関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

学術交流協定締結(関西学院大学世界民俗学研究センター・華東師範大学民俗学研究所)

関西学院大学世界民俗学研究センターは、2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所(徐赣丽所長)と学術交流協定を締結しました。

華東師範大学民俗学研究所は、2012年に同大学社会発展学院の中に設立された研究所で、専任教授3名、兼任教授2名、専任准教授2名、専任講師2名、専任研究員1名、博士研究員6名、所属大学院生48名(博士課程25名〔留学生4名〕、修士課程23名)によって組織される、中国における民俗学研究の一大拠点です。

今後、世界民俗学研究センターとの間で、研究情報の交換、研究者交流をはじめ、さまざまな研究交流が行なわれることになっています。

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左:徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)  右:島村恭則

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華東師範大学民俗学研究所講演「民俗学的視角とは何か―ディオニュソスとヴァナキュラーを中心に―」

2019年10月25日、華東師範大学民俗学研究所において講演「民俗学的視角とは何かーディオニュソスとヴァナキュラーを中心にー」 (何谓“民俗学视角”——以狄奥尼索斯与vernacular为中心)を行ないました。

当日は、同研究所で学ぶ約50名の大学院生が集まり、講演終了後も民俗学の理論をめぐって活発な討論が続きました。講演の機会を与えてくださりました徐赣丽所長(華東師範大学民俗学研究所教授)に深くお礼申し上げます。

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第10回国際都市社会フォーラム 華東師範大学社会発展学院

第10回国際都市社会フォーラム
華東師範大学社会発展学院
2019 年10月25–27日

日本からの招待講演者は、徳丸亜木教授(前日本民俗学会会長・筑波大学)、菅豊教授(東京大学)、島村恭則(関西学院大学)。

島村恭則「ディオニュソス的なるものと民俗学」

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蚌埠市博物館講演(2019年10月29日、安徽省蚌埠市)

蚌埠市博物館講演(2019年10月29日、安徽省蚌埠市)
「治水をめぐる伝承と信仰―日本列島の事例―」

安徽省蚌埠市は、中国最古の王朝「夏」を創始した帝王、禹王に関わる遺跡が発掘された場所です。中国において禹王は治水英雄として知られており、今回の講演では、日中の学術・文化交流促進の観点から、日本にも存在する禹王に関する文化遺産(治水神として祭祀されている事例など)を紹介しつつ、治水をめぐる伝承・信仰の日中間の異同について解説しました。講演には、150名を超えるが蚌埠市民が集まり、講演後も活発な質疑応答が続きました。

今回の講演にお招きくださった中国社会科学院考古研究所研究員の王吉懐先生、蚌埠市博物館の季永館長はじめ博物館の皆さま、貴重な資料をご提供くださった中国大禹文化研究中心安徽分会副会長・秘書長の高群先生はじめ、現地の皆さまに深く御礼申し上げます。f:id:shimamukwansei:20191102143024j:plain

 

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蚌埠市禹会村遺跡・塗山(大禹王伝承地)調査

蚌埠市禹会村遺跡・塗山(大禹王伝承地)調査
2019.10.30 安徽省蚌埠市

https://mp.weixin.qq.com/s/WCKe6tQAgAsu9feQccOnhQ

安徽省蚌埠市は、中国最古の王朝「夏」を創始した帝王、禹王に関わる遺跡が発掘された場所であり、今回は、禹王にまつわる遺跡・伝承とそれを活用した国家遺跡公園の建設プロセスについてその実態を調査しました。

現地をご案内いただいた中国社会科学院考古研究所研究員の王吉懐先生、蚌埠禹会村遺跡国家考古遺跡公園管理処主任の王海軍先生をはじめ、現地の皆さまに深くお礼申し上げます。

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労働者のまち・室蘭のやきとり

【目次】

はじめに

1.鳥よし(輪西)

2.浜勝(母恋)

3.吉田屋(室蘭)

4.鳥竹(東室蘭)

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに

北海道室蘭市は「鉄のまち」といわれている。夕張等の空知管内で採取された石炭を、明治25年に敷かれた鉄道で室蘭まで運び、室蘭の港で石炭を積み、室蘭は本州まで送る石炭の積み出し港として発展した。多くの石炭が室蘭に運びこまれ、その石炭によって室蘭に製鉄所と製鋼所の2大工場が誕生した。昭和40年頃、室蘭はそこで働く労働者やその家族が住み、夕方には仕事終わりの労働者が飲食街や繁華街に繰り出し、呑み屋ややきとり屋で飲み食いして帰っていたようだ。

そんな北海道室蘭市は全国的に見ても圧倒的にやきとり屋の数が多い。平成12年11月時点ではやきとり専門店は67店存在し、人口一万人当たりに換算すると6.4店になる。

そんな室蘭市のやきとり屋では室蘭やきとりが売られている。しかし、室蘭やきとりは一般的な焼き鳥とは違う。室蘭やきとりには3つの特徴がある。

1つ目は、鶏肉でなく豚肉を使っている点である。焼き鳥と同じ作り方をしているが、鶏肉を使っていないことからひらがなで「やきとり」という表記が使われている。昭和初期に豚のモツや野鳥(スズメなど)が屋台で串焼きにして多く食べられていたようだ。また、昭和15年には、軍需品の量産や食料用増産のために、豚が飼育されていた。鶏肉よりも安く手に入った豚肉が室蘭やきとりに使われたようだ。

2つ目の特徴は一般的な焼き鳥では長ネギを使用するところが多いが、玉ねぎを使用する点。玉ねぎは北海道が産地であり、長ネギよりも安く手に入り、豚肉との相性が良いため定着した。

最後は洋からしにつけて食べる点である。これは諸説あるが、もともと室蘭やきとりをおでんと食べることが多く、そのおでんのからしにやきとりをつけて食べたことが始まりという話がある。

今回、室蘭やきとりを調査するにあたり、やきとり屋が多く存在する室蘭市の輪西、母恋、室蘭、東室蘭に室蘭やきとりが深く根付いていると考え、この四つの地域にあるやきとり屋を調査することにした。

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写真1.室蘭やきとり

 

1.鳥よし(輪西)

輪西は現・日本製鉄室蘭製鉄所の企業城下町といわれている。製鉄所の労働者の住む長屋社宅は輪西に存在していた。

製鉄所で働く労働者は7:00から15:00、15:00から22:00、22:00から7:00の三つの時間帯に分かれて3交代制で働いていた。そんな製鉄所の労働者は仕事が終わると製鉄所の通用門という出入口から出てきて輪西の商店街に繰り出し呑み屋や、やきとり屋で飲み食いして家に帰っていたそうだ。

昭和50年頃にはアジアやほかの製鉄所の方が安いことから室蘭の製鉄所がなくなってしまうのではないかとうわさされた。製鉄所の労働者は支社に転勤することになったり、新たな労働者が雇われることがなくなったりした。そのため、社員の数を減らしたことで社宅に住む人も減少し、製鉄所の会社も社宅自体を維持することが困難な状況であった。また、長屋社宅は社有地の面積をとり、家庭風呂が付いていない等の企業側にも・住民側にもそれぞれ不便な点もあった。そこで、土地のあまった東室蘭に鉄筋アパ―トを建設し、そこへ移り住んだ。また、昭和40年・50年頃には持ち家制度が導入され、各自の家を建てた。その結果、1980年代には輪西に長屋社宅は少なくなり、製鉄所の労働者は東室蘭へ移り住んでいった。

室蘭は製鉄所や製鋼所、関連会社の労働者を相手に商売を行っていたため、「鉄冷え」や人の移動と同時に商店街も栄えず町の景気が下がってきた。

また、輪西の商店街の店はぷらっと・てついちという複数商業施設に場所を移し、シャッターを下ろす商店もあった。

輪西のやきとり屋として、鳥よしを調査した。鳥よしは室蘭市内で一番古いやきとり屋である。鳥よしが始まったきっかけは昭和8年にまでさかのぼる。現在の鳥よし店主である小笠原光好さんの父、小笠原連之介さんは活版印刷業をしていた。昭和8年、連之助さんは仕事のために母恋から帯広へ出張に出かけた際に旅館の近くにあった「鳥よし」というやきとり屋を見つけた。帯広には軍隊があり、そこから出る残飯で豚を育てており、豚を使ったやきとりが帯広で売られていた。そこで、やきとりの修業を経て、室蘭に「やきとり」を持って帰ってきたことが鳥よしのはじまりである。当時、室蘭にはやきとり屋はなかったため、室蘭のやきとりのはじまりでもあるのだ。

その後、リアカーのような屋台で転々とやきとりを売ることから始め、昭和12年には光好さんの母、小笠原ハツヨさんが人の多い輪西にやきとり屋を構えた。しばしば警察に注意されることもあったが、昭和12年7月3日に警察の許可を得て正式に店舗でやきとり屋を始めることになったのである。

製鉄業が盛んだった頃、輪西には260店舗ほど様々な店舗が存在しており、とても賑わっていた。鳥よしが店舗を構えている通りでは10店舗ほどやきとり屋が営業していた。当時、鳥よしの客層は製鉄所やその関連会社の労働者がよく出入りしていた。鳥よしは三交代の7;00~15;00、15:00~22:00で働く労働者の仕事帰りに合わせて、15:00~23:00で営業していた。

鳥よしに通っていた労働者は鳥よしでその日に会社で起こったことや愚痴を語り合い、上司が注意し、労働者は反省し、失敗や嫌な気持ちを持ち越さずに、次の日の仕事を頑張ろうと意気込んでいたようだ。最後は上司がすべてのお金を払って帰っていく。当時の労働者にとって居酒屋ややきとり屋は話をする場として大切な場として存在していたようだ。

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写真2.鳥よし

 

2.浜勝(母恋)

母恋は日本製鋼所室蘭製作所の企業城下町であった。輪西と同じく母恋には製鋼所の労働者の社宅があったが、高度経済成長期には持ち家制度が生まれ、社宅は(※抜け?)

製鋼所の労働者は、3交代制でA番:8:00から16:00、B番:16:00から24:00、C番:24:00から8:00をローテーションして働いていた。

母恋のやきとり屋としては、浜勝を調査することにした。浜勝は昭和44年に創業したやきとり屋である。浜勝屋の現店主の父はサラリーマンであり、今の浜勝の建物をお寿司屋など他の店に貸していた。サラリーマンを辞めてからは、現店主の母と一緒に今の浜勝の建物でやきとり屋をはじめたのがきっかけである。そこから、今の店主が2代目として店を継いでいる。

製鋼所から正門を通って家に帰る途中のA番、B番で働く労働者の仕事帰りに合わせて、浜勝は16:30から27:00で営業していた。開店までは豚の内臓をゆで、食材を切り、豚肉や食材を串にさして仕込みをしていた。当時浜勝に来る客は製鋼所で働く労働者ばかりで女性や子供は来ることはなかった。席数は40席だったが、常に席は埋まる。5人客でくれば、酒と60本のやきとりを食べるように、やきとりとビールを注文する人が多かった。帰りは、家で待つ製鉄所の労働者の家族にお土産としてやきとりを買っていく人もいたようだ。

浜勝に入るとすぐに席に着き、やきとりとビールが来ると、ビールで乾杯する。最初は野球や車などの娯楽の話をしてその日の仕事のことを忘れようとする。しかし、次第にお酒に酔ってくると、仕事の愚痴をこぼす。上司は酒を飲まずに、部下の愚痴を聞いて帰っていく。

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 写真3.浜勝

 

3.吉田屋(室蘭)

中央町・海岸町辺りの蘭西地域を総称して市民は「室蘭」と呼ばれる。室蘭は室蘭市の中心の町であり、室蘭は市役所や中島屋などのデパートだけでなく、パチンコや映画館などの娯楽施設があり、行政的にも商業的にも栄えていた。そのため、平日の仕事帰りには労働者が職場のある町の商店街で呑み屋ややきとり屋へ寄っていたが、休日になると、室蘭市民は室蘭に繰り出していた。ARCSという大型スーパーの向かい側は、今から50年ほど前までラーメン屋ややきとり屋が屋台を出店し賑わっていたが交通整備をする時に撤去されてしまった。

室蘭のやきとり屋として、吉田屋を調査することにした。昭和21年に現店主の夫の御両親が創業した。今は場所がかわり、三代目の店主が一人で吉田屋を営業している。室蘭が栄えていた当時に吉田屋が店を構えていた通りは飲食街で、近くには繁華街もあり、周囲は飲食店ややきとり屋、人であふれかえっていた。どんな店でも「やきとり」を売っていないと客が入ってこないほど、室蘭に住む人々によってやきとりは人気な食べ物であった。

当時は仕込みが忙しく、吉田屋では豚をさばき、豚の内臓を洗ったり、ゆがいたりして、一日に800本のやきとりを仕込む。仕込みの時は人を雇って3人から5人で9:00から13:00の時間で行い、開店時間の17:00まで睡眠をとって、17:00から吉田屋を営業していた。鳥よしや浜勝は製鉄所や製鋼所の3交代の時間に合わせて営業をしていたが吉田屋は3交代の制度とは関係なく、17:00から21:00で営業をしていた。市役所で働く人々、職工(造船会社や製鋼所で働く人々)といった客層が吉田屋に通っていた。17:00から市役所で働いた人が、18:00以降は仕事終わりの職工が吉田屋に訪れた。夜遅くにはパチンコをした客が、吉田屋に来る。やきとりとビールや日本酒といった酒を売り、多いときにはすべてのやきとりが売れ切れた。

