態だった。
この話は祝津の人がよく知っている話でもないし、広める気もない。しかし了範に関する平成の了範伝説だと思っている。

縦長の像が横に倒れて発見された。

わずか50センチほどの隙間に横たわった状態だった。
(5)高尾了範と小樽の人々の今
昔は地元の小学校などで了範に関する劇を行っていたほど小樽となじみの深かった了範だが、今は了範を知る人も少なくなり、信者の数も減っている。私たちより4世代前の人々が了範を熱心に信仰しており当時高齢者も多く、なかなか信仰が語り継がれなかった。しかし今でも毎年9月の第一土曜日には師了範と師了範の地蔵祭りが赤岩神社で行われている。
第2章 小樽の修験寺院-蔵王寺-
第1節 北海道と修験寺院

北海道に金峯山修験本宗の別院を作ったのは、奈良出身の五條覚尭さんだ。彼は奈良という修験になじみのある場所ではなく、まったく新しい場所で修験を布教したいと考えていた。北海道のゆったりとしていて広々とした雰囲気が気に入り、その当時出会った奥さんと結婚したことをきっかけに北海道で修験道寺院を開いた。
昭和51年札幌に蔵王寺を建てたが札幌の土地開発がどんどん進み、護摩を焚くことができなくなったため平成2年、今の蔵王寺がある小樽へと移動した。これが小樽に修験道寺院ができた経緯である。

蔵王寺の天井に描かれた絵。まだ新しさを感じる。
第2節 修験道の布教
北海道人の特徴として宗教になじみが薄い点があげられる。北海道は仏壇のない家も多く、寺は「葬式を開く場所」というイメージがあり、檀家さんしか入れないと思っている人も多い。そのため、五条さんの父が信仰していた脳天大神を一緒に祀ることで、「神」の恩恵を授かろうとやってくる人が増えた。最近のパワースポットブームから20〜30代の若者が訪れる機会も増えているという。

蔵王寺にいくまでの道に脳天大神の看板が大きくかかげられている。
北海道には331もの山があり、自然に溢れている。修行をするには北海道は最適なのではないのではないか。これが私の疑問であった。そう尋ねると、一度銭箱天狗山を奈良吉野のように山を切り開き修行ができるような場所にしようという案がでていたそうだ。しかしそれができない北海道ならではの理由があった。
その理由は、熊だ。熊がでない山は観光地化され、スキー場として利用されている。そのため、北海道在住の信者さんは修行をするために奈良吉野まで足を運ぶ。
第3節 蔵王寺の年中行事
・採灯大護摩
毒蛇の退治の為、理源大師が奈良金峰山の紫薪を集め、護摩を修した事に由来すると言われている採灯護摩
「東:阿しゅく如来の木」を
「西:阿弥陀如来の金」を使って伐り
「中央:不動明王の地」に積み重ね
「南:宝生如来の火」を使ってこれを燃やし
「北:釈迦如来の水」を注いで清浄する。
毎年5月の日曜日に春季大祭、10月の第一日曜日に秋季大祭が行われる。
護摩供祈祷
毎月19日に護摩供を行っている。

まとめ
調査を始める前は小樽にはなじみが薄いと思っていた修験道だが、実際は忘れさられているだけで、祝津方面では修験者高尾了範という人物を通じた伝説があり、今とはまったく別の形で信仰がなされていた。この伝説は小学校の劇になるほど、意識せぬうちに生活の中に入り込んでいた。この信仰も時代の流れと共に風化し、今は札幌に近いほしみでまったく新しい形で修験道の寺院が開かれ、布教がなされている。宗教を信仰する人がいても、それを次の世代まで語りついでいくことは難しい。しかし同時に、私たちの間に広がり、宗教としなくとも語り継がれていく思い出や宗教観もまたある。修験道という山を大切にする思想は、自然を大切にするということにも繋がっていく。思想という目に見えないものを広めていくことは難しいが、修験道という全国に信者がいる宗教も北海道という土地にくればまた新しい形になる。

謝辞
今回調査ができたことは担当して頂いた島村恭則教授、TAの佐野さんの指導や調査に強力していただいた赤岩神社の村上芳江さん、小樽日光院の宮本孝雄さん、蔵王寺の五條園子さん、小樽市総合博物館の石川直章先生のおかげです。協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。

オタモイの記憶―遊園地と地蔵―

宮下毬菜


はじめに

 オタモイ海岸は、小樽市の北西部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10kmに及ぶ海岸線の一部で、付近には赤岩山(371m)など標高200m前後の急峻な崖と奇岩が連なっている。一帯は昭和38年(1963年)ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、祝津・赤岩海岸とともに雄大な景観を誇り、訪れる人々を魅了している。
 断崖絶壁の中腹に、龍宮閣、弁天閣、弁天閣食堂など龍宮城に模した建物を、小樽市内の料亭「蛇の目」の経営者、加藤秋太郎が建築した。最盛期には1日数千人の人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年(1952年)5月9日、午後4時26分、かまどの火の不始末により出火し、焼失した。
 また、オタモイには「子宝地蔵」として近年まで多くの参拝者が訪れてきた「オタモイ地蔵尊」が存在する。
 今回の調査は、加藤秋太郎はなぜこのような崖に遊園地を造ったのか、また焼失後なぜ復興しなかったのか。また地蔵尊はなぜ子宝地蔵と言われるようになったのか、近年の地蔵の信仰の実態はどのようなものだったのか。という疑問を解決することを目的に行う。


第一章 夢の跡 オタモイの地

(1)加藤秋太郎

 加藤秋太郎は昭和2年(1869年)10月23日に、愛知県知多郡大府町字江端にて誕生した。16歳で上京し、いくつかの職を経て浅草の「蛇の目寿司」で修業、明治37年(1904年)同店で知り合った松本きんと結婚した。秋太郎35歳、きん16歳であった。
 翌明治38年(1905年)韓国京城に渡り、南大門外に寿司店を構えた。同年韓国保護条約が結ばれ統監府がおかれ、日本式の寿司は大いに喜ばれたという。明治39年(1906年)2月、長男龍男が誕生するも26日死去。また秋太郎は山林の売買の話に乗り大きな損失を被った秋太郎は店を手放し、同年秋日本に引き揚げてきた。
 明治41年(1908年)の夏、秋太郎ときんは小樽へやってきた。日露戦争後のポーツマス条約で南樺太が日本の領土となり、当時の小樽は樺太へ渡る船を待つ人々で大変賑わっていた。その時、樺太行きの連絡船待ちで宿泊していた稲穂町の旅館「加賀屋」の主人が、秋太郎に小樽で商いをすることを勧めた。秋太郎は樺太行きを中止し、花園町で「蛇の目寿司」を開店した。幸い店は繁盛し、2年後には花園第一大通りに新店舗を構えることができた。この店も大変繁盛し、秋太郎は蓄財をなす。
 明治44年(1911年)1月、男子誕生、多喜雄と命名した。地主の山の上町の猪股さんのご厚意で、敷地も次第に大きく使うことができるようになった。大正10年(1921年)には増改築を終えた。販売品目も寿司を主として様々な種類の料理を扱うようになり、店名も「蛇の目」と呼ぶようになった。大正14年(1925年)2月、次男誕生、金秋と命名。店にスチーム暖房や本格的なボイラーを設置したり、小樽で最初のネオン看板を掲げたりと、秋太郎は新しいもの好きであった。
 昭和7年(1932年)頃、「蛇の目」に料理用の鯉を納めていた長橋の広部養鯉園の当主が、近郊の赤岩に続いてオタモイという景勝の地があることを秋太郎に話した。この時秋太郎は62歳。秋太郎は、小樽を訪れる観光客の多くが日帰りなのは、じっくり時間をかけて見るところが無いためだと考えていた。また、小樽を案内した知人にはもっと名勝地はないのかと言われることもあり、小樽に名所を出現させたいという夢を持っていた。
 オタモイの地に惚れ込んだ秋太郎は、まず連絡用の自動車が必要と考え、多喜雄を東京蒲田の日本自動車学校に通わせた。これは自動車運転手を雇うにしても経営者としてそれに対する知識や腕を持っていなければならないという秋太郎流の考えからであった。
 昭和7年(1932年)秋に下見をし、設計に入り、建設工事は昭和8年(1933年)3月から始まり、10月に上棟式が行われた。そして昭和9年(1934年)夏、龍宮閣が完成、翌10年の6月には遊園地が完成し、開園式が行われた。龍宮閣、弁天閣(弁天食堂)、白蛇弁天堂(弁天拝殿)、演芸場などから成るこの遊園地は盛況し、日々数千人の人々が訪れた。
 昭和12年(1937年)、長男多喜雄は軍隊へ召集され、オタモイを離れる。次男金秋は陸軍の技術研究所に軍属として勤務となり、小樽を離れた。そして昭和14年(1939年)春、演芸場が豪雪のため倒壊。弁天閣は昭和15年(1940年)閉園後、南側斜面の大規模な地滑りのため海岸まで押し流されてしまう。昭和16年(1941年)頃から戦争が激しくなり、オタモイ遊園地に足を運ぶ人は少なくなっていった。「蛇の目」も資金不足で営業が困難になり、秋太郎はオタモイ遊園地を手離した。
 そして営業開始目前の昭和27年(1952年)5月、龍宮閣は焼失する。原因は定かではなく、様々な説があるが、今回調査に協力していただいた村上洋一さんはかまどの火の不始末が原因だとおっしゃっていた。
 秋太郎は龍宮閣焼失の2年後、昭和29年(1954年)11月22日、86歳でこの世を去った。きんは昭和36年(1961年)3月2日、76歳で生涯を終えた。

写真1 オタモイ遊園地観光案内

写真2 龍宮閣で着ていた法被

写真3 彩色八角皿 龍宮閣で使用したといわれる。中央の文様は「蛇の目寿司」の印。


(2)オタモイ遊園地の記憶

 小樽市産業会館でイベントが開催されており、そこでお話を伺うことができた。小樽市民の大竹田鶴子さん(83歳)によると、何度かオタモイ遊園地を訪れたことがあり、演劇場へ芝居を見に行ったのをよく覚えていると話してくれた。また、遊園地が目的ではなく海岸で遊ぶのを目的にオタモイを訪れ、そのついでに地蔵をお参りして帰ることも多かったという。約70年前は地蔵にお参りする人が多く、行列ができ混んでいたが、現在は地蔵にお参りをすることもなく、最後にお参りをしたのは通行止めになる前だそうだ。通行止めになったのは平成19年(2007年)7月のことである。地蔵については、子どもができる、お乳が出るようになるという噂があったことは有名だったが、お参りをした当時は子どもだったのでそのような願いをかけたことはないとおっしゃっていた。
 現在の地蔵の信仰については、自分は信仰していないのでよく分からない。周りに熱心に信仰している人はいないとのことだった。
 また、オタモイ地蔵尊の参詣人の多くが遠方から来ていたことから、その案内として国道と列車からよく見える場所に案内門として唐門が建てられた。昭和7年(1932年)、オタモイ入口の奥の現オタモイ郵便局のあたりに市道をまたぐ格好で建立され、昭和54年(1979年)秋、オタモイ海岸途中の現在の位置に移転された。

写真4 現在の唐門

写真5 唐門の案内



第二章 断崖絶壁の地にたたずむ3000体の地蔵

(1)オタモイ地蔵とは

 別名「子宝地蔵」といわれ、子宝に恵まれない夫婦に根強い人気がある。建立したのは、忍路、高島場所の場所請負人であった西川家で、神威岬の難所で沈んだ船人の霊を弔うため、地蔵碑の建立を発願したのに始まるといわれている。水難事故が多く、初めは6体の地蔵が祀られた。

(2)「子宝地蔵」とされるまで

―語り継がれる悲話―
「元禄四年松前藩は西部神威岬以北へ婦女の通行するを禁ず」(道史年譜)
 松前藩は、神威岬から北の通行を女人禁制とした。それは神威岬の先端には嫉妬深い女神がいて、沖を通る船に女人が乗っていると必ず激しい風と高い波浪で船が沈められると信じられていたことに由来する。越中(現富山県)高岡在住の医者の一人娘には、親の反対で無理やり引き離されてしまった心を寄せる若者がいた。若者は故郷を捨て、当時としては生きて帰れるかも分からない北の果て、西蝦夷地に渡っていった。残された娘には命が宿っており、恋人の後を追って魚津(現富山県)の港に寄港した北前船の積荷の間に身を隠して旅を続けた。しかし神威岬の沖まで来ると天候が悪化し、海は大荒れとなった。この時隠れていた娘が出てきて、「この海神の怒りは、禁制を犯してここに乗り込んだ私のせいです」と、荒れ狂う波間に身を投げてしまったという。たちまちに海の様子は穏やかになったが、娘の姿はどこにも見えなかった。そして昭和22年(1847年)4月24日の朝、波にはだけた胸乳から白く乳が滲み出た妊婦の亡骸がオタモイ海岸に打ち上げられた。この悲恋の物語を聞いた忍路漁場第七代支配人の西川徳兵衛は、郷里の近江の国で御影石地蔵尊を刻ませ、このオタモイの高台に祀ってこの妊婦を供養した。


図1 高岡市魚津市の位置(http://www.mapfan.com/kankou/16/jmap.htmlより)


図2 神威岬の位置(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93より)


写真6 神威岬(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%ACより)


写真7 女人禁制の門(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%ACより)


以上の悲話が最も有名だが、他にもいくつか説がある。

【1】オタモイ海岸に打ち上げられた娘を、付近の漁師たちが小さなお堂を建てて葬った。お堂を建てた漁師のひとりに松蔵という若者がおり、彼は郷里越後に妻を残してオタモイに稼ぎに来ていた。この夫婦は子宝に恵まれず、松蔵は毎日のようにお堂の地蔵に子供が授かるようにと祈願していたところ、後日帰郷後めでたく子宝を授かったという。この話が広く伝わり、「子宝地蔵尊」と呼ばれるようになった。

【2】忍路、高島の場所一帯を請け負って大変な財を成した西川徳兵衛が、海への感謝と神威の海で命を失った人々を弔うため、嘉永元年(1848年)、100体の地蔵尊の建立を発願した。後年西川家11代西川吉之輔が先代の残した古文書でこのことを知り、探索の末6体を発見することができた。そのうちの1体がオタモイ地蔵尊である。

【3】明治26年(1893年)頃、鹽谷村山印金澤佐市の妻イワは、娘を育てるのに乳不足で悩んでいた。ある時、「オタモイ地蔵尊を祈ればお乳が泉の如く出るだろう」との御告げがあり、その翌朝から熱心に信仰を凝らすとたちまちたくさんの乳が出るようになった。イワはこの話を口にはせず、郵便を使って知らせたが、その噂はすぐに広まり、大勢の信仰者が訪れるようになった。自ら真似て作った地蔵尊を持参して奉納する者も多かった。

【4】津軽のある男の妻は出産後乳が出ず、オタモイ地蔵尊に祈願して乳が出た。

【5】稲穂町の農家の嫁がオタモイ地蔵尊に祈願したところ、乳が出すぎていたため怨みの言葉を放つと乳が止まってしまった。再び懇願すると、乳が出るようになった。

【6】鹽谷村山印金澤長太郎の息子は、普段からオタモイ地蔵尊を信仰していた。彼が在学中のある日、難しい試験において奇跡的な救いを受けて通過することができた。

 以上のように、オタモイ地蔵尊が「子宝地蔵」とされるのには様々な説が存在する。オタモイ海岸に打ち上げられた娘のためにつくられた地蔵、西川徳兵衛が建立した地蔵、どちらが先にできたものかの真相は分からない。また、「子宝地蔵」といわれるようになった由来も、どれが最初かは分からない。以下は、長らくオタモイ地蔵尊の堂守をされてきた村上洋一さんによる説明である。
 「地蔵が建立された当時は娯楽と呼べるものがなく、地蔵に参拝することも「娯楽」のひとつであった。多くの人が地蔵尊を訪れ、乳が出るのを望む者、勉強がよくできるよう望む者、金が欲しいと望む者と、その願いは様々で、当時は食糧事情が悪く精神的に良い状態ではない者も多かったが、地蔵を参ることで気持ちが穏やかになった。そして参拝したうちの1人である乳が出るのを望んだ者に、精神の状態が良くなったため無事に乳が出るようになると、「オタモイ地蔵尊に祈願すれば乳が出るようになる」という言い伝えとなって広まった。言い伝えられるうちに話は変わり、いつの間にか「オタモイ地蔵尊に祈願すれば子どもができる」といわれるようになった。海岸に打ち上げられた娘の悲話は分かりやすい内容であり、同情されることもあって、オタモイ地蔵尊の言い伝えと結びつき、現在のような言い伝えとして広まったのではないか」。

(3)オタモイ地蔵尊の信仰

 オタモイ地蔵尊の信仰の方法について。まず地蔵尊の下の海岸から石を1つ拾い、地蔵の前に置いて願い事をした。願い事が終わったらその石を持ち帰り、撫でた。のちに子どもを授かったら(願いが叶ったら)、再びオタモイ地蔵尊を訪れ、もう1つ石を拾い、持ち帰った石と合わせて2つの石を地蔵の前に置き、帰った。そして、毎年6月24日と10月24日に日蓮宗のお坊さんがお祓いのために訪れ、お祓いが終わると地蔵の前に置かれていた石を全て海に返すことになっていた。

(4)オタモイ地蔵尊のいま

 昔は多くて1日に何百人もの人が訪れたオタモイ地蔵尊も、現代ではそのような活気はなくなった。しかし数年前まで根強い信者も一定数いたといわれている(具体的な数字を聞くことはできなかった)。ただし、平成18年(2006年)4月、オタモイ遊歩道で土砂崩れが起きたことから、翌平成19年(2007年)7月、遊歩道が通行止めになり、現在、オタモイ地蔵に行くことはできなくなっている。したがって、現在、オタモイ地蔵への立ち入り、参拝は不可能である。本調査でも、立ち入りは不可能であった。
 参拝が可能だった頃には、自ら真似て作った地蔵尊を持参して奉納する者も多く、およそ3000体の多種多様な地蔵が納められている。訪れる信者は、子宝地蔵といわれるからか女性が多く、50歳過ぎの人が多かった。また、その季節は春と秋が大半で、夏は少なく、冬は雪が積もって道が通れなくなってしまうため少ないが、何人かの信者は冬にも訪れていた。
 高齢化や怪我や病気のために地蔵尊を訪れるのが困難になってしまった信者は、持ち帰った石を堂守の方宛てに郵送することで、信者の代わりに堂守さんが石を納めてくれた。持ち帰った石は必ず地蔵に返さなくてはいけないというきまりがあるが、期限などはなく、信者が亡くなってしまうまでに石を返せばよかった。今後高齢となり訪れることができなくなりそうな信者から、堂守さんに住所を教えて欲しいと言われることが多かったので、10年ほど前に電話帳に登録した。電話帳の「オタモイ地蔵尊」の欄には堂守さんの電話番号が掲載されている。また、海で拾う石にも特にきまりはなく、自分の手に馴染む、撫でやすい石を選べばよい。信者の宗派は様々で、初めは子どもが欲しくて地蔵を訪れるが、2回目以降は自分の心を穏やかにするために参拝する人が多かった。
 また、産婦人科不妊外来の病室でオタモイ地蔵尊の言い伝えが掲示されていたり、患者のコミュニケーションツールとして自由に書き込んだり読んだりすることができるようなノートが設置され、オタモイ地蔵尊の言い伝えが書き込まれていたりして、それを見て新しく訪れる人もいたという。信仰の方法を知らない人には堂守さんが教えていた。



