関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ファンダムのフォークロア ―SNSにおける相互行為と表現文化―

岩野亜美

 

 

【要旨】

 本研究は、ファンダムの行動傾向について、SNSツールを用いて調査することにより、ファンダムがどのように集い、変化し、社会に影響を与えるのかを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

1.不特定多数へ向けて発信されたもので、共感・親近感を強く感じるものに、ファンは魅力を感じ、集うだけでなく、つながりを求めて自らコンタクトを取る傾向がある。例えば、好きな作者の作品を購入するだけでなく、その作品の感想を作者が運営するSNSツールに送ることで、自身の想いを作者に直接届け、また、作者からの返事を待ち、返すことで、作者とのつながりを生み出すのである。

 

2.ファンと対象との間に、意見を互いに伝え、評価する環境が存在すると、両者のつながりが強くなる。自身の意見や考えを発信するだけでなく、その意見を汲み取った上でのレスポンスを交換しあうことで、信頼関係の構築と共に、ファンダムという組織が生まれ、組織は大きく強くなる。細かい設定が決まっていない短編の創作漫画の場合、作者がファンの意見を汲み取り、互いの意見を共有した作品作りを行うことで、ファンから強い支持を得ていることも、例の1つである。

 

3.ファンとファン、ファンと対象との間のつながりが強くなると、ファンは対象の周りを取り囲むものすべてに目を向け、それらもファンダムの1つと捉えた行動をとる。対象が身に着けている物を購入し、相手と同じようにファン同士で身に着けたり、対象の経歴を調べたり、対象に少しでも関わりのあるものを宣伝、購入することで相手に利益を生み出そうとする行為なども当てはまる。

 

4.ファンとファン、ファンと対象との間で、暗黙のルールや言葉が生まれる。それは、意図的に作り出されるものではなく、いつ、どこで、誰が生み出したか分からないものであり、時や場所を選ばずルールや言葉を知ることとなる。そして、時が経つとそのルールや言葉は、ファンダムの中でのフォークロアとなり、ファンダムというコニュニティーの一員に属しているという証明にもなる。

 

 

【目 次】

序章

1

 

 

第1章 Twitter

3

第1節     創作漫画「おじさまと猫」

4

 第2節 創作漫画「上司はど天然」

15

 

 

第2章 SHOWROOM

27

 第1節 朝5時半の女「大西桃香」

28

 第2節 元人気アイドル「長濱ねる」

38

 

 

第3章 produce 101 JAPAN

45

第1節 produce 101の地雷「鶴坊汐音」

46

 第2節 元1位の男「川西拓実」

55

 

 

結語

61

 

 

文献一覧

63

 

 

【本文写真から】

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写真1 ファンの声(Twitter)

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写真2 「おじさまと猫」「神と呼ばれた吸血鬼」重版御礼漫画

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写真3 作者の単行本発売報告

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写真4 作者からファンへのアンケート

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写真5 記念日を祝うファン

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写真6 Twitterにトレンド入りする川西のハッシュタグ



民俗学とは何かーマンガ表現による民俗学ー

常数唯


【要旨】

 本稿は、民俗学について、マンガという表現方法を用いることで、民俗学に馴染みがなかった人も興味持ち、理解を深めることを目指したものである。また執筆にあたり、重視した点は以下のとおりである。

 

1.民俗学に馴染みがなくても入り込みやすい展開にする

→主人公を民俗学に触れたことがない学生に

→ゼミに所属することで、民俗学を学ぶ

 

2.学ぶことの面白さを描く

→点数稼ぎや義務としての学問から脱却

→面白いから、知りたいから学ぶ姿勢へ

 

【あらすじ】

 主人公の橋本涼介は甲山大学の2回生。「何事も効率的に」がポリシーで何かにこだわったことのない彼は、一週間後に迫ったゼミ選択で迷っていた。そんなある日、帰り道でどこからか聞こえる不思議な鈴の音に気付く。音を辿るとそこは今まで知らなかった神社。そこで着物を着た謎の狐に遭遇し、驚きのあまり大慌てで逃げ出した。呪いや祟りがあるのではないかと不安に思う彼の前に、現代民俗学の教授である山村先生が通りかかる…