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資料4.吉田屋

 

4.鳥竹(東室蘭)

市の面積が狭く平地が少ない室蘭は昭和50年代になると持ち家の増加等に伴い、さらに狭小地となっていった。人々にとって車社会が一般的になってくると、駐車場が必要となるために丸井百貨店や長崎屋などの大きなデパートは室蘭ではなくたくさん土地がある東室蘭へと移店して駐車場付きの百貨店やデパートが建設された。この大きなデパートの移店によって室蘭市の中心は室蘭から東室蘭へ変わり、室蘭市の人々は室蘭ではなく東室蘭に買い物をしに来るようになった。また、東室蘭にも製鉄所の社宅が存在していた。

東室蘭のやきとり屋として、鳥竹を調査することにした。

店主は20歳まで働いていた親戚のパン屋さんをやめ、雑貨屋を営んだが大きなデパートに勝てないと感じ、丸井が東室蘭に移動すると同時に店主の兄と東室蘭で鳥竹を創業した。

鳥竹では9:00から室蘭市の隣の登別まで豚肉を仕入れに行き、そこから店に戻って仕込みをし、17:30から27:00まで営業していた。製鉄所の労働者や市役所で働く人々が客として通っていた。やきとり屋だけではなくスナックも多い。スナックではお金を払わずツケる人が多かったため、スナックの店主たちは製鉄所の正門で待ち伏せをしていたという話もある。

鳥竹に通う客も出張の人と飲みに来て仕事の話をしていたようだ。

 

結び

今回、輪西、母恋、室蘭、東室蘭におけるやきとり屋の調査を行った。

輪西のやきとり屋では製鉄所の労働者、室蘭のやきとり屋では諸役所で働く人や職工、などそれぞれの場所によって客の対象が違うことが分かった。また、営業する時間も対象としている客のライフスタイルや仕事時間に合わせて営業していた。

やきとり屋で行われる客の会話から、室蘭の労働者にとってやきとり屋は仕事から離れることのできる場所でもあり、翌日の仕事へマイナスな感情を持ち込まないように、その日の仕事の失敗や愚痴を話すことのできる場所であったようだ。やきとり屋は室蘭の労働者にとってなくてはならない場所であったと考える。

しかし、現代では車社会によってバスや電車で仕事に向かい、家に帰ることが多くなり、仕事が終わってもやきとり屋で酒を飲みながら仕事や娯楽について話して帰る人達は少なくなってきた。車に乗るために飲酒をすることができないからである。やきとり屋や居酒屋に寄って帰らずに仕事が終わるとそのまま帰る労働者が多くなった。このことからやきとり屋は衰退しているといえるのではないだろうか。また、室蘭の労働者にとっても仕事や趣味の話ができる時間や場所が少なくなり、仕事仲間や上司とのコミュニケーションがとりづらくなっているのではないかと考える。

 

謝辞

今回、室蘭やきとりを調査するにあたって、鳥よし様、浜勝様、吉田屋様、鳥竹様、室蘭市役所経済観光課のO様、室蘭民俗資料館の津川様に大変お世話になりました。皆様のおかげで室蘭やそれぞれのやきとり屋の歴史、室蘭やきとりについての貴重なお話を深く伺うことができました。本当にありがとうございます。これからの皆様のご繁栄を心から祈っております。

 

参考文献 

室蘭観光情報サイト (最終閲覧日2019年9月13日)

http://muro-kanko.com/eat-buy/yakitori.html

 

現代の番屋 -室蘭漁協自営定置番屋の事例-

 社会学部 3回生 今井美希

 

【目次】

1.室蘭漁協自営定置番屋(追直漁港)

2.船頭夫妻

2-1船頭

2-2船頭の妻

3.番屋の漁師たち

4.番屋での暮らし

4-1間取り

4-2食事

4-3休日の過ごし方

結び

謝辞

参考文献

 

 

はじめに

 番屋とは漁師が泊まる小屋のことである。北海道では漁が盛んだったため、漁夫住宅である番屋が多く存在した。「ニシン漁で繁栄した日本海沿岸には、一般的に豪壮で、土間を挟んで親方の家族と漁夫のすまいを一体とし」(駒木定正 2015:178)ていた。その例として小樽市にあり、現存する最古の番屋である旧白鳥家番屋があげられる。この番屋では、漁夫は寝泊まりするだけであり、住み込んでいたわけではなかった。一方で「道南の渡島では、マグロ・イワシ漁が盛んであり、切妻・平入に軒を出桁として玄関脇に洋風の出窓を設ける事例が多くみられる」(駒木定正 2015:178)。このように番屋といっても地域によって形態や造りが異なっていることがわかる。では現代の番屋ではどのような形態がとられているのだろうか。そこで実際に利用されている室蘭漁協自営定置番屋に足を運び調査を行った。

 

1.室蘭漁協自営定置番屋(追直漁港)

 北海道室蘭市の漁港の一つである追直漁港には室蘭漁協自営定置番屋がある。そこには1隻の船"北漁丸"で漁をする8人の漁師と住み込みで働く船頭の奥さんが暮らしている。

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写真1:室蘭漁協自営定置番屋

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写真2:北漁丸

 この番屋の仕組みは、漁協に雇われる形で、漁協が提供する番屋に住み込み、漁協が提供する船"北漁丸"に乗って漁をするというものである。つまり漁協に雇われていない者は番屋には住むことが できず、実際に室蘭市にある自宅から漁をする方を何人か見かけた。また、室蘭市にある、イタンキ漁港、崎守漁港、絵鞆漁港にも番屋が存在しているが、番屋同士の関わりはない。

 この漁港では9月〜12月の初め頃に定置網によりサケを捕り、その漁が終わり次第"解散"、4月の漁までは各々自宅に戻り休暇を過ごす。"解散"によって、番屋の荷物は全て片付ける。もう一度番屋に戻るかどうかはその人次第だが、ほとんどの者は信頼関係により戻ってくる。

 

2.船頭夫妻

2-1船頭

 "北漁丸"の船頭である橋本さんは、今年3月17日に青森県の六ヶ所村にある六ヶ所村漁業協同組合から追直漁港にやって来た。元々橋本さんは前船頭に4年前から"北漁丸"の次の船頭にならないかと声をかけられていたが58歳で地元である青森を離れ室蘭に出稼ぎにいくことに抵抗を感じ、断り続けていた。しかし、昨年9月末に橋本さんが北海道に旅行に来ていた際、前船頭に会っておりその次の日に前船頭が亡くなられたことが契機となり、「何か感じる」「運命」である、と"北漁丸"の船頭になることを決意した。橋本さんは「漁師は"つながり"や"縁"が大切」であると語ってくださった。

 青森の六ヶ所村にある六ヶ所村漁協で船頭をしていた橋本さんは、橋本さんが30代の頃からついて来ていた44歳の方に船頭を任せた。六ヶ所村には番屋があるが室蘭とは違い、住み込みではなくご飯を食べる場、休憩の場として番屋を使用していた。そのため橋本さんは自宅から通いで漁をしていた。また、六ヶ所村の番屋にも漁協が関係しており、橋本さんは38年間漁をしていた六ヶ所村の漁協での所属を辞め、現在は室蘭の漁協へ所属している。ほとんどの漁港に漁協があり、ほとんどの者が所属している。

 橋本さんが漁をしていた六ヶ所村と追直漁港では漁の種類が異なり、漁の時間や時期全てが変わったため、初めの頃は慣れることが大変であったと教えてくださった。追直漁港は深夜での作業がほとんどで、夕方の6時には就寝、次の日の2時出航出港という生活をしている。また、船頭は周りを常に意識し、指示を出さなければならない。六ヶ所村と勝手が違うためストレスを感じでいた。しかし、追直漁港の漁師は真面目で良い人が多いため橋本さんもここでの生活に慣れていったとおっしゃっていた。

 

2-2船頭の妻

 船頭の妻である和枝さんは室蘭漁協自営定置番屋で住み込みで働いている。和枝さんもまた、六ヶ所村にある番屋で23年間働いていた。橋本夫妻は19歳で結婚し、橋本さんが漁師になったため、番屋で働く漁師の妻としての生活が始まった。青森では漁師が多いため、漁師の妻として生活することへの抵抗はなかったそう。しかし、六ヶ所村にある番屋では通いで昼ごはんのみを作る仕事で、室蘭漁協自営定置番屋での住み込みの仕事には少し抵抗があったと仰っていた。

 住み込みといっても漁協での決まりで月に3回の休みが設けられており、自由に選択できる。しかし漁師と休みを同時に取るようにしている。漁師と異なる日にすると、漁をしている日に休むことで、「食事を作らないといけない」と思ってしまうため、同じ日にしたほうがいいと橋本さんの提案によって決まった。この食事はこの番屋では大事にされており、漁以外で漁師が唯一全員揃うということで「ご飯の時間は大切」と和枝さんは語ってくださった。食事の用意は朝昼晩3回分で、和枝さんも漁師と同じように次の日が早ければ夕方6時に就寝、次の日の3時に起床し、漁を終わって帰ってくる漁師のために5時半頃に食事を出す。漁師の食事が終わってから和枝さんは一人で食事をする。 食事のときはスマートフォンやテレビなどをみて寂しさを紛らわしていると教えてくださった。それが終わると掃除、洗濯など家事を着々とこなす。それが和枝さんの1日である。

 休暇は、漁は天候に左右されることもあり、その前日、当日に急に決まることがある。橋本さんから電話やLINEで知らされる。そのため遠出や泊まりは出来ず、橋本さんと共に東室蘭などに車で買い物に行くことが多い。また、初めの頃は周辺を散歩していたが、行き尽くしてしまったそう。住み込みということもあり、一人の時間が貴重で、慣れない頃は一人でボーッとすることも多かったと語る和枝さん。周りに女の方もいないため、私のことを快く歓迎してくださった。

 

3.番屋の漁師たち

 船頭が次の船頭を連れてきて漁を任せ、次の船頭が番屋にやってくる。基本、漁協ではなく、現船頭が次の船頭を選び、他の漁協から引き抜いてくる。その船頭に、元々漁をしていた漁港の弟子が2、3人付いてきて、新しい漁港、つまり追直漁港に拠点を移す。また、この番屋の前船頭が違う拠点に移動するとなると、前船頭に番屋での弟子が付いていく。 このような仕組みによって、この番屋のメンバーが形成されている。現在は前船頭が亡くなられたということで、前船頭についていた方々も番屋に残っている。面白いことにこの番屋で働く者は青森県出身であった。室蘭出身や北海道出身の者はおらず、青森からの出稼ぎのために「出稼ぎ手帳」というとものを使用してこの番屋に来ていた。船頭とその弟子以外は知り合いではなく、また、同じ青森出身であっても、青森の津軽や六ヶ所村などさまざまなところから集まってきている。そのため漁師同士の関わりは、1日3回の全員揃っての食事を中心として、休憩時間などはそれぞれで過ごしていた。この食事はチームワークを築く場となっているように感じた。3月に船頭が来たばかりということで親睦会を兼ねて5月頃に飲み会やカラオケに行ったという話も伺った。同じ船に乗り漁をすることは信頼関係が大切であるため、漁師同士は決して仲が悪いわけではなく、お互いのプライベートを大事にしている印象であった。

 

4.番屋での暮らし

4-1間取り

 2階建である。1階にはリビング、キッチン、船頭の部屋と和枝さんの部屋があり、2階に漁師の8人分のそれぞれの部屋がある。部屋の中には備え付けのベッドや収納スペースがあり、一人暮らしの部屋のようであった。浴室や洗面所、トイレは共同で1階2階それぞれにある。

 車を駐車するスペースもあり、八戸(青森)ナンバーの車が何台か止まっていた。

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写真3:リビング、食卓



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写真4:キッチンで食事の支度をする和恵さん



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写真5:1階にある洗面台と浴室

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写真6:1階にある船頭の部屋

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写真7:2階の廊下 漁師それぞれの部屋がある

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写真8:2階の共同洗面所

 

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写真9:駐車する車

 

4-2食事

 その日に捕れた魚を使って料理することもあり、バランスの良い食事が考えられている。食事の用意ができると和枝さんが2階にいる漁師に知らせるためベルを鳴らし、それを聞いた漁師が食事をしに降りてくるという仕組みである。大きな器に食事を盛り、小皿にそれぞれが自分の量をとっていくスタイルで、まさに大家族の食事のようであった。ご飯は各自が茶碗に好きなだけ盛り自然と決められた各自の場所に座る。終わった人から部屋に戻る。食事を必ず番屋で食べなければならないわけではなく、前もって和枝さんに伝え、外で食事をする方もいらっしゃった。

 

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写真10:夕食

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写真11:食事の様子

 

4-3休日の過ごし方

 確定した休日が無いということで遠出は少なく、車の洗車や部屋の片付け、買い物など、各々好きなことをしている。今年のGWは6日間休みが取れたため、実家に帰省したり、家族と遊んだりしていたそう。また、12月の"解散"から3月までは長期休暇のため全員帰省する。

 

