関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

世界民俗学研究会を開催しました。

第1回世界民俗学研究センター研究会を開催しました (2020年1月25日、 関西学院大学大阪梅田キャンパスにて) 。

テーマは「都市民俗学の新たな課題」で、講師は徐赣丽 華東師範大学教授(同民俗学研究所所長)、講演タイトルは「消費・中産 : 都市民俗学の新課題」でした。

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第1回世界民俗学研究会

第1回世界民俗学研究会を開催します。

 

日時:2020年1月25日(土) 14:00~18:00

場所:関西学院大学大阪梅田キャンパス 10階1003教室

(大阪駅・大阪梅田駅徒歩10分、アプローズタワー)

https://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html

 

講師: 徐赣丽 教授(華東師範大学民俗学研究所所長)

題目:「都市民俗学の新たな課題」

 

中国民俗学における都市民俗学の近年の動向について、徐教授が研究を進めている「都市の消費空間における民俗の生成」「中国中産階級の生活様式」を中心にお話しいただきます。

 

徐赣丽 教授

北京師範大学大学院博士課程修了。民俗学博士。広西師範大学教授を経て、華東師範大学民俗学研究所教授・同所長。主著(中国語)に、『民俗ツーリズムと民族文化の変遷』(民族出版社、2006年)、『現代中国の文化遺産:民俗学的研究』(2014年、中国社会科学出版社)、関連論文(中国語)に、「中産階級のライフスタイル:都市民俗学の新たな主題」(『民俗研究』2017年4期)、「現代都市消費空間における民俗:上海田子坊の事例」(『民俗研究』2019年1期)などがある。

 

 

中国語による講演。日本語翻訳つき

参加申し込み不要。参加費無料。

 

問い合わせ:関西学院大学世界民俗学研究センター

tshimamura[a]kwansei.ac.jp

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「TSF」の構造―ウェブ上の投稿小説における構造的共通性―

伊藤 環

 

【要旨】

 

 本研究は、インターネット上に投稿された個人製作の「TSF」と呼ばれる男性から女性への変身などを題材とした小説について、インターネット上の個人サイトおよび投稿サイトをフィールドとして分析を行うことで、これらの小説に共通する構造を明らかにしたものである。本研究において明らかになった点は以下の通りである。

 

 

 

 本研究の題材とした「TSF」作品は、登場人物が異性へと「移り変わる」ことを題材としたものである。これに基づいて3人の制作者の作品に対して「シーケンス分析」の手法を用いることによって、それぞれの共通する構造を明らかにした。

 まず、分析に必要である話素を設定し、「苦悩・葛藤①(A)」「欲求(B)」「出会い遭遇①(C)」「苦悩・葛藤②(A2)」「出会い・遭遇②(C2)」「変身(D)」とした。

 上記に基づいて分析を行った結果、今回対象とした物語の基本的な話型として「A-B- C-A2-C2-D」が分かった。また、そのバリアントとして主に「C-D」型および「A-C-D」型が存在することが判明した。

 分析によって、インターネット上で不特定の人々が「TSF」と呼ばれるジャンルにおいて制作した作品においてある程度共通する構造が存在し得ることが証明された。

 

 

 

【目次】

 

序章 「TSF」

 第1節 「異性への変身」への関心

 第2節 「TSF」とは何か

 第3節 「TSF」の下位概念と「TSF」に類似する概念

 

第1章 研究の目的と手法及び対象

 第1節 研究の目的

 第2節 研究の手法及び対象

 (1) 研究に用いる手法

 (2) 研究の対象

 

第2章 調査と考察

 第1節 「風祭玲氏の作品」の構造

 (1) 分析とその結果

 (2) 第1節単体での考察

 第2節 「愛に死す(アイニス)氏の作品」の構造

 (1) 分析とその結果

 (2) 第2節単体での考察

 第3節 「山田天授氏の作品」の構造

 (1) 分析とその結果

 (2) 第3節単体での考察

 第4節 3つの作品群に共通する構造

 

第3章 筆者の黒歴史

 第1節 筆者の作品

 第2節 分析と結果

 第3節 考察

 (1) 物語の構造

 (2) 私がこの文章のどこに魅力を感じながら制作したか

 

結語

 第1節 総括

 第2節 今後の展望と課題

 第3節 謝辞

 

付録


参考文献

参考URL

 

 

 

【図表】

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話素抽出例

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物語の構造の例

 

白山修験と川上御前―越前市五箇における「神仏分離」と歴史の解釈―


山内鳳将

 

【要旨】

本研究は、大瀧神社・岡太神社における神仏分離後の信仰と神事について、越前市五箇地区をフィールドに実地調査を行うことで、現地におけるその歴史の解釈を明らかにしたものである。本論文で明らかになったのは以下の点である。

 

1. 明治以前には長らく大瀧児権現としての時代が続いた。岡太神社は「延喜式神名帳」に今立郡十四座の一座として記載されている「岡太神社」にその起源を求める。当時の所在について明確な根拠はないものの、今立であり、なおかつ川上という伝承等の状況証拠を組み合わせると現在の大瀧神社・岡太神社のあたりにその所在を求める事にも整合性がある。岡本神社が鎮座する権現山が泰澄によって開山され、この地に白山信仰が覆いかぶさるように浸透していき、大瀧児権現の勢力が拡大していく一方、岡太神社の勢いは相対的に縮小していったと言える。岡太神社の氏子の範囲は主に五箇だったのに対し、大瀧児権現が信仰を集めたのはより広範囲であったからである。延元二年に足利軍による社殿回禄の後、岡太神社は大瀧児権現の奥の院相殿となる。次に天正三年の織田信長による一山焼失を受け、その再建後岡太神社は大瀧児権現の境内摂社となる。天保14年に下宮本拝殿が建立され、境内は現在の形になった。

