関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

室蘭の座敷わらし

 社会学部 3年 山木 麻椰

 

【目次】

 はじめに

1 座敷わらし

2 東北地方との比較

 2-1 東北地方の座敷わらし

 2-2 東北地方との比較

むすび

謝辞

参考文献

 

はじめに

 今回お話を伺った室蘭のある飲食店では従業員の間で共有されている不思議な話がある。この飲食店は室蘭の繁華街に位置している。お店の方によると、お店を設計する時には方角に気をつけ、開店する時にはご祈祷とお祓いもしたということだった。そして、このお店の従業員の中には霊感が強い人が多いことも特徴で、不思議なお話をたくさん伺っていく中である発見をすることができた。

 

1 座敷わらし

 いきなりではあるが、このお店には子どもの霊が存在する。従業員の方々は座敷わらしのようなものとして捉えていると、いくつかの話を教えてくださった。

 1つ目は、元の従業員も現在の従業員も霊感のある人は皆見ているという子どもの霊で、5番のテーブルににこにこ笑っている男の子がいるというものだ。5番のテーブルというのはお店が開店した当初から変わらずにある唯一のテーブルで、一本の木からできているテーブルであることが特徴である。一本の木から作られているということもあり、その木自体についているではないかという話も出ていた。他には4番のテーブルでも男の子を見たという話もあったが、5番のテーブルにいることが多いということがわかっている。

 この男の子はにこにこ笑っていることが一番の特徴かと思われる。幽霊というと怖いイメージがあるが、にこにこ笑った男の子がそのテーブルにいるのを想像すると、どこか可愛らしいイメージが湧くかもしれない。その子にとっては5番のテーブルはお気に入りの大好きな場所なのであろう。

 2つ目は、ある従業員の方の持ち場の洗い場からお店の通路が見えるようになっているのだが、その通路を小さい男の子が走っていったというお話である。この方は霊感があり、2回その男の子が走っていくのを見たそうで、楽しそうだから遊びに来たのではないかという感覚だったと教えてくださった。男の子の年齢は5歳から6歳くらいの身長だったという。

 3つ目は、1組の家族が入店した時のお話で、ある従業員の方がその入店した家族を見た時、父・母・息子・娘の4人家族だったはずが、その家族がついたテーブルに行くと、女の子はおらず、トイレに行ったのかと思ったが、家族に直接聞くと、3人家族だったという。この従業員の方も霊感が強いためこの女の子が見えたのだろう。この女の子は大体3、4年生くらいだったということもお話を聞いてわかっている。この3人家族について入ってきた霊なのか、お店に遊びに来た霊なのか、もともとお店にいた霊なのかはわからないが、このお話で初めて女の子の霊も存在することがわかった。

 4つ目は、このお店の料理長が体験したお話で、このお店には二階に上がると壁に鏡がついているのだが、ある日ふと料理長がその鏡を見ると小さい男の子がうつっていたという。料理長も霊感が強いため、その子を見たとき怖さは全くなく、どうした?お腹空いたの?という感覚だったという。料理長は「その子が名札でもつけて、そこにどうして欲しいのかも書いてくれたら何かしてあげるかもしれないけどね」と冗談交じりにおしゃっていた。

 私は霊は見たことはないが、何度か怪奇現象を経験したことはあり全て何かを伝えるために起きていたものだったため、このお店に現れる子どもたちの霊は何を伝えるでもなく、何かいたずらをする訳でもなく、霊感のある人には姿を見せるというのは不思議だった。この子どもたちの霊はなぜこのお店に留まっているのだろうか。また、店主はこの子どもたちの霊はお店の守り神として捉えていると教えてくださった。

 

<座敷わらし話>

 1, 4番と5番のテーブルに男の子がいる

 2, お店の通路を男の子が走っていた

 3, 4人家族のお客さんが娘のいない3人家族だった

 4, 二階の鏡に男の子がうつった

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▲資料1 4番のテーブル

 

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▲資料2 5番のテーブル

 

2 東北地方との比較

2-1 東北地方の座敷わらし

 私が知る座敷わらしは東北地方の家に現れる小さい子どもの霊で家の守り神のような存在でもあり、人の目に触れるとその家が傾くと言われているが、最近ではテレビで座敷わらしの存在を放送しているのが印象的である。

 川島(1999:226)によれば、座敷わらしの特徴は、常には目に見えないもので、神像や神体として視覚化して崇めることもしないものであるという。座敷わらしが目撃され、出現する場所は東北地方で民家の奥座敷と呼ばれるところで、祝儀や不祝儀などの非日常的な時に使われ、他には客を迎え入れ泊める公的な空間であるとしている。また、座敷わらしのわらしというのは男女問わず子どものことを示すという(川島1999:232-233)。私は北海道出身のためわらしが子どもというのは北海道の方言でもあることで知っていたが、どこに出現するかという詳しい場所までは知らなかった。現代の家で言えば仏壇が置かれる仏間やお客さんが泊まる床の間というイメージであろう。

 座敷わらしの目撃者としては、その家の人が目撃することはほとんどないが、「家のおばあさん」が座敷わらしを目撃することがあり、その「家のおばあさん」とは、イタコと同様な巫女的な役割を果たしていると考えられ、いわば家の者と座敷わらしの媒介者であったと思われるとしている(川島1999:241)。イタコとは簡単に言えば東北地方に存在する口寄せができる人である。

 そして、座敷わらしは人の目に触れないのが一番なのである。川島(1999:254)によれば、「ザシキワラシに限らずに、東北地方では、ある家の繁栄を支えていたものが人の目に見えるようになるとその家が没落するという言い伝えがある」という。しかし、現在、座敷わらしに会える旅館や場所が存在し、その中での怪奇現象や存在を示すようなテレビの放送、ネットの書き込みがあり、座敷わらしのあり方が変化していることは一目瞭然であろう。今では座敷わらしを見ると幸せになれるとされている。

 岩手県遠野市にある早池峰神社では年に一度「ざしきわらし祈願祭」が行われており、川島(1999:257)によれば、「一年に一度のこの祭日には、ザシキワラシが居ると感じた家で、早池峰神社から以前に授けてもらった『ザシキワラシ人形』を持ち寄り、神職から魂を入れ替えてもらうことを主眼としている」という。遠野市観光協会の公式サイトによると、今年は4月29日に開催されている。この祭りでは座敷わらしの人形を作り、座敷わらしを視覚化していることがわかる。