結び

 冒頭で述べたように、ニシン漁の番屋では「土間を挟んで親方の家族と漁夫のすまいを一体とし」ていたが、この室蘭漁協自営定置番屋でも親方と漁夫が同居しており、親方の住まいと漁夫の住まいが区切られていた。しかしこの番屋では、漁夫とされる漁師一人一人に部屋があり、旧白鳥家番屋とは異なり寝泊まりだけではなく住み込んでいた。また親方の家族は六ケ所村の家に住んでおり、番屋で暮らしているのは親方の奥さんでありこの番屋で働く和枝さんだけであった。かつての番屋と異なる点は、親方には家があるが、漁の時期になると他の漁師と同じく番屋に住み込みで従事していることである。

 このように漁師が利用する番屋は、各自の部屋が設けられていることなど、時代の移り変わりと共に、より快適で利用しやすい環境へと変化していった。

 

参考文献

駒木定正,2015,「北海道における漁家住宅の歴史・地域的特性を活かすための研究-歴史的漁家住宅の遺構調査にもとづくまちづくりへの関与と発展」『住総研研究論文集』41(0),169-179

 

謝辞

 今回の調査にあたり、橋本さんご夫婦をはじめとする室蘭漁協自営定置番屋の皆様、室蘭漁協の皆様、室蘭の皆様には大変お世話になりました。調査を快く受け入れてくださり、貴重なお話を聞かせいただくことができたことを心から感謝申し上げます。ぜひまた室蘭に訪れたいと思います。本当にありがとうございました。

 

 

 

社宅街のくらしと記憶 ―新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅の事例―

社会学部3回生

田中香帆

 

 

【目次】

はじめに

1.新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅

2.闇市から商店街へ

2.1 松浦日出光氏のライフヒストリ―

2.2 知利別町の話 

3.あんぽんたんの木

3.1 植えられた経緯(成田氏の調査) 

3.2 木にまつわる思い出

3.3 祟りの話

3.4 保存に向けて

結び

謝辞

参考文献

 

 

 

はじめに

 北海道室蘭市は鉄鋼業が盛んな町である。中でも日本製鉄室蘭製鉄所は、日本製鋼所室蘭製作所と並んで特に大きな存在であり、昭和50年代後半まで知利別町にはその社宅が立ち並んでいた。今回私は、戦中から知利別社宅で生活してきた方のライフヒストリーを中心に、社宅街にはどんな暮らしがあったのか調査した。さらに、同じ社宅街の中にたたずむ一本の木をめぐる人々の思いや記憶、また地域にとってその木がどのような存在であるのか調査した。ただし企業名については、現在は「日本製鉄株式会社」に名称が変更されているが、今回の調査では「新日本製鐵株式会社(以降『新日鐵』とする)」という名称であった時代のお話を中心に伺ったため、本レポートではこの表記で記述する(北海道近代建築研究会,2004,『道南・道央の建築探訪』北海道新聞社)。

 

 1.新日本製鐵株式会社室蘭製鐵所知利別社宅

 知利別社宅は昭和13年に、知利別町3丁目と4丁目で建築が始まった。構造は木造平屋である(北海道近代建築研究会 2004:154)。室蘭の大企業である栗林商会が所有する牧場であった土地を、新日鐵が譲り受けて社宅が建てられた。知利別社宅の主な居住者は幹部職員や熟練職工で、室蘭製鐵所(旧輪西製鐵所)の社宅の中でも高く位置づけられた(北海道近代建築研究会 2004:154)。通りを挟んで北側には職員の社宅や知利別会館などの福利厚生施設、南側には職工の社宅や商店街、配給所などがあった。知利別会館よりさらに山手には所長などの社宅があったという(図2)。「傾斜地である職員地区では、各住戸は南側に専用の庭を持ち、敷地が高く眺望が良い方から低い方に1級、2級、3級……と立ち並んでいた。つまり、職制が敷地高低差に反映された配置であった」(北海道近代建築研究会 2004:154)。

 

 2.闇市から商店街へ

2.1 松浦日出光氏のライフヒストリー

 知利別社宅で育ち、現在も同じ場所で暮らす松浦日出光氏にお話を伺った。日出光氏の父親は元々十勝でうどん製造をしていたが、「新日鐵に勤めていれば軍需工場に行かなくていい」という噂が十勝で広がり、昭和18年4月に家族で知利別町に引っ越してきた。日出光氏は引っ越してきた時のことを覚えていて、夜に到着し、新日鐵の煙突から赤々と火が上がっている様子を「当時はビルとかほかに明かりがないから火事だと思った」と話す。こうして松浦家は新日鐵の社宅に住み始めた。同じ社宅でも職工は四軒長屋の家だったが、役付きの人は通りを挟んで北側の敷地にある立派な一軒家に住んでいたという。地位が上がると引っ越しをして住むエリアが変わり、社宅街の中でもどの場所に住んでいるかで地位が分かるようになっていた。

 昭和20年になり、日出光氏が小学2年生の頃、旭川にある母親の実家に疎開した。室蘭艦砲射撃の一週間前のことだったそうだ。艦砲射撃によって新日鐵の煙突が5本のうち2本倒れたという。その後疎開生活は4か月ほど続き、終戦を迎えた。

 戦後は新日鐵の従業員とその家族のための配給所があり、従業員はカードを見せることで物を買うことができるというシステムであった。なお、この配給所があった場所には現在ホームストアというスーパーマーケット(写真1)がある。配給所では新日鐵の関係者以外の人は買い物ができなかったため、物資が行きわたらず、住民の間では不満が広がっていたという。しかし戦後の食糧難により、配給所だけでは新日鐵の従業員の分でさえもまかなえない状況になっていった。

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▲写真1 配給所があった場所にあるホームストア

 当時、日出光氏の母親は闇市で店を出しており、一軒ずつ仕切られた片屋根の店で靴や瀬戸物を売っていたという。闇市は現在楽山公園(写真2)がある場所にあった。その闇市の店の人々が、物資の不足問題を解決するため新日鐵に交渉したところ、土地を安く貸してもらえることになった。そして昭和24年に、闇市からの店を中心とした約20軒の店が集まり、借りた土地に商店街を作った。

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▲写真2 闇市があった場所にある楽山公園

 これを機に、日出光氏の母親が闇市に出していた店を商店街に移して「松浦靴かばん店」を構えた。その際父親も、十勝でうどん製造をする前に呉服屋で丁稚奉公をしていて商売の知識があるため、勤めていた新日鐵を希望退職して家族で店を営むことになった。そして自宅も社宅から引っ越し、商店街へ移った。日出光氏は持ち家になってから初めて自分の家に蛇口があった記憶があるといい、それまで社宅では共同の水道で、小学5年生くらいの時に水くみの手伝いをしていたのを覚えているという。

 商店街ができたことによって住民は自由にものを買うことができるようになった。日出光氏は当時の商店街について、「とにかく流行って流行って流行って…」と話す。室蘭市内で10本の指に入る魚屋のうち4軒か5軒はこの商店街の中にあったといい、「新日鐵の所長さんはじめお偉方の奥さん方がみんな高級魚買うわけさ。だから市場から帰ってくるトラックをみんな待って、並んで買い物をしてくれた」と活気のあった商店街の様子を懐かしそうに話してくださった。

 日出光氏は昭和31年に高校を卒業後、両親の店で働き始めた。この頃にはだんだんと客の要望する商品が増えてきていたが、借りた土地の中で店ごとに与えられたスペースは小さかったため商品を置ききれず、店を大きくすることもできなかった。そこで昭和35年に、これからは小さい店ではなく個人の店としてやっていかないといけないという父親の考えにより、商店街から通りを挟んですぐの場所にある現在の自宅場所に店と家を移した(図2)。しかし新しい店と家を建てた翌年に父親が亡くなり、日出光氏の兄が店の社長に、日出光氏は専務となった。

 昭和56年、日出光氏が46歳の時に兄との共同経営を辞めて独立し、昭和58年に「有限会社松浦」という名前になった。昭和60年代後半から平成8年までの間は最大で6店舗を経営していたという。

 しかし靴の流通センターがあちらこちらにでき、洋服だけでなく靴やかばんも安い値段で豊富に揃うしまむらなどの大型店も増え、さらにはデフレが重なっていたこともあって日出光氏は先の不安を感じ始めた。そんな時に、2番目の兄が経営していたペットショップを譲りたいという話が出た。兄は昭和43年に金魚と熱帯魚の店を始めたが、同年に起きた十勝沖地震の際に魚を飼育する水槽が多く被害を受けたことで愛好者が減り、店は犬や小鳥も扱うペットショップになっていた。結局、ペットショップは日出光氏の次男が勤めていた会社を辞めて継ぐことになり、ペットショップの経営を覚えるために次男は6年間日出光氏の兄の下で修業した。

 平成8年に日出光氏の兄がペットショップ経営から退き、店を譲る際に「社長をやってやれ」と兄に言われたことで、日出光氏が社長、次男が専務として店を継ぎ、「有限会社ペットショップ松浦」となった。ペットショップ経営を始めたことをきっかけに、大型店の勢いに不安を感じていた靴とかばんの店を少しずつたたんでいった。そして平成14年には靴とかばんの商売を完全に辞め、ペットショップ一本となった。現在、日出光氏は取締役会長という立場で中島町にあるペットショップ経営を支えている(写真3)。

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▲写真3 ペットショップ松浦

 

2.2 知利別町の話

 社宅街だった頃の知利別町は、どのような町であったのだろうか。ここまで松浦日出光氏のライフヒストリーをたどってきたが、今回の調査では、波満屋という和菓子屋(写真4)の社長の浜長隆氏にもお話を伺った。波満屋は松浦氏の両親が店を出したのと同じ商店街にあり、現在も商店街に残っているのはこの一軒だけだという。ほかの店は店主が亡くなってしまったり、歳をとって辞めていったそうだ。現在はシャッターが下りていて、空き地になっている場所もあった(写真5)。長年、共に同じ商店街で商売をされていたお二人は、昔の知利別町について当時の様子を思い出しながら語ってくださった。

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▲写真4 現在も商店街で営業を続けている波満屋

 昔の知利別町はとても賑やかで、松浦氏が蘭東中学校(現在の桜蘭中学校)に通っていた昭和28年頃は、55~60人のクラスが7クラスあったといい、そこから10年ほど後に浜長氏が通っていた頃は15クラスもあったという。

 松浦氏は商店街に住んでいた頃、仕事終わりに商店街の若者4,5人で輪西町までハイヤーで飲みに行っていたこともあったと話す。知利別町や隣の中島町にはあまり飲み屋がなく、輪西町の飲み屋やキャバレーが流行っていたそうだ。また昭和30~40年頃までは新日鐵の構内に多くの下請け企業があり、職場の近くに住んでいた従業員らも輪西町の飲み屋まで行っていたという。

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▲写真5 現在の商店街の様子。左側に波満屋があるのが見える。

 人が多くにぎやかだった知利別町の活気のピークは昭和40年前後で、昭和50年頃から室蘭製鐵所では人員統制が始まり、年に300~400世帯が対象となった。そして対象となった世帯は、大分や君津、釜石などほかの製鐵所がある場所へ団体で引っ越していった。社宅から引っ越しをする際、団体でまとまって行くために、従業員家族は荷造りが終わってから出発の日まで、社宅街の中にある知利別会館(当時の名称は職員倶楽部)で生活することになっていた。この会館は、普段は来賓の宿泊や会議等に使われた新日鐵の施設である(写真6)。出発までの仮住まい中の食事は会社が用意し、何日か経つと2日か3日に分けて、〇日の〇時に150世帯、残りは〇日の〇時というように決められて、バスや汽車等で引っ越していった。その年に対象にならなかった従業員やその家族も、ひょっとしたら次は自分たちかもしれないという不安があったそうだ。

 人員統制が進むにつれて知利別町の人口は減り、空き地が増えて、開発業者(現在の日鉄興亜不動産)によって社宅が分譲されるようになった。20年以上更地の状態が続いた場所もあり、5年ほど前から現在並んでいるような新しい家が建てられるようになったそうだ(写真7)。最盛期には18万人いた室蘭市の人口は、8万人ほどにまで減ったという。

 これまでのお話を伺っている時、松浦氏と浜長氏はあんなこともあった、こんなこともあったと懐かしそうに昔の話をしてくださった。松浦氏のライフヒストリーをお聞きした時には、改めてご自身の人生を振り返る中で、戦中、戦後の時代の生活を思い出し「こんなこと息子にも話したことないよ」と何度か口にされていたのがとても印象的であった。人口が減り、住む人も変わって社宅街から新興住宅地へと町の性質を変えても、にぎやかで活気にあふれた暮らしは人々の記憶の中で色褪せず、いつまでも生き続けているのであろう。

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▲写真6 知利別会館

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▲写真7 現在、商店街のすぐ近くには新興住宅が立ち並んでいる。


3.あんぽんたんの木

 知利別会館前の坂道を下ったところに、一本のクロマツが立っている。その名も「あんぽんたんの木」である。なんともおかしみのある名前であるが、木が立っている場所を見ればその名前に納得がいくだろう。なぜなら、この木は道路のど真ん中に立っているからである。