 

2. 明治の神仏分離令により、大瀧児権現は「大瀧神社」へと改称をせまられた。岡太神社はそれまで境内社という扱いであり、神社の格という意味では大瀧神社が上であると言えるが、紙漉きの郷・五箇地区において紙祖神を祀る岡太神社は信仰を集めていたため「大瀧神社・岡太神社」と併記されるようになったとされている。

 

3. 昭和期には岡太神社が前面に押し出されるようになった。明治以降、神仏分離によって寺領を失い、神社を維持するための資金が十分で無くなっていた。一方で、大正十二年には大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀されたことで、川上御前、すなわち岡太神社が紙の鎮守神であることは全国的な認識となっていた。その知名度を生かし、「氏子」を拡大していったのが明治から昭和期に当たる。また、観光資源としても地域の和紙産業と密接な岡太神社は重要であり、対外的な意味合いで岡太神社はその存在感を強めていった。

 

4. 岡太神社に祀られている紙祖神である川上御前は、村人に紙漉きを教えたという伝説とともに知られている。この伝説に関して、古くは「地主の神」「岡太神社の祭神・水波能売命」が姿を変え出現したものであるという記述が多く見られる。また、他にも紙漉き伝来の伝説は存在するという記述もあるのだが、現在現地で語られる伝説は川上御前の伝説のみである。なおかつ地主の神、水神が姿を変えたという部分はなく、「川上御前」の存在を語るものに一本化されている。また、岡太神社の祭神も「水波能売命・天水分神」ではなく、川上御前となっており、祭神が姿を変えるというプロセスが消滅し、その結果である川上御前のみが力を持ったと言える。

 

5. 昭和期に岡太神社、川上御前が前面に押し出され、全国的な知名度を獲得したが、昭和59年に「大滝神社本殿及び拝殿」が重要文化財に指定されたことを1つの契機として白山信仰、すなわち大瀧児権現への「小回帰」が起きた。神仏分離以前は白山修験の一大拠点として栄えたにもかかわらず、制度上の外的圧力によって姿を変えざるを得なかったという現地の人々にとってはある種不本意ともいえる歴史がある。当然岡太神社もこの地域の土地神であり、主に紙漉きに携わる人々の信仰を古くから集めた神社であるが、これまでの歴史を鑑みると明治以降の在り方というのはイレギュラーなものであると言える。この歪さを軌道修正する動きが重要文化財指定、並びに竣工奉祝大祭をきっかけに起った。具体的には、神仏分離を期に中止せざるを得なかった法華八講や湯立てといった、大瀧児権現時代の年中行事を大祭で再現、復興するという動きである。しかし、これは岡太神社が後退するというものではなく、紙能舞・紙神楽といった行事も追加されており、祭り自体を再現する際に想定した「原点」に回帰させる意味合いが強い。

 

6. 長い年月を経て現在の形に至った大瀧神社・岡太神社にまつわる事象であるが、その多くは古くからの形を保っていることをその特徴の1つとしている。確かにそのような側面はあるものの、事実として主に外的要因による様々な変化を経た形であり、少なくとも神仏分離を期に大きく形を変えたからこそ、「小回帰」は起こったとも捉えられる。紙漉き産業を含め、明確にその歴史をさかのぼり切れないからこそ、その伝統をより強固に理解するために「必要とされる過去」が表層に浮かび上がっていると言える。

 


【目次】

 

序章

    第一節 問題の所在
    第二節 大瀧神社と岡太神社

 

第一章 神仏分離以前

    第一節 大瀧児権現と白山信仰
     (1) 白山信仰
     (2) 権現山の開山
     (3) 小白山
     (4) 宗教都市としての五箇
    第二節 岡太神社と川上御前
     (1) 岡太神社
     (2) 紙漉き伝来
     (3) 水分の神と川上御前

 

第二章 神仏分離以後

     第一節 大瀧児権現から大瀧神社へ
     (1) 神仏分離令と廃仏毀釈
     (2) 神社化
     (3) 祭りの変化
  第二節 岡太神社の台頭
   (1) 岡太神社の分祀
   (2) 越前和紙の全国進出
   (3) 「氏子」の拡張

 

第三章 文化財指定と祭りの再編

   第一節 大瀧神社の文化財指定
   第二節 祭りの再編
   (1) 法華八講・湯立ての復活
   (2) 紙能舞・紙神楽の創出
   第三節 白山修験と川上御前

 

結語

文献一覧

謝辞

 


【本文写真から】

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写真1 大瀧神社・岡太神社の鳥居

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写真2 下宮本拝殿

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写真3 十一面観音坐像

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写真4 大瀧神社奥の院本殿

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写真5 岡太神社奥の院本殿

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写真6 川上御前伝説の看板


【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、大変多くの方々にご協力いただきました。
 お忙しい所、貴重なお話をお聞かせいただき、多くの資料を提供いただきました、大瀧神社・岡太神社宮司の上島晃智氏、岡太講会長の石川満夫氏、和紙の里三館館長の川崎博氏。また、町で聞き取りに応じて頂いたり、紙漉きを見せて頂いたりと、本当に多くの方々にご協力いただきました。
 皆様のご協力がなければ本論文は完成しませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

ユダヤ人を生きるーある神戸在住イスラエル人の生ー

大石桃子

 

【要旨】

 

本研究は、神戸在住イスラエル人であるモシャ・ジノ氏のライフヒストリーを通して、在日ユダヤ人のの在り方について考察したものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

 