 このように、もともとは人の目に触れるとその家が没落すると言われていた座敷わらしが、現在では見えると幸せになれるや人形という目に見える形で表されている。座敷わらしに会える場所は早池峰神社も含めパワースポット化していると言えるだろう。もはや、家の守り神でもあり、幸福をもたらす神でもあるのだろう。

 

2-2 東北地方との比較

 東北地方の座敷わらしの特徴を見るとこのお店に現れる子どもの霊との共通点があることがわかる。

 このお店の子ども霊が目撃される場所はお店の中の様々な所ではあるが、従業員全員に見えるわけではではなく霊感の強い人に見え、従業員の間で小さい子どもの霊の話が共有されていることを見れば、この霊感の強い人たちがこのお店の従業員と座敷わらしの媒介者であるということだ。現れる頻度も常にというわけではない。そして、早池峰神社の座敷わらしの人形のようなものを置くことはしていないし、そのように視覚化して崇めることもいていない。また、お店の守り神としてこの子どもの霊を捉えている点から東北地方にもともと伝わる座敷わらしの存在と類似する。

 このお店に子どもの霊が現れることは従業員の間でしか知られていないが、これがお客さんをはじめ様々な人に伝われば現代の座敷わらしの特徴である座敷わらしに会える場所としてパワースポット化することは間違いないであろう。

 そして、このお店の従業員の方々は子どもの霊が姿を見せても祓うことはせず居させてあげていることが子どもの霊にとっては居心地が良い理由の1つなのであろう。悪さをしないから祓う必要がないともおっしゃっていたが、それが結果としてお互いに守り合っているように思われた。そのため、子どもの霊が見えたからといってお店が没落することはなく、いつも明るく賑わっているのは、守り神としての役割を果たしているのかもしれない。

 このように東北地方との類似点を見ればこのお店に現れる子どもの霊は北海道の座敷わらしと言えるのではないだろうか。

 

むすび

 今回お話を伺うことで、北海道の室蘭にも座敷わらしがいることを発見することができた。このお店に現れる座敷わらしは守り神としてお店の繁栄を少しでも支えているのかもしれない。このお店の座敷わらしが居続けているのは、このお店がお客さんにとって居心地が良いように、座敷わらしにとっても居心地が良いからであろう。お店に入ると明るくて、活気にあふれ、美味しそうな香りが漂っている、そんな雰囲気につられて一緒に楽しんでいるのではないのだろうか。そしてお話を伺って、このお店の店主、奥さんをはじめ、従業員の方々の人柄の良さがこの世だけでなくあの世からも愛されるお店である理由であることがわかった。「座敷わらしからも愛される飲食店」ますますの繁盛は間違いない。

 

謝辞

 今回協力していただいた皆さんありがとうございました。皆さんにとっては日常茶飯事のお話だったため「たいした話じゃなくてごめんね」とおっしゃっていましたが、私にとってはとても貴重なお話でした。たくさんのお話ありがとうございました。そしてゼミ生一同大変お世話になりました。益々の繁栄を心よりお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献

川島秀一,1999『ザシキワラシの見えるときー東北の神霊と語りー』三弥井書店.

遠野市観光協会公式サイト,2019,「遠野のイベント」,

(https://tonojikan.jp/event/0429-5/, 2019年8月30日にアクセス).

島村ゼミ4回生 研究旅行

島村ゼミ4回生 研究旅行

2019.18-20 和歌山県熊野地方

2019.9.18
・東牟婁郡太地町(太地町立くじらの博物館)
2019.9.19
・東牟婁郡那智勝浦町(熊野三所大神社=浜の宮王子跡、補陀洛山寺、熊野那智大社、青岸渡寺)
・西牟婁郡白浜町(白浜温泉)
2019.9.20
・田辺市(旧田辺城下町、闘雞神社、南方熊楠顕彰館・南方熊楠邸)

【勉強した本】
・五来重『熊野詣:三山信仰と文化』講談社学術文庫、2004年
・豊島修『死の国・熊野:日本人の聖地信仰』講談社現代新書、1992年
・鶴見和子『南方熊楠』講談社学術文庫、1981年
・熊野太地浦捕鯨史編纂委員会編・橋浦泰雄著『熊野の太地 鯨に挑む町』平凡社、1965年

 

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鉄のまち室蘭の鉄鋼マン

社会学部3年生 福井 雄一郎

 

【目次】

 

はじめに

 

1章.日本製鋼所OB伏木晃氏

1-1.ライフヒストリー

1-2.伏木さんが語る戦時中の室蘭の様子

 

2章.新日鉄OB平井克彦氏

2-1.ライフヒストリー

2-2.新日鉄時代の生活

2-3.父のライフヒストリー

 

3章.新日鉄OB C氏

3-1.ライフヒストリー

3-2.当時のC氏の生活と、室蘭市の様子

3-3.オイルショックと室蘭新日鉄

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

はじめに

 室蘭市は北海道を代表する工業都市であり、北海道を代表する「鉄のまち」として有名である。

 室蘭が鉄のまちとして有名になった背景に、井上角五郎という人物がいる。『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』には、「福沢諭吉の慶應義塾を卒業後、福沢の命を受けて朝鮮(現韓国)に渡り、国王殿下の顧問として、韓国新聞の発行に携わり、教育普及と殖産の必要性を説き、人民の生活安定が国力の増進であると奔走する。北海道へ渡り、北海道炭礦汽船を経営し、日本製鋼所や北炭輪西製鉄場(現在の新日鉄住金室蘭製鉄所)を創立し、両社は共に創立100周年を超えて、世界屈指の大企業を築いた偉大な人物である。」(伏木2016:1)と、彼を述べている。彼の活躍により、室蘭は北海道を代表する鉄のまちとして発展し、栄えていったのである。そして、イギリスのアームストロング社と提携し、アームストロング砲と呼ばれる大砲を日本国内で製造した。日本国内で大砲を製造したのは、これが初めてであり、この事から室蘭は軍事的にも重要な都市として発展した。

  室蘭市は製鉄所と製鋼所の両方が存在する。製鉄所と製鋼所の両方を構えている都市は日本でも数少なく、岡山県倉敷市、千葉県君津市、そして室蘭市の計3市のみである。

 製鉄所と製鋼所には相違点がある。製鉄所とは、銑鉄の製造から鋼製品の製造までの銑鋼一貫作業を行う製鉄工場のことである。一方製鋼所とは、製鉄所のように鉄や鋼材や鋼板といったものを製造するだけではなく、鉄や鋼材や鋼板を用いて切削、鋳込みといった加工をし、複雑な製品を作るところであり、かつては軍事関係のものも製造していた工場の事を指す。軍事関係のものを製造していたため、外部に工場内の情報を流すことが禁止されている。そのため、原則外国人労働者の勤務は許されていない。また、日鋼には今でも通常の社員でも入れない一画がある。