写真8 海岸付近の看板 「当代一を誇った夢の里、オタモイ遊園地跡」


写真9 看板を拡大 オタモイ遊園地について

 
おわりに

 加藤秋太郎が創ったオタモイ遊園地は、現在では何の跡形もない。また、オタモイ地蔵尊が子宝地蔵として毎日多くの人が参拝に来ていたのも昔の話である。しかし、遊園地が盛況を成した話は現在も人々の記憶に残り、次の世代に語り継がれている。オタモイ地蔵尊には近年まで信仰者が訪れ、子宝地蔵と言い伝えられてきた。
 秘境の景勝地、オタモイ海岸。これからも美しい自然で溢れる場所として残ってほしいと思う。


謝辞

 本調査にご協力いただいた、オタモイ地蔵の堂守の村上洋一氏、小樽市民の大竹田鶴子氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生、大勢の小樽市民の方々、ならびにご指導いただいた島村恭則先生、佐野市佳先生に感謝の意と代えさせていただきます。本当にありがとうございました。


文献一覧

小樽市立幸小学校PTA文化部郷土誌係編集『オタモイ・幸地区の昔を中心とした郷土誌』1982年,小樽市立幸小学校
阪牛祐直『オタモイ地蔵尊の由来』1933年,小樽出版協會
小樽市小樽市史』図書刊行会
小樽市総合博物館で閲覧させていただいた資料


参考URL

小樽観光 樽樽源(http://www.public-otaru.info/index.html)
小樽ジャーナル 2007年7月8日(http://otaru-journal.com/2007/07/post-1829.php)
雑記帳(http://www14.plala.or.jp/oss010/index.html)
北海道観光研究所 北杜の窓(http://www.hokutonomado.com/index.html)
北海道観光タクシー山崎(http://www12.ocn.ne.jp/~kouhei/index.html)
Wikipedia 北海道(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93)
Wikipedia 神威岬(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%AC)
富山県行政界地図(http://www.mapfan.com/kankou/16/jmap.html)

生き残った小樽の和菓子屋たち

村川美有

はじめに

「小樽」といえば、今ではチーズケーキやバタークッキーなど洋菓子のイメージが強い。しかし、洋菓子土産が有名になる前、小樽は和菓子で有名であった。昔に比べてずいぶんと和菓子屋の数は減ってしまったようだが、今もなお残る和菓子屋には土産商品の洋菓子には負けそうにない歴史のドラマがあった。ここでは、小樽が和菓子で栄えていた理由と現地に赴いて聞かせていただいた「生き残った小樽の和菓子屋たち」のドラマを紹介したいと思う。

1章 なぜ小樽で和菓子屋が発展したのか

理由の一つとして、原料の手に入りやすさが挙げられる。小樽はかつて小樽港として発展していた。そのため、ビート糖(十勝産)や水あめの元であるでんぷんがとれる馬鈴薯・豆(十勝、帯広産)など道内で取られたものが全て小樽に集められた。そのため、和菓子を作るには最適の場所であったと言える。
二つ目は、小樽の人々が甘いものを求めていたからである。求めていた人とは漁師と港湾荷役労働者である。漁師は海へ出る前の縁起物として和菓子を食べることが多く、また力仕事に糖分は必要であった。そして港湾荷役労働者は当時時間交代制で仕事をしていた。仕事時間が一般人とずれる時もあったため、飲酒できなかった。よって、『お酒の代わりに甘いものを取っていたのではないか』という意見を中ノ目製菓株式会社代表取締役・中ノ道孝道氏から頂いた。
三つ目は、『小樽港には関西系の和菓子が集まっていたから』と澤の露本舗代表・高久文夫氏に伺った。関西系の和菓子とは、お干菓子や和生などの飾り菓子のことである。なぜ飾り菓子なのかというと、大阪はかつて「天下の台所」と呼ばれるほど栄えていたため、朝廷に物を献上する機会が多く、見た目も豪華なものである必要があったからである。それに対して、せんべいなどのボリュームのあるお菓子は函館港に集まった。こうして、小樽と函館の港に集まったお菓子は人が集まる旭川へと届けられ、そこで商売が行なわれた。今でも、小樽に飾り菓子が多く出回った名残として小樽ではコンテストが開かれるほど飾り菓子が発展している。また「三笠山」や「中華まんじゅう」など関西発祥の和菓子も広く浸透している。コンビニでも売っているところをみると、今となっては関西以上に売れているように思う。


コンビニのレジ横で見つけた中華まんじゅう

2章 和菓子屋の系譜

 上記の理由で発展し数を増やした和菓子屋であるが、戦中の砂糖はどのようにして入手したのか。砂糖が入手できず、また疎開で商売を続けられる状態でなくなって廃業せざるをえなかった和菓子屋ももちろんあった。政府から砂糖が支給されたところもあれば、でんぷん工場に行って物々交換をしてでんぷんをもらったり、政府には内緒で農家や水飴屋にお金を払って作ってもらったりと、今だから公言できる「闇ルート」を使った和菓子屋もあったという。ここまでして砂糖を入手したのは、消費者からニーズがあり、売れたからである。戦中は貧しい生活を送り我慢が強いられる辛い時期であったが、だからこそ甘いものは人にとってつかの間の心の安らぎという意味で、必要不可欠なものであったのであろう。
時代に合わせて、和菓子屋は形を変えていった。調査を続けていくうちに一つのお菓子が大きなポイントとなることを発見した。それは「飴」である。飴(水飴)は、鍋とでんぷんと水さえあればできる。そのため、和菓子屋の前世が「飴屋」であるところが多い。また、戦中は「飴屋」であったという和菓子屋も多い。戦後の昭和20年頃の菓子屋はほとんど飴を売っていたという。そのため、競争率が高くなり飴の価格は安くなった。そして昭和25年政府による砂糖統制が撤廃されると、他の菓子業が急成長し飴屋の数はぐんと減った。それでも今もなお飴の専売をおこなっている飴屋があるが、その紹介は4章でおこなう。
はじめでも述べたが今は食の欧米化が進み、和菓子よりも洋菓子を好む人が増えた。そのため、和菓子屋専業では成り立たなくなり、和菓子・洋菓子両方ともを扱うお店も増えた。後継者が見つからず廃業した和菓子屋もあれば、飴屋または和菓子屋からパン屋となって長い歴史をもつ店もある。
今ある和菓子屋は時代に生き残るため、二つのタイプに分かれたと私は考える。その両方のタイプそれぞれの和菓子屋のドラマを3、4章で述べていこう。

3章 時代に沿い行く和菓子屋

(1) 花月
花月堂は小樽の商店街に入ると必ずと言っていいほど宣伝歌が聞こえてくる、道内に何店舗もある有名な和菓子屋である。そして、題にある通り、時代に沿い世の中のニーズに合わせて洋菓子も売っている。スーパーではショートケーキを売っているのを見かけたし、ドラ焼きの中にプリンが入っているというまさに和洋折衷のものも数多く発売している。8代目社長の古川昭男氏にお話を伺った。
花月堂は、1851年に越後国(新潟)新発田藩の杉本次郎吉氏がはじめた。1904年3代目社長のときに、港が盛んで景気も良かったため北廻船で小樽にやってきて、1975年に杉本花月堂から花月堂となり今に至る。戦中は、政府から砂糖を支給されていたそうだ。さすが、大手の和菓子屋である。北海道はでんぷん工場が多いため、本州に比べ有利だったはずと古川氏はおっしゃっていた。今は、上白糖は外国から、和三盆は四国から、黒砂糖は沖縄から調達している。和菓子が北海道で安いのは材料が手に入りやすいからであり、温暖化の今でも北海道では比較的寒いため、材料は品質的にも北海道産が良いのだそうだ。
関西発祥の和菓子についても詳しく教えていただいた。発祥が京都ではないかと言われている「中華(花)まんじゅう」。これは三日月のような形をしていて、小樽のコンビニのレジ付近に当たり前のように置いてあり、私が驚かされたものである。この形には2つの説があり、1つは亡くなった屯田兵に何かしてあげるために、畑で使う桑の上に小麦粉を乗せて焼くと、このような形になったという説。そしてもう1つは、はすの花びらの形という説である。名前の由来に関しては、道内に“ちよか”という女の人がいて、それがなまって、“ちゅうか”になったという説がある。しかし、それだと関西から伝わってきたときには違う名前だった可能性が強いが、詳しいことは分からないとのことだった。
次にほとんどの和菓子屋で売っているどらやき。小樽で見るどらやきは関西で見るものよりかなり大きいものが多く、それを多くの和菓子屋が「三笠」や「三笠山」という名前で出していた。三笠山とは奈良にある山の名前である。どらやきの形が三笠山に似ているというところからきているらしい。では、逆にどらやきという名前はどこからやってきたのか。出航のときの合図に使うゴングのようなものを銅鑼(どら)といい、そのことと関係がありそうであるが、それについても様々な説があり詳細は分からないのだそうだ。


町の和菓子屋で見つけたどらやき
私の手のひらほどの大きさだった。一個でお腹いっぱいになりそうである。

(2)松月堂
松月堂は、今の取締役会長である奥村泰吉氏のお父様が花月堂に10年弟子入りし、花月堂の花を「松」に変えて、創業した。3代目からは、和菓子だけでなく洋菓子も売るお店となり、戦後は一時期なんと洋菓子6:和菓子4にまでなったという。今は、5:5で売っている。戦中の砂糖は政府からの支給と闇市で入手し、何軒かの和菓子屋を合併してお菓子を作っていたようだ。
 また(1)でも述べた中華(花)まんじゅうであるが、ここでは「中花」とははすの花が開く前の状態のことを言い、それに関係があるということを聞いた。また、小樽ではお葬式の後に「お世話になりました」という気持ちを込めて、集まった人に配る習慣があるのだそうだ。中華まんじゅうは手がこんでなく、家紋などを入れなくてよく早くできるため、多く利用される。その特性を利用して、最近では米寿の祝いや結婚式で出したいという要望もあるのだそうだ。
 松月堂では、沢山の「和生」という生菓子があった。あんを練って切ってつくるため、別名ねりきりという。布巾で包んだり、竹のすだれで模様をつけたりする。季節ごとで作るものが違い、春は梅や桜の花、夏は寒天をのせて涼しげな水菓子であやめやてっせんの花を、秋はかきやもみじ、冬は鶴や松などその季節を表現するものを作る。どれも繊細で美しい作りでショーウインドウを見ているだけで楽しい気分になる。


松月堂の夏の和生
食べるのがもったいないくらい綺麗である。

(3)野島製菓株式会社
 野島製菓は、元々飴屋であったが途中から様々な和菓子や飲料を扱う店になった。取締役社長である野島弘氏にお話を伺った。一旗あげようと愛媛の東予市から富良野、そして小樽へやってきた雑穀商人の野島藤平氏によって、1925年に創業された。そして、飴屋を買収して事業を継承し、社名を野島製菓に変更した。1968年までは「コハク飴」という琥珀色の道産醤油の飴や「熊シャケ飴」を中心に売っていたが、1972年からは菓子業界の競争に生き残るため団子を中心に売り始めた。飴と団子は、材料も機械も違うため平行して販売はできなかったそうだ。とはいっても、団子屋もライバル店が沢山ある。野島製菓は直売をしていなかったため、他の団子屋への対策として真空パックで日持ちし、卸売りできる状態にして売上げをカバーした。賞味期限も2,3日から2週間まで延ばせるようになった。道内だけでなく、東北にも販売している。
 野島製菓の面白い商品と言えば、ラムネである。廃業するオホーツクキング食品(ラムネ・シャンパンなどの飲料メーカー)を買収して、1991年から販売している。元は、小樽メロンラムネという名前だったが、他の道内地域では売り辛いということで北海道メロンラムネに変更した。
他には、ねりごまやねりくるみという岩手・宮城の家庭の味をヒントにした東北特有の食べ物やぶどう糖を販売している。戦中の砂糖は、政府からの支給と闇ルートでもらい、戦後も政府からの優先枠で有利だったそうだ。


北海道メロンラムネ 
様々な種類があるため、お土産にも喜ばれそうである。

4章 時代にあらがう和菓子屋

(1) 中ノ目製菓株式会社
小樽には時代には合わせず、1つの和菓子にこだわりを持つ和菓子屋もある。
甘納豆のみを販売する中ノ目製菓もそれを代表する和菓子屋である。現在3代目代表取締役である中ノ目孝道氏にお話を伺った。中ノ目製菓の始まりは、1932年から始めた豆腐屋であった。そして、戦中の1945年になるとここでも「飴」を作った。なぜなら、豆腐屋の時に使っていた鍋を水飴作りにそのまま使うことができたからである。1950年砂糖統制が撤廃されると、飴屋はほとんどなくなった。中ノ目製菓も十勝と帯広産の豆が渡ってきており、甘納豆を作る職人がいたため、甘納豆屋となった。戦前は青えんどう(フライビーンズ)や煮豆も作っていたが販売ルートの違いや機械が増えてしまうため、次第に甘納豆だけを販売するようになった。洋菓子が売れるようになってきた時代だが甘納豆専売として他は気にせず、豆の種類を増やすことはあっても、今後他の商品を増やすことは無いときっぱりとおっしゃっていた。その潔さに小樽に古くからある和菓子屋としての誇りを感じた。


中ノ目製菓の甘納豆
白豆、金時、小豆の3種類がある。

さて、小樽には面白い甘納豆の食べ方がある。それは、「甘納豆入り赤飯」である。1952年、料理研究家の南部明子氏がラジオの料理番組で金時甘納豆入り赤飯を紹介した。南部氏が発案した料理ではないということは分かっているが、南部氏のラジオ放送により広く普及したようである。このラジオ後、甘納豆の受容が爆発的に増え、中ノ目製菓でも前年の3倍売れたそうだ。神社の祭(春・秋)のときに、家でお赤飯を炊く風習は戦前からあり、今でも甘納豆入り赤飯は道内のコンビニでおにぎりとして売られるほどポピュラーである。味は甘納豆の甘みとごま塩のしょっぱさがうまく調和し、見た目は関西で見るものよりピンク色である。食べてみると、最初は初めての甘いご飯に驚いたが、まるでおやつのようでおいしく食べることが出来た。


町の商店街で売っていた甘納豆入り赤飯。年中売っているようである。

(2)飴谷製菓株式会社
かわいい飴の出店の後ろに飴谷製菓はあった。そこで、代表取締役の飴谷佳一氏にお話を伺った。富山に飴屋六兵衛という人がいて、水飴の計り売りをしていた。富山は米飴だったため「新境地で全く違うものをしたい」と樺太へ渡った。その後、1918年にビート糖とでんぷんが豊富である小樽にやってきたのが4代目のときだそうだ。それまではらくがんやべこ餅なども扱っていたが、6代目の時には飴の卸しと製造のみになった。そして、今の7代目佳一氏の時に人力車に乗った観光客からニーズがあり屋台を出したそうだ。
バター飴やきなこ飴、雪たん飴などを試食させていただいた。初めての味や食感に手作業ならではのあたたかさと飴専売のこだわりを感じた。戦中は沢山あった飴屋も専門的に今も売っているのは、この飴谷製菓と(3)で紹介する澤の露だけだそうだ。生キャラメルやチーズケーキなど様々なブームが起きた今もなお、飴だけを売るのは、「飴谷」という名前のブランドがあり、それは使命であると感じているからと佳一氏はおっしゃった。
『流行は追いかけたら、追いかけ続けなければいけない。そして、流行が廃れたら何も残らない。お年寄りはキャラメルを食べられない。製菓業界で長く生きるためには、残るものを作らなければならない。』
飴のお話を聞かせていただいたが、これは飴に限った話ではないと感じた。深くこの言葉が心に残った。


雪たん飴
石炭の上に雪がつまっているよう見えるのが名前の由来


観光客のニーズに応えて誕生した飴谷製菓の出店
無人であることに小樽の人の穏やかさが垣間見える。

(3)澤の露本舗
1911年、旧名「水晶飴玉」の澤の露本舗代表である高久文夫氏にお話を伺った。福井県出身の澤崎浅次郎氏が長崎でカステラなどの洋菓子を勉強した後、飴にたどり着き、水晶飴玉を作った。しかし、飴の原材料は一般的に水飴であるが、澤の露の水晶飴玉の原材料はサトウキビからとれる砂糖だけである。これを飴と呼べるのかという議論になり、水晶飴玉は専売特許をとった。他の飴屋に比べ、サトウキビでしか作れない水晶飴玉は戦中に作ることは不可能であった。そのため、戦中は疎開し、1951年に再開した。そのときに、支援したのが鈴木商店の松川嘉太郎氏である。松川氏は、小樽の中央バスを創立者であり、澤崎氏と同じ福井県出身だったため、知り合いだった。松川氏の銅像は小樽の住吉大社にあり、小樽の経済を救った人物として讃えられている。

澤の露店舗が販売している商品は、水晶飴玉一つである。それだけで大丈夫なのか?と思われるかもしれないが、この一つの商品がすごく有名で全国にファンが多い。高久氏は、この世の中には2種類の店があるとおっしゃっていた。「どこどこの何々が欲しい」というブランド商品を持った都会型の店。そして何でも一通り置いている田舎型の店。確かに今ヒットしているお土産商品は全て「そのお店のその商品だから価値がある」という印象を受ける。『ヒット商品が何か一つ無いと生き残れない』と高久氏は言う。競争が激しい製菓業界では、他店と同じことをしていては生き残れない。和菓子屋が消えつつある、小樽の現状を表した一言である。
しかし、都会型と田舎型、どちらが良いというものでも無いと私は考える。両方あるから、両方の良さが際立つのであろう。今回私は小樽の歴史がつまった沢山の和菓子屋に伺わせていただき、どらやきや中華まんじゅう、和生など同じ和菓子を沢山見た。しかし、同じ和菓子でも名前や大きさなどが少しずつ違い、どの店の方も自分の店の商品を愛しているのが分かった。私はお話を聞かせ