1. ユダヤ人にとって、家族のルーツは自己のアイデンティティを形作る重要な歴史である。ジノ氏の場合、父方の家族はイタリア、母方の家族はイエメンにルーツがあることから、自分はイタリア、イエメン系ユダヤ人としてのアイデンティティを持っている。家族の歴史を知ることで、ユダヤ人」であることの自覚、そして出自によって自分がどういった民族性を持つユダヤ人であるのかを認識するのである。

 

2. イスラエルの大都市ハイファで生まれジノ氏は幼少期、学生時代、兵役時代までをイスラエル過ごした実業家である祖父をもち、祖父母、親戚を含めた大家族の家庭で生まれ育った小学校低学年時代から学校ユダヤ人の歴史と聖書のについての教育を受け始めるが、宗教的にユダヤ教を理解するのはずっと後のことである。中学から高校にかけての学生生活では、何よりも夜の街でのパーティーもっぱらの楽しみであったという。高校卒業後の3年間、イスラエルの海軍に入隊した兵役時代は、厳しく統制された生活であったが、楽かったという思い出が彼の中に強く残っている。

 

3. ジノ氏は兵役後、ドイツ1年間滞在したのち一度イスラエルへ戻り、日本へ渡っ。兵役後に国外を旅行することは、イスラエルの若者の一般的な行動形態であり、ジノ氏も多くのイスラエルの若者と同じく、海外へ足を運んだ彼らにとって、国内に留まるのは退屈であり、外へ飛び出したいとの思いがあジノ氏の場合、旅行に加えてお金を稼ぐというビジネスも、海外へ渡る一つの目的であった。日本へ来日するきっかけとなったのも友人に誘われて参加した宝石店でのビジネスであった

 

4. ジノ氏が日本定住した理由は日本人女性との結婚である。来日して3ヶ月目に、2人は出会い、交際3ヶ月で結婚に至った結婚後に、はユダヤ教に改宗した。語りからかるのは結婚といった人生の重大な転機となるような状況に直面した際、「人生は何があるかわからないから、運命に身を任せれば成るように成るとの運命的な考え方が彼の心の中に存在し、人生の選択を左右しているということである。

 

5. 22歳で来日し結婚したジノ氏は、神戸で2人の娘を育てながら、起業家としての人生を歩んでいる。23歳で初めて自ら商売を始め、日本のみならず海外でも数回にわたりビジネスを行なってきた。彼が立ち上げた貿易会社は現在も大きく成長中である。彼にとって、新しいチャレンジをしリスクと共に生きることは、実に楽しい人生であり、「リスクを生きる」という自己の生き方の中にユダヤ性を見出しているようである。

 

6. ジノ氏副代表を務める関西ユダヤ教団は、超正統派のLubavitch派に属するユダヤ教会である。超正統派でありながら実際は、戒律に対して寛容である点も見られる。会で過ごす人びとは、家族のように仲が良く、子供が多いことからか教会全体には賑やかで暖かい空気が流れている。祝祭では、延べ150名もの人びとが集まり、賑やかで盛大な宴会が行われていた。教会を訪れるユダヤ人たちは日本に配偶者を持ち、定住している人がほんどであり、イスラエル、アメリカ、ヨーロッパ出身のユダヤ人が多い。ジノ氏は安息日、祝祭、大切な行事の際には必ず教会で過ごし、ラビの補佐役としての役割を担っている。

 

7. ジノ氏がユダヤ教を宗教的に捉え、戒律に対して真摯に向き合うきっかけとなったのは、妻のユダヤ教改宗である。妻と共にイスラエル教えを受ける中で、宗教的な疑問を自己に問いかけ始め、神への信仰心を強くもつようになった。イスラエルから離れた日本での生活、非ユダヤ人との結婚を通して、彼は「ユダヤ人」としてのアイデンティティを強く意識するようになる。そして、妻のユダヤ教改宗を機に「ユダヤ教徒」としての生を認識し始めのである。
 
【目次】
 
はじめに 問題の所在
 
第1章 家族の歴史とジノ氏の生い立ち
 
第1節 家族の歴史
第2節 ジノ氏の生い立ち
 
第2章 イスラエルから日本へ
 
第1節 来日
第2節 結婚
 
第3章 日本で生きる
 
第1節 家族
第2節 仕事
第3節 教会
 
結語
総括
参考文献
 
【本論文写真より】

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写真1 関西ユダヤ教団の外観

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写真2 関西ユダヤ教団の表札

 

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写真3 ローシュ・ハシャナで振舞われた、8種類の食材をのせたプレート

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写真4 シムハット・トーラーの様子

【謝辞】

本論文を執筆するにあたり多くの方々にご協力いただきました。関西ユダヤ教団、副代表のモシャ・ジノ氏には、お忙しい中、たくさんの貴重なお話をしていただきました。そして、関西ユダヤ教団の皆様は、私の度々の訪問を快く迎え入れて下さりました。皆様のおかげで本論文を執筆することができました。誠にありがとうございました。
 

 



 

講と人びと―加古川市八幡町宗佐の事例―

 織田怜奈

 

【要旨】本研究は、現代における講について兵庫県加古川市八幡町宗佐をフィールドに実地調査を行なうことで、その実態を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1.宗佐において現在でも活動している講は、稲荷講、伊勢講、山上講の三つである。

2.時代の変化に伴い、祭礼を行なう日が土日祝の休みの日になっていたり、祭礼が多少簡素化されていたりする。

3.地域の人びとの講への参加は、民俗宗教への信仰という意味もあるが、同時に娯楽や地域内での繋がりを保つという意味も持っている。

4.稲荷講と伊勢講に関しては、信仰という意識より地域の伝統や祠などを維持するための、地域の住民としての役割という意識で参加する人が多い。

5.山上講は大峰山で修行を行なう。

6.山伏であった織田兵次郎は、山上講で先達をしたり呪術で怪我の治療などを行なったりする一方で、村会議員など様々な役職を務め、人びとからの支持を得ていた。

 