 今回の調査では、この木について詳しく調べられたことのある成田弘氏と、Facebook上で作られた「あんぽんたんの木を見守りたい人達の会」という会の副会長で、木の見守り活動をされている平井克彦氏のお二人にお話を伺った。

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▲写真8 道路の真ん中に立っているあんぽんたんの木

 

3.1 植えられた経緯(成田氏の調査)

 あんぽんたんの木はいつからこの場所に立っているのだろうか。室蘭地方史研究会会員の成田弘氏は、過去にこの木の歴史と場所の関係を詳しく調べられたことがある。成田氏によると、この場所が社宅街になる以前の明治39年7月、栗林商会が牧場を創業した際に、スギ、マツ、ヒノキ、落葉樹などを植林したという内容の記述が栗林商会の年史にあり、知利別会館やあんぽんたんの木の場所一帯はその植林が行われた場所であると考えられるという。そして、平成28年8月の台風10号で知利別会館の庭のトドマツが倒れた際、成田氏がその木の年輪を調べたところ約100重であった。そのため成田氏は、樹齢と場所から推察して、このトドマツは明治39年の植林の際に植えられたものであり、同じくあんぽんたんの木もその時に植えられたマツのうちの一本ではないかと考えている。

 あんぽんたんの木が立っている道は、昭和15年に知利別会館が建てられた際、近くの道路と会館をつなぐために作られたと考えられている。成田氏の推察ではその時あんぽんたんの木はすでに今の位置にあったということになるが、場所が道の真ん中というだけに、会館ができたタイミングで伐採されても不思議ではなかった。この時木を残す理由になったと考えられることがある。成田氏によると、木の周囲は新日鐵の土地で知利別会館も近くにあるため、地域の人は木の立っている道も会社用地であると思い込んでいたというが、実際は国の内務省の管轄であった。そのため会社側が勝手に切ることはできなかったのである。その道も現在は室蘭市に移管されているが、成田氏は「もし新日鐵の会社用地だったらとっくに切られていたかもしれないね」と笑いながら話されていた。

 

3.2 木にまつわる思い出

 あんぽんたんの木は、何十年もの間住民とともに生きてきた。成田氏は木の近くに昔住んでいたことのある人から話を聞いたことがあり、昔は木の周りに大きな石が置いてあって、学校の帰りにはその石に腰かけて長い間喋ってから家に帰ったそうだ。

 また木から800mほど離れたところにある桜蘭中学校では、昔からマラソン大会や運動部のランニングの際の折り返し地点として親しまれていて、木まで一往復するのを「一本松」、二往復するのを「二本松」と呼んでいるという。この木が今も地域の日常に溶け込んでいることが分かるエピソードである。

 

3.3 祟りの話

 インターネットでこの木について調べていると、奇妙な話が度々目に留まる。「木の立地から過去に何度も伐採の話が出るも、そのたびに良くないことが起きて中止になった」、「木を切ろうとした者はみんな亡くなった」、「木を切ると祟りがある」、「木自体ではなく木の生えている付近のどこかの家に霊がいる」「死者が木の下に幾体も埋まっている」など、木を切ることで何かが起こるというものや、死に関するものがいくつか見られた。

 これらの書き込みはあいまいな表現が多く、具体的なことが書かれていないのが特徴である。今回の調査でお会いした人の中にも、祟りがあるといった話を実際に聞いたことのある人はいなかった。成田氏によると、子どもたちが「木を切ったら赤い血が流れるんだよ」などとふざけて言うことはあったということだが、地域で広まるほどではなかったようである。

 周辺の社宅があった場所には現在新興住宅が立ち並んでおり、そこに住んでいるのは別の場所から引っ越してきた人ばかりだそうだ。昔から木の近くで生活していた人に出会えなかったことは残念であるが、インターネットで見られたような祟りの話が地元の人から聞かれなかったのは、住む人の変化によるものもあるかもしれない。

 

3.4 保存に向けて

 道路の真ん中という立地にもかかわらず今の場所で生き延びてきたあんぽんたんの木であるが、過去に伐採の危機にさらされたことがある。2017年7月、周囲の宅地開発が進み、市有地であった同道路の市道認定が検討されたことから伐採が決定した。そのことが同年8月24日の室蘭民報に掲載されると、市に対してメールや電話による問い合わせが26件寄せられたといい、その中には現在は室蘭市を離れている人からの声もあったそうだ。8月29日にはすでに伐木祈願も行われていたというが、このような反応を受けて市は伐採について再検討する考えを示した。9月末に近隣の桜蘭中学校で開催された学校祭では、長年ランニングの折り返し地点となっていることもあり、多数のクラスが伐採反対を訴える壁新聞を発表したという。

 その後、市から依頼を受けた樹木医の診断で木の健康状態は良好であることが確認された。さらに交差点角地の地権者から10㎡を無償で借地することで、木を回避して車が通行できるスペースを確保した。また開発業者の協力により、住民の安全確保のために木の前後にはクッションドラムも設置されることになった(写真9)。そして市は10月6日に、木を現状のまま保存する方針を明らかにした。こうしてあんぽんたんの木は無事に伐採を免れたのである。

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▲写真9 木の両側を安全に通行できるよう整備されている。

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▲写真10 GoogleMapでは整備される前の様子が確認できる(2019年9月9日現在)。


 Facebookの「あんぽんたんの木を見守りたい人達の会」は伐採が再検討されることが発表された頃に発足し、今回調査に協力してくださった平井氏はこの会の副会長をされている。会のメンバーは70人を超え、タイムラインにて日常の木の様子を報告する内容の投稿をしている。

 平井氏は伐採の危機を乗り越えたあんぽんたんの木をこれからも守り続けていくために、室蘭市の保存樹木に指定してもらいたいと考えている。現在指定されているのは高砂町にある室蘭屯田兵入植記念のシンジュ、幌萌町にあるエゾヤマザクラの2本である。平井氏は、全国巨樹巨木の会の会員でもある成田氏とも協力し、活動を進めていくそうだ。

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▲図1 知利別社宅配置図

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▲図2 本論文で記述した場所の位置関係


結び

 社宅街では職制による地位が住環境に関係していた。そして知利別社宅では、戦後は物資が不足したため闇市の店が中心となって商店街が作られた。戦後を生き抜くための人々の結束は力強いものだったであろう。松浦日出光氏は移転後に両親の店を継ぎ、時代の流れに合わせて経営を続けてきた。にぎやかな時代を社宅街で暮らしてこられた方々のお話は、とても貴重で興味深いものであった。なお、ライフヒストリーは個人の記憶の語りを記述したものであるため、必ずしも年代等が正確なものとは限らない。

 また、あんぽんたんの木はこの地が社宅街になる前から100年近い年月を同じ場所で生きてきたと考えられる。木を取り巻く怪異については現地でお話を聞くことはできなかったが、住民の声と市の柔軟な対応によって伐採の危機を乗り越えたこの木は、現在も地域のシンボルとして愛されていることが分かった。

 

謝辞

 最後になりましたが、本論文作成にあたって室蘭市の方々には大変お世話になりました。突然の訪問にもかかわらず丁寧に対応してくださり、貴重なお話をしてくださった松浦日出光様、浜長隆様、成田弘様、平井克彦様、調査にご協力いただいた全ての皆様に感謝申し上げます。皆様の温かいご協力がなければ、今回の調査を行うことはできませんでした。お忙しい中時間を作ってくださり、快く調査にご協力いただきまして、感謝の念に堪えません。今後の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈りしております。本当にありがとうございました。

 

参考文献

社宅研究会,2009,『社宅街 企業が育んだ住宅地』株式会社学芸出版.

成田弘,2018,「あんぽんたんの木は五朔松と呼ぶが相応しい」『茂呂瀾 室蘭地方史研究』52:6-11.

北海道近代建築研究会,2004,『道南・道央の建築探訪』北海道新聞社.

北海道Likers,2018,「室蘭市の愛されクロマツ『あんぽんたんの木』」(https://www.hokkaidolikers.com/articles/4718,2019年9月9日にアクセス).

室蘭市・北海道新聞社,2012,『室蘭の記憶―写真で見る140年』北海道新聞社.

室蘭民報WEB NEWS,2017,「室蘭・知利別町の道路の真ん中に立つクロマツ伐採へ」(http://www.muromin.co.jp/murominn-web/back/2017/08/24/20170824m_01.html,2019年9月9日にアクセス).

室蘭の漁業

社会学部 3回生

岸上 祐梨子

 

【目次】

はじめに

1.室蘭市の漁業と漁村

2.イタンキ漁港

3.イタンキのウニ・ホタテ・ナマコ

  (1)ウニ

  (2)ホタテ

  (3)ナマコ

4.結び

謝辞

参考文献

 

 

 

はじめに

北海道の南西部に位置する室蘭市は三方が海に囲まれ、太平洋側の津軽海峡を抜ける対
馬海流と噴火湾(内浦湾)側の千島海流の境目を持った栄養豊富な漁場に恵まれた地形をしている。室蘭市は「鉄の町」として有名であるが「製鉄だけじゃなくて、北海道の漁業といえば胆振地区¹!と言えるほど漁業もすごい。その胆振地区の中でも室蘭市のイタンキ漁港は一番魚が獲れる」とイタンキ漁港の漁業者は話す。本研究は、一番漁獲量が多く漁業者も多いとされる漁港、イタンキ漁港に焦点を当てた実地調査によって得られた情報を記述したものとなる。

 
胆振地区¹:胆振総合振興局のこと。北海道南西部に設置された北海道の総合出先機関。1948年制定の北海道支庁設置条例に基づき,胆振支庁として設立。2009 年制定の北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例に基づき,現名称となった。総合振興局所在地は室蘭市。所管区域は,室蘭市,苫小牧市,登別市,伊達市,豊浦町,洞爺湖町,壮瞥町,白老町,安平町,厚真町,むかわ町の 11 市町。

 

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胆振地区(赤色の
部分)

 

1.室蘭市の漁業と漁村

実地調査の焦点に当てたイタンキ漁港について記述していく前に、先ずは室蘭市全体の
漁業と漁村のことについて触れておく。北海道室蘭市にはイタンキ漁港の他に絵鞆漁港、追直漁港、崎守漁港(五十音順)の三つの漁港があり、全部で四つの漁港が存在する。平成 31年4月の現段階での室蘭漁業協同組合には正組合員 70 名、準組合員 15 名の計 85 名の漁師が存在する。漁業を行っている人の人数は漁港ごとに、イタンキ漁港 29 名、絵鞆漁港 25名、追直漁港5名、崎守漁港6名である。最年少の漁師は 27 歳で、一番ご高齢の方は 91 歳にもなる。個人事業主として漁師になってしまえば定年退職の概念はなくなるため、漁師は自分の好きなだけ続けることができる職業であると言える。早朝から仕事が始まることがほとんどの漁師の家は 60 軒ほどあり、自分が漁を行う漁港の近隣に住む人が多いようだ。漁港によっては室蘭漁協自営定置番屋という県外から来た漁師の方々が生活を送ることができる、シェアハウスのような施設がある。この番屋も漁港のすぐそばの場所に位置している。  室蘭の漁業と漁村についてはこれぐらいにして置き、これ以降は私が焦点を当てて現地調査を行ったイタンキ漁港について詳しく記述していく。

 

2. イタンキ漁港

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  室蘭市全体の地図(青い印がイタンキ漁港)


 イタンキ漁港は室蘭市の東側に位置している。レポート冒頭の“はじめに”も記載した通り、室蘭市内で一番の漁獲量を誇っており、漁業者の人数も一番多いのがイタンキ漁港だ。漁港のすぐそばに一家に一軒の組合漁業の賃貸倉庫があり、倉庫は漁を行うための道具を置く物置場としてだけではなく、ホタテの養殖に使う網の修理や捕獲したウニの大きさを測る選別作業を行う作業場としても利用されている。 年中仕事がある漁師の方々のお休み事情はというと、毎週日曜日が休みになっており、また、一年で 200 日以上漁業に従事するという規定を満たせば日曜日以外も休むことは可能だそうだ。やはり北海道は冬の時期は寒さや雪で漁を行うことが難しいようだ。私が現地調査を行った6月ではバフンウニ、むらさきウニ、ホタテ、ナマコの漁が行われていた。続いてそのウニ、ホタテ、ナマコを通してイタンキ漁港の漁の様子を記述していく。

 

3. イタンキのウニ・ホタテ・ナマコ
(1) ウニ イタンキ漁港では5月から6月末にかけてバフンウニとむらさきウニの二種類のウニが捕獲される。漁ができる時間、場所、獲れる量は規定されており、満潮は沖取(おきどり)、干潮は陸取(おかとり)という名前の獲り方を行っている。私は沖取の時期に偶然にも漁を終えた漁師の方々がちょうど漁港に帰ってくるというタイミングを訪れたので、以下の①~⑤までの一連の流れを目の当たりにすることができた。
 
① 車を使って船を陸にあげる
② 車に捕獲したウニを移す
③ ウニを乗せた車を倉庫まで運ぶ
④ ウニの大きさを選別する(画像1)
⑤ 市場へ持っていく
 
④のウニの選別というのは、ウニの大きさを7センチ以上のもの、5センチ以上のもの、5センチ以下のものの三種類に分ける作業である。ほとんどは漁師さんの熟練の目によって手際よく分けられるが、判断することが難しいサイズのものはウニ専用のものさしを使って確認される(画像2)。5センチ以上のウニは市場に運ばれるが、5センチ以下のウニは海に返す決まりになっている。  私が訪れた前日は陸取だったそうで口頭だがその漁の様子を知ることができた。陸取の時はスーツを着て素手でウニを獲るそうだ。船の上は基本的には女人禁制とされており、満潮時の漁は男性の漁師が船に乗って行うが、陸取は一家族に一人であれば女性も漁を行うことができるそうだ。