小樽の在日韓国人

北村美季

はじめに

 北海道では、大正5年あたりから北海道炭鉱汽船株式会社による朝鮮人労働者の大量採用が始まった。一時は朝鮮人工夫の労働力は「良く服従する」、「優秀な体力」により好評で1000人を超え、増加していたが、昭和5年以降の国内不況により募集はストップした。その後、第二次世界大戦がはじまり、北海道にも国家権力のもと朝鮮人労働者が組織的に大量移入(=連行)された。
 小樽では北海道統計書の国惜別外国人登録者数より、平成21年現在で韓国、朝鮮人は100人いる。北海道では上記のような歴史があるが、では、小樽にはどのような歴史があり、彼らは今どのような生活をしているのだろうか。そして今回民団小樽支部の方に協力してもらい、小樽の在日韓国人の調査を行った。

第1章 小樽の韓国・朝鮮人

(1)戦前――小樽の「朝鮮人
  戦前、小樽に来た人たちは、炭鉱で働く人よりも「木材積取人夫」として働く人が多かった。木材積取人夫とは、伐採され、加工、沿岸などに搬出されている木材を汽船に積み込み、その需要地に輸送する木材積取事業に必要な労働力を提供する人であり、昭和戦前期にはとりわけ樺太材の積み取り事業が小樽港で行われていた。その積取人夫の1割5分が「朝鮮人」とされている。朝鮮人専用の下宿も多く、肉体労働者として低賃金で働いた。日当は60銭~1円で、宿代や蒲団の貸料を引かれ、祖国に送るお金はなかった。

(2)戦後――小樽にやってきた人々
 戦争が終わり、それまで小樽にいた人は、北朝鮮への引き揚げ船で帰っていった人たちが多かった。当時の北朝鮮は今よりも状況が良く、「楽園の生活だ。」と言って、みな期待して帰っていった。
 そして戦後になると、札幌から小樽に「朝鮮人」が続々とやってきた。戦後、小樽は札幌よりも景気がよく、商売の地を求めてきた人が多かったのである。中央市場のあたりはぶつかる人みな「朝鮮人」というほど、戦後すぐは多かった。その多くの人がパチンコ屋を始め、昭和30年ごろにピークを迎えた。しかし、ライバルが増えたため、儲けた人たちは小樽から出て行ったり、二世、三世になるとそのあとを継がなかったりして、パチンコ屋は次第に少なくなっていった。

(3)現在――小樽に住む在日韓国人
 現在、小樽に在日韓国人は20世帯ほどしかなく、非常に少なくなっている。さらに、在日一世はほとんどおらず、二世、三世の世代になっていて、日本国籍を取得していく人も多い。韓国人の数も少ないため、母国の食材を売っているマーケットもないが、今はインターネットや、韓国の親戚などから食材を送ってもらうこともある。集落などもなく墓地も日本にある。ほとんどの方が日本人と変わりない暮らしをしていて、民団の方にもどの家が韓国人だ、という特定はできないという。

第2章 在日一世の記憶

(1)金渠煥さん
 金さんは、1928年生まれ83歳。韓国の金泉出身、現在小樽市に住んでいる数少ない在日韓国人一世である。日本で軍部輸送部の運転手をしていた兄に連れられ、8歳の時に大阪阿倍野へ行く。17歳で終戦をむかえ、戦後は兄について鶴橋の闇市を歩いた。それから、秋田の本庄で米の買い出しを3、4年した。そして、大阪の先輩が東京で麹菌を作ったものをもらったことをきっかけに、麹造りをし、濁酒を作ってそれを売った。それがよく売れ、昭和26年7月に、商売をするため北海道、小樽市へ移った。ここではまず、鉄関係の雑品屋をし、鉄を回収しては北海鋼業(現・新北海鋼業株式会社)に売ったりして稼いだ。そして今は焼肉屋「大仁門」を経営し、また在日本大韓民国民団小樽支部の常任顧問としても活躍して、民団の父のような存在である。

写真1 金さんの経営する焼肉屋「大仁門」。民団の事務所の隣にある。

(2)在日一世をめぐる女たち
 在日一世の方たちには壮絶なライフヒストリーがあることはもちろんだが、彼らには、支えてきた妻や、苦楽を共にしてきた女たちがいる。彼女たちは、在日一世の人たちの記憶を語ってくれた。

・北村外江さん
 北村さんは、日本人であるが、母と一緒になった人「お父さん」が韓国人だった。「お父さん」は手宮の長屋に住む石工で、面倒みもよく、「おじさん、おじさん。」と呼ばれ、近所の人に慕われていた。現在はもう崩され海へ埋め立てされたためなくなったが、稲穂5丁目あたりには石切山があり、細工場で働いていたと記憶する。手宮には当時2人しか在日韓国人はいなかったという。

・孫愛連さん
 孫さんは夫が在日二世であり、孫さん自身も韓国人である。1981年に札幌に住む在日韓国人の方と結婚するために日本に来たという。夫は兄とともにパチンコ屋を経営しており、20年前から銭函に住み始めた。夫の時代はいじめがあり、在日韓国人であることを隠したかったというが今では隠さなくなったという。初めて日本に来て、本音と建前に戸惑ったそうだが、今では日本の友達とキムチと粕漬けを交換したり、また民団婦人会の会長として日本人に韓国料理を教えたりしている。

・柳和江さん
柳和江さんは、東京生まれ、東京育ちの日本人であるが、夫が在日1世だった。柳さんの夫は1925年生まれ(大正14年)、釜山出身でエリートの家系で育つ。昭和14年、東京の学校に兄が通っていたため自分もそのつもりで日本へ行くが、阪神間に友人がいるということで結局そこでしばらく暮らすことになる。戦争が始まり徴用にも行くが、こき使われ、馬鹿にされて逃げて隠れた。そしてその先で神戸の風呂屋で釜焚きの仕事をした。「ぼんさん(関西弁で息子、坊ちゃんなどと言う意味)」と言われてかわいがられ、煙突掃除をするとごちそうをくれた。煙突には体の細い人しか入れないため、自分しか入れなかったからだ。風呂屋の経営者は良い人だったというが、その家族とは別の食事で粗末なものだったりと差別もあった。
 その後一度韓国へ帰るが、再び密航で広島へ渡った。転々としたのち、友人のいる北海道へ行った。米軍の品(砂糖など)を買い、それを札幌の闇市で売って生活した。これで儲け、次は芸能界の楽団を持って全国を回った。この時にご飯には切符が必要だったため、楽団に配られた食券をまた闇市で売って利益を得た。切符が必要なくなると、次は「小樽電家社」「旭川電家社」と家電電器屋を始め、テレビなどの欠陥品を安売りで売りに来るものを買い取り、それを売った。初めは安いし、よく売れたのだが、消耗品ではないのでだんだん売れなくなっていった。その時旭川にいた友人言われ、少しの間弟子入りし、焼肉屋を開いた。「春香園」という名前で20年間続けたが、やめて別の人に譲り、その後は旅行に行きいろいろまわった。
また、自分は学校に行かなかったので子どもたちには教育をしっかり受けさせた。日本人でもなく、韓国人でもないという悩みもあったという。
 
・柳秀子さん
柳秀子さんは、柳和江さんの娘である。現在日本人の方と結婚し、中学生と、社会人の子どももいる。生まれてからずっと小樽にいるが日本人と変わりない生活をしていた。父が在日韓国人であるが学校でも特に差別などはなかったという。しかし、一つエピソードを話してくれたが、春に父が韓国に行くことが多く、よく朝鮮人参をお土産として持って帰ってきていたそうだが、それを飲んだ時に限って、ちょうど家庭訪問の時期が重なり、先生にくさがられたこともあるそうだ。

・岩本静香さん
 岩本さんは夫(李鍾杰さん)が在日一世であった。李鍾杰さんは大正12年生まれで釜山密陽出身である。昭和18年、畑仕事中トラックで連れて行かれ、北海道に行くことになる。その時一緒にいた李さんのいとこに許可を得て連れて行ったそうだが、当時は近所に住む人も急にいなくなったり、勝手に連れていかれた人が多かった。李さんは炭鉱ではなく、兵隊として連れて行かれ、真っ暗な汽車に揺られ、着いたところは室蘭だった。それから鉄工所で働かされ、過酷な労働なため朝起きられず木刀などで叩かれたりもした。このときに「岩本鍾太郎」と名前をつけられた。その後は滝川の工場で働いたり、同町で防空壕掘りをさせられたりした。そして室蘭で終戦を迎えた。帰国することもできたが北海道に残った李さんは、同町で雑品屋として働き、病気を患った友人を助けるために必死で働いた。その後釘師となり、パチンコ屋で務めた。そして北海道余市に金魚、小鳥ショップ&ゲームセンター「甲子圓」を経営した。岩本さんは今でも近所の人に、名字ではなく「甲子圓さん」と呼ばれているという。 



第3章 小樽と民団

(1)民団とは
 民団とは、「在日大韓民国民団」の略称であり、「在日同胞の 在日同胞による 在日同胞のための生活者団体」を基にして、1946年に創立された。各都道府県に地方本部が置かれており、現在北海道には12支部設置されている。

(2)民団小樽支部
 民団小樽支部小樽市の色内一丁目にある。

写真2 色内1丁目にある民団小樽支部

写真3 民団小樽支部 正面。
 2階では韓国語講座が行われている。ここに事務所を構えるまではビルの一角を借りたりして転々としていた。駅前の道路拡張のために立ち退きを余儀なくされ、それをきっかけに今の場所に事務所を建てた。また、小樽支部では小樽市だけでなく、後志管内(倶知安ニセコ、余一)を管轄している。主な活動は韓国語講座、パターゴルフ会、月1回の婦人会の集まり、料理講座、団費の集金(1000円以上で決まった額はない。)などである。札幌から講師を招いている韓国語講座では、現在受講生のほとんどが日本人であったり、パターゴルフ会には管轄している警察官の方も交えて行っていたりして、日本人も気兼ねなく参加できる場がある。
現在、小樽市全体もそうであるが、小樽在住の在日韓国人の人口が少なく、高齢化も進んでいる。そのため、あまり大きな活動はできない状態であり、札幌にある本部からの指示で活動することがほとんどで、札幌との合併も考えられているという。

写真4 婦人会の方に作っていただいシッケ(韓国の甘酒)。

写真5 小樽支部は2010年で創立50周年を迎えた。

写真6 民団小樽支部の方たちと一緒に(左から柳秀子さん、孫愛連さん、金渠煥さん)。

まとめ

 現在小樽に住む在日韓国人の方たちは、集落などもつくらず、小樽市民として他の日本人たちと変わらない暮らしをしている。そして、戦後は多かった在日韓国人の数も、少子高齢化や小樽商業の衰退とともに減少してきていることもあり、今の小樽市民の人には在日韓国人の方がかつて小樽に大勢いたことやその生活などは知られていない。しかし、今でこそ笑顔で話してくれたが、今でもはっきり覚えているくらい一人一人には壮絶なライフヒストリーがあり、苦労をしてきていたことが分かった。また人生の先輩として、さまざまな壁を乗り越えてきた方たちの話は学ぶところが多く、今回の調査はとても貴重な経験となった。

謝辞

 今回の調査に際し、民団小樽支部の金渠煥さんはじめ、何度も電話で対応してくださった柳秀子さん、婦人会の皆さんには、お忙しい中ライフヒストリーなど大変貴重なお話をしていただきました。心からお礼申し上げます。

参考資料

桑原真人(昭和53年)「北海道における在日朝鮮人史」『近代民衆の記録10―在日朝鮮人―』新人物往来社
佐野眞一(2009)『誰も書けなかった石原慎太郎講談社文庫。
116回(平成21年)北海道統計書http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/920hsy/09
在日本大韓民国民団ホームページhttp://www.mindan.org/index.php

最後のガンガン部隊―小樽の行商人「吉田のおばあちゃん」の暮らしと思い―

大西佐和

はじめに

 ガンガン部隊とは昭和20年代末〜30年代に活躍した行商人である。ガンガン部隊が背負っていたブリキ缶の中には市場で仕入れた鮮魚や乾物が入っており、早朝から列車を使いそれらの商品を炭坑や地方に住む人々へ売りに行った。
目的地の駅に着くと、お得意先まわりが始まり、多くの魚介類をたくみにさばいてみせた。重いブリキ缶を背負い、前かがみに歩く姿には、母のたくましい姿があった。そのガンガン部隊は、昭和55年には姿を消したと考えられていた。
しかし今でも形を変えてガンガン部隊を受け継ぐ女性がいた。吉田月江さんである。
1人になった今でもガンガン部隊を続ける吉田さんと接触し、彼女の仕事に対する思いや彼女の夢を記述したいと思う。


写真1 ブリキ缶を背負うガンガン部隊

第1章 吉田さんとの出会い

(1)市場での情報
形を変えてガンガン部隊を今なお行っているという情報を入手し、接触するために市場へ行った。手宮市場へ頻繁に買い物に来るということで、手宮市場で待っていた。昭和のガンガン部隊は早朝から鮮魚を買っていた。吉田さんも新鮮な魚介類を買いに来るであろうと思い、朝から待っていたがなかなか現れない。市場の人に普段の吉田さんの様子を聞いてみた。頻度と時間帯に関しては、2日に1回、昼過ぎの15時から16時ぐらいに来ると教えてくれた。そして10分程度で素早く買い物を済ませ、毎回市場の近くの銭湯に行って帰るのだそうだ。どうやら手宮市場を拠点に動いているようである。

同じ小樽市に住むが、吉田さんの高島弁は聞き取りにくいと市場の人は言う。
来るたびに、商品を値切って店をまわるそうだ。市場の人はみな声をそろえて、吉田のおばあちゃんは元気でよくしゃべると言う。
しかし市場待っていても現れなかったので、吉田さんが住む高島へ行って家を訪問した。


写真2 手宮市場入口

(2)紹介
衰退したと考えられていたガンガン部隊であるが、形態を変えてガンガン部隊を一人で続ける人が存在した。
それが「吉田のおばあちゃん」である。吉田月江さん、75歳、高島に住みガンガン部隊を続けておられる方である。旦那さんと2人暮らしである。


写真3 吉田のおばあちゃん

玄関のチャイムを鳴らすと元気よくでて来られた吉田さん。急な訪問に笑顔で招き入れていただき、様々な話を聞かせていただいた。
「オレ忙しい。忙しい」とせわしく動かれながら、初対面の私に優しく対応してくださった。第一印象は「元気でよく話すおばあちゃん」であり、75歳とは思えない力強さを感じた。
昼前に訪問したのだが、今日は行商に行かないのか聞いたところ、「今日は忙しい」と答えられた。毎日市場に行くのではなく、必要があれば行くそうだ。
そして朝に行かない理由は、朝は家事で忙しいからであり、落ち着いた15時頃に行くそうだ。
次の章で吉田さんと接触したことを基に、形を変えてガンガン部隊を続ける吉田さんと、昭和を一世風靡したガンガン部隊を比較したいと思う。

第2章 吉田さんとガンガン部隊との比較

(1)持ち物
戦後のガンガン部隊はブリキ缶を持って歩いたが、吉田さんが持って歩いているのはブリキ缶ではなく「網のかご」である。

右の網かごは手持ち用のかごである。
左の網かは肩掛け用のかごで、肩から掛けられるように紐がついている。少し古くなっているように見えるが、紐自体は頑丈で重い物を入れても決してちぎれないそうだ。
白い段ボールに関しては、少ない荷物の時、大きなかごの中で商品を固定させるために入れている。


写真4 吉田さんが使用する網かご

しかし、今は左の肩掛け用のかごを使っていない。
肩掛け用のかごの代わりに吉田さんは「オレンジ色のリュック」を背負い、手持ちのかごを持って買い出しに行く。
写真5は市場でリュックを背負って買い物をしている写真である。このとき手持ちのかごは、市場のベンチに置き身軽に買い物をしている。
どうしてリュックを使うのか聞いた。
吉田さんは登山が好きだそうで、オレンジのリュックは登山用のもので使いやすいから使っていると言われた。使いやすさを重視しているそうだ。

それに対し、写真6が昔のガンガン部隊の格好である。ブリキ缶を2つとかごを持ち、軍手、長靴、頭巾、エプロンをつけ商売を行っていた。それに比べ吉田さんは、半そで、半ズボン、スニーカー、リュック、かごという現代に合わせた格好で商売を行っている。


写真5 オレンジのリュックを背負い買い物をする吉田さん


写真6 昭和時代のガンガン部隊の格好

(2)かごの中身
それでは次に中身についてであるが、吉田さんが入れているものは、基本的に新鮮な魚や乾物である。私が調査した日に手宮市場で買っていたのが、イカ、さば、めんどうふ、乾物、タコ、かまぼこ、鮭、卵、その他の魚などである。

それに対しガンガン部隊が運んでいたものは鮮魚、乾物、かまぼこ、豆腐、菓子、生活用品である。
吉田さんは生活用品を運んでいないが、当時のガンガン部隊が運んでいた鮮魚などは今も同じように運んでいる。
商品を運ぶ際の吉田さんの工夫について、暑い日はどうするのか?と聞いたところ、鮮魚を運ぶ際は氷をいっぱい入れて鮮度を保つと言われた。また食中毒などの危険を防ぐため、刺身などの生ものは、できるだけ冷凍のものを買うようにしていると言われた。
ガンガン部隊も、吉田さんと同じように商品の鮮度を保つため暑い日は氷をいっぱいにいれていた。鮮度の良い商品を保つ工夫は変わらない点である。

3)市場での様子
①まず市場に着くと荷物を置く
②歩きながら気になった商品を手に取り、すぐにお店の人に取り置きしてもらう
③それを各店で行いながら端から端まで歩く
④そして往復してくる際にお金を払い、商品をもらう
これを3〜4回繰り返していた。
歩いているときも、商品をみているときも、常にしゃべっている。この魚は新鮮かどうか。値段はいくらかなどを店主と話しているのだ。


写真7 店主と話しながら買い物をする様子

驚いたのは、買うスピードの速さと見極める目である。素早く鮮度の良い商品を選んでいた。
買い物をしている姿が写真7と8である。商品を選ぶ目は真剣である。
写真7は店の人と話をしながら商品を買っている最中である。
写真8は市場の端の店で商品を買い終えたところである。


写真8 市場の端まで来て買い物を終えた様子

(3)行動範囲・役割・手段
<吉田さん>
行動範囲
今は手宮市場で商品を買っているが、昔は手宮市場だけではなく他の市場にも商品を買いに行っていたが。しかし足の手術をしてから長い距離を歩けなくなったそうだ。昔は多くの家へ鮮魚を届けることができたが今は高島地区の家だけに販売している。
役割
近所(高島)に住む高齢者で、自由に買い物を行けない人から頼まれたものだけを買っている。その数は15件程度である。そこに住むお年寄りは、どこか不自由な部分を抱えている。商品を大量に買って、売りさばくというよりは、頼まれたものだけを買いに行く。
車を運転できず、足が不自由な高齢者にとって吉田さんの役割は非常に大きいと言える。
手段
高島から手宮市場までは徒歩とバスを利用している。