【目次】

序章 問題と方法
 はじめに
 第1節 フィールドとしての宗佐
 第2節 問題の確認と本論文の構成

第1章 稲荷講
 第1節 大嶋稲荷講
 第2節 大崎稲荷講

第2章 伊勢講
 第1節 保所伊勢講
 第2節 大北伊勢講

第3章 山上講
 第1節 宗佐の山上講
 第2節 宗佐に生きた山伏

結語
 総括

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 大嶋稲荷講の祭礼のようす

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写真2 保所伊勢講の祭礼のようす

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写真3 大峰山の焼き印がされた金剛杖

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写真4 織田兵次郎が書き記した呪術の本

 

【謝辞】
本論文の執筆にあたり、宗佐の住民の皆様には大変お世話になりました。永惠俊宏さん、竹中芳継さん、小田亀生さん、竹中勇夫さん、織田吉文さん、山内麻菜美さんには特にご協力いただきました。このたびはご尽力を賜り、心より感謝申し上げます。

ハッシュタグ(#)が生み出すフォーク・アイディア ーInstagramにおける花嫁コミュニティの事例ー

【要旨】

 以上、本研究では、Instagram上の花嫁コミュニティを主なフィールドに、花嫁コミュニティ内で生まれ続けるフォーク・アイディア(フォークロアとして何らかの社会的コンテクストを共有する人びとの間で生み出され、生きられるアイディア)について、現在の結婚式に関するアイディアの生まれ方について明らかにしたものである。 

 本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

  1. 2014年までの結婚情報誌登場前までは事業社や親族からの情報提供、慣習の教えが主だった。結婚情報誌登場後からは結婚情報誌が事業社から情報収集を始め花嫁たちへ情報提供という形に変化している。

 

  1. 2014年から2016年のInstagramが日本で普及するまでの間は、ブログやmixiで結婚式に関する情報を発信していた。花嫁たちにとっては新たな情報収集のツールが発生したことにより、ネットから自身で情報収集が容易に出来るようになった。

 

  1. 2016年からは日本でもInstagramが普及し、先輩花嫁や結婚式を控える花嫁たちがアカウントを持った。情報発信や情報収集が簡単に行えるようになった。また#(ハッシュタグ)を用いたコミュニティの発生により、情報共有がさかんに行なえるようになった。このことから、結婚情報誌や事業社からの情報提供よりも花嫁自身が情報発信や収集をし、より新しいオリジナルのアイディアを作っていく環境ができたのではないか。

 

  1. 「#日本中のプレ花嫁さんと繋がりたい」のハッシュタグを用いることで、日本全国の花嫁や花嫁を卒業した卒花嫁とも顔を直接合わせずに情報交換が出来る。このハッシュタグが花嫁コミュニティの中では最大級のコミュニティであるため、この「#日本中のプレ花嫁さんと繋がりたい」をつけることが花嫁コミュニティに参加する第一歩なのではないか。Instagramの投稿数は増加し続けている。

 

  1. 「#日本中の卒花嫁さんと繋がりたい」のハッシュタグは、お譲りを求める花嫁や、既に結婚式を経験した花嫁がどのようなアイディアを結婚式で使ったのか、どのようなことで苦労したのか、どのようなスケジュールで進めていったのか等が投稿されている。また、卒花してからのハネムーンでの後撮りの様子や子どもができ母になるところまでを投稿している花嫁もいる。

 

  1. 「#プレ花嫁の悩み」は、実際に悩んでいることや花嫁ならではの思いが投稿されるコミュニティであり、内容は様々である。同じような悩みを持つ人や誰かに伝えたいけれど理解してくれるのは同じ立場の人、といった思いが垣間見える。投稿に対するコメント欄も共感のコメントや励ましのコメントが多数見受けられた。

 

  1. 「#花嫁DIY」は近年主流になってきている結婚式グッズのDIYに関する投稿が発信されるコミュニティである。アイディアそのものやDIYをお手伝いする代行業者、オリジナリティを求め作成したものをそれぞれの立場から発信している。人とは少し違ったものを、私なりのこだわりをという思いからこの#では新しいアイディアが更新され続けている。

 

  1. 「#ブーケトス」が主流だった時代から、変化しつつある。近年は未婚の招待客が少ない、男性が楽しむことができない、面白い演出をといった声が多くなってきているからだ。ブーケをトスする代わりにお菓子やコスメ、ぬいぐるみなどそれぞれのオリジナリティな演出が増えてきている。

 

  1. 「#フラワーシャワー」も「#ブーケトス」と同じく、アイディアが生まれ続けているハッシュタグの代表例の一つである。生花や造花ではなく、折り鶴や星型の紙、ミッキーの紙、リボンなどが増えてきている。こちらも、オリジナリティを求める演出や、テーマに合わせた個性を見ることが出来る。

 

  1. Instagram上での花嫁コミュニティが普及し活発化しているため、結婚情報誌が情報発信に関して先行していた時代とは異なる姿を見せている。花嫁たちが直接的に情報発信・収集をすることが可能になったからである。よって、花嫁コミュニティがアイディア先行する、結婚情報誌も最近流行している演出などを掲載していく形をとっている。Instagram上の花嫁コミュニティが一番情報が早く確認しやすく、よりリアリティがあるという利点も関係している。

 

【目次】

 

序章 

 はじめに

 第1節 問題の所在

 

第1章 花嫁とメディア、SNSの変遷

 第1節 〜2014年

 第2節 2014年〜2016年

 第3節 2016年〜

 