 本レポートでは、製鉄所で働いていた方と、製鋼所で働いていた方にお話を伺って得た情報をもとに、室蘭の鉄鋼マンの生活と、当時の室蘭の様子について述べてゆく。

 

※新日鉄住金室蘭製鉄所は、2019年4月より日本製鉄室蘭製鉄所に社名変更している。

 

1章 日本製鋼所OB伏木晃氏

 

 (1)ライフヒストリー

  1942年5月、室蘭市母恋にて生まれる。1958年に中学を卒業してから、日本製鋼所室蘭製作所に入社する。父が日鋼の社員だった事が、日鋼入社への動機であった。父が日鋼を退職した年に日鋼争議が行われた。争議中の会社の資金は少なく、父の退職金はあまり出ず、社宅を出て自立する余裕がなかったから、子である伏木晃氏が日鋼に入社せざるを得なかったという入社背景がある。

 しかし、日鋼への入社は一般的には難しかったようだ。日鋼は当時軍事関係のものを作っており、絶対に情報を外部へ流す事が許されなかったため、基本的には日鋼の社員の身内か、一部の優秀な日本人しか入社できなかった。外国人労働者は、当時断固として日鋼での労働を許されなかった。

 日鋼入社後は、日鋼の養成校に入学する。午前中は学校で勉強し、午後は主に現場で仕事(技能職)をするのが、一日の流れであった。養成校には三年間通う事となった。

 1962年、室蘭工業高校(定時制)へ編入する。当時は21歳であった。彼は2年生として入学し、3年間通う事となった。この頃から、技能職や技術職の資格を取ったりしていたという。資格を取るにつれ、社内での地位も上がり、地位に比例して社宅の質も向上したようである。そのため、資格の勉強は熱心に行っていた。

 1965年、室蘭工業高校を卒業後、技術職につく。技術職とは、現場で図面を作る指導を行ったり、設計などを担当する職をさす。いわば現場の司令塔である。技術職に就く前は、技能職として働いていた。

 1992年、日鋼九州支店(福岡)に営業職として赴任する。室蘭で友人と食事に行った時、地元の支店長に気に入られ営業を勧められた事が、営業職についた理由であった。このとき彼自身営業はしたくなかったが、上司からの勧めということもあり、断る事ができなかったという。単身赴任として福岡に渡り、天神で営業をしていた。もともとは3年契約で、九州で営業を行う予定であったが、実際には8年間九州で営業を行った。「本来ならば営業をしたくなかった」と語っていたが、実際に営業を行ってみると、営業が一番楽しい仕事であったという。年間で11億円の個人売り上げを取ったほどある。天神での営業が主であったようだが、三菱長崎、大分製鉄所、三菱下関、沖縄石油など、九州の至る場所で営業を行っていた。九州で親しくなった人とは今でも親交が深く、友人からマンゴーを貰ったり伏木氏が友人にサンマを送ったりしている。

 2000年、伏木氏は室蘭へ帰任し、札幌支店後方支援をした。

 2003年、日本製鋼所迎賓館「瑞泉閣」の館長を勤め、2009年に瑞泉閣を退職した。瑞泉閣は、『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』によると、「明治44年9月、当時東宮殿下であった大正天皇が室蘭に行啓された際、宿泊施設として建設された。」(伏木2016:104)大変歴史のある施設である事が分かる。

 

(2)伏木さんが語る戦時中の室蘭の様子

  鉄鋼所があり、製鉄所もあった室蘭は、軍事的にも大変重要な場所であった。そのため、室蘭は戦時中に爆撃を受け、大きな被害が出たようである。市街地に被害が出る中、どうしても鉄鋼所と製鉄所は爆撃から守る必要があった。両者とも、爆撃から守るよう様々な工夫がなされたようである。

 製鋼所は、武器や大砲をはじめとした軍事関係のものを主に製造していたため、特に守る必要があった。そのため、製鋼所の建物は少し特殊な形をしている。写真(下)をみるとわかるように、製鋼所の屋根はギザギザした特殊な形をしている。屋根をこのような形にした理由は、このような形にする事で工場内の明かりが上空から目視できなくなり、敵の爆撃を避けることができるからである。

 製鉄所にも、爆撃から建物を守る工夫がなされていた。戦時中、室蘭が爆撃により被害が出ている最中、当時の室蘭の人々は製鉄所周りの道路に大量の燃料を撒いた。そして、その燃料に火をつけ、製鉄所周りを黒煙で囲った。そうする事で、敵は製鉄所を目視出来なくなった、もしくは爆撃後の場所だと勘違いし、製鉄所への爆撃を行わなかったそうである。製鋼所と違って、建物の構造上の工夫がなされた訳ではないが、人々の知恵とアイデアが製鉄所を守ったのである。

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資料1 日本製鋼所室蘭製作所


       

2章 新日鉄OB平井克彦氏

 

(1)ライフヒストリー

  1953年、室蘭にて生まれる。父は新日鉄の人であった。1971年、室蘭栄高等学校を卒業する。地元では進学校であったという。当時大学の学生運動が激しく、大学に進学したところでまともに勉強できないだろうと考えていたため大学には進学せず、父の働いていた新日鉄(当時は富士鉄)に入社を決めた。

 しかし、室蘭で鉄鋼マンとして働いていた期間は短く、鉄鋼短期大学選抜派遣システムにより、受験を経て、1973年に私立鉄鋼短期大学(のちの産業技術短期大学)に入学する。1975年、私立鉄鋼短期大学を卒業後に、新日鉄君津製鉄所に入る。平井氏は短大を卒業していたため、君津ではホワイトカラー職として働いていた。(短大に入学する前、つまり室蘭で働いていたときは、ブルーカラー職として主に現場で働いていた。)中国の上海宝山製鉄所へ行って、技術指導をしていたこともあった。

 1988年に、新日鉄を退社する。退社後は、自分のしたいことをしていたという。日本語教師を目指し、札幌まで行って勉強をしていたこともあったという。

 

(2)新日鉄時代の生活

  新日鉄は三交代制の労働システムであった。甲乙丙番で、甲番が7:00〜15:00、乙番が15:00〜23:00、丙番が23:00〜7:00であった。鉄鋼マンの家族は、この三交代の時間に合わせて生活を送ることが大変であった。福利厚生は充実しており、2DK、3DKの間取りの社宅の家賃が月5000円ほどであった。給与も悪くなく、生活するには一切困らなかった。

 新日鉄時代の娯楽は、何だったのだろうか。室蘭で働いている時は、仕事終わりに輪西でよく飲んでいた。現在では室蘭市の中心街は東室蘭周辺となっているが、当時輪西は室蘭市内の屈指の飲屋街として、かなり栄えていた。当時の東室蘭は、何もない場所であった。18〜20歳の青年期は、よくボウリングに通っていた。当時室蘭市内にはボウリング場が8つもあり、どこのボウリング場も大変栄えていた。休日は、2時間待ちなどはザラであったという。ボウリングを投げた後、コーヒーやビールを飲みによく喫茶店や居酒屋などに通っていた。

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資料2 輪西周辺地図 google mapより

この地図の右端にある、中島町付近が東室蘭駅周辺である。

 

(3)父のライフヒストリー

  大正13年生まれ。小学校を卒業した後、13歳で輪西製鉄(のちの新日鉄)に就職する。技術員養成部へいく。

 太平洋戦争勃発後、飛行機の整備兵となる。軍に所属していた時は、最終的に軍曹の地位までのぼりつめた。本当は戦闘に加わりたかったみたいだが、目が悪く戦場に行くことはなく終戦をむかえた。

 

3章 新日鉄OB C氏

 

(1)ライフヒストリー

  1952年、岩見沢市にて生まれる。父は国鉄の社員であった。1970年に新日鉄に入社した。高校からの斡旋で高3の夏に入社が決定し、高校卒業後すぐに新日鉄に入社した。「新日鉄のような大手に入ると、生活も安定するだろう」という考えがあったようである。C氏の入社した年は、会社名が富士鉄から新日鉄に改名した年でもあった。

入社後は、高炉で働いていた。高炉の開口機を手動で開く仕事を任されていた。肉体的に大変な仕事であり、なおかつ危険の伴う仕事であったため、働いていた当初は3年で辞めようと考えていたが、結局高炉で長く働いたのだという。現場での仕事は大変過酷であり、55歳で満期を迎えると同時に、亡くなられる方が多かったという。C氏はこの現象を「満コロ」と呼んでいた。

 仕事を先輩や上司から教えてもらう事はあまりなく、“仕事は見て覚えるもの”であったという。自分から行動を起こさなければ何も得られなかったため、社内の人々といかにコミュニケーションをとるかが、現場で仕事をする上では重要であった。

 オイルショックの影響で高炉が減少したのちは、設備部へ異動し、電気関連のメンテナンスのお仕事をされていたそうである。

 

(2)当時のC氏の生活と、室蘭市の様子

 初めて東室蘭を訪れたときは、町の様子を見て大変驚愕したようである。汽車で室蘭に向かうと、東室蘭に近づくにつれ、赤く黒い黒煙がはっきりと見えるようになっていったそうだ。輪西駅に到着すると、鉄の匂いが充満していた。汽車を降りると、すぐにその匂いがわかった。輪西を歩いていると、金色のラメのようなものが体に付着した。当時の全盛期の室蘭は、町に鉄粉が舞っていたのだという。彼は、町に鉄粉が舞っている事の例えとして、「輪西は冬場に赤い雪が降る」と語っていた。当時の室蘭がいかに栄えた鉄のまちであったかが容易に想像できる。この頃は、室蘭の人口も多かったようである。

 今となっては寂れたシャッター街となった室蘭駅周辺や、輪西周辺は、当時は大変人口が多かった。デパートのマルイも当時は室蘭に店を構えていたほどである。

 C氏は、輪西で仕事終わりにお酒を飲む事が一番の楽しみであった。C氏は乙番勤務であったため、23:00ごろに退勤したのち、仲間と輪西で深夜から朝にかけて飲んでいたと語っていた。飲んだ後、タクシーで自宅まで帰り、午前中は睡眠をとって昼から会社にいって働くというライフスタイルであった。

 

 

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資料3 室蘭新日鉄の様子

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資料4 現在の室蘭市内の商店街の様子

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資料5 栄えていた頃の室蘭市内の商店街の様子

(3)オイルショックと室蘭新日鉄

  C氏が働いていた頃(1970〜1973年)は、室蘭の新日鉄には高炉が4基あったが、1973年、1979年に渡る二度のオイルショックにより高炉の数は減少していき、現在

は高炉の数は1基にまで減った。オイルショックが原因で、高炉以外に人員にも影響が出始めた。オイルショックを機に人員が余るようになり、室蘭にいる従業員は全国の新日鉄に異動した。それの影響もあり、室蘭市の人口は激減した。オイルショック以前はおよそ18万人いたが、現在の人口はおよそ8〜9万人である。

 オイルショックは、室蘭の活気が失われた大きな理由の一つであったのである。

 

結び

 

 今回の研究では、3人の鉄鋼マンOBの方からお話を伺ったが、3人のお話から、鉄鋼マンの生活史のみならず、室蘭の時代背景も把握する事が出来た。3人それぞれのライフヒストリーがあり、もちろん生き方や考え方も異なっていたが、同じ室蘭市に住んでいる人たちとして、共通する事はたくさんあったように思う。また、室蘭の鉄鋼業に従事していた人々は、ずっと室蘭にいたわけではなく、様々な社会的背景を要因に、全国様々な場所で働かれていた事も明らかとなった。

 単に、室蘭の事やその人達の生活史のみを知る事が出来ただけではなく、その方の価値観や人生観も会話中に垣間見る事が出来た。私たちと共通している面もあれば、当然異なる面もたくさんあり、時代や環境が人々の価値観や人生観を形成している事を実感した。

 現地の方々のお話を伺う事によって、その地の文化や変遷を細かく立体的に把握する事ができる。「室蘭市」「鉄鋼業」のような外枠をみるだけでなく、その地に住んでいる人々といった内枠をみる事によって、本当の室蘭の姿が浮かび上がってくるのではないか。

 

謝辞

 

 本論文の執筆にあたり、伏木晃様、平井克彦様、C様には、誠にお世話になりました。

 伏木様、インタビューに協力して頂いただけでなく、室蘭市内を隅々にまで案内してくださり、調査するにいたって大変有意義な時間を過ごす事が出来ました。車で室蘭を一周したり、室蘭名物であるカレーラーメンをご馳走してくださった事は、大変良い思い出となりました。

 平井様、私たちの調査のために様々な資料やお話を用意してくださり、誠にありがとうございました。平井様のお話は大変わかり易く、ご自身のライフヒストリーに加えて、室蘭の鉄鋼所や製鉄所の詳細を隅々まで教えてくださり、それは興味深い内容ばかりでした。