<ガンガン部隊>
行動範囲
小樽市内を含め岩内、余市、札幌といった場所まで行き商売をしていた。
役割
市場で買った新鮮な魚を地方の得意先へ届ける役目を担っていた。
手段
今は使われていないが手宮線を使っていた。日本国有鉄道が運営した線路で南小樽から手宮駅をつないでいた。

昔のガンガン部隊と比べ吉田さんの行動範囲は高島地区に狭まり、頼まれたものを代わりに買いにいく役割であるが、待っている得意先に新鮮な商品を届けたいという気持ちはガンガン部隊と同じである。

第3章 高島と吉田さん
(1)吉田さんの夢
過去はほとんど語られないが今の思いを答えてくださった。
吉田さんを継ぐ人がいないことに関してどう思うか聞いた。
それに対し、継ぐ人がいないのは寂しいが待っている人のために一人でも続けてきた。と答えられた。
今の若い人は車を持ち大型スーパーまですぐに行けるが、足の不自由なお年寄りはそうはいかない。その人たちが待っているから頑張っていると言われた。

そして夢があるか聞いてみた。
吉田さんは「マザーテレサ」になりたいと言われながら、マザーテレサの載った雑誌を大事そうに持って来られた。困っている人を助けるために世界を歩きたいと言われた。今まで数多くの苦労や困難は「希望」「気迫」「工夫」「感謝」の言葉を胸に秘め、信じ生きてきたという。マザーテレサのようになりたくて、行商で稼いだお金は貧しい子ども達に寄付していると言われ、今まで寄付した領収書を見せてくださった。それもかなりの数であった。
今後もマザーテレサのようになりたいという思いを胸に秘めながら、行商を行い、寄付も続けていくそうである。

(2)周りから見た吉田さん
小林ハツさん 大正9年生まれの90歳である。この方は吉田さんの家のすぐ近くに住んでおられ、吉田さんと親しくされている。吉田さんが小林さんの家を訪れた時、いきなり玄関から部屋まで入って行った。チャイムなど押さず入って行かれた。それぐらい普段から親しいそうだ。
小林さんに吉田さんのことを聞いた。吉田さんは働き者で、冬も半そでで歩くぐらい元気だと教えてくださった。
小林さんは、高島地域についてこう言われた。「高島はみんな家族だから、私はホームに行く必要がないの。毎日吉田さんや高島の人が見に来てくれるから、寂しくないし、世間でよくある孤独死は高島ではないの」と言われた。


写真9 小林ハツさん

高島は隣人同士のつながりが強く、外部の人を見かけたらすぐに外部の人だと分かるほどである。そのような地区で、吉田さんの行う仕事は、単に商品を売るだけではなく、買う人が元気かどうかを見る重要な役割を担っていると感じた。高島地区には独特で深いつながりがあると感じた。

最後に
今も一人で歩き行商を行っている吉田さん。昔のガンガン部隊と比べると行動範囲も狭まり形を変えているが、人から必要とされていることは間違いない。体が不自由なお年寄りのために歩く吉田さんの自分の仕事にかける思いが伝わってきた。
今日もまた手宮市場に出向き、必要なものを入手し、銭湯へよって高島へ帰る。このようにして、人の役に立っているのであると感じた。ガンガン部隊の女性が重い荷物で腰が曲がっていたように、吉田さんの腰も曲がり前かがみである。
しかし、75歳と思えない力強い足取りから、昭和に一世風靡したガンガン部隊を浮かべることができた。
力強い一歩一歩は、大切な人のために動いているように思う。


写真10 買い物を済ませ強い足取りで歩く様子

謝辞

調査にあたって吉田月江さん、小林ハツさんのお宅に訪問させていただき、お忙しい中お話を聞かせていただきました。またお忙しい中、手宮市場で働く方々、小樽市総合博物館の石川直章先生が協力してくださいました。初対面でありながら時間をかけて温かく応対してくださったことに心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

<参考文献>
荒巻 孚 1984『北の港町小樽 都市の診断と小樽運河古今書院

「小樽―まちなみの記憶―」北海道映像記憶制作DVD

小樽まつり―神社のまつりとまちのまつり

中川 保代

はじめに

 小樽市には約16の神社がある。毎年5月中旬から各神社で毎週のように例大祭が行われ、なかでも水天宮神社、龍宮神社、小樽総鎮守住吉神社例大祭は小樽三大祭りと呼ばれている。三大祭りのトリを務める住吉神社例大祭は毎年7月14日、15日、16日に行われ通称「小樽まつり」と呼ばれ世代を超えて多くの人でにぎわう。
一方で地域の活性化を目的として作られた「おたる潮まつり」は毎年7月の最終週の金・土・日曜日に行われ、こちらも小樽市を代表とするまつりとして毎年大きな盛り上がりをみせている。
本研究では、「小樽まつり」として古来より地域の守護安全を祈願し続けている神社のまつり「住吉神社例大祭」とまちのまつり「おたる潮まつり」について取り上げ時代のなかで変化するまつりとそこに携わる人々や環境を読み解いていく。

1章  小樽総鎮守住吉神社例大祭

(1)小樽総鎮守住吉神社の御由緒
 
 元治元年(1864年箱館八幡宮神主菊池重賢より「ヲタルナイ」「タカシマ」両場所の総鎮守として、住吉大神を勧請すべく箱館奉行所に出願し寺社奉行所掛合い済みの上、慶応元年6月ヲタルナイ運上屋の最寄りの地へ勧請奉祓する事を許された。慶応2年、本陣付近に適当な社地の下付方を願い出、幕府はヲタルナイ役所詰の幕吏に命じて小樽港へ入港する所船に賦役して本陣下の渚汀の埋立てを行い、社地を造成する事とした。明治元年御神体は社人加藤右京に譲られて箱館を発向し、同年8月3日到着、御鎮座祭ならびに「ヲタルナイ」「タカシマ」両場所の静謐記念祭を執行した。同年厳島社から量徳町二十八番地に移転、明治八年郷社に列格。従来、墨江神社と称していたが明治25年1月住吉神社と改称した。
 明治31年6月現地への遷座の許可を得て、翌32年造営がなった。明治39年11月県社に昇格、昭和30年神社本庁別表神社に指定され、同46年7月鎮座百年を記念して社殿を改築した。平成9年鎮座百三十年を記念して、道内最大級の神輿「百貫神輿」の修復をした。平成19年鎮座百四十年を記念して、神輿五基・馬車一台を奉安する神輿蔵を建設した。

 例大祭(通称 小樽まつり)
 明治、大正時代は札幌と函館とともに北海道三大例祭の一つに列された住吉神社例大祭
「五穀豊穣・産業繁栄・市内平安」を祈る例大祭は7月14日・15日・16日の3日間、全市的な盛り上がりの中、盛大に斎行される。特に神社周辺では数多くの露店が立ち並び、15日夜の「百貫神輿御幸渡御」や、明治21年から伝わる「太々神楽奉納」など老若男女氏子の心が一つとなり、小樽人魂を垣間見ることが出来る。
(以上は2010年9月15日訪問時にいただいた小樽総鎮守住吉神社のパンフレットより)

(2)なぜ「小樽まつり」と呼ばれたのか
 数多く存在する神社の例大祭の中でなぜ住吉神社例大祭が「小樽まつり」と呼ばれるようになったのだろうか。小樽総鎮守住吉神社へ訪問しお話しを伺った。

宮司星野昭雄氏の語りより

北海道開拓使の政策
当神社は北海道内の神社の社格としては第3番目の地位にあります。筆頭は北海道神宮、第2位は函館八幡宮です。昭和20年まで神社は国の管理下にありました。6月15日は北海道神宮、7月15日は当神社、8月15日函館八幡宮と北海道の一番良い時期6月から8月の15日に三大神社の例祭日を開拓使庁が意図的に当てたと思います。明治・大正時代、この3つの例祭を北海道三大祭りと称しておりました。
② 小樽経済状況による
明治大正時代の小樽市経済、年内で一番繁忙していたのが6月から7月にかけてといわれております。此れは、北前船が荷を降ろし、鰊から加工されたミガキ、油、糟などを積み込等、景気、取引売高が一番良い時期とも言われております。町として一番景気が良い時期に大規模の例祭を行うことが、また新たな社会純益をもたらすと考えがあったと思います。
③ 風俗的としての考え
その町を代表する例祭を「◎◎祭り」と称しております。(余市や岩内も)北海道神宮も昭和39年までは札幌神社でありました。必然的に町を代表する神社の例祭を、市町村の名前を取って言われたものと思います。

 権禰宜川端克征氏の語りより
「明治中期ごろに地域の人々から自然と小樽まつりと言われるようになったと思われます。それほど例大祭は当時の人々にとって馴染み深いものだったと思います。」

 以上の語りに加え様々な文献などの情報からも同様の内容を読み取ることができ、昔から市民の人々にとって住吉神社例大祭は「小樽を代表するまつり」として親しまれていたようである。
そこで市民約30人に「小樽まつり」のことについてお話を伺った。私が「小樽まつりについて伺いたい」と尋ねると驚くべきことに必ず人々の一言目が
「おたる潮まつり」のことですか?
という返答が返ってきた。話しを進めると、おたる潮まつりは花火やイベント、観光客も多く非常に盛り上がる夏の風物詩の一つになっているとのことであった。住吉神社例大祭のことを伺うと「住吉さん」や「例大祭」などおっしゃられて、通称とされている「小樽まつり」という言葉を聞くことはなかった。更に話を進めていくと、以下のような語りがあった。

「昔はよく行ったけど、今はあまり行かない。昔の例大祭に比べて今はどこか寂しくなった気がする。おたる潮まつりは毎年市外からたくさんの人が来てイベントとかしていて非常ににぎやかだね。」(80代女性)
「今の例大祭より昔の例大祭の方がとてもにぎやかで楽しかった。潮まつりは毎年花火が上がったりして毎年孫が楽しみにしている。」(70代女性)
 ここで2つの疑問が浮かんだ。1つは、現在、市民にとっての「小樽まつり」とはおたる潮まつりの認識が強いのではないだろうか。そしてもう1つは昔の例大祭を知る人々の意見から、昔と現在の例大祭には一体どのような違いがあったのだろうか。そこで、2章では戦前から現代まで時代に沿って住吉神社例大祭の変遷を辿り、研究を進めることにする。

2章 時代とともに変化する住吉神社例大祭

(1)戦前(明治初期〜1945年ごろまで)
 小樽住吉神社例大祭の特徴は「御神輿、奴行列、御神馬」である。御神輿は大正時代中期に作成された百貫神輿(重さ約375キロ以上、幅が約1.6m、高さは約2m)、海上神輿と2基の宮神輿があった。当時小樽ではニシン漁が盛んだったため、人夫などの力に自信がある人が中心に神輿を担いでいた。なかでも海上神輿は特徴がある。ハシケと神輿に4つの足をはめる仕掛けがあり波が来ても固定され渡御出来るようになっている。そして神輿をハシケに乗せて、銭函張碓の沿岸で、7月14日の夕方から16日までの3日間行われた。ハシケで色内を出発し、祝津を経由し、銭函のお旅所で1泊する。15日は張碓に向けて出発し、その後朝里、東小樽、手宮と渡御、手宮のお旅所で1泊し、16日は再乗船してオタモイの幸町まで行った。海上神輿を通して神様に豊漁を感謝し、祈願していたようである。また陸上渡御では各町内会の若者が担い、ある町内会から次の町内会へと神輿が受け継がれて小樽市の隅から隅まで神輿渡御を行った。

(鄯)当時の住吉神社例大祭の参加者―越後久司氏の語り
 また住吉神社の近くにある花園町では当時「喧嘩神輿」が行われ町神輿を担ぎ例大祭の筆頭を飾っていた。当時「喧嘩神輿」に参加されていた越後久司氏に当時のお話を伺った。

例大祭が行われる3日間はもうドンチャン騒ぎでした。この3日間は神様と人間が一緒になり、神様が乗っている神輿をまつり好きの力自慢が集まって全力で担ぎました。また町内では町内会への寄付金が少ない人や消極的な人の家の前に神輿を置いたり、神輿を回したりして困らせ、寄付金を払わせたりしました。そうすることで町内を清めていました。本当ににぎやかだったのですが怪我人も出ました。神輿の上に乗るなどして神様に罰が当たるような行為をした人にはひどい怪我をしていましたが、そんなことをしなければ無茶をしても不思議とそこまでひどい怪我はなかったんです。きっと神様が守って下さっていたのだと思います。私にとって神輿を担ぐことは本当に誇りを持っていました。また奴行列ではお化粧した奴さんや行列の道案内役に天狗の面を付けた猿田彦、そして御神馬は幕を張っている商店に入って1年の繁盛を祈ったり、馬が境内の階段を駆けあがったりと日常生活とは全く違う世界が広がっていました。例大祭は1年の中での楽しみでした。」

 当時を振り返りながらとても楽しそうに話されている姿に、当時の楽しそうな雰囲気を想像することができ、感じることが出来た。またお話しの中には当時の神様に対する市民の敬意を表す行動を伺うことが出来た。
「当時、渡御のときに自分たちの家の前に来ると市民は神様を見下ろすことのないように2階にいる人は下に降りて神様より低い位置で見ていました。しかし、時代の変化とともにマンションなど高層建造物が増えそのような習慣は自然になくなり神様や神輿に対する人々の関心が昔に比べ薄くなったように感じます。また喧嘩神輿で使われていた神輿(四神神輿)も担ぎ手が不足し破損もひどく住吉神社へ町会から寄贈しました。」

 当時の人々にとって神様は身近な存在であり例大祭は1年の中で特別な日であった。また神輿を担ぐことに誇りを持ち盛大に行われていたようである。当時の例大祭を知る市民の方にもお話しを伺った。

「昔は露店が非常に多かった。歩いても歩いてもどこまでも続いてる気がしていて本当に楽しかった。」(80代女性)
「1年の中で例大祭の日は気持ちが高ぶって本当に楽しみで、家に食事と寝に帰るくらいでずっと外に出て露店を楽しんでいた。また歩いているとたくさんの人々に会えることが嬉しかったし楽しみだった。」(70代女性)

 以上のことから、当時の人々にとって住吉神社例大祭は神様に感謝をする大切な行事であった。そして神輿を担ぐことで町内を清める重要な役割を果たし町内の活性化をも担っていた。また神輿以外にも露店やにぎやかな雰囲気は1年の中で人々の楽しみの一つだったことを感じることが出来た。

(2)戦後(1945年〜1975年ごろ)
GHQ神道指令により神道が廃止され住吉神社も影響を受け、神輿を担ぐ環境などが失われた。更に戦後の小樽市内の人口、経済の動きが著しく変化し例大祭に大きな影響を及ぼすことになる。また、海上渡御は1963年から行われなくなり各町内会で行っていた陸上渡御もトラックへ変更され、露店も交通規制などの影響で縮小された。このように例大祭は時代とともに大きく変化をしていく。研究を進めていく中でわかった主な変化を以下にまとめる。

(鄯)小樽から札幌へ―人、モノ、金の流動
 戦後、小樽の人口、モノ、金が徐々に札幌へと移り変わっていく。終戦により、小樽の経済基盤が回復したが戦後の太平洋岸重視の政策により経済が日本海側から太平洋側へと移る。1956年ごろから在樽商社などの撤退が始まり、1961年には八行の都市銀行等が撤退した。そして特に1963年ごろから列車が札幌起点になった影響により札幌移動が始まった。このように経済が動き始めると人の動きも次第に動き始めた。小樽市の人口の変化は
1955年は18万8448人、1960年19万8511人、1963年20万6660人、1965年19万6771人、1975年18万4406人(小樽市史:1993:20、1994:26参照)
と1963年をピークに減少傾向に変化したのである。

 伴天や提灯などまつりに使用される道具等を製作し、戦後の小樽や神輿の復活、またおたる潮まつりなどに携わっておられる旗イトウ製作所伊藤一郎氏にお話しを伺った。

「1年の楽しみといえば、お正月、盆暮れ、花見、運動会、まつりでした。例大祭は市民全体が交流する場であったしまた戦後は引揚者の市場や備蓄米や生ゴム、バナナを運ぶハシケの浜人夫さんも多く本当にたくさんの人でにぎわいました。そのようなにぎやかな雰囲気が戦争で傷ついた人々の癒していた部分もあったと思います。また小樽は戦時中大きな爆撃にあっておらず成り金がまだ健在で、そのせいか露天商が全国から集まり花園から奥沢へ国道5号線沿いに立ち並び恐ろしいくらい威勢が良く、小樽全体が元気でした。しかし、経済が札幌へ移ると人口も移動するようになりました。1963年頃は集団就職で1000人程、毎年小樽に迎えていたのに翌年から1000人単位で見送る側になりました。」

 お話しを伺うなかで、まつりが人々に癒しを提供し、戦後のまちを元気づけ1年の中でとても大切な行事であることを感じた。同時に当時の人口の移り変わりの激しさを実感した。

(鄱)監視の強化と露店の減少
 経済の衰退とともに周りの制度や環境も変わっていく。商店街で小樽酒商たかのを営んでおられ、当時から例大祭やまちの変化を見てこられた高野泰光氏は語る。

「1975年ごろから学校などが子どもへの教育にうるさくなり始めたように思う。昔からまつりには喧嘩や酔っ払いがいることが普通であったし、それがまつりの付物みたいなところがあった。しかし、夜回りなど警備が厳しくなると昔のようなにぎやかさは無くなっていったのではないかな。また子どもたちの娯楽が昔はまつりぐらいしかなかったけど今はゲームやカラオケなど娯楽施設も多くなったために子どもたちのまつりへの関心も昔に比べて薄くなってきていると感じる。交通規制や警備の強化から露店の出店場所も国道から境内へ移動し縮小したし色々なことからまつりのにぎやかさは失われたように感じます。」

 1975年ごろから学校改正が活発になる小中校長会、教頭会、PTA全国協議会など八団体が「日本教育会」を結成し、「教育の正常化」を提唱で、今まで以上に親や教師が教育を厳しくし始めた。またかつては例大祭の日は学校の休日であったのが無くなり、また夜回りなどの監視や警備も強化し始めた。更に露店は交通規制等で減少していく。時代の変化から今までまつりの楽しみとされていた部分が消えていってしまったようである。