第2章 Instagram上の花嫁コミュニティ

 第1節 #日本中のプレ花嫁さんと繋がりたい

 第2節 #日本中の卒花嫁さんと繋がりたい

 第3節 #プレ花嫁の悩み

 

第3章 花嫁コミュニティと結婚情報誌

 第1節 #花嫁DIY

 第2節 #ブーケトス

 第3節 #フラワーシャワー

 

結語

 

参考文献・参考URL一覧

 

【本文写真から】

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写真1 #日本中のプレ花嫁さんと繋がりたい 投稿数(2020年1月3日時点)

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写真2 #日本中の卒花嫁さんと繋がりたい 投稿数(2020年1月3日時点)

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写真3 #花嫁DIY 花嫁のリアルな声 (2020年1月3日投稿)

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写真4 #ブーケトスの代わり お菓子トス(2019年4月30日投稿)

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写真5 #フラワーシャワー (2019年7月23日投稿)

 

両替商のゆくえ-奈良県桜井市における商家の近代-

植田悠渡

 

【要旨】

 本研究は、奈良県桜井市と大和高田市に店を構える服地屋「ぜに宗」で実地調査を行ない、代表者の小西宗日出氏と小西一恵氏にお話を伺うことで、時代・人々の流れや扱う商品の変化に対応してどのように商売を続けてきたのか、そして呉服・服地屋として歩んだ近代から現代に至るまでの歴史を記述したものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1.現在、服地屋「ぜに宗」を経営する小西家の発祥は奈良県桜井市の三輪で、創業した江戸時代の寛政2(1790)年当初は両替商として商売をしており「銭屋宗四郎」という屋号を掲げていた。

2.やがて質屋になった「銭屋宗四郎」に呉服が大量に集まるようになる。明治時代を迎えて周りの質屋が銀行に変わっていく中、呉服・服地屋としての営業を始める。

3.桜井市の本町通商店街に店を移し営業を始めた「ぜに宗」は、やがて大和高田市の天神橋筋商店街と奈良市の餅飯殿商店街にも出店し、奈良の三大商店街と言われた場所での営業をするまでに成長した。

4.服地販売の全盛期に桜井店からはスーパーニチイ天理店、大和高田店からはスーパーニチイ大和高田店・西友大和郡山店へ服地部門でのテナント出店を展開し、「薄利多売」を実現した。

5.桜井店の代表である小西宗日出氏は「ぜに宗」の経営の傍ら、「桜井まちづくり株式会社」の代表取締役会長を務め、商店街の活性化や桜井市の都市再生事業に熱心に取り組んでいる。

6.現在は桜井店と大和高田店の二店舗で営業しているが、どちらも周囲に空き店舗が増える中で、客の大半を占める高齢者との対話を重視した接客を心掛けている。

 

 

【目次】

序章
 はじめに

第1章 「銭屋宗四郎」から「ぜに宗」へ
 第1節 両替商「銭屋宗四郎」
 第2節 三輪の小西家
 第3節 「ぜに宗」の誕生

第2章 桜井市本町通商店街への出店
 第1節 出店の経緯
 第2節 スーパーニチイ天理店
 第3節 「ぜに宗」の現在
 第4節 小西宗日出氏とまちづくり

第3章 大和高田市天神橋筋商店街への出店
 第1節 出店の経緯
 第2節 スーパーニチイ大和高田店
 第3節 西友大和郡山店
 第4節 「ぜに宗」の現在

結語
 総括

謝辞

参考文献

参考URL

 

【本文写真から】

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写真1 昔ながらの立派な屋敷が立ち並ぶ三輪の街並み

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写真2 小西家の屋敷跡

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写真3 小西家の屋敷の住所

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写真4 ぜに宗桜井店

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写真5 ぜに宗桜井店の店内

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写真6 ぜに宗大和高田店

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写真8 ぜに宗大和高田店の店内


【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、快くご協力してくださった小西宗日出氏、小西一恵氏をはじめ、今回の調査でお世話になった方々に心より御礼を申し上げます。お店での丁寧なご対応、詳しいお話、貴重な資料のご提供など、お忙しいにも関わらず長時間に渡る取材で家族や店の歴史を教えてくださったことで論文の執筆が進んだことはもちろん、自分の足で歩いて見た街の景色や資料を通して桜井市と大和高田市についての知識も深まり、とても良い経験となりました。本当にありがとうございました。

「物忌」のゆくえ ―伊豆諸島における来訪神伝承の消長―

辻涼香

【要旨】

本研究は伊豆諸島において行われている物忌行事と、物忌の日に現れる「来訪者」にまつわる伝承について、伊豆大島・神津島をフィールドに実地調査を行ない、人々の立場に注目し、伝承の動向を解き明かすことを目的とする。行事に関わる人々を中心的立場(神職)・周辺的立場(一般家庭)・外部(島外の者)の3つに分類し研究した。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。
 
1. 物忌行事の中心的立場(神職)は物忌の日に神迎えを行なっていた。しかし、神事を無闇に語らない傾向があるため、周辺的立場(一般家庭)は神事の詳細を知らされておらず何を迎えているかを知らずに物忌を行なっている。

2. 周辺的立場の者は、中心的立場の者が何を行なっているか詳細を知らず、厳しい物忌だけを行なううちに、なぜ自分たちが物忌をするかという独自の伝承を語るようになった。そのため、たとえば神津島では、「お知らせの神」、「祟られる」、「翁がいた」、「幽霊を見た」というように、中心的立場が迎える神(伊豆の神々、猿田彦大神)とは距離のある話が周辺的立場によって語られている。

3. 伊豆大島では中心的立場が神迎えを行わなくなったため、中心的立場の伝承がほとんど消滅した。周辺的立場の伝承は「悪代官の怨霊が訪れる」「悪代官を倒した25人の若者が訪れる」などと様々だったが、泉津村役場という公的機関が「25人の若者の霊」という伝承を取り上げた結果、その伝承が伊豆大島では主流となった。