                           

【本文画像から】

 

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画像1 主人公と舞台設定

 

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画像2 謎の狐との遭遇

 

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画像3 山村先生との出会い

行商のゆくえ―佐賀市大和町「味の中島屋」の来歴―

吉岡未央

 

【要旨】
 本研究は、佐賀県佐賀市大和町にある「味の中島屋」をフィールドとして調査を行うことで、大和町やその周辺での行商の在り方、及び行商が形を変えて現在に至るまでの軌跡を解明したものである。
 本研究で明らかになったことは、以下の点である。

1.佐賀市大和町は山側であったため、海の魚の需要があり、大変重宝された。佐賀市大和町や金立町一帯は中島屋の顧客が多く占めていた。

2.中島卯七氏は佐賀市川副町広江で魚を仕入れ、佐賀市大和町やその周辺にほぼ毎日行商しに来ていた。大和町の人びとの求めにより、大和町に定住した。そこで行商と鮮魚の店売りを行った。

3.卯七氏の長男、卯八氏は卯七氏が行っていた行商を再開し、行商に加え、鮮魚の店売りも再開した。材料揃っていたこと、三代目を継ぐ予定であった卯八氏の一人息子、松次氏が料理を得意としていたこと等の理由で、仕出し屋を始めることになった。松次氏が戦死し、三代目は、婿養子として迎えられた正則氏と、卯八氏の六女フミエ氏が継ぐことになった。

4.時代の流れに合わせ、行商は終わりを迎えた。正則氏は鮮魚店と仕出し屋に力を入れて働いた。大変忙しい日々が続いた。ライバル店の影響で、おせち料理を取り扱うようになった。施設給食やスーパーマーケットに鮮魚を卸すようになり、事業を拡大した。

5.正則氏、フミエ氏の長男の義史氏は関西へ修業しに行った。四代目として中島屋を継ぐ際に、中島屋を仕出し部と鮮魚部に分けた。仕出し部は義史氏が、鮮魚部は次男の隆洋氏が継ぐことになった。関西での修業経験が、義史氏を支えている。

6.仕出し料理やおせち料理の注文が年々減少していく現状や時代のニーズを鑑み、今後の仕出し部存続の判断は、四代目義史氏に委ねられている。

7.中島屋は、ただ130年という月日続いてきただけでなく、柔軟な考えを持ち、時代のニーズに合わせ自らを変化し発展させ、受け継がれてきた。生きるために知恵と工夫を凝らし、努力を積み重ねた結果である。目まぐるしい時代の流れの中で、もがきながら模索を続けてきた中島屋だが、今後どうなっていくかはわからない。

 

【目次】
序章 問題の所在
第1章 行商
 第1節 初代、卯七氏
 第2節 二代目、卯八氏
 第3節 三代目、松次氏と正則氏
  (1)松次氏
  (2)正則氏
 第4節 行商の在り方
  (1)日々の行商
  (2)輝雄氏
  (3)行商の幕引き
第2章 鮮魚店
 第1節 行商から鮮魚店へ
 第2節 中島屋の商い
  (1)施設の給食
  (2)スーパーマーケット
第3章 仕出し屋
 第1節 鮮魚店から仕出し屋へ
  (1)仕出し屋
  (2)フミエ氏
 第2節 四代目、義史氏
 第3節 中島屋(仕出し部)の商い
  (1)冠婚葬祭と仕出し
  (2)鉢盛からおせち料理へ
  (3)おせち料理
結語
謝辞
文献一覧

 

【本文写真から】

 

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写真1 佐賀市と福岡県柳川市にある柳川魚市場 *みんなの行政地図(https://minchizu.jp/saga/saga.html)をもとに作成。 赤丸は中島屋、オレンジ丸は行商していた地域、紫丸は鮮魚の仕入れ場、黄緑丸は青果市場のおおよその場所を表している。

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写真2 1930年代後半に完成した中島屋

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写真3 現在の中島屋(2019年11月15日撮影)

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写真4 桂剥きを練習する義史氏(修業時代)

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写真5 雛祭りの御膳

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写真6 2019年度二万二千円(税込み)のおせち料理

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、中島屋に関係する方々のご協力を賜り、完成させることができました。暮れのお忙しい時間の中、私のために時間をさいて頂き、私の質問に耳を傾け、快く返答してくださいました。また、貴重なお話を聞かせて頂き、資料を提供してくださいました。中島義史様、鈴江様、正則様、フミエ様、ご家族の皆様、内田輝雄様、本当にありがとうございました。皆様のお力添え無くして本論文の完成は不可能でした。調査にご協力いただき、感謝の気持ちでいっぱいです。心からお礼申し上げます。

 皆様の、今後の益々のご発展をお祈りいたしまして、私からの謝辞とさせていただきます。誠に、ありがとうございました。

 

 

 

京町家を改修する ―京都市西京区樫原の事例から―

船登大輝

 

【要旨】

 本研究は、京都市西京区樫原をフィールドに、京町家の改修について調査を行なうことで、町並み保存に関わる制度や法が実際にどのように生きられているのかについて明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1. 樫原地域は平成13年に西京区で唯一の界わい景観整備地区に指定されている。当時の樫原自治会のメンバーから構成された樫原街並み整備協議会が、樫原の界わい景観整備地区指定に向けて活動を行なっていた。

2. 補助金改修において、住民は京都市によって見積書の提出を求められる。そのため、 補助金改修を行なう住民は、工務店と連携をとり必要な材料の確保や工事計画についての取り決めを行なわなければならない。また、工事完了後は京都市への完了報告書の提出や完了検査の実施を行なう必要があり、手続きが多く、補助金交付までには時間を要する。

3. 界わい景観建造物の補助金は樫原地域の住民が選択できる補助金の中で最も補助率や補助金上限額が高い。しかし、一年に一度しか補助金を申請できないしくみであるため、住民にとって使いづらいものとなっている。そのため、昨年度までの直近3年間の界わい景観建造物の補助金使用実績は0件となっている。

4. 京都市が定めている補助金制度には、原資がある補助金と原資が無い補助金がある。京都を彩る建物や庭園修理事業補助金は、京都市単独の予算からまかなわれており原資が無い。一方で、界わい景観建造物の補助金及び個別指定町家補助金は国資から一部まかなわれているため、原資がある。補助金改修を行なう住民にとって、原資の有無が補助金の使いやすさを大きく左右する。

5. 京町家における改修では、住民は京都市によって景観の意味で元通りに修復する事が求められる。しかし、京町家に住む住民は、歴史的な建造物であるからこそ元々使用されていた古い形式やサイズに合う材料の確保が困難であり、改修に時間を要する。そのため、京都市に求められる元通りの修復がより合理的になって欲しいと感じている住民もいる。

6. 京都市の補助金は、本来であれば景観の意味で元通りに修復するために使用されるべきものであるため、今回の台風21号のような天災に対する修景に利用する事は趣旨から反れていると感じて、補助金使用を避けた住民もいる。

7. 文化財指定を受けている建物が個別指定町家に対する補助金の補助率よりも低いと不満を抱える玉村家の事例のように、京都市の補助金制度そのものに納得がいっていない住民もいる。

 

【目次】 

序章 問題と方法
 はじめに
第1章 補助金のしくみ
第2章 「個別指定町家補助金」による改修
 第1節 中村家
 第2節 改修までの過程
 第3節 改修を振り返って
第3章 保険金による改修
 第1節 小石家
 第2節 改修までの過程
 第3節 改修を振り返って
第4章 「京都を彩る建物や庭園修理事業補助金」による改修
 第1節 玉村家
 第2節    改修までの過程
 第3節    改修を振り返って
第5章 考察
 第1節 補助金改修と保険金改修
 第2節 3つの補助金
 第3節 京町家の改修とは
結語
謝辞
参考文献・参考URL一覧

 

【本文写真から】

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写真1 中村家 門の様子(改修前)

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写真2 中村家 門の様子(改修後)

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写真3 小石家 焼き板の様子(改修前)

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写真4 小石家 焼き板の様子(改修後)

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写真5 玉村家 へい倒壊時の様子

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、調査にご協力いただいた全ての方にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ご多忙にもかかわらず、何度も訪問に快く対応いただきました中村行夫氏、小石伊久男氏、玉村隆史氏、京都市役所景観政策課の原田氏、京都市役所まち再生・創造推進室の中川氏のお力添えによって本論文を完成させる事ができました。心より感謝いたします。
 この度ご協力いただいた皆様の、今後のますますのご発展とご活躍をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

 

 

ミナミのタバコ屋ー大阪市中央区難波「司光」の世界ー

高樋凌平

 

【要旨】

本研究は、大阪市中央区難波の煙草屋「司光」をフィールドに実地調査を行うことで、130年間存続している煙草屋の歩みを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

  1. 岡村商店の創業者である岡村定次郎氏は、伊勢亀山藩で勘定奉行の役職にあった岡村家の出である。

 

  1. 定次郎氏は、戊辰戦争をきっかけに大阪へ出て行く。その後、十数年の試行錯誤ののち、岡村商店を創業した。

 

  1. 創業当時は、法善寺・竹林寺への参拝者に対してキセル用のタバコを販売することが主だった。

 

  1. 1954年、岡村商店から株式会社司光となった。

 

  1. 司光になって以降の歩みは、人生の大半を司光で過ごした4代目賢司氏のライフヒストリーからうかがえる。

 

  1. 株式会社となった司光は、梅田・堂島・阿倍野の三箇所に支店を構えた。

 

  1. 1971年、賢司氏は仕事として初めて海外へ行った。フランスやデンマークを中心に、パイプに関する学びを深めた。

 

  1. 1973年、ロンドンにある「ダンヒル」へ赴き、そこで本格的にパイプの仕入れを行なった。
  2. 1979年、スイスの会社「ダビドフ」から葉巻取り扱いの依頼を受けた。

 

  1. 1988年、葉巻の勉強のためにキューバへ赴く。

 

  1. 現在は息子の啓司氏に業務の大半を委ね、サポート役に回り、司光を支えている。

 

【目次】

序章 研究の意義

 はじめに

第1章 司光の来歴

第1節 亀山から大阪へ

 第2節 岡村商店創業

 

第2章 岡村賢司氏

 第1節 幼少期

 第2節 青年期

 第3節 海外へ出る

 第4節 賢司氏とパイプ

第5節 賢司氏と葉巻

 

結語 

文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 司光の外観

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写真2 司光店内の様子

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写真3 ドミニカの工場を訪れた賢司氏

 

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写真4 ドミニカのダビドフ

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写真5 完成した葉巻

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ドミニカの工場の様子

 

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

  特に、司光について、そして自身のライフヒストリーをお話ししていただいた岡村賢司氏には感謝の意を示したい。

 彼のご協力なしには、本論文の完成には至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたことに心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

砂丘のムラに生きる―らっきょう農家に嫁いだ一女性のライフヒストリー―

井本佳奈

 

【要旨】

 本研究は、鳥取市福部町のらっきょう農家に嫁いだ香川佐江子氏のライフヒストリーに関して調査を行ない、同氏が砂丘地のムラでどのような人生を送ってきたかについて明らかにしたものである。
 本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

 

1. もともと、福部町は日本海に面しており海が近いため、都会から海水浴に来る観光客が多かった。そのため、嫁いだ当時、香川氏も含め夏は周辺ほとんどの家が民宿を営んでいた。

 

2. 過酷な植え付け作業を工夫しながら行う年配の植え子さんの姿を見て、佐江子氏が農協や県の普及員に相談を持ち掛けたことが、腰に巻くバンドや植え付け作業衣「涼かちゃん」開発のきっかけとなった。

 

3. らっきょうの砂畑は標高も高く風が強いので、飛砂対策として網を張っている家もあるが、取り付けや回収が大変なので、佐江子氏はライ麦を蒔いて根を張らせて砂が動かないようにしている。刈ったライ麦は自家栽培しているスイカの日焼け対策に有効利用している。

 

4. 収穫の際、専業農家なら女の人がトラクターに乗る必要はないが、夫・恵氏が勤めに出ていたので、恵氏が退職するまでは佐江子氏が女性でありながらトラクターに乗っていた。当時は専業農家が多かったので、女の人がトラクターに乗るのは珍しいということで取材されるようになった。

 

5. 香川氏の家では、元肥ではなく、作条施肥という方法を肥料を手散布している。この方法は、保肥力が低い砂に適しているうえ、らっきょうに肥料が効率よく当たり肥料代も削減できるという利点がある。もともと元肥をする家が多かったが、佐江子氏が勉強会で意見を出すなどして、作条施肥をする家も増え始めた。

 

6. 現在では、らっきょう生産の規模が大きくなり、家族だけでは仕事を捌ききれないので、らっきょうを切る切り子さんや、収穫する掘り方さんを雇っている。

 

7. 女の人は自分が良いものを作りたいから他の人に聞いたり、逆にアドバイスもしたりするが、男の人はプライドがあり、あまり人に聞かないので、女の人が中心になって作る家は良いらっきょうができる。

 

8. らっきょう栽培は冬場は仕事がないので、らっきょうの早取りであるエシャロットを作り始める。そのグループ「エシャロット組合」の団結で、無名のエシャロットを広めていった。

 

9. 嫁いだ当時は、らっきょうと民宿に加えて、梨も栽培していた。しかし、梨は手がかかり台風の影響を受けやすいので、梨の代わりとしてメロン栽培をはじめた。

 

10. 佐江子氏は年代別グループ「若妻グループ」に所属しており、そのグループを通して恩師である元県知事の妻・るり子氏に出会い、「農業はアホじゃできん」と相談したことがきっかけとなり「農業婦人大学」がつくられた。そこで行なわれたリーダー研修が、のちに事を起こす際、声を上げ人を巻き込む佐江子氏に役立った。

 

11. 夫・恵氏が勤めに出ていたので、佐江子氏は義父母相手に自分がしないといけないという意識をもっていた。それと同時に、「若妻グループ」や「エシャロット組合」、「農業婦人大学」などさまざまなグループがあったことから、県や農協との繋がりもでき、さまざまな勉強ができた。

 

12. エシャロット組合でさまざまな話をするようになってから、らっきょうの価格暴落を繰り返す現状に危機感を抱き始めた。そこで、どうしたら若い人にもらっきょうを買ってもらえるか考えて生まれたのが、らっきょう漬け方講習であった。はじめは、浜湯山の二人で行なっていたが、その後各集落にも呼びかけ、現在は十人で漬け方講習を行なっている。

 

13. 漬け方には昔ながらの本漬けと、簡単に漬けられる簡単漬けという二つの漬け方があるが、今はとにかく若い人に漬けてほしいので、簡単漬けを推進して講習を行なっている。

 

14. 一時期、佐江子氏はメロンを出荷する箱に、らっきょうの花を添えて入れていた。その花が評判が良かったことから、エシャロット組合で協力して花を摘み、においが出ないよう試行錯誤もして『プリティアリウム』と名付けて出荷していた。

 

 

【目次】

序章 問題の所在とフィールドの概況
 第1節 問題の所在
 第2節 フィールドの概況  

第1章 らっきょう農家に嫁ぐ
 第1節 らっきょう
(1) 植え付け
(2) 灌水
(3) 飛砂対策
(4) 肥料
(5) らっきょう堀り
(6) 出荷とらっきょう切り
(7) 植え付け準備と反省会
(8) 種堀りと種の消毒
 第2節 エシャロット
 第3節 梨からメロンへ
(1) 梨
(2) メロン

第2章 農家の女性たち
 第1節 女性たちのグループ
  (1)若妻グループ
  (2)農業婦人大学
  (3)エシャロット組合
 第2節 らっきょう漬け方講習会
  (1)漬け方講習会
  (2)らっきょうの簡単漬け
  (3)人に教える
 第3節 らっきょうの花
  (1)『プリティアリウム』
  (2)らっきょうの花のおせんべい
  (3)鳥取市の花

結語
謝辞
文献一覧

 

【本文写真から】

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写真1 らっきょう栽培五集落 *国土地理院1:25,000地形図「鳥取北部」(2016年発行)、「浦富」(2018年発行)をもとに作成。

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写真2 植え付け作業衣『涼かちゃん』

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写真3 香川家の植え付け時のらっきょう畑の様子

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写真4 植え付けを行なう香川佐江子氏

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写真5 農業婦人大学の修了証書 (平成5年2月19日)

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、香川佐江子様をはじめ多くの方にご協力をいただきました。お忙しい中何度も訪れたにも関わらず、快くご自身の貴重なお話をたくさん聞かせて下さり、資料も提供していただきました香川佐江子氏。らっきょうの植え付けという貴重な体験もさせていただきました佐江子氏と旦那様の恵氏、並びに植え付けを教えて下さった植え子の皆様。そのほか情報提供をしてくださいました、農家の皆様。これらの方々のご協力なしには、本論文を執筆することはできませんでした。
 今回の調査にご協力いただいた全ての方々と佐江子氏との出会いに、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

商いの消長 ―豊中市服部にみる地域の変貌と商業の展開―

藪下華奈

 

【要旨】

本研究は、豊中市服部をフィールドに、この地で商いを展開してきた半田修二氏と上芝茂樹氏の2人のライフヒストリーをとりあげ、これを時代とともに変化する服部の町の様子と照らし合わせて解明したものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

 ①半田家は、先祖代々百姓だったが、戦前に与吉氏が周りに住む親族に田を任せ、商いを始めたことから修二氏の代まで商いが続いてきた。

 

②戦後、酒を売る免許の再申請が求められ、周りのほとんどの酒店が排除されたが、与吉氏と息子の喜一氏が経営していた「半田酒店」は、売り上げが安定していたため、商いを継続できた。昭和44年には、修二氏が新たに「半田屋」を服部阪急商店街に開業した。この頃、多くの文化住宅やアパートなどが周辺に建てられ、人口が増加しており、商店街を訪れる客数も年々増えていった。「半田屋」の売り上げも右肩上がりとなった。

 

③修二氏は、喜一氏とともに昭和56年に「株式会社 半田喜一」を設立し、酒店の店舗を増やしたり、飲食店、マンション、スーパーなどの経営も始めた。マンションやスーパーなどは、昭和後期から平成初期にかけて特に流行していたため、修二氏も始めてみようと決意したのであった。多くの事業を展開させてきたが、阪神淡路大震災によるスーパーの倒壊を契機に、「半田屋」に専念することにした。

 

④修二氏は、「半田屋」を営業しながら、売り上げを継続することと服部に貢献したいという思いでさまざまな会の役割も担当した。しかし、平成に入ってから、空港騒音問題を要因とする文化住宅などの立ち退きによる人口減少や、スーパーやコンビニなどの進出によって、売り上げは減少した。「半田屋」は平成21年に閉店し、「株式会社 半田喜一」も現在はもうない。しかし、修二氏を知る人は多く、服部の町づくりや、商店街について現在も相談を受けることがある。

 

⑤上芝家の商いは、定次郎氏が服部で商いを始め、その後、常一氏と百合子氏の夫妻が昭和25年に服部天神駅前で「のせや」といううどん屋を開業したことに始まる。その後、親族のなかに服部天神駅周辺で店をはじめる者が現われるようになった。

 

⑥「のせや」を開店した当時、周りに同業者はおらず、隣町からの出前注文も受けていたこともあり、売り上げが安定していた。昭和36年には、駅から徒歩5分圏内の土地を買い、「孔雀荘園」という文化住宅を建て、経営を始めた。

 

⑦昭和30年代前半に一族も駅前で商いを始めた。上芝家の親族たちの店はすべて、駅前に密集して建っていたため、店が混みあったり、仕込みが間に合わない際などは互いに助け合っていた。

 