 C様、お時間が厳しい中、私たちのためにお時間を割いてくださり、誠にありがとうございました。C様のお話は、当時の思い出やライフヒストリーを鮮明に話してくださり、鉄鋼マンの生活の様子を色濃く知る事が出来ました。励ましのお言葉などもかけてくださり、本当に貴重な時間を過ごす事が出来ました。

 伏木様、平井様、C様に出会う事ができるようなご縁があり、私は本当に幸せです。伏木様、平井様、C様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。どうかお体にお気をつけて、ご健康にお過ごしなさって下さい。本当にありがとうございました。

 

参考文献

 

・伏木晃, 2016, 『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった 井上角五郎翁』

 


 

 

                               

 

民間宗教者と北海道岩木山神社 ―神霊感師 仁和美枝氏―

目次

 

はじめに

1.北海道岩木山神社について

2.神霊感師 仁和美枝氏

 2-1.生い立ちと能力の取得

 2-2.室蘭に至る

 2-3.北海道岩木山神社との出会い

 2-4.神社との繋がり

 簡易年表

3.巫儀の現場

結び

謝辞

参考文献

 

はじめに

 春学期に実施された北海道室蘭市での調査実習において、私は室蘭市内の神社について調べた。特にその中でも今回は、北海道岩木山神社及びそこの民間宗教者である仁和美枝氏についての調査を行った。

 

1.北海道岩木山神社について

 北海道岩木山神社は北海道室蘭市にある岩木山神社の摂末社の一つである。岩木山神社とは青森県弘前市にそびえ立つ岩木山の麓に位置する神社で、主に青森の人々による信仰が盛んである。

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写真1:弘前市(右下)と岩木山(左上)Google mapより

 室蘭市には現在二つの岩木山神社の摂末社が存在している。室蘭市は新日本製鐵室蘭製鉄所(新日鉄)のお膝元であり、鉄鋼業で発展した工業都市である。かつてそこには「津軽衆」と呼ばれる青森から室蘭市へ出稼ぎに来た労働者が数多くおり、一時期は室蘭市の人口の実に約三分の一を占めていた。しかし当時は出稼ぎで故郷を離れた寂しさ故か、津軽衆同士の間で喧嘩や争いごとが絶えなかったという。そこで津軽衆達の心の拠り所として、青森の人間にとって馴染み深い神社である岩木山神社を室蘭市内に建てたのが室蘭市の岩木山神社の始まりである。

 こうして津軽衆らの手によって、室蘭八幡宮の裏手にある室蘭岩木山神社、輪西地区にある北海道岩木山神社、本輪西八幡神社内にある岩木山神社の計三つの神社が建てられ、津軽衆らによる管理や祭祀が盛んに行われた。しかし戦後の不況で鉄鋼業が衰退するにつれ、津軽衆の中にも地元へ帰る人間が出始め、津軽衆自体の数が減り始めた。その結果津軽衆間の繋がりが弱くなり、津軽衆減少による岩木山神社自体への意識の低下などから祭祀や神社の管理自体も難しくなっていった。その結果2013年には室蘭岩木山神社が廃社となり、現在は二社が残存している状況にある。(金子,2016,258頁)

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写真2:室蘭市内にある岩木山神社三社の位置関係。Google mapより

 しかし室蘭市の岩木山神社が衰退している中、昭和26年に建てられた北海道岩木山神社(写真2:右側)は例外的で、現在でも比較的盛んに活動が行われている。これには昭和38年から神社と関わりを持っている民間宗教者である仁和美枝氏の存在が強く影響していると考えられる。

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写真3:北海道岩木山神社社殿

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写真4:鳥居の裏側 仁和美枝氏の名前が記されている

 

2.神霊感師 仁和美枝氏

 仁和美枝氏は北海道岩木山神社の婦人部長であると同時に特異な力を持つ民間宗教者で、周囲からは「カミサマ」と呼ばれている。「カミサマ」とは青森県の津軽地方における、「神仏と直接的に関わる能力によって祈祷や占いなどを行う人」(村上,2017,4頁)のことを指す。

 

2-1.生い立ちと能力の取得

 仁和氏は如何にしてカミサマとしての能力を持つに至ったのだろうか。彼女は1940(昭和15)年に青森県十和田市で生まれた。彼女は生まれつき目が見えなくなる病を患っており、この病を治すために彼女の母はまだ幼い彼女を連れて日本各地の病院や神社仏閣を訪ねて回っていた。この時点で既に彼女には神に呼ばれるような感覚があり、寝ている間に枕元に白い着物を着て髭を生やした老人が枕元に現れて金縛りに遭うようなこともあった。金縛りは父と一緒に寝ると起きなかったので、彼女は父とばかり寝ていた。彼女自身、自分の目が見えないのは神が仕組んだことで、神が自分を呼びに来ていたのではないかと感じているという。

 そんな旅の最中、仁和氏が4歳の頃のことである。彼女の母が電車の中に居合わせた老婆に病のことを話したところ、板柳にある高増神社と呼ばれる神社に行くといいと言われた。その老婆もまたカミサマであった。その高増神社でお参りを行うと、仁和氏は人を助けるために生まれてきた存在であるから修行をするようにということを告げられた。そうして彼女は八戸にある下沢という場所で修行をすることになった。

 修行を行ううちに一時的ではあるが目が見えるようになったが、まだ完全に見えるようになったという訳ではなく、見える時期と見えない時期とを繰り返すようになった。目が見えるようになって以降は学校にも通うようになったが、当時はいつまた目が見えなくなるのかと内心不安だった。その不安から自殺未遂もするようになり、線路の上に寝そべっていたところを駅員に見られ怒られ叩かれるようなこともあった。

 転機が訪れたのは仁和氏が17歳の夏休みのことであった。当時出会ったセンセイと呼ばれる老婆に岩木山の側にある赤倉山という場所で修行を行うと目が見えるようになると言われ、彼女はそこで修行をすることになった*1。行きは彼女の母とセンセイに連れられて修行場に向かったが、着いた先で21日経つまで帰ってくるな、帰りは一人で帰ってこいと言われ、彼女はそれからの21日間一人きりで赤倉での修行を行った。ひたすらご祈祷をし、辺りが暗くなる度に地面に笹を刺して日数を数え、朝に草木に付く朝露のみを口にする日々が続いた。そして来る21日目、朝日が昇ると目の前が急に明るくなり、遂に目が完全に見えるようになった。彼女は喜びのあまり急いで下山し、母に真っ先にその旨を伝えたという。以来彼女は神と繋がることのできるカミサマとしての能力を身につけた。