 

 
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③ウニの大きさ選別(画像1)           ものさしを使った大きさ調べ(画像2)
 
調査中に倉庫でゆっくりとウニの選別を行っているご夫婦がおり、話を伺っていると「せっかく遠方から来たから」と、獲れたてのバフンウニを試食させてくださった(画像3)。イタンキ漁港で獲れるウニはとてもクリーミーで濃厚な味わいだった。生まれて初めて食べたウニが室蘭市で獲れるバフンウニとはとても贅沢なひと時だった。ウニのえさは昆布だそうで、昆布がたくさんいる岸で獲れるウニがより良いものが多いということがわかった。 試食中、ウニの中には必ず5つ身が入っているということに気が付いた。市場へウニを運ぶ時間が迫っていたので当時はそのご夫婦に聞くことができず、関西に帰宅しなぜ5つなのか調べた。結果ウニは棘皮動物というグループにまとめられていて、生殖巣が房状に5つになっているからだということが分かった。自分の中の疑問を自分の力で解決するのも現地調査の醍醐味の一つだと感じた。
 

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とれたてのウニ(画像3)
 
(2)ホタテ
ホタテはイタンキ漁港だけではなく、絵鞆漁港、追直漁港、崎守漁港でも行われている。イタンキ漁港ではホタテを養殖する際に、「ざぶとん篭」という篭状の網を使用して稚貝を育てている。私は偶然にも倉庫でホタテの養殖に使う「ざぶとん篭」を修理している親子と出会い、お話を伺うことができた。 この「ざぶとん篭」を使ってどのように養殖するのかというと
 
① 5~6月に成貝が産卵し、ホタテの幼生が浮遊幼生²となって海中を漂い始める
② 産卵の時期を測らって「さいびょうき」を海に入れる
③ 浮遊幼生が「採苗器」に付着する
④ 「採苗器」に付着したも幼生貝を「ざぶとん篭」にうつす
⑤約8~9か月で稚貝ができる(画像6)
*③④⑤の間は、篭は海に下ろしたまま
 
「ざぶとん篭」を海に下ろす際は、あみ同士の接触によって網が傷つくことや、中に入っている貝に傷をつけないよう、海底に接触しないようにしなければならない。また、成貝にするためには「ざぶとん篭」から稚貝を取り、別の作業へと移行する必要がある。3年という長い期間はただ待つだけではなく貝を磨く作業や天敵から守る努力を続ける必要がある。長い時間をかけて育てるということは手間もかかれば、天災のリスクだってある。環境の変化に伴い成貝にすることが難しくなってきており、イタンキ漁港ではリスクを減らすためにも稚貝まで育てたものを売るという方法を主にとっている。そのイタンキ漁港で育てた稚貝を組合長の室村氏にご厚意でたくさんいただいたが、食べてみると身がぷりぷりしていて、ぎゅっとしまった歯ごたえあった。私が人生で食べてきた中で一番おいしいホタテだった。
 
浮遊幼生²:海水中を泳ぎ回るプランクトン生活をする幼生のこと
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「ざぶとん篭」(画像4)               「ざぶとん篭」修理現場(画像5)
 

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 ホタテの稚貝(画像6)
 
(3)ナマコ
ナマコは 10 月~6月半ばの間漁が行われている。ナマコはかつて低価格のものとして扱われていたが、現在は中国での需要が高まり高級品として扱われている。そのためイタンキ漁港でも盛んに漁が行われていた。環境や時代の変化に伴って獲れる魚、売れる魚が変化していくのは面白いなと感じた。 
 

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水揚げされたナマコ(画像7)

 

4.結び

以上、今回の実地調査によりわかったことは室蘭市が栄養分豊富で良質の良い魚が獲れ
る地形に恵まれており、そこには4つの漁港が存在しているということ。一番漁業者が多く、一番漁獲量が多いとされている私が調査において焦点を当てたイタンキ漁港では、6月にウニ・ホタテ・ナマコを中心に漁を行っているということだ。イタンキ地区の漁業者の方が最後に私にこう話した。
 
「昔高く売れていたカレイが今では安く、昔安く売れていたナマコが今では高く
売れています。環境の変化によって獲れる魚も当然変わってきます。今獲れる魚
達にも付加価値を付けて高く売り出していく、そんな知識を使いながら漁を行う
時代がそろそろやってくると私は思います」
 
ベテランの漁師でもあるその漁業者の長い目で見た漁業に対するこの見解は、これからの漁業を担っていく若い世代の漁師の方々に一日でも早く一人前になって頑張ってほしいというエールであった。まだない発見や環境や時代の変化に合わせた新たな発見が室蘭市にはあるだろう。
 
 
謝辞
今回現地調査を行う中でたくさんの方と出会いお話を伺ったが、室蘭の方々は誰もが温厚で親切でした。どこの誰なのかも分からない私を快く受け入れてくださり、ご飯をご馳走してくださった方も入れば、帰りは宿まで送り届けてくださった方もいました。こんな素敵な方々に獲ってもらえるのであれば、きっと魚も喜んでいるだろうと素直にそう思いました。そして、いつも当たり前のように食べている海で獲れる魚や貝がどれだけ大変な努力があって私たちの元に届けられるのかということを、たった三日間に渡る調査だが知ることが出来て本当に良かったと思います。きっとこれから海で獲れる生き物を見るたびに室蘭で出会った漁師の方々の顔や会話思い出し温かい気持ちになると思います。出会った皆様本当にありがとうございました。
 

新宗教の形成と現在―天照教の事例—

社会学部 3年 光田凌樹

 

 

【目次】

 

はじめに

 

1.天照教開教以前

 

2.天照教開教後

 

3.信者 今村清子氏

 

4.信者 寺下悦子氏

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

 

はじめに

天照教は 1953 年(昭和 28 年)に北海道の室蘭市で、教祖を泉波希三子、管⻑を泉波秀雄と して開かれた新興宗教であり、天照大御神、大国大神、恵美須大神を祀る神仏習合の宗教で ある。

 

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1. 天照教開教以前 助産婦であった泉波希三子と教師であった泉波秀雄が稚内で出会い結婚するが、管⻑が結核を患い、教員保養所が唯一あった洞爺湖へ行く。教祖は兄の勝男が住んでいた室蘭へ移住 する。当時教祖は不治の病とされた結核に対して、医療の面だけでなく、宗教の面でも助け を求めるようになり各地で様々な宗教に出会った。ある時、洞爺湖温泉に素晴らしい神の先 生がいると聞き、管⻑の見舞いに行く途中に御嶽教照浜教会を訪ねた。教会⻑の浜口テリは 教祖が訪れると、「あなたがここへ来ることはわかっていた。あなたが来たとき赤十字の帽 子をかぶっているのが見えた。あなたは神様にお仕えしなければならない人だ。」と言い、 それを聞いた教祖は感動し、管⻑とともに浜口テリのもとへ訪れる。そして、管⻑は前世か ら神様に仕える人であるから、教師でいるべきではないと神様が伝えようとしているのだ と言われ、二人は悩んだ末に浜口テリのもとで修行を始める。そして修行を始めて 4 日目、 管⻑に天照大御神からの口開きがあった。

 

「吾は姫神じゃ、姫神じゃ。今日から汝の守護神として、汝を守ろうではないか。汝に 力と徳を与えようぞ。ゆめゆめ忘るまいぞ。戦争に負けてしまい、神も仏もないという人が 多い世の中となった。全く真っ暗な世の中となった。何千年前から伊勢の神宮の神としてお 祀りされ、多くの人がお伊勢様としてお詣りをしてくれてはいるが、今こそ、トビラを開い てお願いするのだ。神代時代、天照大御神の時代にしてくれ、これが神の願いであり頼みで ある。この願いを聞いてくれれば何でもしてやるぞ・・・。」(櫻井義秀ほか 2003:55)

 

この他管⻑を通じての神様と教祖のやり取りは数日間繰り返され、そのやり取りから二人 は信仰に身を捧げる決意をする。口開きにあった言葉は教祖がノートに書き留め、布教して 周る際のおみくじとしてまとめていた。そして二人は北海道内各地へと天照大御神の教え を布教して周る。しかしその途中で、神様から教祖へ初めてのお告げがあった。「死んだ病 人を生き返す力を授けよう。主人を北海道外へ『行』に出すこと。」(櫻井義秀ほか 2003:57) 稚内の天理教徒の町で育った管⻑は奈良の天理教本部へと 4 ヶ月間の修行に行くが、心の 拠り所をつかむことができず、照浜教会へと戻った。その後も教祖と管⻑は布教を続け、 1953 年の 5 月 1 日には大国大神、恵美須大神からもお告げがあり、自分たちが仕えるべき 神様を理解したことで修行と布教により専念するようになった。この日を立教宣言の日と

して、天照教としての第一歩を踏み出した。

2. 天照教開教後 立教してまもなく、五月十日に神からのお告げで三週間の「行」が、十月には第二回の「行」 として 21 日間、翌年の八月には第三回の「行」が終わり、それぞれの「行」で、剣、お鏡、 曲玉の三種の神器を神様から心の中へと授けられた。それ以後も二人はおみくじをもって 道内各地で本格的な布教活動を始めた。当時はお金が無く、駅のホームで寝泊まりすること もあった。そして神様のお告げを受けて、信仰の拠点を室蘭に置くことにした。神様から室 蘭を拠点にと言われた際、教祖は管⻑の身を案じて神様に、「室蘭は工業都市で空気が悪い から管⻑の体のことも考えて、室蘭はおやめください。」とお願いをしたところ、「室蘭にい ても管⻑の病気が悪くならないようにしよう。」と言われ、実際に結核が悪くなることは無 かったという。室蘭にある教祖の兄の家の六畳一間と押入れを仮神殿とし、その当時の信徒 の数は 5 人だった。開教の翌年の 2 月 1 日には天照教初の月次祭が行われた。その後 1955 年 4 月 6 日に宗教法人「天照教会」と認証され、「おしえどころ」と呼ばれる集会所や布教 所はこの頃から開設され始めた。同月の 20 日には本輪⻄に新たな本部神殿が建立され、こ の頃から天照教の教えを伝える信徒が布教師として養成され、各地に分教会が建てられる ようになった。1971 年には現在の本部が柏木町に移された。1982 年には、泉寿園という名 前の軽費老人ホームが開園し、始めの頃は教祖の親戚などが住んでいた。そして立教 35 年 の年である 1988 年には北島三郎に同行し、ブラジル日本移⺠ 80 周年記念式典に出席し、 困窮する人々を見た教祖はブラジル布教を開始した。三日間の講演が大盛況に終わり、ブラ ジルサンパウロ支部が開設され、1997 年にはブラジルサンベルナルド分教会も設立された。 ブラジル布教開始から 3 年目の 1991 年にブラジル政府から文化功労賞、ブラジル国侯爵 章、ブラジル国王冠章を受章した。そして同年の 11 月 15 日に初代管⻑である泉波秀雄が 逝去した。教祖の娘の泉波希久子の夫、泉波孝幸が 2 代目管⻑に就任し、立教 40 周年の 1993 年の 5 月 1 日に泉波希久子が教主に就任した。45 周年の年に、教団五十年史の編纂へ と取り掛かり、50 周年の年に教団史を作り上げた。その後、平成20年 1 月 1 日に教祖である泉 波希三子が逝去した。そして現在に至る。

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3. 信者 今村清子氏

1950 年生まれの二世信者である今村氏は、幌別町で生まれ育ち、現在は学童保育の預かり 所で働いている。親の入信時期は不明だが、病気関係ではなく子供への心配からの入信であ る可能性が高いと語った。今村氏の天照教への入信経緯は、何となく信じるようになったの が 15 歳のころだと語った。その当時、兼業教会⻑がよく自宅へ訪問していて、8 人兄弟が 教会⻑を囲って話を聞いていた。今村氏は神様を信じておらず、当時は吃音症だったために、 教会⻑に話しかけられるのも嫌だったという。そんな今村氏を見た教会⻑は不信心を見抜 き、「神様を分かるようにしてあげる。君は学校に行く時足を痛めるから 1 週間塩払いしな さい。」と言われた。今村氏は気味が悪いと感じたがそれを実践することなく本当に足を痛 めてしまい、そこから母親と一緒に教会へ通うようになった。当時はまだ何となく信じるだけで、家にいても拝むほどでは無かったが、高校受験の時偏差値の高い学校に受かるために、 朝 6 時半の電車で教会へ通い無事に合格することができた。また就職においても、当時家 が裕福でないにも関わらず、銀行に就職が決まった。今村氏は「自分と一緒に面接を受けた 美人は落ちたのに自分は受かったから、神様のおかげだと思えた。」と語った。今村氏は何年か時間をかけて、神様という存在を信じるようになった。また今村氏は自分が体験した息 子との不思議な経験も語ってくれた。ある時今村氏がいつものように拝んでいると、上にか けてある丸い鏡に逆三角形のような⻲裂が入っているように見えた。しばらくすると鏡は 丸い形に戻ったが、不吉な何かを感じた。そして息子が仕事をしている時に工場で事故があ り、レンズのガラスのほぼ全てが目に刺さってしまった。事故をした日は、仕事がいつもよ り早く終わり、いつも自分の仕事を手伝ってくれている人の仕事を手伝っていたら事故が 起こったという。すぐに日鋼病院に連れて行かれ、今村氏は本部へ向かいご祈祷をした。教 主に慌てておみくじを見てもらうと、「心配ない。本人が一週間本部に通ってお祈りすれば失明はしない。」と言われた。今村氏は教主の言葉通り、息子に一週間通わせた。代々目が 見えにくい家系であったが、今村氏と今村氏の親の信仰心で息子が失明することは逃れら れた。今村氏は宗教について、「宗教は常識の最高。不思議な力もあると信じていて、その 有無は信じるか信じないかで変わる。」と語った。