⑧常一氏は、昭和39年に「喫茶店 ピーコック」を開業した。この頃、東京オリンピックが開かれ、東京だけでなく、大阪も盛り上がっており、売り上げが向上した。「中央営繕」という不動産屋も始めたり、昭和50年には、「ピーコック 西店」を駅の西側に新たに開店するなど商いを展開させていった。

 

⑨昭和53年に常一氏が亡くなり、茂樹氏が継いだ後、「珈琲豆専門店 ピーコック2」を開業した。茂樹氏の長男、英司氏が「喫茶店 ピーコック」を継ぐことになり、茂樹氏は「珈琲豆専門店 ピーコック2」で自家焙煎を行なうなど、時代の変化に合わせて営業を継続している。

 

⑩「珈琲豆専門店 ピーコック2」は、3年後に駅前整備のため立ち退きとなる。「ピーコック 西店」の場所に移動するとのことだが、今後どのように展開していくのかはわからない。

 

【目次】

序章 問題の所在とフィールドの概況

 第1節 問題の所在

 第2節 フィールドの概況

第1章 半田家と商い

 第1節 穂積村での商い

  (1)与吉氏と商い

  (2)喜一氏と商い

  (3)修二氏と商い

 第2節 商いの拡大

  (1)服部阪急商店街

  (2)株式会社 半田喜一

 第3節 さまざまな会

  (1)酒販組合

  (2)服部阪急商店街振興組合

  (3)服部をよくする会

第2章 上芝家と商い

 第1節 駅前での商い

  (1)常一氏、百合子氏と商い

  (2)一族と商い

 第2節 さまざまな事業の展開

  (1)常一氏と事業

  (2)茂樹氏と事業

 第3節 服部の現在と上芝家

  (1)英司氏

  (2)親戚たちとその後

  (3)茂樹氏

結語

 総括

 謝辞

 参考文献

 

 

【本文写真から】

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写真1 服部阪急商店街の位置 ※服部バルMAPをもとに作成

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写真2 服部西町に現存する文化住宅

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写真3 酒販新聞に載る「半田屋」

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写真4 上芝家が商いを展開した駅前の一角 ※服部バルMAPをもとに作成

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写真5 「喫茶店 ピーコック」

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写真6 「珈琲豆専門店 ピーコック2」

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 ご多忙の中、ライフヒストリーをお話してくださった半田修二氏、上芝茂樹氏、上芝英司氏。服部阪急商店街についてお話を聞かせてくださり、様々な貴重な資料を提供してくださった鳥羽伸美氏、山下順朗氏、前野雅文氏。

 これらの方々のご協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいたすべての方々に心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

民俗学者の形成 ―北海道民俗学者阿部敏夫のライフ・ヒストリー―

山田彩世

 

【要旨】

本論文は、ある一人の民俗学者に焦点を当て、在野のフィールドワーカーとして生活の当事者の目線で研究するとはどういうことなのか、ということを阿部敏夫という一人の学者を取り上げて明らかにしたものである。

本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

①少年期

秋田県出身の父と北海道栗山町出身の母のもとに生まれ、経済的に貧しかった家庭環境の中で北海道栗山町という自然豊かな土地で兄弟姉妹たちに囲まれながら育った。

②青年期

中学・高校・大学では金銭面に苦しみながらアルバイトに勤しむ日々を送った。また、中学時代にキリスト教と出会い、大学1年生の時に洗礼を受けクリスチャンになった。

③国語教師時代

牧師になるか、教師になるか迷った末、教師人生を選択した。生徒との葛藤もあり挫折したこともあったが、周囲の助けと教師としての喜びを心の支えにして乗り越えてきた。

④採訪の日々

古典教材の作成をきっかけに民間説話に出会い、同僚の先生や大学時代の先生との関わりの中で最終的に民俗学に出会うこととなる。その後、高校教師の傍ら自らもフィールドワーカーとして民間説話の採集に出かけていくようになり、厚別の龍神さんや北広島市の大蛇神社の伝説など北海道民間説話の事例研究をこれまで行なってきた。