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写真5:岩木山の北側に位置する赤倉山(右上) Google mapより

 

2-2.室蘭に至る

 仁和氏は高校卒業後、民謡団の重役であった彼女の父親が取引していた劇団に入り、20歳の頃(昭和35年)に劇団の公演のため室蘭に渡ることになった。当時の彼女には劇団内に想いを寄せる人がいた。しかし劇団内での恋愛は固く禁じられており、恋愛関係が発覚した場合は男女ともに劇団を追い出されることになっていた。そのため彼女はその人に迷惑が掛からないよう、想いを伝えることなく単身で劇団を抜け出し、以降は室蘭で生活していくことになった。

 最初の五日間ほどは東室蘭の駅内の重油ストーブの焚いている側で寝泊まりをしつつ三味線を弾き歌い歩くことで生活していたが、スナックで三味線を演奏した際に親しくなったママに部屋を貸してもらい、それから10年間ほどそのスナックで働くようになった。それと同時期にトヨタの自動車工場にも入社して車の塗装作業もするようになった。自らの能力を用いた占いはこの頃から始めていたという。

  その当時まだ若く世の中のことをよく分かっていなかった彼女は、ある時ミシン会社の集金屋に印鑑と印鑑証明書を渡してしまった。その後数年の間に印鑑は悪用され、やがて東京から1000万円以上の借金を取り立てに人が来るようにまでなってしまった。あまりのことに気が動転した彼女は取り立てに来た人物の滞在する建物に火を点けようした。車を走らせ建物の前まで赴きガソリンを蒔いて、ライターで点火させようとした。しかしどういう訳か、煙草のために常に携帯しているはずのライターが一向に見つからなかった。彼女はその時、神にライターを盗られたのだと感じたという。結局放火を諦めた彼女はそのまま洞爺湖まで向かい、その先で老夫婦の営む旅館に泊めてもらった。老夫婦は憔悴しきった様子の彼女を気遣い、快く泊めてくれたという。借金は後に額を正確に計算し把握した上で、東京で事業をしていた母方の叔父にお金を貸してもらうことで無事に返済することができた。

 

2-3.北海道岩木山神社との出会い

 仁和氏が北海道岩木山神社と関わり始めたのは室蘭での生活を始めて3年経った昭和38年のことである。仁和氏が夜の室蘭を歩いていると、子供を背負った母親が自殺をしようとしている現場に遭遇した。仁和氏は女性を引き止めてその訳を聞こうとしたが、女性はただ助けてと力なく呟くばかりであった。仁和氏はそんな女性を叱咤激励し、警察に連れて行き保護させた。やがてこの事が新聞や口頭などの手段で知れ渡ると、そのことや以前から行っていた占いのことを知った津軽衆が仁和氏の元にやってきた。津軽衆は彼女が赤倉山で修行をしたカミサマであることを知ると、すぐさま彼女を北海道岩木山神社に連れて行き、その先で仁和氏にカミサマとして神社を守っていってもらえないかと頼みこんだ。津軽衆達は衰退しつつあった神社を仁和氏のカミサマとしての能力を用いて再興させようとしたのである。こういったわけで仁和氏はなし崩し的に北海道岩木山神社と関わっていくことになった。

初め仁和氏は毎月一日にのみ神社に赴いて、そこで占いを行った。この頃の仁和氏は17時まで車の工場で働き、そこから20時までカミサマとしての占いを自宅で行い、23時までスナックで働き、2時までは家で日本人形を作るといったように、カミサマの仕事のみならず複数の職業を平行して行っていた。後に彼女は神社の婦人部長になり、それによって神社との結びつきはより強いものになっていった。昭和42年には神社を現在の社名に改名をし、同時に神社は独自の宗教法人として登録された。

神社で行っていた占いによって神社の信仰者は徐々に増えていった。そのため昭和47年には、窮屈になりつつあったそれまでの旧社殿から現在の新社殿へと神社の場所を移動させた。昭和63年には弘前の岩木山神社本山からのキャラバン隊を招き、逆にこちらも15~6人でキャラバン隊を作り本山へ向かうというような活動を始めた。また岩木山信仰に則った津軽太鼓や登山囃子を祭祀で披露するなど精力的に活動を続け、現在に至っている。

また神社の運営に必要となる資金は仁和氏自身が賄っている。そのため現在でも着物の着付けや舞踊などの様々な職業に就いている。

 

2-4.神社との繋がり

現在の神社には津軽衆がいたという名残はほとんど残っていない。現在いる50名程度の氏子達は津軽ではない他府県の出身の人がほとんどである。仁和氏の人柄や占いをしてもらったことによって信仰者となった方ばかりであり、偶然飛行機で仁和氏の隣の席だったことがきっかけでこの神社に参拝している方もいる。かつては津軽衆たちの心の拠り所として建てられた北海道岩木山神社だが、津軽衆達の繋がりはもう存在しておらず、代わりに今はカミサマである仁和氏を中心とした繋がりが形成され、その集団のもとで行われる宗教的な実践によって神社は維持されているといえる。

  

 *1 赤倉山は厳密に言えば山ではなく、岩木山の北麓の赤倉沢を中心とした台地のことを指す。(村上,2017,143頁)

 

【簡易年表】

・昭和15年:仁和氏、青森県十和田市に生まれる。

・昭和17年:2歳の頃から既に神に呼ばれるような感覚あり。

・昭和19年:4歳の頃、各地の病院を巡っていた最中カミサマと出会い高松神社へ。八戸の下沢で修行を行ったところ、一時的ではあるが目がみえるようになる。これを期に学校にも通い始める。以降様々な場所で修行を行う。

・昭和26年:北海道岩木山神社旧社殿が青森県人会によって建てられる。

・昭和32年:17歳の夏休みに赤倉山にて21日間に及ぶ修行を行い、目が完全に見えるようになる。同時にカミサマの能力を習得。

・高校卒業後、父親が取引していた劇団に所属。

・昭和35年:20歳の頃、所属していた劇団の公演で室蘭へ向かうが後に単身で劇団を抜け、以降室蘭での生活を始める。

五日間程度東室蘭駅で寝泊まりした後、スナックやトヨタの自動車工場で働き始める。この頃から既に占いを行っていた。またこの頃に印鑑をミシン会社に貸してしまう。

・印鑑を貸してから数年後に1000万の借金を請求される。

・昭和38年:23歳の頃、自殺しようとしていた女性を介抱したことを知った津軽衆に連れられ北海道岩木山神社と関わり始める。後に神社の婦人会会長になり神社との関わりが深くなる。