 そして主催者側の視点から当時の例大祭について星野氏に伺った。

「人口や経済の動きは例大祭にも大きく影響しました。人々が札幌に流れ人口の減少から町内会が機能しなくなり港の衰退で力が強い人夫さんも減少しました。その影響から渡御が人の手では出来なくなりトラックに神輿を乗せて渡御をするようになりました。」

 人口の減少は例大祭に大きく影響したようである。日程を人が集まる週末に変更されないのか伺うと

「我々にとって例大祭はあくまで神様のためであり簡単に変更することは出来ない。」

と断言された。
 私の人が集まりさえすれば例大祭が昔のように行われるという考えは浅はかだった。私は研究を進めていく中でいつの間にか例大祭の周りで起こっている環境の変化しか見ることが出来ず、例大祭の本来の意味を見失っていた。時代の変化で周りの環境は変化していくがいつの時代も本来の意味である「神様」への祝祭であることは変わらないのである。


(鄴)現代(1975年以降〜)
 これまでのお話しや研究から戦後の例大祭は時代の大きな変化により戦前のような盛り上がりは失われまた小樽市全体の活気も無くなっていった。また人々の神様や神輿への想いも昔に比べ関心が薄くなってしまったようである。このような状況の中で市民の人々が自分たちで小樽を盛り上げたいという想いから地域活性化を目指しておたる潮まつりが企画され、そのおたる潮まつりで1982年には戦後担がれず眠っていた百貫神輿が担がれるようになった。当時を伊藤氏は語る。

「たくさんの人々の担ぎ手が全道から集まって復活しました。担いでいる人たちの衣装は柔道着や伴天などバラバラでしたし、神輿も修理を条件に貸出して頂きました。」

 この後に百貫神輿の修復作業が行われ1997年に完全復活を遂げた。神輿に使用されている飾りは小樽の神仏具職人の方々が精魂こめて作られ磨きをかけるなど立派に再生された。現在は例大祭に全道からみこし会や例大祭の参加者が担ぐ。毎年例大祭住吉神社での行事等を運営や支援していらっしゃる住吉神社氏子青年会会長小西誠一氏は語る。

「毎年13日から準備を始め当日は渡御や神輿の組み立て等と忙しくしています。14日は四神神輿を一般人の希望者約150人が自由に担ぐのですが最近は海外の人もたくさんおられます。また15日は百貫神輿を全道から約500人のみこし会の人々によって担がれます。どこのみこし会かわからないほど非常に多くの人々が集まり皆さん本当にまつり好きでにぎやかです。時代が変化し、昔に比べて世代の変化から神様や神輿が昔に比べ人々との距離があるように感じています。しかし現在は例大祭を通して多くの人が神輿と触れ合うことで町と神社との仲介役としてこれからも大切にしていきたいですね。」

 戦前・戦後を経て小樽市が人、モノ、金で大きく変化し、また例大祭も大きな影響を受けた。戦前は市民が神様や神輿へ特別な想いがあったが、戦後になると例大祭を支えていた人々が減少し渡御も人からトラックになるなど神様や神輿と人々との関係は戦前に比べて薄くなりつつあった。しかし市民自らが小樽を元気にさせたいという想いから百貫神輿が復活し今では毎年多くの人によって担がれている。
そしてこれまでの話しでも多く取り上げられたおたる潮まつりも市民自らの声などで誕生し地域活性化を目的にしたまつりである。3章ではまちのまつり「おたる潮まつり」の背景を追っていく。

3章 おたる潮まつり

(1) おたる潮まつり誕生までのイベント史

(鄯)みなと小樽商工観光まつり
昭和31年の北海道博覧会小樽会場での成功から今後の小樽の活性化と観光事業の振興を図るための方策を検討すべき声が多かった。従来夏の行事として「港まつり」(昭和25年第1回)「復活全国花火大会」(昭和28年第1回)「北海道工業品共進会」(昭和25年第1回)、また「物産展」など外来客誘致のシーズンである盛夏に集中して実施する声が多く企画されたのがこの祭りであり昭和34年から昭和41年まで8回連続続き、小樽の商工業の宣伝に貢献した。
(鄱)みなと小樽商工観光まつりの反省と再出発―潮まつりへ
しかし市民の総体的評価は「総花式の行事のオンパレード」「小樽の特徴が生かされていない」などきめ手を欠いたまつりに批判の声も多かった。
小樽商工観光まつりの準備委員会でも転機を乗り越えようという意見で一致し、マンネリ化した頭を切り替える必要があるとして、「潮まつり」が開催された。
(鄴)おたる潮まつり
趣旨は、小樽市は三方を山に囲まれた天然の良港によって、繁栄の基礎が築かれてきたが、今日急速な時代の進展に即応して、港は新たな体制を整えることによって、将来に向かって一大飛躍を遂げるものであると考えられる。
「潮まつり」はこうした時点にたって、小樽の経済発展の原動力となる海への20万市民の限りない感謝の心を、誇りと願いを率直に表す祭りとするとともに、海、山、温泉と多彩な観光資源に恵まれているわがまち小樽を内外に大々的に宣伝し、多くの観光動員を図ることである。構想は小樽の特異性を生かし、長期的な発展を期することができるもの、行事は総花的でなく、「潮まつり」を中心行事に決定して焦点に置く。街ぐるみ、老若男女20万市民が一体となって楽しめるもの。以上3つの観点を基本にまつりの構想をまとめた。
名前の由来は海に育ち、海に生きる小樽市民の燃えるような意気と気概を「潮」のしぶきのイメージで表現したもので、動的な流れ、いわば躍進する郷土の明日のために考えついた名称である。
小樽市総合博物館でいただいた資料と伊藤氏の語りより)

 当時を伊藤氏は語る。
「今まで例大祭は特定の篤志家が盛り上げてくれていたが、時代と共に小樽が衰退していくと、神社側から地域を盛り上げるという部分が弱くなっていました。1966年、小樽青年会議所OBが中心となり本州各地の復活祭やリオのカーニバルを分析し、市民の総力をあげた商業イベント型の潮まつりが考案されました。」
 2010年で44回目を迎えたおたる潮まつりは毎年7月の最終週の金・土・日曜日と人が集まりやすい日程に設定されている。内容は多様なイベントやコンサート、そしてメインの「潮ねりこみ」では小樽市内外の企業や団体などでチームを結成し、市街地を「おたる潮音頭」「潮おどり唄」を踊りながら練り歩き参加者は約6,000人(2009年)にも上る。
また約2500発の花火も打ち上げられ新たな小樽のシンボルとして毎年にぎわっている。来場数はここ10年間での最高は2006年の約125万人で2009年は最高には届かないまでも約94万人が訪れた。
市民の方におたる潮まつりについて伺った。
「毎年たくさんの人が訪れて花火も上がるしイベントもたくさんあるし本当に盛り上がる。」(50代男性)
「おたる潮まつりは夏の風物詩の一つで休日だから多くの人が来る。1年の中でも小樽が元気になる行事だね。」(40代男性)

「盛り上がる」「たくさんの人が来る」お話しを伺う中で皆さんが共通しておっしゃられていた言葉である。おたる潮まつりは市民にとって小樽市の欠かせない夏の風物詩になっており、小樽を代表とするまちのまつりであると感じることが出来た。そして今後のおたる潮まつりについて伊藤氏は語る。

「毎年多くの人が訪れて44年間続けることが出来た。しかし一方でマンネリ化とも聞くが、潮まつりは日々『新』を大切にしておりその伝統を毎年受け継いでいる。今後、新たなイベントを若者の英知を駆使しながらどんどん発信し実現してもらいたい。そして次世代により楽しいおたる潮まつりを受け継いでほしい。」

 まつりは時代の変化を受けやすい。そのなかでおたる潮まつりは今後どのように発展していくのだろうか。今後の動きに是非期待したい。

4章 まとめ
(1) 「小樽まつり」は小樽代表のまつりを表し、市内最大の神社である住吉神社例大祭の通称として明治の中期から呼ばれるようになった。しかし時代が変化し、新たに「おたる潮まつり」が誕生し夏の風物詩になると現代人には「おたる潮まつり」も「小樽まつり」であるという考えが定着したのではないかと考える。
(2) 2、3章から、まつりは人、モノ、金といった時代背景で大きく変化することを研究を通して実感した。しかし、まつりは形や内容が変化しながらもいつの時代でも市民にとって「楽しみの場」であり大切な行事である。

住吉神社例大祭」「おたる潮まつり」発祥や趣旨は異なる。しかし、今回の研究を通して「小樽を代表するまつり」であるこの2つのまつりは小樽の人々にとって「楽しみの場」になっており大きな支えになっているのである。

謝辞
本研究にあたり、小樽総鎮守住吉神社宮司星野昭雄氏、権禰宜川端克征氏、住吉神社氏子青年会会長小西誠一氏、旗イトウ製作所伊藤一郎氏、越後久司氏、小樽酒商たかの高野泰光氏、小樽市総合博物館石川直章先生、関西学院大学島村恭則教授、TAとして同行してくださった関西学院大学・大学院佐野市佳氏その他協力してくださった多くの方々に心よりお礼申し上げます。お忙しい時間を縫って、長時間にわたり親切に対応してくださり誠にありがとうございました。<参考文献>
小樽観光大学校(2006)『おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック』
柳田国男(1942)『日本の祭』弘文堂書房
松平斉光(1998)『祭』平凡社
小樽市(1963)『小樽市史 第二巻』
   (1993)『小樽市史 第七巻 行政編(上)』
   (1994)『小樽市史 第八巻 行政編(中)』
   (2000)『小樽市史 第十巻 社会経済編』
おたる潮まつり公式ウェブサイト http://otaru.ushiomatsuri.net/
北海道神輿協議会 http://www.h-mikoshi.jp/member/member.html
小樽ジャーナル(2009/04/07)http://otaru-journal.com/2009/04/0407-4.php
(2010/07/14)http://otaru-journal.com/2010/07/0714-2.php

鰊漁場の200年

岡本千佳
はじめに
 (1) 北海道では江戸時代の文化年間(1800年ごろ)から大正時代にかけて、鰊漁が盛んに行われていた。最も豊漁となった大正14年には、小樽だけで鰊の年間漁獲量7万5,000石を記録した。注:生鰊200貫(750kg)が1石
 収穫高の少なかった時代はアイヌの人たちの労働力だけで間に合っていたが、漁網や漁船が改良、漁そのものが大型化するにつれて水揚げも増し、労働力の増大、強化が必要となった。そこで奥羽などの漁師が、収穫の二割前後をその土地の場所請負人に収めることと引き換えに、自由に鰊漁を行う「追鰊」が行われるようになった。定住するようになった彼らは、蝦夷地への和人の進出の先陣であると言える。 
 鰊は当初食用として用いられた。その後江戸時代に人口が増大したことによって、西日本における米・綿・藍・菜種などの農産物の需要が拡大したため、これらの生産を促進させるための魚肥として重宝されるようになり、北前船によって日本海側や西日本を中心に広められた。
 (2) 漁期である3〜5月には、大群で押し寄せた鰊が放出した白子によって、海が白濁する「群来(くき)」と呼ばれる、様子が見られた。またその時期になると、東北地方から3カ月ほどだけ出稼ぎに来る「ヤン衆」と呼ばれる人々や、日雇いで集められた地元の農民が、網元の「親方」の住居である番屋に泊りこんで漁を手伝った。親方は漁場において栄華を極め、番屋はその大きさと立派さから後に「鰊御殿」と呼ばれるようになったことからも、その様子を窺うことができる。
また、このような大量の人と鰊の動きに伴い、鰊漁場には独特の文化が生まれたのである。
 

写真1)番屋には親方家族の住居部分と漁夫の生活空間が併設されている


写真2)親方たちは居室、漁夫たちは板の間で生活していた

 (3) しかし昭和30年頃を境に群来は途絶え、それまで賑わっていた鰊漁場は急激に衰退した。その原因については現在も不明であるが、
①海水温が上昇し、鰊は冷たい海を求め、北へと移動したため。
②産卵のために日本海に来ていた鰊の漁獲量を制限せず、乱獲を行ったため。
③北海道開拓のための森林伐採と海岸のコンクリート化により、鰊の餌となるプランクトンが減少したため。
という3つの要素が複合的に関係していると現在は考えられている。
しかし、ここ2、3年小規模ながら再び群来が見られるようになり、小樽の人々は当時の建築物や漁歌などを継承する活動を行い、漁の様子を後世に伝えるべく様々な活動に取り組んでいる。

第1章  忍路鰊漁場の記憶
 北海道の代表的な鰊漁場としてにぎわい、松前追分節にも「忍路、高島及びもないが」と唄われている、小樽市忍路で生まれ育った、3名のお話を以下にまとめる。
 (1) 三浦一郎さん、竹内肇さん、阿部繁雄さんからの聞き取り
◎3名の先代はもともとのアイヌ民ではなく、新潟、秋田、青森というように本州から北海道に移り住んできた人々である。また忍路には、滋賀県から毎年手伝いに来る漁夫や、徳島県出身の親方もおり、漁場の人々の出自は多様であった。
◎鰊漁の最盛期には学校は休みになった。子どもたちはモッコを背中に背負って網から落ちた鰊を拾ったり、年下の兄弟の世話をしたり、網の目に詰まった鰊の卵を取り除いたりするなど、子どもにもできる仕事を手伝った。またおやつに鰊の卵である数の子を食べることもあった。


写真3)背中に背負い鰊を運ぶモッコと呼ばれる道具
◎漁場は完全な縦割り社会で、そのトップは親方、そのあとに大船頭、下船頭、若い衆、炊事係と続
く。特に船頭の言うことは絶対で、親方もめったに船頭に指示をしなかったことから、それだけ船頭の責任は大きかった。また序列に伴い寝食の場所も定められていた。

写真4) 番屋の「板の間」の壁沿いにある漁夫の「寝台」(ねだい) 健康な若者が上
段を使用した
◎鰊漁は3〜5月ごろに最盛期を迎えるが、そのほかの時期はカレイやコウナゴ、ホッケの漁を行った。半農半漁の生活を送る人たちもいた。
◎生の鰊は粒鰊と呼ばれ、貨車で道内各地に運ばれた。一方鰊の多くは腹を抜いて背骨を取り除き乾燥させて「身欠き鰊」に加工された。大型のきれいなものは身欠きにされ、小型の崩れたものは、そのまま鰊釜と呼ばれる釜で煮上げられた後に絞られ、肥料粕にされた。身欠きの主な作り手は、女性を中心とした地元の人で、浜のあちこちに乾燥させるための干場が見られた。干場の下には鰊の身から油がしたたり落ちるため、大根や芋などを栽培した。

写真5)身欠き鰊の干場  出典:忍路鰊場の会(1994)創立20周年記念誌かもめのあしあと
身欠き鰊は蛋白質の含有が多い割に値段も安いことから、蒲焼や煮染、味噌煮など様々な方法で調理された。また腹もちもよく高カロリーであることから、野良仕事や山仕事の間食用として携帯された。

写真6)鰊の塩焼き
◎鰊漁場では鰊漁にまつわる様々な行事が行われた。漁に先立って3月15〜25日ごろには網下ろしが行われた。鰊の大漁と舟の海上安全を祈願すると同時に、漁夫の士気の鼓舞と出漁の前祝いとして宴会が催された。また2月の立春前日の豆まきは、鰊漁場では重要な行事だった。神棚に上げた大豆を主人が並べ、それぞれを忍路、祝津というように場所にあてはめ、燠で焼き、白く焼けると豊漁、黒く焼けると不漁というように考える「豆占い」を行った。
◎3月末ごろになると水温は摂氏6度くらいになり、群来が予想されるころになる。すると船頭は枠船の上で「さわり糸」を手にして、さわりの感触や鰊の量、周りの状態を判断し、若い衆に網起こしの指示を出す。そしていよいよ戦闘開始となる。そこから約3カ月にわたる、いわば「祭りのような戦争」が始まる。また建
網漁をスムーズに行うために欠かせなかったものが、いくつもの歌であり、よく知られるソーラン節のほかにも様々な漁歌が今に伝えられている。
◎昭和30年ごろ、突然群来が見られなくなり、漁場は急速に衰退していった。一部移築保存されたものを除いて、番屋の多くは壊され、忍路を離れ出稼ぎに出る人、カレイ、アワビ、タコ、ウニなどほかの漁に移る人、他業種に移る人など様々であった。


写真7)阿部繁雄さん、竹内肇さん、三浦一郎さん

 忍路の網元の親方の妻として、鰊漁場の華やかな時代を実際に見てこられた須摩さんのお話を以下にまとめる。
 (2)須摩トヨさんからの聞き取り
◎親方は高額納税者であったために、当時の貴族院選挙権を与えられ、その土地において大きな力を持っていた。網元が漁夫たちに賃金を支払う方法としては、給料制と歩合制が併用され、お金に余裕がある網元は給料制をとることが多かった。
◎親方の妻は基本的に漁には関与しなかった。番屋には炊事係がいて、出稼ぎ漁夫と共に来たその妻が担うこともあった。
◎出稼ぎにきた漁夫に対して「ヤン衆」、「鰊殺しの神様」という呼称があるが、実際の漁場では使用しなかった。「ヤン衆」の呼び名はソーラン節の“ヤーレン”、“雇い”、アイヌ語で網という意味の“ヤ”からきているなど、様々な由来が伝えられているが、俗称の意が込められているため、彼らを貴重な人材と考える親方たちは「若い衆」などと呼んだ。
◎鰊漁場の経営は大きな危険を伴う投機事業であり、当たれば巨額の利益を得ることができた。豊漁の年や、そうでなくても計画的な資金繰りを行う親方の生活は豪勢なものであったが、すぐに全財産を使い果たしてしまい、資金を他の親方に前借りして、次の鰊漁までの1年間を質素に過ごさなければならない親方もいた。

第2章 蛸漁師、小樽山の手の人々から見た鰊漁
 鰊漁は小樽の街に大きな経済効果をもたらし、様々な影響を与えたが、直接鰊漁に従事しなかった小樽の人の目には、鰊漁師たちはどのように写っていたのだろうか。現在は引退されたが、小樽築港付近でかつて蛸漁を行っていた池田栄次さん、小樽山の手で生まれ育った方のお話を以下にまとめる。
 (1)池田栄次さんのライフヒストリー
 大正17年小樽に生まれる。家は床屋であったが、尋常小学校4年生のころ、山形県酒田の親戚のもとで単身、漁を学ぶ。数年後東京に出たのち、志願兵として戦争に出兵する。敗戦後23歳で捕虜として広島に引き揚げ、昭和22年小樽築港で漁師を始める。小樽の親戚がかつて漁場としていた場所を引き継ぎ、漁を行っていたが、当初はよそ者扱いされるなど不遇な日々を送る。始めは櫓や櫂を使った人力の船で磯物漁を行っていたが、昭和30年ごろには電気チャカと呼ばれる車のエンジンのようなものを積載した船、昭和33年にはダイヤディーゼルなどが登場したことから、漁の内容も次第に変化し蛸漁を始めた。
 (2)蛸漁と鰊漁の違い、蛸漁師から見た鰊漁師
蛸は3〜10月が旬だが、時期によって漁場を移動することで、1年中行うことが可能な漁である。とくに池田さんは水温を計測したり、蛸にタグをつけて放流し蛸の動きを調べたり、また蛸つぼにも改良を重ねたりというように熱心に様々な研究を重ねた。