⑤民俗学者になる

高校教師を退職後、大学教授としてこれまで集めた民間説話の資料の分析や集約に取り組んだ。阿部は、「北海道には民俗の原初的な姿が見られる」として、北海道から日本や世界の文化を見ていきたいと展望している。また、今後の課題として、北海道におけるまちづくりのなかの民間説話を中心とした歴史編さん、民俗研究に取り組みたいと考えている。

 

【目次】

序章 研究の意義

 はじめに

第1章 少年期

 第1節 両親のルーツ

  (1)鉄五郎

  (2)みのり

 第2節 栗山町で育つ

第2章 青年期

 第1節 中学・高校時代

 第2節 大学時代

  (1)アルバイトと大学生活

  (2)クリスチャン

第3章 国語教師として生きる   

 第1節 牧師と教師

  (1)牧師になる夢

  (2)教師として生きる

 第2節 葛藤の日々

  (1)教師人生の挫折

  (2)支えと喜び

第4章 採訪の日々

 第1節 民俗学との出会い

 第2節 フィールドワーカーとして

 第3節 厚別の龍神さん

 第4節 北広島市「大蛇神社」伝説

第5章 民俗学者になる

 第1節 博士論文執筆

  (1)大学教授時代

  (2)国際的な交流活動(中国・大連と韓国・ソウル)

  (3)『北海道民間説話〈生成〉の研究―伝承・採訪・記録―』

 第2節 阿部敏夫の民俗学

結語

 総括

文献一覧

 

【本文写真から】 

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写真1 高校教員時代の授業風景 ※『栗山ふるさと文庫15―栗山の史実・民話―記憶から記録へ』より

 

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写真2 1982年7月24日の御神像遷座奉告祭の様子(麻生氏の所蔵写真より) 前列左には調査をしている阿部が写っている。



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写真3 阿部敏夫氏(2019年10月4日撮影)

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 お忙しい中、ご自身のライフ・ヒストリーを語ってくださったうえ、文献や貴重な資料をたくさん提供してくださいました、阿部敏夫氏。

 「厚別の龍神さん」に関する貴重なお話を聞かせてくださり、さらに資料の提供や「金沢農場」跡地まで車で案内してくださいました、麻生大八郎氏。

 「大蛇神社」の伝説に関するお話を聞かせてくださり、たくさんの資料を提供してくださいました、荒木順子氏。

 皆様のご協力がなければ、本論文は完成しませんでした。ご多忙の中、お時間を割いていただき、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

学術交流協定締結(関西学院大学世界民俗学研究センター・華東師範大学民俗学研究所)

関西学院大学世界民俗学研究センターは、2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所(徐赣丽所長)と学術交流協定を締結しました。

華東師範大学民俗学研究所は、2012年に同大学社会発展学院の中に設立された研究所で、専任教授3名、兼任教授2名、専任准教授2名、専任講師2名、専任研究員1名、博士研究員6名、所属大学院生48名(博士課程25名〔留学生4名〕、修士課程23名)によって組織される、中国における民俗学研究の一大拠点です。

今後、世界民俗学研究センターとの間で、研究情報の交換、研究者交流をはじめ、さまざまな研究交流が行なわれることになっています。

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左:徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)  右:島村恭則

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華東師範大学民俗学研究所講演「民俗学的視角とは何か―ディオニュソスとヴァナキュラーを中心に―」

2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所において講演「民俗学的視角とは何かーディオニュソスとヴァナキュラーを中心にー」 (何谓“民俗学视角”——以狄奥尼索斯与vernacular为中心)を行ないました。

当日は、同研究所で学ぶ約50名の大学院生が集まり、講演終了後も民俗学の理論をめぐって活発な討論が続きました。講演の機会を与えてくださりました徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)に深くお礼申し上げます。

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第10回国際都市社会フォーラム 華東師範大学社会発展学院

第10回国際都市社会フォーラム
華東師範大学社会発展学院
2019 年10月25–27日

日本からの招待講演者は、徳丸亜木教授(前日本民俗学会会長・筑波大学)、菅豊教授(東京大学)、島村恭則(関西学院大学)。

島村恭則「ディオニュソス的なるものと民俗学」

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