・昭和42年:北海道岩木山神社に社名を改名。

・昭和47年:信仰者の増加から神社を現在の場所に移動、新社殿設立。

・昭和63年:岩木山神社本山からキャラバン隊を招くようになる。

 

3.巫儀の現場

 6月8日に聞き取りを行った際、実際に仁和氏に占いをしていただいた。映像の録画や音声の録音をすると託宣の効果が無くなってしまい良いことが全くないということで、占いの儀式の間の撮影録音は一切禁止であった。占いの形式は仁和氏の身体に岩木山の神が降臨し、彼女の身体を介しての託宣を行うというものである。

占いの流れとしては、まず仁和氏が神社の本殿の前に座り祈祷を行う。その際に岩木山の神以外にも天照大神や秋田三吉神社の神など様々な神格の名前が登場する。祈祷を始めてからしばらくすると、彼女が身体を左右に小刻みに揺らし始める。この状態になると神の託宣が始まる。声を放っているのは仁和氏の身体であるが、話をしているのは岩木山の神である。託宣が終わってからは神への御礼などを再び行い、儀式は終了する。

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写真6:正面から見た本殿の様子。

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写真7:社殿内の様子。祭事に用いる津軽太鼓などが置かれている。

 儀式の後で仁和氏に伺ったところによると、託宣を行っている最中は記憶や意識などは一切無く、自身が何を言っているかも直接には分からない。ただ言っている内容が映画の映像のように頭の中を駆け巡るような感覚があり、それと後で客の述べた託宣の内容を踏まえることで、自身の身体が述べた内容を知ることができるということである。また祈祷の間には身体を龍神が締めつけるような感覚があり、やがてその龍神が彼女の頭に噛みついた時に意識が無くなって託宣が始まるのだという。

 占いの時以外にも神からのお告げが来ることはよくあるという。例えば夜寝ている間に夢の中に神が現れて、近々彼女の元を訪れる人の身なりや性格などが告げられ、そしてお告げの後はその特徴と一致した人が必ず訪れるそうだ。また修行で石神山に訪れた際は髭を生やした老人に、カミサマに男は要らない、結婚をしても相手がすぐに早死にするので結婚はしない方がいいと言われ、事実その通りになったということもあった。他にも10年間働いたスナックを辞めた際に神社でお参りをしたところ、神が「よく来た」と言って点いていた蝋燭を龍のような形に変化させたということもあるなど、仁和氏の持つカミサマの能力は非常に興味深いものである。

f:id:shimamukwansei:20190915132449j:plain写真8:神が仁和氏に見せた不思議な現象。蝋燭が昇龍のような形に変化している。

 

結び

 室蘭市にある北海道岩木山神社は、かつて新日鉄に出稼ぎに来た津軽衆達の心の寂しさを紛らわす心の拠り所として建てられた神社であるが、今現在津軽衆たちのつながりはすでに存在していない。代わりにカミサマである仁和美枝氏と彼女の持つ特異な力によって彼女を中心とした新たなつながりが生まれ、その集団のもとで宗教的な実践が行われていることがわかった。

 

謝辞

 今回の調査を行うにあたり、多くの方々にご協力を賜りました。突然の訪問にも関わらず快く応じてくださった仁和美枝様、お忙しい中お集まりいただき、手厚くもてなしてくださった北海道岩木山神社の皆様には大変お世話になりました。このレポートを無事書き終えることができましたのも、ひとえに皆様のお力添えによるものと、深く感謝しております。この場を借りてお礼申し上げます。誠にありがとうございました。

 

参考文献       

・村上晶,2017,『巫者のいる日常―津軽のカミサマからスピリチュアルセラピストまで』,春風社

・金子直樹,2016,『岩木山信仰の伝播についてー主に信仰圏の背景と北海道への展開を中心にしてー』,E-journal GEO Vol.11

 

 

2019 民俗学 サマー・セミナー

関西学院大学世界民俗学研究センターでは、「2019 民俗学 サマー・セミナー」を開催しました。

2019 民俗学 サマー・セミナー

2019年9月2日(月)10:30 ~19 : 00
関西学院大学大阪梅田キャンパス

全体テーマ:「民俗学をいかにつくるか」

開設記念講演

 講演1 島村恭則(関西学院大学教授) 「民俗学をいかにつくるか」

 講演2 山 泰幸(関西学院大学教授) 「哲学カフェと民俗学」

若手シンポジウム「民俗学をいかにつくるか」

第1部 基調報告「民俗学をいかにつくるか」
 三隅貴史(関西学院大学大学院) 「批評とはどのような行為か」
 孫 嘉寧(関西学院大学大学院) 「理論とのつきあい方」
 宮澤早紀(佛教大学大学院) 「現在と向き合う」

第2部 研究実践報告「研究の現場から」
 倉田健太(総合研究大学院大学) 「行為から意識へ―新居浜太鼓祭りにおける喧嘩の変遷―」
 雷 婷(東京大学大学院)   「ローカル芸術としての中国・金山農民画」
 李 軒羽(関西学院大学大学院) 「中国の現代伝説―研究史を中心に―」
 坂元美咲(関西学院大学大学院) 「災害の記憶継承をめぐる民俗学的検討―福井地震(1948)を経験した永平寺町を事例に―」
 市東真一(神奈川大学大学院)  「フィールドとの対話と発見―松本市街地での体験を通して―」
 渡 勇輝(佛教大学大学院)   「日本における民俗学知の形成―大正期の「国民道徳」研究との関連から―」
 山﨑 遼(立命館大学大学院)  「欧米現代民俗学の一例―スコットランドの少数民族トラベラーの研究―」

講評・総括  桑山敬己(関西学院大学教授)

第3部 若手交流会(懇親会)

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招待講演「ディオニュソスとヴァナキュラー: 民俗学的視角とは何か」

2019年7月6~7日に韓国・翰林大学校で開催された国際シンポジウム「ポスト帝国の文化権力とヴァナキュラー:民俗学から日常を問う」で招待講演「ディオニュソスとヴァナキュラー: 民俗学的視角とは何か」を行ないました。

このシンポジウムは、翰林大学校、実践民俗学会、日常と文化研究会の共催、韓国政府教育部、韓国研究財団等の後援により、ドイツ・アメリカ・中国・韓国・日本の研究者が、ポスト・コロニアル状況における文化権力をめぐって、ヴァナキュラーの視点から議論することを目的に開催されたものです。