4.信者 寺下悦子氏

1951 年生まれの二世信者である寺下氏は、室蘭で生まれ育ち小学校低学年の時に天照教に 入信した。入信経緯は五人兄弟で育った寺下氏の姉が病気であり、親が心配して色んな教会 をまわっているうちに天照教へたどり着いたからであった。教祖は寺下氏の姉を見て、教会 で住み込みで働かせた。そして病気が良くなり教祖と管⻑と各地を歩いて回るうちに姉は 教会⻑にまでなったという。他にも、寺下氏は夫が腰を病気で悪くした時や、子供の病気を 助けてもらうなど、他にも天照教に救われていると語った。夫が腰を悪くした時、病院では 手術を勧められたが、教祖は手術をすることを否定した。結果、教会に通う選択をした寺下 氏の夫は腰が良くなり、同じ病気で手術をした人は働けなくなったと語った。また、寺下氏 が天照教を信仰してきた中で経験した不思議な出来事を1つ語ってくれた。それは寺下氏 が夢を見た話であった。夢の中で、現実で亡くなった寺下氏の姉の夫が、「自分の母恋の教 会を〇〇してくれ」、という夢だった。寺下氏は〇〇の部分をよく覚えておらず、本人も結 婚して東京に行くつもりであったため悩んでいた。そして教祖にそれを伝えたところ、「そ ういうことだからそうしたほうがいい」と言われ、夫に相談したところ、何故かは分からな いが返事一つで承諾してくれたという。当時横浜に家を買って借金もあったが、教祖が伊勢 の帰りに寺下氏の姉と教主の三人でその家に訪れたところ教祖が、「この家は売れるから大 丈夫」と一言言うと、本当に売れたという。そして寺下氏は夫と北海道に家を建て、教会で 働いていた。しばらくすると教祖から「その土地に居続けるのは良くないから引っ越しな」 と言われた。しかし家も買っていたので教祖からの言葉を聞かず、そこで生活していると、 夫が母恋の教会をやめてサラリーマンに戻ると言い始めた。一度そう言ってしまうとどうにもならないので、寺下氏はその当時、「やっぱり教祖にしたがって別の所に行けばよかったと思った」と語った。

 

5.結び

天照教は 2019 年で立教 66 周年を迎える。66 年間の歴史で様々なことがあったが、それで も地域に根付き、全国各地に信者を増やしてこれたのは、教祖と初代管⻑の働きによるもの が大きいと考えた。

 

謝辞

本論文の作成にあたって、塚越様、成田様をはじめとする天照教に関わる全ての方々、室蘭市民の皆さま、大変貴重なお話を聞かせて頂きました。室蘭で天照教について学び、レポートの作成を終えることが無事に出来たのも、皆様のおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

参考文献

櫻井義秀・本野里志・佐藤寿晃,2003,,『天照教五十年史』山藤印刷株式会社.

霊泉と不動明王ー室蘭市・天神山不動尊清瀧寺の事例ー

社会学部 3年 平江 真紀

 

【目次】

はじめに

1.天神山不動尊清瀧寺

2.霊泉の発見と再発見
 ⑴霊泉の発見

 ⑵霊泉の再発見

3.清瀧寺の建立と展開
 ⑴清瀧寺が現在に至るまで

 ⑵清瀧寺の現在

4.火と水のコスモロジー

結び

謝辞

参考文献

 

 

はじめに
 天神山不動尊清瀧寺は霊泉をもとに生まれた真言宗醍醐派の寺院である。私は北海道室蘭市で行われた社会調査実習において、この寺院について調べた。本レポートそれらの内容をまとめたものである。

 

1.天神山不動尊清瀧寺
 真言宗醍醐派 天神山不動尊清瀧寺は北海道室蘭市天神町19番25号に所在する寺院であり、市民の間では「清瀧不動尊」として親しまれている。開基者は沖本妙道師で、現在は長谷川翠芳師が住職代務を務められている。明治14年に湧き水が発見され、それが霊泉として人々に伝わり、そこに不動尊を祀ったのが清瀧寺の発祥であり、その湧き水は現在でも多くの人に利用され愛され続けている。(保健所の水質検査において飲用として合格している。) そして、清瀧寺は北海道八十八ヶ所霊場,北海道三十六不動尊霊場とされているだけでなく、四国八十八ヶ所すべての御仏像が鎮座しており、宗教宗派を問わず毎日多くの人々が参拝に訪れている。
 また、清瀧寺の各所在は以下のとおりである。天神町を通り抜ける、北海道道107号室蘭環状線の山側にまず、島木・額束などのない清瀧寺大鳥居がある。鳥居をくぐり約70~80メートルほど歩くと清瀧寺の境内に着き、石の狛犬が参道入口の両側に据え置かれている。そのまま歩き進めると左手に本堂があり、右手には丘の下に弘法大師石像、脇には慈母観世音菩薩、延命地蔵菩薩などの石仏が立ち並び、丘の道には八十八体の佛たちが静かに立っている。そしてそのまま奥へ進むと、本堂の奥の院に通ずるところに百度石(百日間の日拝を一日で参詣する場所)が建てられており、突き当たりに室蘭岳を発祥の地とする清瀧寺の霊泉がある。

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清瀧寺の位置(googlemapより)

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(写真1)清瀧寺大鳥居

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(写真2)参道入口

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(写真3)参道入口2

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(写真4)本堂玄関(きよたきのおふどうさんブログより)

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(写真5)清瀧寺八十八ヶ所霊場 御本尊

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(写真6)奥の院

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(写真7)清瀧寺の霊泉

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(写真8)清瀧寺の霊泉 看板

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(写真9)清瀧寺の霊泉 水質検査結果

 

2.霊泉の発見と再発見
⑴霊泉の発見
 明治14年10月のある日、旧仙台藩角田領石川家家中で同郷の3名(高橋要吉,島田平三郎,浅川亀之助)が栗拾いに出かけ、道路を外れて雑草やクマ笹を掻き分け進むうちに小さな沢を見つけ、上流を辿ると小さな瀧に至った。
 当時の生活では、薪の煙で眼を傷めることが多々あったのだが、たまたま同地居住で眼病に悩んでいた高橋辰之助(栄作)がこれを聞きつけ、眼病治癒の為に湧き出る浄水で目の洗浄に通い勉め、ついに治癒した。
 大変喜んだ高橋辰之助(栄作)は長年信仰していた不動尊を自ら刻み、その清らかな小瀧に祀った。(この時の不動明王碑は奥の院に現存している。)
⑵ 霊泉の再発見
 その後時は流れ、大正5年のある夜、母恋在住の行者であった沖本妙道師(のちに開基住職となる人物)が夢のお告げで、東方の山に湧き出る霊水の場所を知らされた。霊水の湧き出る小瀧にたどり着いた沖本妙道師は、そこを修験道場と定め、京都より不動尊像を迎え、簡素な建物(囲炉裏)を建て弟子の養成にあたり、信者や行者をもつようになった。

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(写真10)清瀧不動明王碑 高橋栄作刻 明治14年 (きよたきのおふどうさんブログより)

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(写真11) 清瀧不動明王碑 大正9年8月15日

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(写真12)[1]が高橋栄作氏が自ら刻んだ"不動明王碑"、[ 2 ]は後年に設置された"清瀧不動明王碑"(きよたきのおふどうさんブログより)

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(写真13)開基住職 沖本妙道師

 

3.清瀧寺の建立と展開
⑴清瀧寺が現在に至るまで
 その後、篤き篤志家であった中田仁三郎翁(初代主管)の力により現在の本堂が建立されたのだが、昭和18年 太平洋戦争中で神社および佛閣は、宗教団体法(昭和十四年法律七九号)により、国家の保護と統制を受けなければならず、宗教法人として千葉県成田山不動院に所属し、成田山清瀧寺として独立した。この年に、中田仁三郎翁は、室蘭へ移住後、家業の業績も好調に推移したことを日頃信仰の不動尊の御利益によるものと考え、奥の院の御堂や玉石垣並びに霊水池の新設設備をし、成田山より不動明王像を迎え、当寺に奉納安置をされた。だが、昭和22年、太平洋戦争後には、新憲法のもとで法律も変わり、宗教の自由が原則保障され、宗教関係の規則の改廃になったため、従前の天神山清瀧寺として旧に復し独立することとなった。
 昭和29年には山内に、四国八十八箇所を模し、札所1番「霊山寺」釈迦如来像が建立奉納された(昭和54年に札所88番「大窪寺」薬師如来像が建立され、八十八箇所すべての御仏像が安置された)。そして昭和30年3月、旧地名は山城宇治の古義真言宗醍醐寺派に所属し天神山不動尊清瀧寺として再発足し今日に至っている。
⑵清瀧寺の現在
 清瀧寺は現在まで初代主管である中田仁三郎翁の子孫らが総代として続いてきたが、次の後継者はいない状態である。そして、初代住職の中田妙純師は初代主管の中田仁三郎翁の子だが、その後の住職は1代限りで選ばれており、決して世襲制ではない。そのため、今後の住職も未定であり、その都度その時々で繋いでいる。
 清瀧寺の大きな特徴は信者の寄付で成り立っており、皆で協力して大きくしてきた寺であるということだ。本堂には、壁一面に寄付者の名が記してある木札が掲げてあり、いかに多くの人々が清瀧寺を支えてきたのかということが一目で窺うことができる。清瀧寺は檀家のいない、信者で成り立っている寺なのである。

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(写真14)歴代主管と院代

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(写真15)初代住職と歴代院代

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(写真16)歴代住職

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(写真17) 本堂 御本尊・お不動様

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(写真18)本堂 御本尊・お不動様 2

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(写真19)寄進者芳名表

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(写真20)寄進者芳名表2

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(写真21)寄進者名簿(本堂外)

 


4.火と水のコスモロジー
 清瀧寺は不動明王を祀る寺であり、みなから「お不動さん」と親しまれる不動尊は火の神である。悪を働く者を懲らしめ、神仏の方へ抜けるよう働きかけてくれ、どんなに悪い者でも救ってくれる、力を貸してくれる、そんな存在であるという。鉄のまちとも呼ばれる室蘭には製鉄・製鋼の工場があり、"火"を扱うことが多いことも、不動尊が長年にわたり慕われている理由のひとつであると考えられる。流れ出る湧き水や、岩はだを伝い落ちる清水のところには、諸刃の不動尊の剣が数本たてかけられているのであるが、この剣も不動信仰を示すものである。そのため日本製鉄などの火を日常的につかう方々をはじめとして、火の神である不動尊の剣を奉納される方が多いのだという。(本堂にもたくさん納められている。) たてかけられた不動尊の剣は御神水である、清瀧寺の霊水を守っているのだ。そして、霊水のとなりには龍神様が祀られている。龍神は不動尊のつかいであり、水のあるところに住むとされている。
 住職代務である長谷川翠芳師は「水が清いところには山があり、水があるところには不動明王や龍神がいらっしゃって(大日如来の分身として水があるところには不動明王がいる)、守られている。」と話された。また、「湧き水の空間にいるといろいろなものが離れていくような気持ちがしてすっきりし、自分が持っている嫌なものを落とすことができ、パワー(元気や気)がもらえる。水は浄化する力を持っており、手を洗うこと,洗濯することなどのいろんなものが自然と厄払いになっている。自分が元気でいい気を持っていろんな人たちといい出会いをするためにはその出会いを全て受け入れてくれるような自分でいないといけないため、悪いものは全て落とした方がいい。お水の力はすごい。」と続けられ、清瀧寺における火(不動尊)と水(霊泉)の関係性が窺われた。

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(写真22)不動尊の剣

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(写真23)不動尊の剣2

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(写真24)湧き水(霊泉)と不動尊の剣

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(写真25)清瀧不動明王

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(写真26)龍神様



-結び-
 清瀧不動尊は霊泉をもとに生まれ、檀家はいないが、信者や地域の者など皆に親しまれ守られてきた寺である。その背景として鉄鋼で栄えた室蘭と火の神である不動明王の関係性、地域の者の生活の一部となって愛されている室蘭岳からの湧き水が挙げられる。室蘭という北の地で、なかなか四国をまわれない者のために四国八十八箇所を模し、どの宗派の者でも受け入れ、みなの心の拠り所として存在する清瀧寺と、清瀧寺を守るために度々寄付でそのご恩を返す人々は互助的な関係性を持っていると私は考える。

 

-謝辞-
 今回の調査にあたり、清瀧不動尊の方々には大変お世話になりました。特に現在、住職代務を務められている長谷川翠芳さんには三日間に渡りインタビュー調査をさせていただき、貴重なお話を聞かせていただきました。そしてその中で私自身の心も和やかにそして清らかになっていくのを感じました。ぜひまた訪れたいと思っています。本当にありがとうございました。

 

-参考文献-
・室蘭地方史研究会,1999,『茂呂欄-室蘭地方史研究33号-』.