4.伊豆大島では、 関東大震災を契機とした生活改善意識の芽生え、戦時中における物忌行事の一時的中断、戦後の生活様式の急激な近代化に伴う生活改善意識の向上により、物忌行事そのものが消えつつある。それに伴い、中心的立場だけではなく周辺的立場が語る伝承も消滅する可能性がある。

5. 「来訪者」が、漫画やインターネットに取り上げられたことにより、島の外部の者も伝承を知り、島内の周辺的立場の外側に、新たな伝承の担い手が生まれた。さらに、「来訪者」に対して独自の解釈を持つ者、「来訪者」の創作をする者が現れたことにより、島内で語られていた伝承とは異なる個別の物語が生まれている。

6. 山口貞夫は『地理と民俗』(1944)で、神の信仰が「低下」した結果、「神」が「怨霊」や「亡霊」になったと述べた。しかし、現地調査の結果、祭祀に関わる立場の違いにより伝承に重層性が生まれており、祭祀の中心的立場の者が消え、伝承の重層性が消失した結果、「神」が「霊」となるという実態があることがわかった。さらに、現在、周辺的立場も消失しつつある。すると、周辺的立場の更に外側の層である外部の立場が語る伝承のみ残り、「霊」から「怪談」「キャラクター」に変化する可能性がある。


【目次】
序章

 第1節 研究史の問題と所在

 第2節 フィールドの概況
  (1)神津島

  (2)伊豆大島

第1章 神津島の二十五日様

 第1節 二十五日様の行事

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

 第2節 二十五日様の伝承

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

第3節 伝承の重層性

第2章 伊豆大島の日忌様

 第1節 日忌様の行事

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

 第2節 日忌様の伝承

  (1)中心的立場

  (2)周辺的立場

 第3節 日忌様の祠と墓

 第4節 伝承の重層性の消失

第3章 伝承のゆくえ

 第1節 地獄先生ぬ~べ~

 第2節 海からやってくるモノ

結語
文献一覧
謝辞

 

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写真1 物忌奈命神社の表鳥居

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写真2 物忌奈命神社の表鳥居に飾られていたイボジリ

 

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写真3 民家に飾られていたイボジリ

 

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写真4 神津島温泉保養センターのお知らせ

 

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写真5 スーパーまるはんの貼り紙

 

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写真6 波治加麻神社の表鳥居

 

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写真7 波治加麻神社の日忌様の祠

 

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写真8 差木地の日忌様の祠

 

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写真9 民家に飾られたトベラ

 

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写真10 日忌様を迎える道




【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々の御協力をいただきました。
 お忙しい中、二十五日様の祭祀と伝承をお聞かせくださった稲葉豊美氏、鈴木郁夫氏。日忌様の祭祀と伝承をお聞かせくださった坂下たか子氏、森口幹彦氏。差木地の日忌様の祠を一緒に探してくださった本多保志氏、ほか調査にご協力いただいた神津島の皆さん、伊豆大島の皆さん。
 皆様のご協力がなければ、本論文は完成しませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

寿司職人の民俗学的研究―N氏のライフヒストリーから―

畠澄代

 

 

【要旨】

 本論文は、現代で活躍する職人の中でも寿司職人を対象にし、埼玉県春日部市の寿司職人Nのライフヒストリーを通じて、寿司職人が修業時代に修得する慣習や職人気質を明らかにしたものである。本論文で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1. 職人という職業は12世紀ごろの中世封建社会において生まれ、経済や物流の面において人々の暮らしを支え続けてきた。現在の寿司は1824年ごろ華屋与兵衛が江戸で江戸前寿司(握り寿司)を考案したことが発祥とされる。第二次世界大戦終戦後、東京に働きに出た人達が江戸前寿司の技術を修得したのち、地元に戻り寿司屋を開いたことで、全国各地に江戸前寿司が伝わり、寿司職人という業種も広まった。

 

2. 寿司職人になるためには、①知り合いの紹介、②縁のない店への飛び込み、③学校の紹介の3つの方法のいずれかで寿司屋に住み込み、修業する。①による採用が多かったが、雇用機会の平等などの政策のため③による採用が増えていった。最近になると住み込みは少なくなり、店に通いながら修業することが多くなった。

 

3. 寿司職人のキャリアは①初職入職・修行層、②職人入職・修行層、③初職入職・定着層、④職人入職・定着層の4つに大まかに分けられる。修業を続けるため店を渡り歩く者や一定の店に留まる者など、自由にキャリアを重ねることができた。

 

4. 寿司職人になるには10年ほど修業しなければならず、修業年数によって修得できる技術が変わってくる。また、店の秘伝を知るためには親方の信頼を得ることが必須で、ある程度修業を積んだものでなければならなかった。この慣習は店の味を守るという点で有効なほか、修業内容の重要ポイントとなり、この技術を修得した弟子たちに自信を与えるという点でも有効だった。

 

5. 技術を修得するためには、親方の作業を盗み見ることが唯一の方法であり、親方に直接聞くことはタブーとされていた。盗み見た後は自分で試行錯誤をしながら技術を磨いていった。弟子は自主性、積極性を持って修業することが求められた。

 

6. 住み込みをしていく中で、親方とその家族、兄弟弟子の間で上下関係や人間性を育んでいった。また技術の向上に努め、一つのことを集中して取り組む精神力が養われていき、修得した技術を後世に伝えていこうとする意志を持つようになる。これは、親方の姿を見て身に付く職人気質というものであり、寿司職人を続ける中で不可欠なものである。

 