写真8)改良が重ねられた300×420×185の蛸つぼ

このように堅実に漁を行う蛸漁師にとって、かつての鰊漁師は1年分の稼ぎを春の数カ月間で得ることに賭ける、博打うちのように見えていたようである。
 (2)小樽山の手、旧手宮線沿いの色内で生まれ育った方のお話
戦争当時、食糧が不足したため、2,3日だけ干した鰊をよく食べていた。自転車で他人の家の軒先で干されている鰊をむしって食べたこともあった。鰊の記憶は食糧難だった戦時中の記憶に直結し、あまり思い出したくない。

第3章 祝津鰊漁場の記憶
 小樽市祝津の海のそばで、板垣フサさんは漁業と深くかかわりながら暮らしてこられた。幼少期の魚場での生活の記憶などのお話を以下にまとめる。
 (1) 板垣フサさんからの聞き取り
◎長女として学業よりも、漁に出る親に代わって弟たちの面倒をみることや、家事を手伝うことを優先していた。
◎春は一家総出で鰊の身欠き作業、夏は昆布漁、あるいは父親だけ出稼ぎで北見紋別にホタテ漁、冬場になるとシャコ漁に出向いた。
◎小学生の頃、家族のためにモッコに氷を入れて、寒くて暗い夜道を懸命に歩いたことを「氷」という題名で作文にすると、表彰され展示されることになり、とても嬉しかった。
◎子どもの頃、近所で強盗殺人事件がおこり、犯人は「ヤン衆」ではないかという噂が広まった。捜査のために血がついたカムチャッカナイフを警察官に見せられ、とても恐ろしかった。
◎漁協に就職し、タイプライターでの文章作成などを20年ほど任された。務めていた間とても忙しい日々を送った。
◎その後魚屋を開業した。


写真9)当時のエプロンを身につけてくださった板垣さん

第4章 鰊文化の継承
 昭和20年頃を境に大規模な群来は見られなくなり、かつての鰊漁の賑わいや漁の様子は人々の記憶から姿を消しつつあった。しかし近年の様々な研究や試みにより、少しずつ鰊の姿が海岸に再び見られるようになった。そればかりではなく、鰊漁の中で生まれた様々な文化も、多くの人の力で後世伝えられようとしており、またかつてのように鰊漁で街は賑やかになろうとしている。
 (1) 蕎麦屋「藪半」
 北前船によって小樽から京都に伝わった鰊は、鰊蕎麦として多くの人に食されるようになった。しかし、小樽には約40件の蕎麦屋があるにも関わらず、鰊蕎麦をメニューに出す蕎麦屋は当時1件もなかった。
 そこで鰊で小樽を活性化させようという「鰊プロジェクト」の一員で、蕎麦打ち5段の須藤さんが「群来蕎麦」を提案した。「群来蕎麦」とは身欠き鰊を入れる通常の鰊蕎麦に、野菜、海藻、数の子、そして群起に見立てたとろろを加えた、従来の一般的な鰊蕎麦とは異なる特徴的なメニューである。高コストであることやメニューを均一化させることへの懸念などから当初は支持が少なかったが、「藪半」の代表取締役の小川原さんの呼びかけで「群来蕎麦」は実現し、鰊のふるさと小樽の看板蕎麦となった。
 (2)「祝津たなげ会」
 「祝津たなげ会」は、観光資源や伝統文化の活用によって、小樽祝津の街を活性化させる取り組みを行っている団体である。使われなくなった番屋を改築し、人々が鰊漁の知識を深める場として活用、また毎年5月頃に「おたる祝津にしん祭」を行うなど、祝津を再び鰊の街とするべく地元の人々と協力し精力的に活動されている。


写真10)茨木家中出張番屋の隣の「にしん街道」の標柱
 (3)「忍路鰊場の会」
 鰊漁場で行われる様々な行事や、漁労にかかせなかった船漕ぎ歌、網おこし歌、沖揚げ音頭、子叩き音頭などの小樽市無形文化財に指定されている歌を保存し、後世に伝える活動を行っている団体である。忍路では夏祭りなどで、漁歌が披露される。
 以下は今回の調査中に、小樽市総合博物館で行われた鰊漁歌の公演の様子である。


写真11)船を漕ぐ際の掛け声から生まれた船漕ぎ歌の様子


写真12)鰊が入って重くなった網を引く際に息を合わせるために歌われる網起こし歌の様子


写真13)タモで鰊を舟に汲み上げる際の掛け声から生まれた沖揚げ音頭(ソーラン節)の様子


写真14)網に付着した鰊の卵(数の子)を叩き落す際に歌われる子叩き音頭の様子

おわりに
 江戸時代後期から昭和初期までの約200年間、小樽の祝津、高島、忍路などの町は、約3ヶ月の間集中的に、別名春告げ魚と呼ばれる鰊を獲る事で、ほぼ1年分の収入を得ていたことからも明らかなように、鰊漁に依拠した生活が成立していた。
 現在の東北地方を中心とした内地からの人の流入や、鰊輸送のための北前船の影響で、それまでになかった人や物の流れが発生した。また直接舟に乗るのは男の仕事であったが、女性や子どもも巻き込んで漁は行われ、鰊漁場ならではの生活習慣や文化も生まれた。
 鰊漁に対して抱いた思いは、立場や性別、年齢によって様々であるものの、小樽の人々の生活と小樽の街の歴史に大きな影響を与えた事は間違いない。
 鰊が獲れなくなった事により漁場は衰退し、独特の文化や鰊漁の記憶も失われるのかと思われたが、漁師に限らず町の人々が力を合わせて、積極的に後世に伝える活動を行うことで、今なお守り続けられている。

謝辞
調査にあたり、祝津たなげ会の渡部満事務局長、築港の池田英次氏、小樽市漁業協同組合の方々、蕎麦屋藪半の代表取締役で観光カリスマの小川原格氏、忍路場の会の三浦一郎氏、竹内肇氏、阿部繁雄氏、小樽市鰊御殿の小倉氏、祝津の板垣フサ氏、元忍路鰊場の会網元の須摩トヨ氏、須摩氏のご友人関アヤメ氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、優しく快く接してくださった小樽の方々、そして島村恭則教授、最後まで支えてくれた佐野さん、本当にありがとうございました。その他の協力、助言をしてくださった全ての方に心から感謝の意を表します。

参考文献一覧
須摩正敏 (1989) 『ヲショロ場所をめぐる人々』 静山社
内田五郎 (1978) 『鰊場物語』 北海道新聞
山内景樹 (2004) 『鰊来たか 「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄について』 かんぽう(政府刊行物)
朝日新聞・小樽通信局 (1989) 『小樽 坂と歴史の港町』 北海道教育社
小樽観光大学校運営委員会 (2007) 『おたる観光大学校認定検定試験公式ガイドブック』

小樽の印

岩本 悠
はじめに
 小樽と聞いて思いつくものと言えば、ガラス、運河などであろうか。しかし、それだけではない。小樽には印がある。印(しるし)は家の近くの酒屋や魚屋の看板にも見ることができるような、日本人には見慣れたマークであるが、小樽では実にたくさんの印をあちらこちらで発見することができる。私は印に興味を持ち、調査実習のテーマに定めた。本レポートは小樽の経済的な発展とともにあった印について調査し、まとめたものである。

第一章 印とは
1.一般的に印とは
印とは「他と紛れないように見分けるための心覚えとするもの。目じるし、紋所、記章の類。」(広辞苑より)とある。つまり印とは目で見てわかるマークのことを指す。代々伝わる家紋や会社の商標も印の一種であるといえる。

2.印の歴史
 日本では、平安時代中期に貴族が乗り物や衣服に自分のマークを入れた家紋が印の起源だと言われている。後の戦国時代には武将たちが戦で敵味方を区別する際にそれぞれの印を掲げ戦った。そして江戸時代になると、名字帯刀が許されていなかった商人が、自分の店と他の店とを区別するために独自の印を用いだした。

3.屋号との混同
 印は屋印、または家印とも言うが、一般的に印は屋号と認識されている。しかし印は屋号とは別物である。なぜなら印はマークで、屋号は呼び方だからである。話を伺った竹内勝治さんによると、越後屋のように「屋」がついているものこそが屋号であるから、印は屋号と混同するべきではないということであった。長い歴史の中で印が人々の間に定着し、印の呼び方が店の呼び方にまでになり、大きな役割を果たしていたことが、印と屋号が混同されてしまった理由のひとつではないかと思う。

第二章 印の世界
1.小樽の印
 小樽は明治時代から商業で栄えたまちで、今でも多くの商家や石蔵が点在し当時の繁栄を偲ぶことができる。印はそれらの外壁にも見られる。(写真1〜3)特に小樽の色内や堺町で多く残っている。商業の発展に伴って、同じ業種の商人が現れたために、自分の店と他の店を区別する必要があった。そのために用いられたのが印で、家や蔵の外壁、看板、暖簾、半てんなどに印をつけて店の証明としたのであった。



写真1 ヤマシチの印



写真2 イチマルの印



写真3 おもしろい印

2.印の種類
 印の作り方にはルールがなく、名前の一部を入れたものや、思いが込められたもの、また暖簾分けによって受け継がれたものなど様々である。(写真4)の読み方は「カネタマル」である。



写真4 カネタマルの印
これは古くから海産物商を営んでいる小町商店の印で、その名の通り「お金が貯まりますように」という願いが込められている。実にユニークだ。
 印には漢字の部首のように、意味の働きをするものがある。例えば△は魚のうろこを表したもので、魚屋に多い印である。明治10年に創業した越中屋旅館の印は「かねうろこ」である。(写真5)初代が廻船業を営んでいたことに由来する。



写真5 カネウロコの印

3.印の役割
印は店の信頼を象徴する役割もあった。現在でも伝統のある会社で社名に印をつけているところがある。それはまさに会社の歴史と信頼を表している。我々はどこの会社かわからないものより、歴史のある会社のものを求める傾向にある。消費者は信頼できるかどうかで会社を判断しているからだ。
 小樽のまちが商都として賑わっていた頃、商売が繁盛している店は背中にそろいの印を掲げた半纏(はんてん)を作ったそうだ。それを取引先に配り、出入りの際に着せていたという。自分の店の印半纏を着た人が多いほど、店が儲かっているのを示すことになったのだった。また大工の棟梁が贔屓筋の印半纏を重ねて身につけ、贔屓筋の多さを自慢していたのだった。印半纏は権威の象徴でもあったのである。
 (写真6)は明治27年ごろの小樽のまちの地図であるが、家が印で示されている。



写真6 印で示された地図
また大正13年版の電話帳(写真7)は、印の読み方で引けるようになっていた。



写真7 印の読み方で引ける電話帳
つまり人々は印を見て「これはどこの店の印か」ということがわかっていたのだ。また印の読み方が、店の呼び方になるぐらい、印は生活に根付いていたのである。それにしても、印の地図は爽快なほど印がずらっと並んでいる。デザインも様々でとてもおもしろい。当時の活気が伝わってくるようである。
 祝津などの漁師町では、印は船や鰊を背負うモッコと呼ばれる木の入れ物につけられていた。網には「アバ」と呼ばれる木板の浮きを付け、流されても誰の所有かわかるように印を焼印していたそうだ。

第三章 印の衰退
1.小樽のまちから消える印
 時代が変わるとともに、建物の改築や、長年の風雨による風化で読みづらくなってしまった印もある。建物は所有者が変わるために印を維持し続けることは困難なのだ。またひしめき合っていた商店も移転や廃業などで数が減り、印を持つ商店自体の減少、また現代における印の必要性の低さが、印がまちから消えゆく理由である。

2.印に対する思い
創始者から何代も経ている店の場合、自分の店の印の意味を知らない人が多い。また何軒かの商店で「印に対する誇りはお持ちか」という質問をしたところ、「持っていない」という答えが返ってきた。「家を継いだだけだから」という返事もあった。また創業時は印があった商店でも、今は使っていないところもある。ゆえに、全ての人がそうではないにしろ、現在の小樽の商人の印に対する思いは強くないと言えるだろう。ある方は印を受け継ぐということは、「店の歴史」を受け継ぐということであると話してくださった。歴史を引き継ぐことには相当な責任と苦労が伴う。それが印を受け継がない理由になっているのかもしれない。

第四章 印をめぐる人々
1.小樽市博物館ボランティアの人々
印が小樽のまちから消えつつあることに危機感を抱かれ、平成15年小樽市博物館は印が現在どのくらい残されているかを記録しておくために、ボランティアによる調査会を発足させた。調査は調査票(写真8)



写真8 調査票
を使って月2,3回、2名から3名で行われる。調査しやすいように、地域ごとに担当を割り振っている。基本的に調査は自分のペースで行う。首からはボランティアの証明カードを提げる。私は幸運にも博物館ボランティアの竹内勝治さんの調査に同行させてもらうことができた。方法はあらかじめ決めていた調査地域を、ひたすら歩き、印を見つけだすというものである。看板に印がある商店はもちろん、看板があがっていても商売をしていないところも訪ねる。そして調査の概要を説明し、聞き取り調査をする。留守の場合は日を改める。この日は「マルイチ」の印がある精肉店に入って話を伺った。この店は、子供が後を継がないという別の店から精肉店をひきついで、それと同時に「マルイチ」の印も受け継いだ。また、元々の屋号が「ひろや」で、印と屋号のそれぞれが今も受け継がれている。(写真9)



写真9 聞き取り調査中
竹内さんは細い路地やその奥も見逃さない。陰になっているような場所に印はひっそりと残っているからである。問題は、古くからの看板は残っているものの、商売は既にしていなかったり、建物の所有者が変わっていたりする場合の調査をどうするかということである。また印はいつまでもそこにあるとは限らない。風化、建物の建て替え、看板を下ろすなどで印の姿が少なくなりつつあるため調査が急がれる。ボランティアの方々の調査は継続中である。

2.祝津の印
 「祝津たなげ会」という会がある。祝津のまちを盛り上げよう、活性化させようと組織された。私は祝津たなげ会のメンバーである渡部さんにお話を伺うことができた。
小樽はかつてニシン漁で栄えたまちだ。明治30年ごろから大正時代までがニシン漁のピークだったと言われている。祝津は小樽の中心地からは孤立した集落である。石狩湾に突き出した祝津海岸は、有数の好漁場として繁栄した。現在でもニシンで財をなした人の立派な邸宅跡や、漁夫を住まわすための番屋が残されており、当時の繁栄ぶりを伝えてくれている。私はこの度、修復工事を経た茨木家中出張(なかでばり)番屋(写真10)で話を伺った。中はとても涼しく快適だった。天井は高く、立派な柱が組まれていたのが印象的だった。また漁夫の寝床が3段構造になっていておもしろかった。1段目と3段目が物置になっており、2段目で寝るようになっていた。梯子を上ったところにある、屋根裏部屋のようなスペースは、女中さんの部屋だということだった。



写真10 茨木家中出張番屋
二章でも少し述べたが、漁師は印を自分の道具にしるし、失くさないようにしていた。同じ名前の人が多かったことも印を必要とした理由である。その読み方が、その家の人の呼び名になっていた。現在でも、そのような風習が続いているという。また、漁師だけでなく、風呂屋などの商売人も印を持っていた。(写真11)は祝津の地図で、これも印で示されている。



写真11 印で示された地図
「祝津たなげ会」の活動のひとつに屋印(印)の収集・調査がある。現在は約130個もの印を収集されている。そして「懐かしの写真・屋号展」というイベントで、それらを展示された。そのパネルを見せていただいた。(写真12)



写真12 祝津の印

3.忍路の印
 忍路は小樽市の西部にある地区である。江戸後期からニシン漁で栄え、最盛期には漁場の数が100を超えていたという。船が大きくなり、漁夫の数も増えるにつれ、鰊場の労働の唄があちらこちらで唄われるようになっていった。「忍路鰊場の会」は、かつての漁労作業唄を唄い、伝承する活動をされている。私は小樽市総合博物館運河館で行われた「忍路鰊場の会」の公演を見せていただいた。(写真13)唄には「船漕ぎの唄」や「網おこしの唄」、「ソーラン節」などがあり、間近で聞くととても迫力があった。どこか懐かしいような味のある歌声が印象に残っている。
 「忍路鰊場の会」は漁場の屋印を背負った半纏を28種所有されており、それらの半纏を着て活動されている。



写真13 忍路鰊の会の公演


まとめ
 はじめは、小樽の歴史を今に伝えている印が減っている現状を目の当たりにし、寂しい気持ちになっていた。しかし、次のような話をされた方がいる。「印には意思、誇り、メッセージがこめられる。そして、それらの思いは次第に「成長」し、「脱皮」する。したがって印も「進化」し、「脱皮」する。」つまり、かつての印が店舗から消えることは、その店にとっては「脱皮」を意味しているかもしれないのだ。したがって印が消えることは悲しいことだと簡単に言ってしまうのは、間違いだと思った。
しかし、小樽のまちを歩いていると、ありとあらゆる印が目に飛び込んできて、やはり印は小樽の魅力のひとつであると感じる。「店の印」という役割は終えても、「小樽の歴史を伝える印」という役割で、これからもあり続けてほしいと願う。

謝辞
 今回の調査では、聞き取り調査にご協力頂きました小樽市総合博物館ボランティアの竹内勝治さん、祝津たなげ会の渡部満さん、小樽市総合博物館の石川直章先生に心よりお礼申し上げます。また、突然訪問したのにもかかわらず貴重なお話をしてくださいました旗イトウ製作所の伊藤一郎さん、そのほかご協力いただきました小樽市の方々、本当にありがとうございました。

参考文献
小樽市博物館紀要 第20号別刷」(2007)小樽市博物館
小樽学ホームページ http://otarugaku.jp/p/?c=8
祝津たなげ会ホームページ http://www.tanage.jp/
竹内勝治さんに頂いた資料
「おたる新報 第116号」(2006)小樽新聞社

ベネツィア化する小樽!?

那須くらら

はじめに
ノスタルジックな街並みが自慢の小樽。修学旅行などで訪れた方も多いのではないだろうか。今回は小樽市にある表象について取り上げる。外国のシンボルがよく見受けられる堺町通り。小樽運河の歴史からさかのぼり、現在の小樽の姿を追った。
第1章 
ウォール街からベネツィアへ!?