・きよたきのおふどうさん(室蘭市天神山不動尊清瀧寺ブログ)

http://blog.livedoor.jp/hanamaru_1/,2019年9月26日にアクセス)

新宗教の形成と展開ー天照教の事例ー

社会学部3回生

前 綾華

【目次】

はじめに

1.教祖・泉波希三子

 1-1.立教以前

 1-2.立教後

 1-3.霊能力

2.信者からの聞き取り

 2-1.野本氏の語り

 2-2.小松政夫氏・真澄美氏の語り

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに
 天照教は北海道室蘭市に本部を置く宗教法人である。昭和28年に初代管長である泉波秀雄(以降管長と表記)と、その妻である教祖・泉波希三子(以降教祖と表記)とともに立教された。天照大御神・大国大御神・恵美須大御神の3柱、そして阿弥陀如来を祀っており、神仏習合が特徴である。成立時期が新しいことから、新興宗教に分類される。今回の調査では天照教本部に伺い、本部神官の方、信者の方から聞き取りを行った。

f:id:shimamukwansei:20190929145328j:plain(写真1) 天照教本部

 

 1.教祖・泉波希三子

1-1.立教以前
 天照教教祖である泉波希三子(旧姓、泉澤キサ)は、大正11年5月10日、北海道島牧郡島牧村に8人兄妹の次女として誕生した。昭和21年に看護婦と助産婦の資格を取得後、助産婦として働き、稚内で管長と出会い結婚した。しかしその後管長は結核を発症し、洞爺湖温泉町教育保養所に入院することになった。教祖は救いを求めて洞爺湖にある御嶽教照浜教会の教会長・浜口テリ氏(以降浜口氏と表記)を訪ねた。部屋に入った途端、教祖は浜口氏に「あなたは、神様にお仕えしなければならない星を持って生まれて来た人ですね」と言われたという。その後、管長とともに3日間、浜口氏から不思議な話を聞き、浜口テリ、茂三郎両氏の弟子として修行することを決心した。修行を始めてから数日後、管長に口開きがあった。教祖は管長の口を通して伝えられたご神言を書き取り「神様からのおたより(現在はおみくじ)」と名付け、これを持って洞爺湖周辺を中心に布教を始めた。そして昭和28年5月1日に立教宣言をした。この「おみくじ」は現在も残っており、運勢や社会情勢を占うのに使われている。

1-2.立教後
 立教後、教祖はおみくじを持って道内各地で本格的な布教活動を始めた。当時はお金がなく、駅で寝泊まりすることもあったという。そして各地を回る内に、おみくじの評判が口伝えで広まり、「良く当たる先生がいるらしい」と聞きつけた人々が、教祖の行く先々に集まるようになったという。そこから信仰の道に入る人々も出てくるようになった。昭和28年に教祖と管長は神からのお告げを受け、室蘭の教祖の兄・泉沢勝男が経営する自転車店の2階の押し入れを神殿として御神霊を祀り、信仰の拠点とした。その後、本輪西に独立の神殿を建立し、昭和46年には柏木町に本部神殿を移転して現在に至る。

f:id:shimamukwansei:20190929145412j:plain(写真2)当時の泉沢自転車店(『天照教五十年史』より)   

f:id:shimamukwansei:20190929145829j:plain(写真3)本部神殿 外観
 天照教では「神の道」「仏の道」「人の正しい道」の3つの道を説いているが、教祖は管長から「神の道」を学び、古い信者達から良識・礼儀・教養など「人の道」を、無縁仏との関わりから「仏の道」を学んだという(2-2に詳しく記載)。また、教祖は贅沢をせず、質素な生活をしていたという。赤いセーターにズボンという格好が多く、信者からは親しみを込めて「女先生」と呼ばれていたそうだ。教祖を知る信者曰く、教祖にはいかにも「偉い人」というような近寄りがたい雰囲気は全くなく、気さくで親しみやすかったという。教祖が来ると信者達が自然と教祖の周りに集まり、和気藹々としたそうだ。
 天照教では毎月15日に感謝祭という行事があり、信者が集まる。管長は平成3年11月15日、ちょうど感謝祭が行われる日に逝去したため、月命日は感謝祭と併せて行われているそうだ。管長の死後、教祖は「私はお参りの日に死ぬ、管長先生と同じ日に死ぬから」と言っていたという。本部神官の塚越氏が理由を尋ねると、自分の月命日と管長の月命日を別日に行うのは大変だから、と答えたのだそうだ。そして、その後教祖は平成20年1月1日に逝去した。天照教では毎月1日に月次祭という行事がある。教祖は管長と同じ日ではなかったが、ちょうど行事があり、信者が集まる日に逝去した。

1-3.霊能力
 教祖は霊的な力を持っており、憑霊や予言をしたという。夕張郡由仁町の由仁布教所が開設したばかりの頃、そこに度々「お化け」が出たそうだ。塚越氏曰く、由仁布教所は、かつて「飯場」で、喧嘩をして死んだ労働者の男性2人が土葬されている場所だったのだという。由仁布教場のお化けの正体はその男性2人で、教祖によって「田中」と「竹浦」という名前がつけられたそうだ。そしてそのうち、田中・竹浦は教祖に憑依するようになったという。憑依された教祖の言葉づかいや態度は普段とは一変し、「酒持ってこい!」「俺は白雪(日本酒の名称)じゃなきゃ飲めねぇんだ」などと大声で叫ぶこともあったそうだ。『風雪の日々』によると、教祖に憑依した田中・竹浦は、「オレは由仁の親方であるぞ!」と大声を張り上げ、あぐらをかいて供えられた酒を一升全部ラッパ飲みでがぶがぶと飲むのだという。教祖はこの田中・竹浦の供養を行い、この経験から「仏の道(浮かばれない仏の思いや、先祖供養の大切さ)」を学んだという。「仏の道」は信仰の基本理念となり、現在の天照教の教えに繋がっている。田中・竹浦は本部が現在の場所に移ってからも度々教祖に憑依していたそうだが、立教45周年を迎える頃に、教祖に憑依して「もう旅に出るから」と言ったきり、一切出てこなくなったそうだ。
 教祖は度々予言をし、その予言はよく当たったという。山岸一徳の『あなたは神のお告げを聞いたか』には、教祖が昭和40年に室蘭で起きたタンカーの火災を予言したことや,昭和52年の有珠山噴火を予言したことなどが記されている。また、信者曰く、教祖は富士製鐵(現・日本製鉄)が新日本製鐵に名称を変更した際、「せっかく縁起の良い名前(富士)だったのに残念だね」と苦言を呈し、新日鉄はこれからさびれていくだろうと言っていたそうだ。そして教祖の言葉通り、その後鉄鋼業界の不況により新日鉄は衰退した。

 

2.信者からの聞き取り
 三名の信者から聞き取りを行った。

2-1.野本氏の語り
 野本氏は22歳の時に当時白老にあった布教所(現在はなくなっている)の2代目の方と結婚したことがきっかけで、天照教に触れることになったという。野本氏の実家には神棚や仏壇はあったものの、教えなどは特になかったため、嫁いできて初めて信仰というものに触れたという。そしてそこでいろいろな手伝いをしながら古い信者達から天照教の教えや信仰について学んだそうだ。
 野本氏は天照教の神様に実父の病気を治してもらった経験があるという。野本氏が26歳の頃、実父が病気を患い、医者からは助かる見込みがないと宣告されたそうだ。しかし、義父に「神様に頼んで助けてあげる」と言われ祈祷してもらったところ、病状が回復したという。この経験がきっかけで、野本氏の実家でも天照教を信仰するようになったそうだ。また、野本氏がより深く信仰するようになったのは実母の死がきっかけであるという。野本氏が春の大祭の準備のために本部に来ていた際、実母が事故に遭い病院に搬送されたと連絡が入った。連絡を受け、急いで本部から病院へ向かおうとしたとき、教祖が「わしも一緒に行く」と言い、病院までついてきてくれたのだという。結局実母はそのまま息を引き取ったが、その事故が介護に疲れた実父によって引き起こしたのではないかという疑いをかけられ、実父が取り調べを受けることになったそうだ。教祖はその間も、野本氏の側にいて声をかけ続けてくれたという。その後、実父の疑いは晴れ、検死から実母の遺体が戻ってきて、なんとか葬儀を執り行うことが出来たそうだ。野本氏は自分が一番大変で落ち込んでいた時に教祖に助けられ、感謝していると述べている。そして、教祖に恩返ししなければならないと思ったそうだ。それまでは本部に行くことはあまりなかったそうなのだが、本部の方にも頻繁に奉仕に訪れるようになり、信仰も深まったという。
 天照教では、入信届けなどがなく入信するのもやめるのも自由だという。また、信徒になるための特別な条件や厳しい戒律もないそうだ。だからこそ自分の心で感じ、信仰することが大事であると野本氏は述べている。
 
2-2.小松政夫氏・真澄美氏の語り
 小松政夫・真澄美夫妻は現在、札幌福神支部に在任しており、政夫氏は神官を務めている。政夫氏が天照教を信仰するようになったきっかけは彼の父親にあるという。政夫氏の父親は元々漁師の網元であったが、ニシンの不漁のため、分家して八雲町に引っ越してきた。父親は冬に室蘭へ出稼ぎに行っていたので、おそらくその時に教祖と出会い信者になったのだろうという。そして、教祖に「そこにいたら兄弟がばらばらになる。室蘭に来なさい」と言われ、一家全員で室蘭に移住した。政夫氏は若い頃は熱心に信仰していなかったそうだ。しかし、ある日胃痛で苦しんでいた際に、神棚にあげてあった水を飲んで手を合わせ祈祷したところ、胃痛が治まったという経験から、神の存在を認め、信仰するようになったという。二世信者である政夫氏に対して、真澄美氏は結婚するまで、天照教のことは知らなかったそうだ。挙式を本部で挙げるということになって、初めて天照教のことを知ったのだそうだが、信仰心を持つことはなかったという。しかし、その後長男の病気をきっかけに信仰するようになる。かつて、当時3,4歳だった長男が髄膜炎で意識をなくし、危篤状態になったことがあるという。その際に親族の「こんな時こそ神様に頼もう」という提案で、天照教へ電話し祈祷を頼むことになったのだそうだ。姉が政夫氏の代わりに病室の外まで電話を掛けに行き、政夫氏は病室内で待っていたそうなのだが、姉が電話をかけ「お願いします」と言っているのが病室内にも聞こえていたという。そして、姉が電話を切り病室に戻ってくる足音が聞こえた瞬間、長男の意識が戻ったのだそうだ。真澄美氏は当時、次男産後一週間であったためその場にはいなかったそうなのだが、後にこの話を聞いて、信仰するようになったと述べている。
 また、2人は不思議な夢を見ることがあるという。真澄美氏は、稀に教主(泉波希久子氏)が夢に出てくることがあるそうだ。自分や家族に大きな異変があるときにだけ、事前に夢の中でお知らせをしてくださることがあるという。真澄美氏はこのような不思議な夢は滅多に見ないのだそうだが、政夫氏は頻繁に不思議な夢を見るという。聞き取りを行う1ヶ月ほど前、政夫氏は脳梗塞で入院していたそうなのだが、脳梗塞を早期に発見できたのは不思議な夢のおかげでもあるという。一ヶ月ほど前、政夫氏はひどい目眩がしたため、病院で点滴を打ってもらったそうだ。医者から再度受診することを勧められていたそうなのだが、当初はそのつもりはなかったという。しかし、その晩の夢に「壁掛け時計が頭に落ちてきた人」と「首がない人」が出てきたという。政夫氏は夢見が悪いと思い、心変わりをして再度受診をしたところ、脳梗塞と診断され即入院することになったのだという。その後、真澄美氏が自宅に戻り神棚に手を合わせようとしたところ、神棚の鏡が奥の御堂側に寄りかかるように倒れていたという。これがもし手前側に倒れていたら、供えてあった水などを巻き込んで大変なことになっていただろうと述べている。2人はこの出来事を、神様が守ってくれているということを分かりやすく教えてくれたのだろうと解釈しているという。
 2人は現在の天照教について、2代目管長や教主と信者の距離が近く、直接話すことができ、相談に乗ってもらうこともできるので、天照教の信者は恵まれていると述べている。また、昔から今も変わらず、家族的であると述べた。

 

 結び
 今回の調査で、教祖・泉波希三子氏は人々を引きつける魅力を持っていたということが分かった。また、天照教の特徴として、入信届けなどがなく入信するのもやめるのも自由、厳しい戒律がない、他の宗教を否定しない、教団のトップと信者との距離が近いという点があげられ、自由度の高い教団であるということが分かった。
 聞き取りや資料などから教祖が優れた霊能力を持っていたということが分かったが、それだけではなく、教祖自身の人柄が多くの信者の心を引きつけ、天照教の発展に繋がったのではないかと推察する。