日本からは、岩本通弥東京大学教授、周星愛知大学教授、山泰幸関西学院大学教授、田村和彦福岡大学教授、門田岳久立教大学准教授、東京大学大学院博士後期課程の川松あかりさんが参加しました。f:id:shimamukwansei:20190708170657j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170703j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170728j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170802j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170842j:imagef:id:shimamukwansei:20190708170912j:image

地元紙で調査実習の様子が紹介されました。

『室蘭民報』2019年6月11日付朝刊より

 関西学院大学(兵庫県西宮市)社会学部の学生たちが、社会調査実習のため7日から10日まで室蘭市内に滞在し、労働者文化や信仰、風習などについて調査した。市民の協力を得ながら声を聞き取り、飛び込みの取材を重ねて「室蘭像」を浮かび上がらせた。
 現代民俗学が専門の島村恭則教授のゼミに所属する3年生の男女11人。室蘭は鉄鋼や製鋼、造船などの現場で働く労働者が形成した文化が息づき、伝統的な信仰が受け継がれ、戦後は新たな宗教が生まれた地。研究対象となるテーマが揃ったまちとして、地方都市研究の舞台に初めて選んだ。学生らは1人または2人で聞き取り調査し、労働者の生きざまや、地域の歴史を記録した。
 B級グルメとして定着した「室蘭やきとり」が労働者にどう受け入れられ、食べられていたかをテーマに、市内の焼き鳥店をはしごして調査した岩渕香奈さん(20)は「同じ室蘭の焼き鳥店でも地域によって客層や営業形態が違う点が面白い」と感じた。
 8日の夕方、輪西町の八条通りにある老舗焼き鳥店「鳥よし」。すべての焼き鳥を1品ずつ頼み、ソフトドリンクとともに味わいながら店主の小笠原光好さん(81)に質問を繰り返す岩渕さんの姿があった。約1時間の取材で、工場の交代勤務に合わせて営業していたことや、仕事で失敗しても上司が「ここでおしまい」と翌日に持ち越さない場になっていたことなどを丁寧に聞き取った。
 職場でも住居でもない「第3の場所(サードプレイス)」として独自の発展を遂げた焼き鳥店は室蘭を象徴する場所のひとつ。島村教授は「近代の社会は非合理なものをできる限り排除してきたが、サードプレイスやお化けといった非合理なものを人間はなくすことはしなかった。非合理なものをモザイク状に重ね合わせると、まちが立体的に見えてくる」と話す。
 その上で「実習は過去の記憶の蓄積を発掘する術(すべ)を身に付ける練習になる。学生の多くは西日本の地方都市出身。古里に戻ったとき、視野が変わる」と狙いを話した。
 実習の成果は、ストーリー性を持たせたレポートにまとめ、協力者に事実確認をした上で、ゼミのホームページ上に公開する。(野村英史)

http://www.muromin.co.jp/murominn-web/back/2019/06/11/20190611m_03.html

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鉄のまち室蘭の都市民俗調査

 世界民俗学研究センターの研究・教育活動の一環として、2019年6月6日から10日まで、北海道室蘭市において都市民俗調査を実施しました。調査員は、関西学院大学社会学部島村恭則ゼミの3年生11名で、「社会調査実習」の授業として行なったものです。

 調査テーマは、「民間宗教者と北海道岩木山神社」「清滝寺の霊泉と不動明王信仰」「天照教―戦後室蘭で生まれた新宗教―」「室蘭の座敷わらし」「労働者文化としての室蘭やきとり」「社宅街のくらしと記憶」「鉄鋼マンの生活誌」「現代の番屋―漁船乗組員の集団生活―」「イタンキ漁港と漁民のくらし」です。

 かつて、アメリカの民俗学者、リチャード・ドーソン(Richard M. Dorson)は、都市民俗学黎明期の作品として、 Land of the Millrats (1981)を刊行しましたが、これはインディアナ州の製鉄都市をフィールドとした研究です。今回、室蘭をフィールドに選んだ背景には、本書の存在があります。

 調査成果は、本年秋に世界民俗学研究センター、および島村研究室のホームページ上で公開の予定です。

 現地調査でご協力いただきました室蘭の皆様に深く感謝申し上げます。

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世界民俗学研究センターが設置されました。

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 2019年4月1日、関西学院大学世界民俗学研究センターが設置されました。本センターは、次の5点を目的として、関西学院大学特定プロジェクト研究センターの一つとして設置されたものです。

 

1.世界民俗学に関する国際的情報収集

2 世界民俗学の理論構築

3 世界民俗学に関する国際的情報発信

4 世界民俗学に関する研究者養成

5 世界民俗学に関する対社会的知識公開

 

 センターの研究員は、関西学院大学の民俗学・文化人類学担当教員を専任研究員とし、アメリカ、ドイツ、ブルガリア、中国、韓国、日本の民俗学において第一線で活躍する研究者を客員研究員として組織しています。

 センターでは、具体的事業として、理論民俗学研究会の開催、関西学院大学民俗学・文化人類学リブレットシリーズの刊行、若手研究者養成セミナーの実施、大学院教育、民俗学に関する学術情報の公開と普及活動などを行なっています。

 センターについての詳細は、世界民俗学研究センターのホームページ​をご参照ください。

         https://www.kg-folklore.com/

 

 

 関西学院大学世界民俗学研究センター長・教授 島村 恭則

新刊『文化人類学と現代民俗学』風響社、2019年4月8日

『文化人類学と現代民俗学』(関西学院大学現代民俗学・文化人類学リブレット)

桑山敬己・島村恭則・鈴木慎一郎 著

風響社、2019年4月8日刊行、定価(本体900円+税)

 

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シンポジウム「物質文化・文化遺産・生活様式」

「物、文化遺產與生活方式」工作坊

2019年3月23-25日,南方科技大學,中國 深圳

Objects, Cultural Heritage and Lifestyle

Workshop to be held on 23-25 March 2019

Southern University of Science and Technology, Shenzhen, China

 

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Chengwei LIN 林承伟教授

Taipei National University of The Arts 国立台北艺术大学


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Xiaochun LIU 刘晓春教授

Sun Yat-sen University 中山大学


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Yongyi YUE 岳永逸教授

Beijing Normal University 北京师范大学


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2018年度卒業式

2019年3月18日 2018年度 関西学院大学卒業式が行なわれました。

また、同日、島村ゼミの川路瑞紀さんが、社会学部優秀論文賞 最優秀論文賞を受賞し、社会学部チャペルにて授賞式が行なわれました。

受賞論文は、「廃仏毀釈のゆくえ―鹿児島県日置市「妙円寺詣り」の事例―」です。

同論文は、2019年秋刊行の『関西学院大学社会学部紀要』第132号に全文掲載の予定です。

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