第1節 異文化の集合体・堺町通り 

本レポートのフィールドは、北海道小樽市の観光スポットである堺町通り周辺である。観光パンフレットではノスタルジックな風景が魅力的だと宣伝されている。たしかに小樽運河や歴史的建築物など情緒あふれる場所が多い。しかし実際に歩いてみると、いろいろな文化の集まった街のように思えてきた。その一例を紹介しよう。
写真1 小樽市 堺町通

上の写真は堺町通りを上から撮影したものである。かつて堺町通りは銀行や商店が並ぶ商業の町として栄えていた。現在は残された建築物のなかに土産屋が入り観光客相手に商売をしている。
写真2 北一硝子






写真3〜8 堺町に並ぶ土産屋達

特徴的なことは堺町に並ぶ土産物屋の四分の一が小樽市以外から来た人々によって営まれていることである。話を聞いていくと、全国チェーン化している土産屋が小樽に出店しているというケースも多かった。観光客はそれを知っているのだろうか。
本店が大分県のコロッケ屋に意気揚々と走っていく修学旅行生。堺町通りには京都からきた人力車が観光客を待っている。
そしてなにより驚いたことがある。周りの店に対し無関心な店員が多かったことだ。周囲でどんな人が商売しているか、何を売っているかということをあまり知らない店員もいた。どうやら堺町通りには組合が存在していないらしい。本当にそれでいいのだろうか。
またこの通り周辺には複数の外国をモチーフにした表象がある。


写真9ベネツィア美術館 写真10カナダの時計台 写真11 旧日本銀行(北のウォール街

ここは小樽の街だが外国の表象がやたらと多い。特にベネツィア美術館。中に入ると館内がイタリア一色に染まっており、小樽の面影が見当たらない。小樽とベネツィアは港町・ガラス工芸が盛んという共通点で結ばれているから、この美術館ができたようだ。中から出てきた観光客からの「次はイタリアに行かなくちゃ。」という言葉が印象的だった。

写真12 ベネツィアカフェテリア


第2節 北のウォール街

写真11北のウォール街について説明しよう。小樽は北海道の貿易海運拠点として明治以降に急速に発展した。ニシン漁が盛んだったことや北海道開拓の物資が小樽港から陸揚げされたことが理由に挙げられる。小樽が札幌に近いので小樽港は「海官所」の指定を受けたのである。
そして小樽の繁栄を決定づけたのが鉄道と日露戦争であった。多くの物資が小樽に集まり、朝鮮・中国・南樺太と交流が盛んになった。明治45年色内地区に日本銀行の小樽支店ができた。その一帯に三菱・三井・第一・安田などの大銀行が軒を並べていった。写真は旧日本銀行である。
小樽は経済的に活気づいた街であった。ロンドンの雑穀市場を左右するようなこともあった。
 観光パンフレットには堺町につながる色内町が戦前から北のウォール街と呼ばれていたと書かれている。しかし、これは間違いだ。戦前、ニューヨークのウォール街になぞらえて小樽の銀行街を「北のウォール街」と呼ぶようになった。これが公式の説明である。しかし実際そう呼ばれるようになったのは戦後のようだ。
蕎麦屋「藪半」の小川原さんによると、小樽運河論争のときに何か町をPRできるものはないかと使い始めたものらしい。ある新聞記者が小樽を取材して書いたキャッチコピーを見て参考にしたとのことだった。
とはいえ、北のウォール街とよばれるほど経済・商業で猛威を奮っていた小樽。なぜベネツィアなど海外の表象や全国からの土産物屋が目立つ観光の町になったのか。そこに「小樽らしさ」はあるのか。これからその答えを探っていく。


第2章 斜陽化した小樽の再生の歴史

 戦前に経済的に栄えていた小樽。戦後になり、斜陽の時代を迎えることになる。昭和30年ごろからインフラ整備が進むようになり札幌が経済の中心地となった。ニシン漁も以前ほどの収穫を望めなくなった。銀行が小樽から札幌に移転していく中で建物だけが残ることになった。そんな中昭和48年ごろから小樽運河論争が勃発した。

 小樽運河論争とは!?
行政側:商業地域と臨港地域を分かつように並行する幅40メートルの運河を全面埋め立てて道路にする。
市民有志:運河を全面保存により後世に残すべきだ
互いの主張がぶつかり約10年に及び両者は対立していた。当時小樽運河にはヘドロの問題もあり、行政側は運河を埋め立てることを望んでいた。運河を利用したまちづくりという発想がまだなかったのである。しかし、小樽運河保存の意見を聞いて北海道大学の飯田勝幸助教授が「飯田構想」という運河を含めた都市設計を発表した。現在の小樽運河の光景はこのデザインが活かされたものである。
 市民側は大都市に一時期住んでいた事のある20〜30代の若者がほとんどだった。「小樽運河は小樽人のパスポート」というキャッチコピーで運河保存活動を始めた。マスコミもこぞって報道をはじめた。広告代理店の計算で約40億円分の宣伝になったそうだ。
 政治や行政、マスコミに西武グループを中心とした財界、そして若者達を巻き込んだ大きな論争にまでなった。
そんな中、北一硝子が突然堺町通りに出店を始めた。倉庫の跡を利用して硝子製品を売り出すようになる。カニ族と呼ばれる若い旅人達が肩に浮き玉を吊るして歩いた。人を引き付けるのに成功した堺町通り。全国から土産物屋がそこに集まった。大人気の北一硝子の周辺で商売を始めたのである。
 昭和63年に少し幅を狭くした新しい小樽運河が完成した。バブル時代とレトロブームが重なり観光客が多く訪れるようになった。小樽の観光を観光入込客からみてみよう。昭和60年度に272万人であった観光入込客数は小樽運河整備終了後から増加し始めた。平成4年に537万人、11年度には937万人まで増加した。小樽運河論争の立役者でもある小川原さんはこれを「観光爆発」と呼んでいる。この頃から小樽はノスタルジックな街というイメージがつくようになった。


写真13 昔の面影残る運河  写真14 観光客で賑わう運河

第3章 「ノスタルジックな町」を作りあげ維持する人々
 
☆「北一硝子
 北一硝子の堺町進出により、小樽はガラスの町というイメージが定着した。北一硝子の人々は多数の表象あふれる堺町をどう見ているのか。


(左から)写真15北一硝子三号館、写真16北一硝子アウトレット

 北一硝子の前身、浅原硝子が生まれたのは明治34年のことである。初代社長の浅原久吉が小樽で石油ランプの製造を始めた。電気がまだ普及していない時期だったのでランプは飛ぶように売れた。明治43年には漁業用の浮き玉の製造を始めていった。
 そして久吉の孫である浅原健蔵が昭和58年に北一硝子三号館をオープンした。これは漁業用倉庫だった木村倉庫を改装したものである。観光客の土産用にガラスを売り出した。北一硝子の作るガラス製品は小樽のノスタルジックな世界を演出するのに一役買っているといえるだろう。
 広報の佐藤さんに話を伺った。JR小樽駅に飾られている333個のランプも北一硝子の製品だ。北一硝子は小樽の顔になっているともいえる。
 ベネツィア美術館を作ったのは浅原健蔵社長がガラス文化で栄えたベネツィアをとても気にいったからだそうだ。豊かな文化を紹介するための美術館として1988年に開館した。館内はイタリア一色だ。貴族の衣装を着るコーナーもある。
 地元以外の土産屋やベネツィア・カナダ等の表象が堺町に集結していることについてどう思っているのか。「元々北海道はいろいろな県から人が移り住んできた開拓の地だ。いろいろな文化が入り混じっていて良い。この風習が今の堺町にもつながって町が栄えるならば良いことだ。」これが北一硝子の答えのようだ。

小樽市役所まちづくり推進課・小樽商工会議所
小樽運河論争により小樽の重要な個性である小樽運河を中心とした歴史的建造物や街並みの価値が再認識されるようになった。昔ながらの街並みは市民の手で守っていかなくてはならない。その思いが新しい制度を作っていった。
 昭和58年「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」が制定された。これにより「北のウォール街」の中心である日本銀行旧小樽支店などが文化財指定を受けた。またマンション建設による景観の問題が出てきたので、平成4年に「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」ができた。平成16年には国から「景観法」が公布され。景観を無視した建築の規制に強制力をもたせることができるようになった。
重要建築物の中におしゃれなレストランや土産物屋が入りレトロな空気を醸し出しているのはこれらの法律・制度が支えているからでもある。建築物を補修するときには市から三分の一ほど助成金が出る。しかしそれでも「建物の維持・管理は大変なので『指定文化財』を外してくれないか」と店側から言われる事もあったそうだ。
 小樽商工会議所の山崎さんによると、旧商工会議所も現在テナントを募集しているとのことだった。インタビューの帰りに堺町を案内してもらった。いくつかの建物にもテナント募集の看板が貼られているのを発見した。


写真17 テナント募集の看板

最近は2〜3年で店をたたむ事業者も多いようだ。確かに、小樽の魅力は小樽に住んでいない人の方がよく分かっているかもしれない。しかし、だからといって地元民不在の観光都市のままでいいのだろうか。ビジネスだけで出店する業者が多いのを目の当たりにし、本当の観光とは何なのだろうかという思いでいっぱいになる。
第4章 市民不在の観光都市 −乱立する表象の秘密―

 北一硝子堺町通り進出により多数の土産物屋が周辺に並ぶようになった。そして小樽は戦前とは違う形でにぎわいを取り戻すことができた。しかし、堺町通りにはビジネス目的で出店している店が多く小樽のことをあまり知らない人も多い。店の出入りが激しく空き店舗が増えつつあるのも問題である。
 この状況について小樽に住む人はどう思うのか。小川原さんに話を伺った。「小樽は高度経済成長の波に乗れなかった。けれども、小樽運河を守り観光に活かす事で再び町が盛況になるのではないかと考えた。そして運河保存運動を始めた。まだそのモデルはまだ日本には存在しなかった。」ノスタルジックな街並みはマスコミに取り上げられるようになり、小樽に観光ブームが起きた。小川原さん達の主張は当たったのだ。
 しかし、小川原さんからは「この観光ブームは私達が思っていた『観光』ではなかった。」という言葉が続く。
「まるで爆発したかのように急に到来した観光ブーム。昔ながらの経済人は観光産業に乗り気でなかったため、他地域から多くの人が堺町に商売をしにきた。しかし、ブームが去れば店も去る。今までビジネスだけのために店を出した人が多かった。 風景・自然・建物を活用し、どのように市民が参加するかが観光にとって大事なことだ。現在、小樽の観光は変化してきている。観光のライバルも増え、滞在時間も減った。これから堺町も変わらないといけない。」
 小樽市産業港湾部観光推進室の資料によると、平成20年度の観光入込客数は約714万人であるが21年度には687万人に減少している。こうした観光客の減少は年々問題になっている。また21年度の687万人のうち61万人しか宿泊客はいない。大多数が日帰り客なのだ。
 このようなときにこそ、堺町全体でよそに負けないオリジナルの観光を作っていかなくてはならない。しかし、各店舗により小樽に対するイメージがバラバラなのが問題だ。北一硝子ベネツィアメルヘン交差点のあたりはカナダのバンクーバー。土産物屋は観光まちづくりというより、ビジネスのためだけで店を出している。そのため組合が存在せず、店同士の交流がないのが表象乱立を生み出している。各自よかれと思って様々な表象を打ち出しているのだ。
 人はただ歩いて観光するだけではそのうち飽きてしまう生き物だ。この場所を訪れてよかったと思える観光とは何だろうか。小樽オリジナルの観光を創る取り組みを調べてみた。

第5章 まとめ 真似できない小樽独自のシンボルとは
―歴史と市民参画観光―
第一節 歴史からのアプローチ
堺町に店を構えながら、今後の小樽観光について思いを馳せる人達がいる。みのや本店の専務取締役である蓑谷さんに話を伺った。


写真18小樽出世前広場 写真19 利尻屋みのや 写真20 小樽歴史館

利尻屋みのや」は利尻島出身の社長が平成3年にオープンさせた昆布専門店である。ただ昆布を売るだけではなく、「七日食べたら鏡をみてごらん」「お父さん預かります」などのキャッチコピーで客を惹きつけている。単に観光客を待つだけでなく、いかに彼らを楽しませるかということを考えているそうだ。
さて、みのやが中心となり堺町に小樽出世前広場というものを作った。この中の小樽歴史館では小樽の古くからの写真や小樽の発展に貢献してきた人々をパネルで展示している。
最近、ガラスやオルゴールを扱う観光地は増えてきている。あちこちで小樽の成功例が参考にされている。しかし、小樽も観光地である以上、どこに行っても同じと思われてしまってはいけない。歴史は誰にも真似される事のない財産である。歴史こそ小樽オリジナルの見どころなのだ。堺町の表象についてどう思うのか聞いた。「今は各店舗によって小樽・堺町のイメージが異なる。組合をつくれば統一できるのではないだろうか。」とのことだった。
  店の中に「まちなみは産業・まちなみは文化」とあった。堺町の文化を形成するのは店の人が見せる心意気だ。小樽の過去や未来まで思いをはせる店がここにあった。

第2節 市民参画観光

平成11年をピークに小樽観光客は減少しており、観光地の質の向上が求められるようになった。「このままではいけない。市民と観光客が一体となって『小樽の観光』をつくらねば」小樽運河論争を引っ張ってきた小川原さんがここで再び立ち上がった。
小川原さんが提案するのは「時間消費型観光」だ。背伸びをせずに身の丈にあった小樽の良さをアピールする観光スタイルである。例えば、11月のおたる産しゃこまつりを開催した。小樽沿岸で捕れる「秋しゃこ」の知名度を上げるためだ。結果、2日間で4万匹売れたそうだ。
2月の小樽雪あかりの路では約10日間小樽の街並みをキャンドルで照らす。ろうそくを15万本使う大掛かりなものだ。1997年に始めたときはボランティアが3名だったのがいまでは2800人もの人が集まるという。韓国からも海外ボランティアとして参加する人がいるそうだ。韓国から来た人が札幌からの客をお出迎えする。観光客が観光客を呼ぶサイクルが生まれるのだ。お年寄りの方も雪いじりが得意なので楽しんでいるという。
 また小川原さんが働きかけて堺町の人達と任意団体「堺町にぎわい作り協議会」を作った。目標はこの団体を堺町通りの組合に発展させることだ。2010年8月には第一回堺町ゆかた提灯祭りが開催された。小川原さん達は地元の人との交流をテーマに観光のイベントを作っている。よその町が出来ない小樽オンリーワンのことをする。元々小樽に住んでいた人も、新しく来た人も誇りをもてる町に。
平成18年度4月にスタートした小樽市観光基本計画では「いいふりこき」という言葉が取り上げられている。いいかっこをするというのが本来の意味だそうだが、小樽のまちをつい自慢したくなるような町の実現を願ってのものらしい。
 近い将来、堺町に組合ができれば町にあふれるバラバラのシンボル達が統一されるかもしれない。何かの真似やどこにでもあるものでなく、小樽オリジナルのものに。いまその取り組みは始まったばかりである。

謝辞
本調査にあたって、藪半の小川原格様、みのや本店の蓑谷和臣様、小樽商工会議所の山崎久様、北一硝子佐藤誠様、小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生、その他堺町通りの土産店の皆さまにお話を伺いました。お忙しいなかご協力頂き、心から感謝申し上げます。

参考文献
田村喜子(2009) 『小樽運河ものがたり』鹿島出版会

参考資料
小樽市産業港湾部観光振興室 「平成22年度版小樽市の観光」

ハマカセギの男たち ―小樽港と港湾荷役労働者―

渕 修平


はじめに
現在、レトロな街並みで北海道の有名観光地となっている小樽。中でも小樽運河(下写真)は観光地小樽のメインの一つとなっている。多くの観光客が歩く運河沿いは、かつて艀と倉庫の間で荷役が行われていた。今でも運河沿いに一部残っている石造りの倉庫は博物館や、おしゃれなレストランになっている当時の運河はつかえて通れないほどたくさんの艀があったが、今では運河の一番端に一隻だけ係留されているだけとなっている。
北海道の玄関口として賑わっていたかつての小樽港は石炭の輸出と樺太をはじめとする貿易で成長していった。小樽港の成長を支えていたのは港湾労働者、ハマカセギの男たちだった。今回はその男たちに注目し、時代の変化の中で消えていった艀荷役と、今でも技としてのこる倉庫荷役、そして、彼らの生活を実際に港湾労働をされていた方々のインタビューをもとに紹介したいと思う。


写真1 小樽運河と倉庫


第1章 艀と倉庫

▼艀(はしけ)
艀とは運搬船である。木製のものと鉄製のものがある。エンジンが付いているものとないものがある。沖合に停泊している貨物船などから積み荷を載せ、港、河川、運河岸壁の工場や倉庫に運ぶ。港に埠頭が整備され大型の貨物船を接岸できるようになる60−70年代までは全国で多くの艀が活躍していた。埠頭とコンテナ化、ガントリークレーンの登場により艀の役目は激減していくこととなる。しかし、艀が全くなくなったわけではない。陸上輸送できないもの(ex新幹線)など現代でも形を変えて使われている。

―小樽港の艀―
では、小樽港での艀はどのような艀だったのか。小樽には2種類の艀があったようだ。デッキ艀と達磨艀(だるまばしけ)である。デッキ艀とは写真2に見られるように甲板があり、荷物を平積みできるようになっており、おもにラワン材(木材)や袋詰めされた穀物など(この袋を布モッコと呼んだ)を杯付(はいづけ)と呼ばれる積み方を駆使しながら積んだ。一方達磨艀とは、デッキ艀の甲板がないもので船底までぽっかりと空間がある。ここに鉄道で小樽港まで運ばれてきた石炭を積む役割を担っていた。


写真2 小樽運河に残るデッキ艀


▼小樽の倉庫
小樽港に入荷された穀物などは艀で小樽運河まで運ばれそこから倉庫に入れられた。
この時どれぐらい量を運んだかを図るために「マン棒」という木製の札が使われた。番棒からマン棒へと名前が変わったとされている。艀から積み荷を降ろす際に早く仕事を終わらせるためだけでなく、力比べを目的に、一度にいくつのモッコ又はマタイ(麻袋)を担げるかを競ったそうだ。一つ60kgもある袋を2つか3つ担いでいたそうだ。
当時は写真1のように運河沿い石造りの倉庫が並んでいたが、現在は埠頭の中に写真3のように倉庫が並んでいる。
 貨物船から艀への荷役と艀から倉庫の中での積み上げる荷役のなかで屈強な男たちが熟練された職人技で働いていた。その倉庫の積み上げの技術は今でも受け継がれている。
2章と3章でその技術と生活を紹介する。


写真3冷蔵倉庫。


第2章 浜稼ぎの技と文化

▼常用とデメントリ
沖仲士、仲士と言われていた荷役労働は過酷な仕事だった。その中でも艀会社、倉庫会社に社員として雇われている者を常用。日雇の者をデメントリと呼んだ。ピーク時、荷役労働者の数はどちらも1500人いたそうだ。デメントリは仕事をもらいに倉庫に集まったそうだ。
▼ハマカセギの生活
過酷な肉体労働であった荷役、その生活には酒は欠かせないものであった。仕事が終わってから一杯、帰りの飲み屋で一杯、家に帰ってから一杯。帰る頃にはフラフラで、朝起きて仕事へいく。働いて飲んで寝るというのが生活のサイクルだったそうだ。

―酒と食べ物―
お酒のことを小樽では「もっきり」「ヤンカラ」「バクダン」と呼ばれていた。「もっきり」はコップいっぱいまで注がれていたことからこの名前になったそうだ。もっきりもヤンカラも焼酎だったそうだ。これに梅酒などの果実酒を混ぜたものを「バクダン」と呼んでいた。戦後、お酒が少なかった時期、戦争で余ったメチルアルコールなどから違法に造った酒が出回り、失明するものや心臓病を起こす者が多くいたという。戦後すぐの落下傘事件(落下傘で落とす為の大量の爆薬を艀で運んでいた時、海上で爆発し、4〜50人の死者を出した。)の弔いとこの時期の多くの違法酒の死者の弔いを兼ねた慰霊祭が行われたそうだ。
 食べ物にも荷役労働独特のものがあったようだ。「ネコマタギ」と呼ばれる塩焼きの魚だ。
重労働ゆえに、大量の汗をかく。どうしても塩っ辛いものが食べたくなったそうだ。そこで塩たっぷりの焼き魚を弁当として持っていったそうだ。この焼き魚の塩が多すぎて、猫が食べずにまたいで通り過ぎることから「ネコマタギ」と呼ばれる。
 ご飯の時間になると「ちゃぶだぞー」という声がかかって時間を知らせたそうだ。食事中、「かたりべ」と呼ばれる人がでてきて戦時中の話などを上手く話していたそうだ。
冬の間、デッキ艀の船内ではストーブを焚いていた。そのストーブの上でホッケを焼いて食べたりもしたそうだ。

―声は大きく、言葉は短く。生まれた「ハマコトバ」―
 声が届きにくく、常に怪我をする危険がある沖荷役(本船から艀への積み込み)では大きな声で早く内容を伝える必要があった。なので、荷役をする者は皆声が大きかったそうだ。そして、荷役独自の言葉があった。それが「ハマコトバ」である。ここでいくつか紹介する。
「れっこせい」→なげれえ、すてれえ
「ゴウヘイ」→まきあげれえ
「スライスライ」→下げれえ
「コロ」→あて木
「アラケレ」→波に向かう。船との間に空間をつくる。
「タレマク」→布と網。
「タマカゼ」→北西の風。
「シキカゼ」→西の風。小樽では西からの風は沖に流される。
「チャブだぞー」→飯の合図。
「おもて」→船首。
「とも」→船尾。
「カッパ」→デッキ艀の船内にはいるためのハッチ。
艀の上だけの言葉だけでなく道具の呼び名であったり、荷の積み方の名前もあるが、それは後々紹介することとする。

―艀での生活―
東京、大阪、神戸では艀に住み、水上生活をする艀の船頭と家族がいたが、小樽では定住するものはいなかったそうだ。しかし先ほども記述したように船内でストーブを焚きそこでホッケを焼いて食べる他に、畳をストーブの周りに敷いて休憩に寝ていたようだ。
荷物を積んだままの場合、見張りのために船内で寝泊まりする者がいた。その他に宿代を浮かす為、酔っぱらって艀で寝る者もいたそうだ。

―港湾労務者―
港湾労務者という言葉は差別用語である。当時、港湾労働者は屈強な身体と大きい声、そして酒と賭博があったことでよくケンカや暴れる者がいたりで、危ない存在と見られることが多かったようだ。のたれ死んでいる者がいると、新聞には「一見港湾労務者風の男性が…」と決めつけるように書かれていたそうだ。

―ケガと弁当は自分持ち―
労働環境が悪く、危険で怪我をしやすかったこと、怪我をしてもしっかりとした手当がなかったこと。福利厚生が悪く残業時に弁当もろくに出なかったことからこう言われていた。

―でめんを殺すに刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい―
日雇の港湾労働者は給料を酒や賭博の娯楽に使ってしまい、その日暮らしが多かった。雨が降ると荷役の仕事がないことからこう言われた。

メーデーでの綱引き―
メーデーの日にせっかく色々な業種が集まるのだから行進以外にも何かしようとなり、綱引きが毎回行われていたようだが、決まって優勝するのは屈強な男集団である、ハマの男たちだったそうだ。


第3章 技と文化の伝承

▼ノンコとハイヅケ
 ノンコと呼ばれるカギ爪を使ってモッコやマタイを持ち上げた。写真4の左がノンコで右が長柄と呼ばれるものである。


写真4 ノンコと長柄

これらを使い袋を積み上げるのだが、揺れる艀の上では積んだ荷物が崩れて海に落ちないように、高い技術が要求された。積み上げることを杯を組む、ハイヅケと言い、種類や重さ合わせて変えていたそうだ。この時崩れぬように微妙にずらすことを「メブセ」と言った。艀でのハイヅケ作業は熟練の仲士でないとできなかったそうだ。
ハイヅケ作業は同じく倉庫でも行われていた。倉庫になるべく多く収納する為にここでも色々なハイヅケがあったようだ。基本は五本バイといって正方形になるように一段に5袋ずつの積み方。柱の近くでは、柱を囲むように一段4袋ずつ、これを四本バイと呼んだ。
現在、パレットに積まれたものをパレットごとフォークリフトで積み上げるのが普通になっているが、小樽の大同倉庫さんでは今でも昔からのハイヅケ作業を行っているとのことだったので、倉庫での作業を見学させて頂いた。


写真5 上にいくにつれ絶妙に内側に傾いているのだ。5mほどあるが、これを手作業でやっているから驚きだ。



写真6 すばらしいチームワークで次から次に流れてくる袋を積んでいく。


この様にノンコを使いながら徐々に積み上げていく。全体が中心に向かって少し傾くようにずらしてゆくのだが、これを4人でどんどん積んでゆく。一時間もしないうちに積み上げる職人技は感動だった。倉庫でのハイヅケの技は若い世代にも受け継がれている。

事が終わると風呂に入る文化も残っている。というのも、仕事で大量の汗をかくし、穀物を扱うので身体についてしまう。それを洗い流す為だ。会社の事務所には風呂があるらしく、どこの倉庫会社にも立派な風呂があるようだ。


写真7大同倉庫さんの浴室


おわりに
今回のフィールドワークは小樽の人々とインタビューを受けてくださった人々の優しさなくしては不可能だった。小樽の歴史と港湾労働の話を聞いていくなかで、かつての小樽の発展と現在の小樽があるのは、ハマカセギの男たちの気持ちのよい人間性と職人技をもってした血と汗の積み重ねだと確信した。


謝辞 
石川さんをはじめ、坂間さん、赤川さん、山下さん、手鹿さん、住友さん、そして何度もお世話になった渡辺さんに感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。


参考文献
平井正治(2010) 『無縁声声―日本資本主義残酷史―』 藤原書店


関西学院大学 社会学部 3年
          渕 修平

小樽と鉄工所-海から陸への変遷史-

橘 将吾

はじめに

 小樽は観光都市としての色を強く持ち、運河を中心としたノスタルジックな街並みを売り出しているが、古くから港町としての機能を持った都市でもあった。現在では太平洋岸貿易中心の流れにのみこまれてかつての勢いを失っている小樽港も江戸時代には北前船や鰊漁で栄え、またその後も北洋漁業の中心港として繁栄を極めていたのである。そして、そんな小樽港の影響を強く受け、北海道開拓とともに歴史を歩んできたのが小樽の鉄工所である。今回、私はその鉄工所を小樽で行ったフィールドワーク、鉄工組合の資料を基に時系列でくぎり、現代にいたるまでのその変遷をまとめていくことにする。

第一章  江戸・明治時代 −鰊漁と鉄道による小樽鉄工史の幕開け−

 小樽と鰊の関係は古い。小樽港は江戸時代から鰊の漁場として栄えており、その鰊からできた鰊粕は高級飼料として大きな需要があり、北前船で運ばれ日本中に出荷されていた。そのピークは明治30年頃だといわれている。そんな鰊漁の発展とともに、その需要を伸ばしていったのが鰊粕をしぼるための鰊釜を中心とする様々な鰊漁具である。このことが小樽において鉄工所が栄えるための最初の大きな一歩となったのである。当時、入植活動が積極的に行われていた影響もあり、鰊釜のような鋳物は富山県高岡市から、船釘は新潟県燕市からやってきた職人をはじめとして様々な背景をもった鍛冶職人よって盛んにつくられていたといわれている。明治時代から小樽で金物店を営んでいる新海金物店にお話を伺った際に、「昔はここでも鰊釜を扱っていたはず。」とのようにおっしゃられていたことからも、当時鰊釜というものが広く一般にまで普及していたのではないかと考えることができる。
また、それと時を同じくして明治28年に国産の蒸気機関車が小樽でつくられたことも、市内の鉄工所の繁栄に大きく影響を及ぼした。この機関車の部品の修理や整備などが必要とされたため手宮地区には当時、本州から集まった人々が創業した鉄工所がたくさん存在していたとされている。
時代としては少しずれることになるが、手宮にある牧野鉄工所の牧野さんによると彼が鉄工所を開いた昭和20年ころには手宮は「鉄工所の山」であったそうだ。

第二章 北洋漁業の興隆と鉄工所

 明治30年にピークを迎えた鰊漁がだんだんと下降傾向にむかっていったこと、また日露戦争の結果として南樺太が日本の領土になったことなどが影響して小樽では鰊漁に変わり、北洋漁業による蟹、さけ、マス漁が盛んになった。そして、そのための漁船が多く小樽港にも停泊することとなった。鉄工所もこの流れに強い影響を受け、漁に必要な籠や、船の金具、そしてとった蟹や鮭などを保存するための缶詰をつくる製罐業が盛んにおこなわれたのである。また、高島にある有限会社共栄鉄工所(これ以後は共栄鉄工所と記す)のように北洋漁業に出航する船のエンジン整備などをてがける鉄工所も当時は多くあったそうである。現在は、そのような鉄工所はほとんど姿を消しており、残っていても共栄鉄工所のようにエンジンの整備だけでなく、その他の業務にも着手している。
他にも現存する鉄工所の中には小樽製作所(現:オーエスマシナリー)のように元は製罐業の下請けであったが、のちに独立して今の鉄工所にいたるというケースが数多く見られる。
また、この辺りは鉄工所が多く株式会社光合金製作所(以後は光合金製作所と記す)もその一つである。(図1)


図1 光合金製作所
鉄工関連会社から独立した光合金製作所。現在は不凍給水栓の開発・製造・販売を行なっている。この辺りに鉄工所が多いのは、当時、製罐業の中心を担っていた北海製罐がこの一帯に大規模な工場を構えていたからである。

しかし、盛んに行われていた北洋漁業も太平洋戦争が激化するにつれて国策のもと様々な統制がひかれるようになり物資の供給が不安定になるにつれその勢いを失うこととなる。そんな中、大きな鉄工所などではその機能を軍や国に従事し軍需工場化するようになる。

第三章 太平洋戦争と鉄工所

 太平洋戦争が開戦し、あらゆる原料の輸入が閉ざされると日本は資源不足に見舞われ鉄などの物資は配給制が敷かれることとなった。また、太平洋戦争が激化すると軍の物資に対する統制はますます厳しくなった。その結果として市場に安定的に物資を提供されることは困難になったのである。そのような状況の中で清水商事株式会社(現・清水鋼機株式会社)のような大きな企業では国策のもと国から委託された業務を遂行する会社もあらわれた。清水鋼機株式会社は、その社史によると
この月、重要産業団体令に基づいて設立された石炭統制会が、当社を指名して同会傘下の鉄工指定取引店としたために、当社は法廷根拠に基づく配給組織の傘下に直結されることになり、北海道における全炭鉱向け鉄鋼材の配給をつかさどることとなったのである。
(中略)
 このようにしてわが社は、名実ともに国策遂行機関の一環たる地位を確保したのである。この年の商金高は、一一五九万円余を計上した。
                (清水鋼機株式会社創業100年史 p51より)
と書かれており、当時から有力であった鉄工所の中には国策のなかで一層の成長をとげたものもある。しかし、そのように戦中に利益をあげた鉄工所も含め、小樽の鉄工所は戦争がもたらした影響も伴って、戦後苦しい時代を迎えることになる。
また、戦時中も牧野鉄工所のような個人経営の小さな鉄工所では、戦争の影響をほとんど受けることなく依然として北洋漁業におもむく船の金具などを作製していたという事実は非常に興味深いものである。

第四章 現在の鉄工所−海から陸への変遷−

 戦後、鉄工所は大きな被害を受けることとなる。その要因としては以下の4つの事象があげられる。 
樺太がロシア領になったことに伴い北洋漁業が徐々にその姿を消していったこと
② 戦時中の国策により小樽にあった船が戦時利用され、その多くが姿を消したため船の修理などを行っていた鉄工所への受注が減少したこと。
③ 太平洋ルートの台頭により戦前から続いていた日本海ルートがその機能を失い、小樽港を出入りする船が急激に減少したこと。
④ 道内の炭鉱が徐々に閉鎖され炭鉱機械も減少していったこと。(小樽港はかつては石炭を送り出す窓口港でもあった。)
これら4つの事象により小樽に数多く存在していた鉄工所の多くはその姿を消し、残った鉄工所も元来のような営業形態では仕事の存続が厳しい状況に追い込まれた。そんな中で各々の鉄工所がそれぞれ培ってきた技術を基に港や漁船を中心とする海の業務から建築資材などを中心とする陸の業務に移行していったのである。たとえば、上記でも一度述べた手宮にある牧野鉄工所ではもともとは船具や船の錨などをつくっていたのだが現在は主に建築資材の作製をおこなっている。(図2)


図2 牧野鉄工所の様子
上の写真のように牧野鉄工所の作業所の隅では、かつて作製された船具が散らばっており、元は漁船やはしけの船具を中心に業務を行っていた面影を見ることができる。

また、前章でも述べた高島にある共栄鉄工所(以後は共栄鉄工所と記す)ではもともとは船のエンジンの整備などをおこなっていたのだが、小樽が港としての役割を失うにつれて、その技術を活かしてビルなどの非常用発電機の整備なども行っている。共栄鉄工所の鈴木氏によると現在では、船舶の仕事より陸の発電機の仕事の割合のほうが舶用エンジン整備の仕事の割合よりも大きいそうだ。(図3)


図3 共栄鉄工所

畑中機工株式会社のように活躍の場を小樽だけではなく海外に向けることで商圏を広げている鉄工所も見られた。(図4)


図4 畑中機工株式会社
北洋漁業が栄えていたころには、圧力容器の殺菌釜などを作製して利益をあげていた。現在では、食品加工用の高圧殺菌装置の製造・販売を行っており中国などにも輸出を行っている。

清水鋼機株式会社は上記のような工夫とは少し異なるが、H12年に元々倉庫と してあった土地に新社屋を建てる際、折よく他会社からの申し出があったので2階部分をテナントとして貸し出し収入を得ている。(図5)


図5 清水鋼機株式会社
会社の事務所は右側の半分ほどで、左側のスペースはテナントとして提供を行っている。
上記に挙げた4つの理由などから小樽港を中心とした船具や船のエンジンなどの作製だけでは収益をあげることが困難な現代において、それぞれの鉄工所がその生き残りをかけて行った様々な工夫がそこにはあるといえる。

第五章 まとめ

私が調査前に仮説として抱いていた同郷者集団のつながりはあまり見られることはなかった。鉄工所の経営者の家族は石川や新潟などもともと金属加工の職人が住んでいた地方の出身者が多く、私が調査を行った鉄工所もほとんどが石川と新潟の出身者であった。しかし、そこに同郷者という強いつながりは特に見受けることはできなかった。また、共栄鉄工所のように仙台出身であったり、ジャンルは異なるが新海金物店や吉田金物店のような金物店になると山梨や愛知の出身であったりと様々な出身地を見ることができる。(図6)これは政府が積極的に移民政策を推し進めていた明治期に移民として小樽に来た人々が生計を立てるために手に職をつける必要があったからではないかと考えられる。

会社名         出身地
清水鋼機株式会社 新潟
株式会社光合金製作所 新潟
株式会社大川鉄工所 新潟
牧野鉄工所     石川
畑中機工株式会社 石川
有限会社共栄鉄工所 仙台
新海金物店     山梨
吉田金物店     名古屋
図6 会社と出身地

鉄工所における同郷者意識というものは見受けることができなかったが、ここで展開したように時系列で分けて鉄工所の変遷をまとめることで、小樽の歴史を新たな視点を通して再認識することができた。今も小樽運河を少し海側に向かって行くだけで、観光という華やかなイメージとはかけはなれた寂しげな一帯が広がっている。(図7)そして、その中に今も数多くの鉄工所がのこっており、かつてここが港を中心として栄えた町であったということをみることができる。私が訪れた鉄工所の作業員のかたがた皆は「昔はもっとたくさんの鉄工所があった。」とおっしゃっていた。今となっては港としての機能のほとんどを失ってしまった小樽の街において、かつてのように海を中心とする仕事を続けるだけで生計をたてることは厳しくなってしまった。それにともない鉄工所の数も減ってしまったのだという。それでも陸を中心とする作業に転換していった鉄工所の生き残りをかけた工夫や闘いの姿を私は今回のフィールドワークを通して見出すことができた。


図7 観光地化された小樽運河
この倉庫の裏をもう少し海側に行くと観光のイメージから離れた一帯が姿をあらわす。

謝辞

今回の調査にあたり、小樽市総合博物館の小川直章先生、佐々木美香先生、株式会社光合金製作所の井上晃氏、株式会社大川鉄工所の大川紘司氏、有限会社共栄鉄工所の鈴木晴夫氏、清水鋼機株式会社の大場康弘氏、畑中機工株式会社の畑中敏良氏、牧野鉄工所の牧野氏、新海金物店の新海氏、またそのほかにも小樽で出会った鉄工所で働くたくさんの方々に貴重なお時間を割いて協力をいただきました。ここに深くお礼を申し上げます。

参考文献

小樽鉄工組合(2010年)「創立50周年記念誌」小樽鉄工組合
清水鋼機株式会社(1990)「清水鋼機株式会社創業100年史」清水鋼機株式会社