7. 住み込みをしながら、ある一定期間働き、特定の技術を修得することを目的とした徒弟制度のもとに、寿司職人は発展してきた。徒弟制度は閉鎖的であり独占的な制度であったため、近代化・産業化に伴い修業層の労働賃金の確保や修業形態の見直しなど、変化が求められた。

 

8. 寿司業界では個人経営店が激減し、そこに勤める従業員数も減少している一方で、法人経営の大型店が台頭し始め、それに伴い従業員数も増加している。これは労働内容をマニュアル化したことによるアルバイトの増加と考えることができる。これにより寿司職人の役割が変化し、従来の徒弟制度にある修業課程は会社経営では廃れていった。

 

9. 寿司職人の高齢化によって、廃業する者や弟子を取れなくなる者が増加し、従来の修業課程の伝承が難しくなっている。

 

10. 寿司職人の後継者不足により、修業方法が積極性を重んじるものから受動的なものに変化した。その結果、修業で身に付く職人の慣習や職人気質が修得しにくくなった。

 

 

【目次】

序章

 

第1章 寿司職人にみる慣習・職人気質
 
 第1節 歴史
 
 (1) 職人の歴史

 

 (2) 寿司と寿司職人の歴史

 

 第2節 寿司職人への道

 

 (1) 職を得る

 

 (2) 修業内容


 (3) 職人気質

 

 (4) 徒弟制度

 

第2章 寿司職人のライフヒストリーと時代による寿司職人の変化

 

 第1節 寿司職人のライフヒストリー

 

 (1) 調査方法としてのライフヒストリー

 

 (2) 調査概要

 

 (3) Nのライフヒストリー 幼少期から少年期

 

 (4) Nのライフヒストリー 少年期から青年期

 

 (5) Nのライフヒストリー 青年期から現在

 

 (6) 寿司職人のライフヒストリーから考えられる寿司職人の慣習・職人気質

 

 第2節 飲食産業の移り変わりと寿司職人

 

 (1) 寿司業界の労働市場

 

 (2) 寿司業界の高齢化

 

 (3) 寿司業界の後継者の有無

 

結語

 

文献一覧

 

 

 

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表 寿司職人N氏の略年表

 

 

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写真 寿司職人N氏の店 正面

【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。お忙しいなか、寿司職人の慣習や職人気質、修業時代の徒弟制度、現代の寿司屋についてお話を聞かせてくださった、寿司職人N氏、N氏の店の従業員の皆さん。資料を提供していただいたH氏、I氏。これらの方々の協力なしには、本論文は完成に至らなかった。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

ファンダムのフォークロア ―SNSにおける相互行為と表現文化―

岩野亜美

 

 

【要旨】

 本研究は、ファンダムの行動傾向について、SNSツールを用いて調査することにより、ファンダムがどのように集い、変化し、社会に影響を与えるのかを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.不特定多数へ向けて発信されたもので、共感・親近感を強く感じるものに、ファンは魅力を感じ、集うだけでなく、つながりを求めて自らコンタクトを取る傾向がある。例えば、好きな作者の作品を購入するだけでなく、その作品の感想を作者が運営するSNSツールに送ることで、自身の想いを作者に直接届け、また、作者からの返事を待ち、返すことで、作者とのつながりを生み出すのである。

 

2.ファンと対象との間に、意見を互いに伝え、評価する環境が存在すると、両者のつながりが強くなる。自身の意見や考えを発信するだけでなく、その意見を汲み取った上でのレスポンスを交換しあうことで、信頼関係の構築と共に、ファンダムという組織が生まれ、組織は大きく強くなる。細かい設定が決まっていない短編の創作漫画の場合、作者がファンの意見を汲み取り、互いの意見を共有した作品作りを行うことで、ファンから強い支持を得ていることも、例の1つである。

 

3.ファンとファン、ファンと対象との間のつながりが強くなると、ファンは対象の周りを取り囲むものすべてに目を向け、それらもファンダムの1つと捉えた行動をとる。対象が身に着けている物を購入し、相手と同じようにファン同士で身に着けたり、対象の経歴を調べたり、対象に少しでも関わりのあるものを宣伝、購入することで相手に利益を生み出そうとする行為なども当てはまる。

 

4.ファンとファン、ファンと対象との間で、暗黙のルールや言葉が生まれる。それは、意図的に作り出されるものではなく、いつ、どこで、誰が生み出したか分からないものであり、時や場所を選ばずルールや言葉を知ることとなる。そして、時が経つとそのルールや言葉は、ファンダムの中でのフォークロアとなり、ファンダムというコニュニティーの一員に属しているという証明にもなる。

 

 

【目 次】

序章

1

 

 

第1章 Twitter

3

第1節     創作漫画「おじさまと猫」

4

 第2節 創作漫画「上司はど天然」

15

 

 

第2章 SHOWROOM

27

 第1節 朝5時半の女「大西桃香」

28

 第2節 元人気アイドル「長濱ねる」

38

 

 

第3章 produce 101 JAPAN

45

第1節 produce 101の地雷「鶴坊汐音」

46

 第2節 元1位の男「川西拓実」

55

 

 

結語

61

 

 

文献一覧

63

 

 

【本文写真から】

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写真1 ファンの声(Twitter)

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写真2 「おじさまと猫」「神と呼ばれた吸血鬼」重版御礼漫画

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写真3 作者の単行本発売報告

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写真4 作者からファンへのアンケート

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写真5 記念日を祝うファン

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写真6 Twitterにトレンド入りする川西のハッシュタグ



民俗学とは何かーマンガ表現による民俗学ー

常数唯


【要旨】

 本稿は、民俗学について、マンガという表現方法を用いることで、民俗学に馴染みがなかった人も興味持ち、理解を深めることを目指したものである。また執筆にあたり、重視した点は以下のとおりである。

 

1.民俗学に馴染みがなくても入り込みやすい展開にする

→主人公を民俗学に触れたことがない学生に

→ゼミに所属することで、民俗学を学ぶ

 

2.学ぶことの面白さを描く

→点数稼ぎや義務としての学問から脱却

→面白いから、知りたいから学ぶ姿勢へ

 

【あらすじ】

 主人公の橋本涼介は甲山大学の2回生。「何事も効率的に」がポリシーで何かにこだわったことのない彼は、一週間後に迫ったゼミ選択で迷っていた。そんなある日、帰り道でどこからか聞こえる不思議な鈴の音に気付く。音を辿るとそこは今まで知らなかった神社。そこで着物を着た謎の狐に遭遇し、驚きのあまり大慌てで逃げ出した。呪いや祟りがあるのではないかと不安に思う彼の前に、現代民俗学の教授である山村先生が通りかかる…

                           

【本文画像から】

 

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画像1 主人公と舞台設定

 

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画像2 謎の狐との遭遇

 

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画像3 山村先生との出会い

行商のゆくえ―佐賀市大和町「味の中島屋」の来歴―

吉岡未央

 

【要旨】
 本研究は、佐賀県佐賀市大和町にある「味の中島屋」をフィールドとして調査を行うことで、大和町やその周辺での行商の在り方、及び行商が形を変えて現在に至るまでの軌跡を解明したものである。
 本研究で明らかになったことは、以下の点である。

1.佐賀市大和町は山側であったため、海の魚の需要があり、大変重宝された。佐賀市大和町や金立町一帯は中島屋の顧客が多く占めていた。

2.中島卯七氏は佐賀市川副町広江で魚を仕入れ、佐賀市大和町やその周辺にほぼ毎日行商しに来ていた。大和町の人びとの求めにより、大和町に定住した。そこで行商と鮮魚の店売りを行った。

3.卯七氏の長男、卯八氏は卯七氏が行っていた行商を再開し、行商に加え、鮮魚の店売りも再開した。材料揃っていたこと、三代目を継ぐ予定であった卯八氏の一人息子、松次氏が料理を得意としていたこと等の理由で、仕出し屋を始めることになった。松次氏が戦死し、三代目は、婿養子として迎えられた正則氏と、卯八氏の六女フミエ氏が継ぐことになった。

4.時代の流れに合わせ、行商は終わりを迎えた。正則氏は鮮魚店と仕出し屋に力を入れて働いた。大変忙しい日々が続いた。ライバル店の影響で、おせち料理を取り扱うようになった。施設給食やスーパーマーケットに鮮魚を卸すようになり、事業を拡大した。

5.正則氏、フミエ氏の長男の義史氏は関西へ修業しに行った。四代目として中島屋を継ぐ際に、中島屋を仕出し部と鮮魚部に分けた。仕出し部は義史氏が、鮮魚部は次男の隆洋氏が継ぐことになった。関西での修業経験が、義史氏を支えている。

6.仕出し料理やおせち料理の注文が年々減少していく現状や時代のニーズを鑑み、今後の仕出し部存続の判断は、四代目義史氏に委ねられている。

7.中島屋は、ただ130年という月日続いてきただけでなく、柔軟な考えを持ち、時代のニーズに合わせ自らを変化し発展させ、受け継がれてきた。生きるために知恵と工夫を凝らし、努力を積み重ねた結果である。目まぐるしい時代の流れの中で、もがきながら模索を続けてきた中島屋だが、今後どうなっていくかはわからない。

 

【目次】
序章 問題の所在
第1章 行商
 第1節 初代、卯七氏
 第2節 二代目、卯八氏
 第3節 三代目、松次氏と正則氏
  (1)松次氏
  (2)正則氏
 第4節 行商の在り方
  (1)日々の行商
  (2)輝雄氏
  (3)行商の幕引き
第2章 鮮魚店
 第1節 行商から鮮魚店へ
 第2節 中島屋の商い
  (1)施設の給食
  (2)スーパーマーケット
第3章 仕出し屋
 第1節 鮮魚店から仕出し屋へ
  (1)仕出し屋
  (2)フミエ氏
 第2節 四代目、義史氏
 第3節 中島屋(仕出し部)の商い
  (1)冠婚葬祭と仕出し
  (2)鉢盛からおせち料理へ
  (3)おせち料理
結語
謝辞
文献一覧

 

【本文写真から】

 

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写真1 佐賀市と福岡県柳川市にある柳川魚市場 *みんなの行政地図(https://minchizu.jp/saga/saga.html)をもとに作成。 赤丸は中島屋、オレンジ丸は行商していた地域、紫丸は鮮魚の仕入れ場、黄緑丸は青果市場のおおよその場所を表している。

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写真2 1930年代後半に完成した中島屋

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写真3 現在の中島屋(2019年11月15日撮影)

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写真4 桂剥きを練習する義史氏(修業時代)

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写真5 雛祭りの御膳

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写真6 2019年度二万二千円(税込み)のおせち料理

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、中島屋に関係する方々のご協力を賜り、完成させることができました。暮れのお忙しい時間の中、私のために時間をさいて頂き、私の質問に耳を傾け、快く返答してくださいました。また、貴重なお話を聞かせて頂き、資料を提供してくださいました。中島義史様、鈴江様、正則様、フミエ様、ご家族の皆様、内田輝雄様、本当にありがとうございました。皆様のお力添え無くして本論文の完成は不可能でした。調査にご協力いただき、感謝の気持ちでいっぱいです。心からお礼申し上げます。

 皆様の、今後の益々のご発展をお祈りいたしまして、私からの謝辞とさせていただきます。誠に、ありがとうございました。