 

【謝辞】
 今回の調査にあたり、快く受け入れてくださった天照教本部の皆様、並びにお話を聞かせてくださった信者の皆様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献
・櫻井義秀監修,本野里志・佐藤寿晃編,2003,『天照教五十年史』天照教.
・泉波希三子,1980,『風雪の日々 天照教史空知支部編』天照教.
・泉波希三子,1994,『ノストラダムスの予言は回避できる』ハート出版.
・泉波希三子,1988,『天照大御神様のお告げ』,天照教.
・山岸一徳,1991,『あなたは神のお告げを聞いたか 未来を予言し福を呼びこむ天照教のすべて』現代書林.
・天照教HP(https://www.tenshokyo.net/,2019年8月24 日にアクセス)

工都室蘭の鉄鋼マン

社会学部 3年 宮本 悠花

 

【目次】
はじめに
1章 日本製鋼室蘭製作所(日鋼)OB 伏木晃氏
1-1 技術職につくまで
1-2 営業の仕事
1-3 郷土史家としての現在
2章 日本製鉄室蘭製鉄所OB 山中克美氏
2-1 新日鉄高等工業学校時代
2-2 新日鉄での仕事
3章 日本製鉄室蘭製鉄所OB Ⅽ氏
3-1 最盛期の室蘭
3-2 仕事と寮
結び
謝辞


はじめに
 鉄の町として1970年頃に大きな盛り上がりを見せた北海道室蘭市には、町を支えた多くの鉄鋼マンがいる。日本の成長を支えた重厚長大産業で働いた鉄鋼マンのライフヒストリーを通して、室蘭という町が鉄鋼マン、そして室蘭の人びととどのような関わりを持っていたのかについて調査した。製鉄と製鋼の違いについて、製鉄は鉄鉱石から銑鉄(鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして作る)を製造する工程、製鋼とは銑鉄から鋼を製造する工程を言う。

 

1章 日本製鋼室蘭製作所(日鋼)OB 伏木晃氏

 

1-1 技術職に就くまで
 昭和17年、室蘭市母恋町に生まれる。母恋町は現在のJR母恋町から500mほどの距離にあるエリアでかつて中心地であった室蘭駅とも非常に近い。日鋼も目と鼻の先にあり、室蘭港フェリーターミナルや日鋼記念病院などがあるエリアである。中学卒業後の16歳で日本製鋼室蘭製作所(以後、日鋼)に入社し、以後52年間勤続した。伏木氏は「養成校」の8期生で3年間通っていた。「養成校」とは日鋼の中にある私立の工業高校で、中学卒業後に日鋼に入社した人が通った。伏木氏もこの養成校で午前は学校で座学を勉強し、午後は機械仕上工として現場で働いていた。養成校卒業後、そのまま現場で数年勤務した伏木氏は21歳のときにさらに多くを学ぶため、室蘭工業高校(当時4年間)に編入して2,3,4年生の3年間設計を学んだ。設計を学んだ後は仕上げ工に戻るが、当時の部長から「設計を募集しているから、室蘭工業高校で設計を学んだならどうか」と言われ設計部門へ移る。機械仕上工は技能職、設計部門での仕事は計画書や図面を作成する技術職(=今の総合職)であったため、伏木氏は日鋼の中でもめずらしく技能職と技術職(=総合職)の両方を経験した。伏木さんの家系は祖父、父、伏木さんと3代鉄鋼マン、日鋼では戦時中からの名残で情報が外に漏れないように、身元が知れている人は採用されやすかった。

 

1-2 営業の仕事
 平成4年、伏木氏が50歳の時に、朝突然所長室に呼ばれ九州支店のある福岡天神町へ営業職として移動するように言われる。当時伏木氏は、九州石油で技術指導しており、福岡支店長とも付き合いがあったため、専務から直接支店長に推薦された。営業の仕事は、室蘭で生まれ暮らしていた伏木氏にとって、人脈が広がり大きな分岐点となった。営業の仕事として長崎の三菱重工で発電機のローターの営業や、大分製鉄所、三菱下関等を回るものなどがあり、福岡支店の年間売上高の半分を売り上げたこともあった。伏木氏は、単身で赴任後も福岡の市内を室蘭ナンバーの車で走っていた。そこで出会った人たちといまだに付き合いがあり、沖縄の知り合いとはマンゴー(沖縄)⇔さんま(北海道)の送りあいをしている。

 

1-3 郷土史家としての現在
 8年間営業の仕事を務め、福岡から室蘭へ戻って札幌支店を経た伏木氏は、日本製鋼所迎賓館の「瑞泉閣」の館長を6年間66歳まで務める。瑞泉閣は当時皇太子であった大正天皇が室蘭に行啓された時に宿泊施設として建築された。67歳で館長を退職すると、国内旅行業務取扱管理者の資格を取得、さらに観光ツアーガイドの会を立ち上げ、室蘭の工場夜景の案内等を行っている。しかし、JXTGエネルギー室蘭製造所が2019年3月31日で事業所化したことで工場夜景の今後は未定である。そのほかにも知り合いにパソコン教室を頼まれ、隔週でパソコン指導も行っている。伏木氏は私家本を書かれている。私家本第五作では、『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった井上角五郎翁』を制作、井上角五郎(福沢諭吉に弟子入りし同じ思想を持っていたとされる)が製鉄・製鋼事業を起こし、室蘭を鉄の町にしていったか、製鋼所設立の経緯にあたりイギリス工場の視察や歴史、また製鋼所の福利厚生、現在の小学校の社会科の授業での鉄の町の生い立ちなどの内容が記されている。現在は、東京都町田市在住の方からの執筆の依頼で、戊辰戦争時の官軍参謀・世良修造について書いた「~怨讐を超えて~ 官軍参謀 世良修蔵」を執筆したところである。さらに伏木氏は、大学で開かれる研究フォーラムシンポジウムで講演を行ったり、「朝日新聞×HTB北海道150年室蘭を鉄の街にした男」のテレビ取材を受けるなど、現在も郷土史家として幅広い活動を行っている。

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伏木氏が編集・印刷・製本した私家本


2.日本製鉄室蘭製鉄所OB 山中克美氏

 

※現在の正式な社名は「日本製鉄株式会社」であるがライフヒストリーなので当時の社名を使って「新日鉄」と呼んでいる
平成31年になって、戦前の「日本製鐵」と区別するためと、鐡という字にこだわりがなくなり日本製鉄となった(それまでは鉄は金を失う、と書くため好まれていなかった)
ライフヒストリーでは一般的に使われていた「新日鉄」を使用する

 

2-1 新日鉄工業高校時代
 昭和27年、当麻に生まれる。当麻は北海道上川郡にあるエリアで旭川都市圏の東の玄関口と呼ばれている。山中氏は、中学三年生の11月、富士製鐵室蘭高等工業学校のテストを受け合格。テストの倍率は7倍であった。中学卒業後、富士製鐵高等工業学校に入学。山中氏の学年では、一学年は43人おり、普通科と工業化のどちらの内容も学ぶため夏休みが短いことが特徴であった。当麻から室蘭へ移り、一,二年生は富士製鐵の学生寮、その後学校寮の収容人数が少ないことから、三年生になると近い人は自宅通学、遠方からきている生徒のうち一部の人は市内の高砂町にある緑が丘寮(社員寮)に移り入社後も同じ寮で生活する。製鐵会社の社員寮は天神町には桜が丘寮、知利別会館のあたりには大卒社員の如水寮があったが、今は輪西寮に高卒・大卒・女性社員が集約されている。二年生の頃、実習で3交代(当時から製鐵会社は24h稼働)職場の製鋼工場の現場へ入った。三年生の2・3学期は、製鐵所内で保全業務の実習も行った。新日鉄工業高校には、山中氏のように地方から出てきた人が多く、室蘭市内から入学した生徒は少なかった。学校を辞めた人以外はほとんどが昭和45年に富士製鐵から新日鉄へ変わり新日鐵の卒業一期生として入社した。

 

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如水寮

 

2-2 新日鉄での仕事・楽しみ
 官営製鉄所と聞くと多くの人が八幡製鐵所を思い浮かべるが、戦後の財閥解体により、旧日本製鉄は八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社に分けられた。高度経済成長の景気や朝鮮戦争の景気に支えられ、富士製鐵は重厚長大産業として大きくなった。この八幡製鐵と富士製鐵二社の合併により新日鉄が発足した。この合併は山中氏の入社の前年、昭和45年の出来事である。会社では、保全業務を行う「整備課」(40∼50人ほど配属)で働いていた。会社に保全課ができたのは昭和29年であった。整備課は各工場にずっと張り付いて日常的にずっといるといった勤務形態で、突然トラブルで呼び出しがあることもあったという。呼び出しは月1ペース、多い人で2,3回ある人もおり、自分の時間を過ごしていても呼ばれるとすぐにタクシーで向かった。そのため、誰かに呼び出しがかかることがあるため職場で旅行に行くときは近場が多かった。山中氏は高砂にある緑が丘寮(第一、第二)に住まれていた。寮の後は港北町の社宅、その後家を購入した。新日鉄ではある一定の年齢になると社宅の家賃が上がるようになっており、現在は会社自体が社員に持ち家させる制度がある。昭和60年前後に室蘭製作所が縮小し転勤するひとが多くいたという。当時の転勤は数年おきに転勤するというものではなく、北海道から千葉、愛知、大分などへ場所を変え仕事の内容も変えるといったものであった。これは当時の鉄鋼マンにとって大きな悲哀であった。中島本町に新日鉄系列のお店「ビアキャビン」がありそこでよく宴会が行われ、ジンギスカンなどをしたという。

  

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ビアキャビン


3.日本製鉄室蘭製鉄所OB Ⅽ氏

 

3-1 最盛期の室蘭
 C氏は昭和27年、室蘭から150キロほど離れた空知地方の岩見沢で生まれる。高校3年生の夏休みに、学校の斡旋で高校卒業後に室蘭製鉄所への入社が決まる。C氏は昭和45年に新日鐵一期生として入社、新日鉄は43年から45年頃、人を多く採用しており室蘭の人口も18万人ほどいたという。親も鉄鋼マンが多い日鋼とは異なり、新日鉄は室蘭外からも多く採用が行われ、いろいろな地域の学生が室蘭へ集まっていた。C氏もその一人であった。入社当時は人力しかなく、「仕事は腕」を粋に感じて、皆が主体的に働いていたという。新規の工場が増え、今は一機になってしまった高炉も当時は四機あったため栄えていた。当時、仕事は見て覚える時代であり人とのつながりをとても大切にしていたそうだ。当時と比べ、現在の飲食店の数は半分ほどに減少、室蘭は鉄鋼の町として栄えたが、鉄鋼の力に頼りすぎたと感じることもあった。新日鉄では、スポーツが盛んで軟式野球には百チームほどあった。寮対抗運動会なども行われたが、現在チームの減少により行われなくなった。

3-2 仕事と寮
 当時は東室蘭駅よりも東の輪西・室蘭エリアが最も栄え、ボーリングがはやった時はみんなでやった。C氏は桜ヶ丘寮に入っており、輪西で飲み会をしたときはそこからタクシーで天神町にある桜ヶ丘寮に帰った。毎日の通勤で新日鉄には各寮から出るバスで通っており、急な呼び出しにはバスで向かったという。寮以外にはスーパー「ARCS中島店」のあたり一帯に木造の社宅があった。白鳥台のあたりが最初にニュータウンになり家を買う人もいた。当時、登別に「山水荘」という会館があり安く使うことができたため、利用することもあった。また、中島本町の「ビアキャビン」にもよく行っていた。やはり、新日鉄で働く鉄鋼マンに愛された店であることがわかる。さらに当時は、輪西駅で降りると赤雪が舞い鉄のにおいがしていた。赤雪は鉄粉が舞ったものが雪のように見えることから赤雪と呼ばれ、それほど活気ある鉄の町だったことを表している。新日鉄は工場が24h稼働のため三交代制(甲乙丙番)であった。乙番は15時から22時半までの担当であった。C氏は、高炉で働いていたのちに設備部の電気関連の仕事へ、その後出向して数年後新日鉄に戻る。60歳で退職し、65歳までの五年間シニアで働いた。

 

結びに
 今回の調査では3人の鉄鋼マンにお話を伺った。この調査を通して、以下のことが分かった。
・井上角五郎の尽力により室蘭という地が鉄の町として発展した。
・新日鉄は八幡製鉄と富士製鉄の合併により発足した。
・鉄鋼マンになった経緯は人によってさまざまである。
・会社に、企業内工業高校があった。

 

謝辞
 本論文の作成にあたって、多くの室蘭の方々にお話を伺いました。お話を伺った皆様にこの場でお礼を申し上げます。
お忙しい中、私の質問に丁寧に答えてくださり、室蘭を案内していただいた日鋼OBの伏木様、新日鉄OBの山中様、C様、お話を伺うために知り合いの方に連絡を取ってくださった居酒屋『まんまる』店主 丸山様、皆様の温かいご協力に感謝申し上げます。初めての室蘭という地で論文を作成できたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございました。