関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

講演「現代と伝承ー『無形文化遺産』の視点からー」

講演「現代と伝承ー『無形文化遺産』の視点からー」

2018年11月25日、宮古島の神と森を考える会、

宮古島市(伊良部島伊良部)

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【講演要旨】 

  本講演では、伊良部島の祭祀の今後のあり方について、伝承論、無形文化遺産論の観点から検討する。

1.祭りや神話、伝説など、これまでいわゆる民俗、民間伝承、伝承などと呼ばれてきたものは、近年、世界的に、「無形文化遺産」(Intangible Cultural Heritage)の名で再概念化されるようになってきている。

2.「無形文化遺産」は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が制定した「無形文化遺産の保護に関する条約」(無形文化遺産条約)において、次のように定義されている。「無形文化遺産とは、慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるものをいう。この無形文化遺産は、世代から世代へと伝承され、社会及び集団が自己の環境、自然との相互作用及び歴史に対応して絶えず再創造し、かつ、当該社会及び集団に同一性及び継続性の認識を与えることにより、文化の多様性及び人類の創造性に対する尊重を助長するものである」。

3.この定義の中で注目されるのは、「無形文化遺産」は、「伝承(transmit)」されるものであると同時に、「絶えず再創造される(constantly recreated)」ものだという理解が示されている点である。

4.この「絶えざる再創造」という考え方は、本日のシンポジウムのテーマである「伊良部島の祭祀の復活をめざして」を考える際、大きなヒントになる。「無形文化遺産」(あるいは、民俗)とは、過去の状態を忠実に守り伝えるという意味での「伝承」のみをさした概念ではない。現地の人びとによる「再創造」自体も、「無形文化遺産」の中に含めて捉えられるものとなっている。

5.この観点からすると、伊良部島の祭祀も、伝承すべきだと考えられる部分は伝承し、同時に、「再創造」させるべきところは、多少、大胆に思われても、「再創造」させることによって、その生命力を維持、活性化することができるだろう。ツカサについてのきまり(選任基準、選出方法、組織構成、禁忌、任期など)、祭祀の回数や内容などは、まさに「伝承と再創造」の観点から、議論すべきテーマである。

 

 

 

 

八木透ゼミ・島村恭則ゼミ 大学院合同ゼミナール

2018年11月9日、佛教大学紫野キャンパス

大上将太(佛教大学大学院)

「鮭とひとをめぐる民俗研究―岩手県宮古の事例を中心に―」

 王贇(関西学院大学大学院)

「現代中国における「伝統」の「復興」―河南省濮陽市婉君茶芸館の事例から―」

 

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桑山敬己氏報告「『ネイティヴの人類学と民俗学』とその後―日本の学問の行方―」(関西学院大学社会学部研究会例会)

関西学院大学社会学部研究会 2018年度第3回例会

桑山敬己氏「『ネイティヴの人類学と民俗学』とその後―日本の学問の行方―」

コメンテーター:島村恭則

2018年10月31日、関西学院大学社会学部

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島村 恭則「桑山報告へのコメント

  桑山氏も『ネイティヴの人類学と民俗学』の中で触れているように、日本では、「二つのミンゾク学」という表現で、文化人類学(かつての「民族学」)と民俗学の近接関係が語られてきました。わたしは、この二つのうちの一方、民俗学を専攻する者であり、その立場から以下、桑山氏の報告にコメントしたいと思います。

 学生はもちろんのこと、他分野の研究者からも、文化人類学と民俗学は、どうちがうのか、という質問を受けることがあります。これについて、少なくとも日本では、まともな説明を行なっている文献はありません。当の文化人類学者や民俗学者も、うまく説明ができず、「文化人類学は異文化研究」、「民俗学は自文化研究」というような説明でごまかしていることが多いです。

 ここで、わたしが両者のあり方について説明してみると、つぎのようになります。人類学(文化人類学、社会人類学、民族学)は、桑山氏が述べているように、イギリス、フランス、あるいはアメリカ合衆国といった覇権主義的国家において発達した学問です。一方、民俗学は、18・19世紀のフランスを中心とする啓蒙主義や、ヨーロッパ支配をめざしたナポレオンの覇権主義に対抗するかたちで、ドイツのヘルダー、グリム兄弟において土台がつくられ、その後、世界各地に拡散し、それぞれの地域において独自に発展をみたディシプリンです。

 具体的には、早くから民俗学が強力に発達して今日に至っている国、地域として、フィンランドエストニア、ラトヴィア、リトアニアノルウェースウェーデンアイルランドウエールズスコットランドブルターニュハンガリー、スラブ諸国、ギリシア、日本、中国、韓国、フィリピン、インド、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチンなどをあげることができます。

 そして、ここで注目すべきこととして、これらの国、地域の中には、世界システム上、周辺的な位置にある(あった)国や地域が少なからず(すべてとはいいませんが)含まれているという点を指摘可能です。むしろ、どちらかというと、そうした周辺的な国や地域においてこそ、民俗学がとくに発達して現在に至っているということすらできると思われます。

 ところで、この場合、民俗学は、イギリス、フランス、アメリカ合衆国以外の、それぞれの国、地域において独自に発達したため、英語圏、あるいはドイツ語圏の民俗学はともかくとして、それ以外の言語を母語とする各国、各地域の民俗学がそれぞれに蓄積してきた重厚な内容、あるいはそれぞれの民俗学の存在それ自体が、他の国、地域に知られることが少なかったという事実があります。

 そのため、つぎのようなことが起こります。イギリスの文化史学者のピーター・バークは、『文化のハイブリディティ』という本の中で、「異種混淆性」という概念について説明する際、以下のように述べています。

  「今日それほどに知られてはいないが、文化の変容を分析する際にはおなじくらいに啓発的だと評価できる概念は、スウェーデンの民俗学者カール・ヴィルヘルム・フォン・シードヴ(1878-1952)によって採用された、オイコタイプの概念だ。「異種混淆性」と同様に、「オイコタイプ」という言葉はもともと植物学者がつくったもので、自然選択により一定の環境に適応した植物の種の集団のことであった。フォン・シードヴは、民話の分析のためにこの用語を借用し、民話がその文化的環境に適応させられるとみたのである。文化の相互作用を研究する学者は、シードヴのパラダイムにしたがって、チェコのバロック建築のような現地独特の形式を、国際的な運動の地域における一変奏として、独自の法則をもった変奏として論じることができるだろう。(中略)グローバリゼーションの分析家は、ソフトウェア産業からの借用語である「ローカリゼーション」や、もともとは1980年代にビジネスの業界用語であった「グローカリゼーション」を使うようになった。民俗学者がこの論争を追ったとすれば、既視感におそわれるにちがいない。というのも、私たちが目にしているのはオイコタイプの再来とでも呼べるものだからだ。」(バーク2012:57-59)

  このような、既視感というのは、これは桑山氏とわたしとの会話の中で、桑山氏が指摘されていることですが、たとえば、近年の人類学周辺でのいわゆる「存在論的転回」の議論、つまり、人間のみならず、自然や物質にも人間同様のエージェントを認め、人間/自然のヨーロッパ的二元論を乗り越えようとする議論ですが、これなどは、日本においては「転回」以前に、折口信夫や岩田慶治といった民俗学者や人類学者がつとに指摘していることであり、つよく既視感を抱かされるものであります。

 しかしながら、このような土着の学問的成果は、英語圏では知られていない。そのために、ないことにされている[1]。でも、世界各地には、土着の学問が確実に存在しています。

 国際的に知られるアメリカの民俗学者のアラン・ダンデスは、International Folkloristicsという本を編集しました。この本は、世界の民俗学史上の重要な研究者についての解説とその代表論文を英訳したもので、そこには、ドイツ人民俗学者(4名)、イギリス人民俗学者(2名)、フランス人民俗学者(1名)、アメリカ人民俗学者(1名)とともに、フィンランド(1名)、アイルランド(2名)、イタリア(2名)、ロシア(2名)、ハンガリー(2名)、デンマーク(1名)、スウェーデン(1名)、オーストリア(1名)の民俗学者がとりあげられています。そして、本文中のある箇所で、ダンデスは、上記以外の学者にも言及し、「英語になっていないためにアクセスが容易ではないが、世界には、ポーランドのOskar Kolberg、エストニアのPastor Jakob Hurt、日本のKunio Yanagita、デンマークのE.Tang Kristensenなどの優れた民俗学者がいて、理論的な業績も含めて多くの仕事をしている」という趣旨のことを述べています。

 ちなみに、この本の中で、ロシアの民俗学者の一人として取り上げられているウラジーミル・プロップは、民話の構造分析を行なった学者として有名な民俗学者で、彼の『民話の形態学』は、民俗学にかぎらず、ナラトロジー、物語論においては必ず引用される本ですが、1928年にロシア語で刊行されたこの本は、刊行後、30年間、ロシア以外ではまったく知られていませんでした。ところが、1958年、この年は、レヴィ=ストロースの『構造人類学』がフランス語で刊行された年ですが、この年に、プロップの『民話の形態学』がたまたま英語に翻訳されたところ、レヴィ=ストロースの神話の構造分析と同じ発想、方法論である、しかもレヴィ=ストロースに先立つことおよそ20年前にすでにこれを公にしていたということで、一躍注目されるようになりました。しかしながら、プロップの業績は、もしも英語に翻訳されていなかったら、日の目を見ない状態が続いていたかもしれません。

 さて、以上に見てきたように、英語、フランス語、あるいはドイツ語による学問以外の、土着の言語、つまりヴァナキュラーによる学問は、知の世界システムの中では、周縁化されるか排除されて今日に至っているわけですが、ただ、近年、状況に変化が生じつつあるともいうことができるようです。それはどのようなことかというと、一つは、ポストコロニアルな発想の浸透で、覇権主義、植民地主義のピラミッドの頂上付近以外のところで産出されてきた「語り」への着目が、倫理的にも必要だと考えられるようになってきていること、また、もう一つは、グローバリゼーションの副産物として、グローバルな情報環境へのアクセスが容易になったことから、グローバル化とは縁遠いと思われていた土着の学問の世界にも、自発的、内発的なグローバル化の動きが発生してきているという点です。

 たとえば、日本民俗学会は、これまでまさに土着的な学者の集まりだったのですが、この10年で急速に国際化し、毎年のように国際シンポジウムを行なうようになり、また、アメリカ民俗学会、中国民俗学会とともに、国際民俗学会連合-これはユネスコの哲学人文学会議の下部組織という位置づけになります―、のファウンディング・メンバーになるに至っています(ちなみに、その国際民俗学会連合の副会長は、桑山氏です)。このようなグローバル化対応は、ともすれば、外圧によるものと思われがちですが、そうではなく、「同じような土着的な学問同士で、学びあいたい。吸収すると同時に、こちらからも発信したい。言語はとりあえず英語と中国語でなんとかやっていく」というような内発的な動機によるものです(ここでアメリカと中国、英語と中国語が出てくるところが痛いのですが、あくまでも現実的な手段としての言語として割り切っています)。

 あるいは、エストニアでは、すでに20年前の1996年から、アメリカ、アイスランド、スロベニア、イスラエル、インドから一流の民俗学者をエディトリアルボードに迎え、英語版ではあるものの、国際的な民俗学の学術誌を刊行するようになっています。

 以上に述べたような民俗学の学史や現状は、しかし、文化人類学の側では、ほとんど知られていません。それは民俗学者の側も、それぞれの国の中のことは知っていても、世界中で民俗学がどのような状況になっているかは知らなかったため、民俗学者自身が民俗学について文化人類学者たちに、あるいはほかのさまざまな人文社会科学の研究者たちに対して、説明をしてこなかったからです。それが、時代の状況の中で、やっと世界各地の民俗学の状況が把握できるようになり、覇権主義のもとで制度化された学問とは異なる代替的な知の蓄積の存在が見えてきたところです。

 桑山氏は、著書『ネイティブの人類学と民俗学』の中で、「二つのミンゾク学」の積極的で生産的な相互補完関係の重要性を強調されていますが、以上の状況をふまえると、まさにいまそうしたことが実質的に可能になる時代に入りつつあるのではないかと、わたしは考えます。そして、その場合、民俗学と文化人類学が並列している大学は、実は国内ではほとんどないため(多くは、文化人類学だけが存在。関西圏では、関学だけに民俗学と文化人類学の組み合わせがある)、おそらく、この関西学院大学において、その重要な一歩が踏み出されるのではないかと考えています。

 

【文献】

バーク, ピーター 2012 『文化のハイブリディティ』河野真太郎訳、法政大学出版局。

Dundes, Alan ed., 1999, International Folkloristics: Classic Contributions by the Founders of Folklore, Lanham, Boulder, New York, Toronto, and Oxford: Rowman and Littlefield Publishers.

 

[1] そして、さらに悲惨なのは、そうした土着の学問的成果を生み出した国・地域の内部においても、少なくとも日本の場合そういえると思いますが、土着の先行研究の咀嚼をせずに、外来のパラダイムの直輸入をするということがしばしば行なわれています。

 

What is Vernacular Studies?

What is Vernacular Studies?

 SHIMAMURA, Takanori​

 Kwansei Gakuin University School of Sociology Journal, 129, 1-10, 2018.10. 

 

     This paper aims to provide a general outline of the development of vernacular studies in Japan as well as a vision for the future of vernacular studies based on that development.

     The most important thing for understanding vernacular studies is that this discipline’s full formation came about in Germany in opposition to the enlightenment centered in France in the 18th and 19th centuries and to the hegemonism of Napoleon, who tried to dominate all of Europe. Afterward, societies that shared their anti-hegemony context with Germany were encouraged directly or indirectly by Germany’s vernacular studies. They vigorously formed this discipline, but each in its own way. Specifically, vernacular studies has developed and arrived in the present day in regions such as Finland, Estonia, Latvia, Lithuania, Norway, Sweden, Ireland, Wales, Scotland, Brittany, Czech, Hungary, Greek, Japan, China, Korea, the Philippines, and India and in newer nations like the United States, Brazil, and Argentina.

     What vernacular studies has consistently investigated throughout its academic history is human life on a different level from social phases that have been considered to be hegemonic, omnipresent, central, and mainstream. It is knowledge that was brought about through the close study of these. Generally, modern science is a body of knowledge produced from broad social phases considered hegemonic, omnipresent, central, and mainstream, but vernacular studies becomes compellingly unique by confronting these characteristics and attempting to create knowledge that overcomes their broad social application. Therefore, while it is a type of modern science, vernacular studies is also an alternative discipline that contrasts with modern science in general.

  

 本稿は、日本における民俗学(Vernacular Studies)の展開とそれをふまえて構想される民俗学の将来像について、概観することを目的とする。

 民俗学を理解する上で最も重要なことは、この学問の本格的な形成が、18・19世紀のフランスを中心とする啓蒙主義や、ヨーロッパ支配をめざしたナポレオンの覇権主義に対抗するかたちで、ドイツにおいてなされた点である。そして、ドイツと同様に対覇権的な文脈を共有する社会が、ドイツの民俗学の刺激を直接・間接に受けながら、とくに強力にそれぞれ自前の民俗学を形成していったという点である。具体的には、フィンランドエストニア、ラトヴィア、リトアニアノルウェースウェーデンアイルランドウエールズスコットランドブルターニュチェコハンガリーギリシア、日本、中国、韓国、フィリピン、インド、新興国としてのアメリカ、ブラジル、アルゼンチンといった地域においてとくに民俗学が発達して現在に至っている。

 民俗学が、その学史を通じて今日まで一貫して追究してきたのは、覇権、普遍、中心、主流とされる社会的位相とは異なる次元の人間の生であり、そこに注目することで生み出される知見である。一般に、近代科学は、覇権、普遍、中心、主流とされる社会的位相の側から生み出される知識体系であるが、民俗学は、それらを相対化し、超克する知を生み出そうとしてきたところに強い独自性がある。したがって、民俗学は、近代科学の一つでありながらも、近代科学一般に対するオルタナティブディシプリンであるということになる。

 

 

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国際シンポジウム 「ドイツ民俗学の最前線 Aktuellstes aus der deutschen Volkskunde 」

日本民俗学会・ドイツ民俗学会共催国際シンポジウム

Internationales Symposium der Japanischen und Deutschen Gesellschaft für Volkskunde


ドイツ民俗学の最前線

Aktuellstes aus der deutschen Volkskunde 

 

2018年 10月 14日(日) 駒澤大学駒沢キャンパス

挨拶 
ヨハネス・モーザー Johannes Moser(ミュンヘン大学・ドイツ民俗学会会長)

発表

ベアーテ・ビンダー(フンボルト大学) 「ヨーロッパ民族学文化人類学における横断的ジェンダー研究」

モーリッツ・エゲ(ゲッティンゲン大学) 「ドイツにおけるポップカルチャー研究の現況―反エリート主義的モチーフをもとに」

ゲァトラウド・コッホ(ハンブルク大学) 「文化遺産、記憶、想起の文化―ドイツにおける研究の歩みと現状」

フリーデマン・シュモル(イェーナ大学) 「文化の挑戦としての自然―民俗学的文化学の研究課題」

発表(原題)

Beate Binder (Humboldt-Universität zu Berlin) (Un)Doing Gender. Intersektionale Geschlechterforschung in der Europäischen Ethnologie/Kulturanthropologie

Moritz Ege (Georg-August-Universität Göttingen) Zum Stand der Popkulturforschung in Deutschland am Beispiel anti-elitärer Motive

Gertraud Koch (Universität Hamburg) Kulturerbe, Gedächtnis- und Erinnerungskulturen – Stand und Entwicklungen der Forschung in Deutschland

Friedemann Schmoll (Friedrich-Schiller-Universität Jena) Natur als Herausforderung der Kultur. Forschungsaufgaben volkskundlicher Kulturwissenschaft

 

若手研究者ポスターセッション

ラウラ・ゴッツァー(ミュンヘン大学) 「“Save Me”と都市:ミュンヘンの難民支援における都市的倫理の主観化」

オヤ・レツニコヴァ(ゲッティンゲン大学) 「トラック運転手ストライキにおけるキッチンの役割:ロシアにおける抗議運動の前提条 件と矛盾としての再生産とケアワーク

アリク・マズカトフ(フンボルト大学) 「法を活用し、道徳を変える:社会的実践としての差別禁止法」

発表(原題)

Laura Gozzer, M.A. (Ludwig-Maximilians-Universität München) "Save Me", and the city. Urban-ethical subjectifications in the support for refugees in Munich.

Olga Reznikova M.A. (Göttingen University) "The Trucker Strike’s Kitchen: Reproduction and Care Work as Precondition for and Contradiction within a Protest Movement in Russia”

Alik Mazukatow M.A. (Humboldt-Universität zu Berlin) "Engaging Law, Transforming Moralities: Antidiscrimination Law as Social Practice"

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戦後八幡浜のマーケット ―新興マーケットから中央マーケットへ―

社会学部 3回生 織田怜奈

目次
はじめに
1章 新興マーケット
1-1 引揚者の出現
1-2 マーケットのようす
2章 中央マーケット
2-1 新興マーケットから中央マーケットへ
2-2 マーケットのようす
3章 マーケットの終焉
3-1 マーケットの閉鎖
3-2 商店街への移転
結び
謝辞
参考文献

はじめに
 戦後の日本では物が不足していたために、全国的にマーケットが栄えていた。愛媛県八幡浜市でも当時はマーケットが存在し、時代とともに新興マーケット、中央マーケットと変化しながら人々の暮らしを支えていた。本稿ではそのマーケットのようすを述べ、それが人々の間でどのような役割を果たしていたのかについて論じる。

1章 新興マーケット

1-1 引揚者の出現
 新興マーケットの始まりは戦後間もない頃である。満州や台湾、中国、朝鮮などからの多くの引揚者が八幡浜で働く場所を求めていた。マーケットのことをよく知る菊池昭自氏によると、酒六紡績株式会社様より地域復興の期待を込めて無償で提供していただき店を開くことができたという。出店希望者を募集し、紡績工場跡の土地を各店舗に割り当てた。敷地面積は248坪で、現在のスーパーホテル周辺である。
 出店希望者の中には、八幡浜出身の引揚者だけでなく、八幡浜出身の知り合いを頼りに他の地域から来た人もいた。働く場所を得た引揚者たちは割り当てられた土地にバラックを建設し、いわゆるヤミ市のような形で魚、肉、野菜や果物、惣菜などの食品や手芸用品などの生活必需品を売り出した。

1-2 マーケットのようす
 新興マーケットの形状は特殊であった。四角形の中に半円のようにバラックが並び、その間は通路になっていて、客が見て回りやすいようになっていた。店舗は計64軒で、マーケットに行けばなんでも揃うと言われるほど様々な物が売り出されていた。中央には卓球台も設置されていたという。

図1 新興マーケットの構造
 バラックは木造で、屋根は杉皮だったため、雨が降ると雨漏りをした。電気も現在のようには整備されていなかったため、よく停電になった。夜停電になった時は、ろうそくやカーバイドを使用して商売を続けていた。出店者たちはバラックの1階に店を構え、奥や2階で生活していた。2階といっても広さはなく、子供でも頭を下げなければいけないほどだったため、ほぼ寝るためだけに利用されていた。
 物は百姓や漁師が卸売りに来たものを購入したり市場から仕入れたりしていたが、他から手に入れることもあった。家電製品も普及していなかった時代、もちろん冷蔵庫もない。食料はその日に買うというスタイルで、マーケットは毎日買い物客でいっぱいだった。とにかく物が不足していたため、物を並べるとすぐに売れていった。長持ちする乾物や、衣服の修繕に使う糸やボタンなどもよく売れた。
 当時、八幡浜はイギリスの将校に占領されていた。勝手に商売することが許可されていなかったため、当初は警察による取り締まりが厳しかった。警察が取り締まりのためにマーケットに来るとマーケットの中で合図が出され、それを受けた出店者たちは売り物を隠して没収されないようにしていたのだという。売り物を没収されては生きていけないという声を受けて、菊池昭自氏の父が警察に直接交渉しに行ったということもあり、取り締まりはいくらか緩くなった。非合法だとしても餓死しないためには仕方のないことであった上、実際警察もヤミの物を購入して生活していたため、次第に黙認されるようになった。  
 マーケットの出店者たちはみな親しい付き合いであった。親は店が忙しく子供のことをずっとは見ていられなかったが、放課後に店の子供たちで集まって紡績工場の跡地や学校の近くの山で遊んでいた。秋祭りの時期には出店者たちが衣装を手作りし、商店街ごとの仮装行列に参加するなどのイベントもあった。仲間として協力し、助け合って日々生活していたのである。

2章 中央マーケット

2-1 新興マーケットから中央マーケットへ
 かなり栄えていた新興マーケットであったが、時代の変化により、徐々に景気が悪くなっていった。そのため、マーケットから撤退し、違う場所で個人的に店舗を構えるようになった人もいた。建物の老朽化が進んでいたこともあり、1960年に大々的に建て替えが行われ、名前も新興マーケットから新しく中央マーケットに変わった。マーケットの建設は共同出資だったが、費用の関係などで撤退する店舗もあり、半分以下の22軒まで減った。建て替えのタイミングで、多くの人が大阪や東京、松山などの、景気が良く働き口がある都市に出ていったのである。残った店舗で千代田食品商業協同組合が結成され、新興マーケットの時は個人所有だった土地や建物を、組合で所有することになった。初代の組合長は菊池昭自氏の父が担ったが、亡くなられた後は各店舗が順番に組合長をした。
 建て替え後は以前の活気が戻り、再び多くの買い物客で賑わうようになった。マーケットのすぐ前がバス停だったこともあり、近くの人だけでなく、佐田岬半島や大洲などほかの地域の人も買い物に訪れた。

2-2 マーケットのようす
 バラックだったものが、長屋状の建物になった。奥行き約4mの木造長屋2棟が向かい合うように並び、その間が幅2mの通路になっていた。新興マーケットの時と変わらず1階が店舗、2階が住居だった。

図2 中央マーケットの構造
 マーケットには様々な食品店舗が入っていたが、当時特にトロール漁が栄えていたため、魚屋だけで5軒もあった。また、マーケットの近くには飲み屋が多く、夜寝ていても電話がかかってきて配達を頼まれることも度々あった。昼も夜も繁盛していたためほぼ休みなく店を開け続けたが、年に数回は休みをつくり、マーケットの出店者たちで旅行に行ったり花見をしたりしていた。マーケットの形態は変化しても、出店者たちの関係は変わらず続いた。店の子供のソフトボールチームもあり、強かったという。現在でも八幡浜では大人のソフトボールチームがいくつか活動していると話に聞いたが、それはこの頃の名残ではないだろうか。

写真1 中央マーケットの入り口(『愛媛新聞』2009年5月22日,より)

写真2 中央マーケットの前の通り(八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017年,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」より)

3章 マーケットの終焉

3-1 マーケットの閉鎖
 1970年代以降、スーパーの勢力が拡大し、マーケットはかつてほどの賑わいを見せなくなった。対面で世間話をしながらの商売が時代に合わなくなったことや冷蔵庫が各家庭に置かれるようになったことで、毎日食料を買うという習慣がなくなった。それまでマーケットを訪れていた人々は、きちんと包装され保存の効く商品を購入するためにスーパーに流れた。また、八幡浜から保内町などほかの地域に行くことができるトンネルが開通し、人々が車を利用して行動範囲を広げたことも、マーケットから客足が遠のいた原因のひとつだろう。
 さらに高齢や後継者不足などの理由で閉店が相次ぎ、活気は失われていく一方だった。建物の耐震性や老朽化などを考慮し、当時組合長だった菊池昭自氏が売却先を検討、2009年に千代田食品商業協同組合が解散されると共に、長年親しまれてきたマーケットは閉鎖された。

3-2 商店街への移転
 マーケット閉鎖後の土地をドコモが買い取り、そこにはスーパーホテルが建設された。最後まで組合に残っていた14店舗に売却金は分配され、それぞれの店舗は近くの商店街などに移転した。それらも時代の流れと共に閉店していき、いまでも営業を続けているのは藤川商店、田中鮮魚店、上野ボタン店の3店舗のみだという。

結び
 八幡浜で半世紀以上栄えたマーケットは、多くの人々の生活を支えていた。ただ物を売買するだけの場所ではなく、そこには出店者たちのコミュニティや、出店者と買い物客との間の会話が存在していた。今では感じることのできない人情味、そして数々の物語がそこにはあったのだ。そのような点でマーケットは八幡浜の人々にとって非常に重要な役割を果たしていたといえるだろう。

謝辞
 この実習報告の作成にあたり、多くの方々にご協力いただきました。菊池昭自さん、宇都宮吉彦さん、藤川商店さん、田中鮮魚店さん、上野ボタン店さんをはじめ、多くの方々から貴重なお話を聞かせていただき、理解を深めることができました。突然の訪問にもかかわらず、快く対応してくださったこと、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
八幡浜みなっとオフィシャルホームページ,2017,「八幡濱レトロ散策ブラハマAR」
(http://www.minatto.net/archives/6332,2018年8月18日にアクセス).
愛媛新聞,2009年5月22日刊行
八幡濱民報,2009年5月2日刊行

「信奉者」たち

社会学部 3回生

高樋凌平

「信奉者たち」
金光教八幡浜教会の事例―

[目次]

はじめに

1. 八幡浜教会

2. 信奉者たち

2−1.T氏の語り

2−2.K氏の語り

3. ご祈念

おわりに

謝辞

参考文献

はじめに
 
 今回の愛媛県八幡浜市での調査実習における調査対象は、幕末三大新宗教とされる金光教である。金光教は幕末期に創唱された民衆宗教で、教派神道十三派の一つである。赤沢文治が四十二歳の時大病を患い、その快癒とともに天地金乃神への信仰に目覚め、安政六(1859)年、神の思いを人々に伝える「取次(とりつぎ)」に専念したことが始まりである。赤沢文治の死後、明治三十三(1900)年に金光教として独立し、元来たたりの神であった金神を天地の祖神、愛の神としてとらえ、心からの祈りによって救済が与えられると説いた。
 現在の金光教は教祖金光大神の「取次の業」を伝承し、教統を保全するものとして教主をおいている。教主は教祖の血統で金光の姓を称する教師のうちから、教祖の信心を継承し教統を保持するに足るべき者を、全教会長が選挙により推戴し、本人の受諾をもって5年の任期を務めることになっている。教主が信仰の中心、教団が依って立つべき本源として生神金光大神取次の業を行うところが金光教本部である。その本部は岡山県浅口市にある。

先に言葉の説明として、信奉者・信徒・教徒と本文で使い分けがされるが、「信奉者」は教師と信徒の両方を示すものとして使われる。そして「信徒」は、信者と同じ意味ではあるが、対外的に信者と使われることはあまりない。「教徒」とは冠婚葬祭など全て金光教で行うもので、信心するが葬儀などを別で執り行う「信徒」とは少し異なる。

 金光教は日本国内に数多くの教会を持っており、今回はそのうちの一つである八幡浜教会の成り立ちや性格、信奉者さんたちの語りや、日々のお祈りについて調査を報告させてもらう。

1、 八幡浜教会
本章では、八幡浜教会の設置に至る流れ、その本源となる初代様について、そして八幡浜教会の特徴を見ていく。

金光教八幡浜教会の設立は大正6(1917)年のことであり、昨年の平成29(2017)は100年記念を迎える年となりました。大正6年の初代様から始まり、現在の教会長である多河常浩氏になり4代目となりますが、ここまでの世代交代は血筋によって続いている。ただ、金光教として必ず血筋でないとならないというわけではなく、後継ぎの方法は各教会に委ねられている。このように各教会にある事柄について自由さを持たせているところも金光教の特徴の一つと言って良いだろう。

八幡浜教会設立の祖である初代教会長多河常民師(以下、「師」と表記する)は、八幡浜の生まれではなく、広島県御調郡宇津戸村田村宗三郎氏の五男として、戸籍によれば文久二年八月三日出生とされているそして明治二十年二月二十一日、同郡坂井原村多河四朗家の養嗣子となり、長女ウマと結婚した。

写真1 右 初代教会長 多河常民師 左 初代夫人 多河ウマ師
師は幼名を常一と呼び、明治十五年十一月一日常民と改名している。幼児期から学問を好み、五、六歳のころから村内または近村に師を求めて習字、算盤、読書の稽古をし、また経書、歴史も修得したという。その後師は、教員の資格を得て教員生活を始めることとなる。退職後は二、三の事業に手を出したり、さらには政治に関与して県会に出馬したこともあった。

師は明治二十九年脳病を煩い、その時初めて金光教三原教会所に参拝し、取次を願いまもなく病気は全快した。市はこのおかげをいたく喜び、直ちに三原教会所と本部に御礼参拝したばかりではなく、翌三十年から三十一年にかけて年に二、三回参拝を続けているのであるが未だ本教の何であるかを理解することが出来ず、そのまま参拝は中絶していた。そういった状態で過していた信心が明治の末年頃、平川菊太郎師発企の至誠会という本教信徒の講社に加入し、時々説教や講話を聴聞する機会を得た。それとともに明治四十五年七月から再び三原教会所に参拝することになった。度重ねて御教をいただき道理を理解するようになり、また御用奉仕をもした。

その頃のことであるが、八幡村と隣村との境界のことから二十年近くも和解できずの事件があり、その調停を師に依頼するものがあった。師は渋々引き受けることとなる。師はこのとき、三原教会に参拝し、神様がお使いくだされて問題の解決を見ることが出来れば、道の教師となり終生御用に立とうとひそかに決していたという。そして願い通りにおかげを頂いたことから道の教師を志願するようになった。直ちに金光教教義講究所に入学を願い出て、予科聴講を許され、学科の習得と新年の修養につとめ、教師たる資格を得ることが出来た。講究所を出た後は三原教会にあっては一修行生として、教会の内外、出社教会のことに至るまで御用を仕えられた。

八幡浜地方に金光教が伝えられたのはおおむね大正の初期のことであった。主なものは八幡浜の出身者で大阪の道広教会で信心を頂き帰郷された津田島太郎師(後の川之石教会長)のお手引きによるものと、別府教会の手続きによるものである。別府教会は豊後水道を隔てて向かい合う位置にある温泉町にあり、古くから季節に応じて入湯に出かけるものが多く、その機会に別府教会に参拝して御神縁を頂いているものが八幡浜地方のところどころにできつつあった。そういうことから別府教会から大正四年井上幸雄師(現黒崎教会長)を当地に派遣して、同五年六月には教会所設置願を提出することになった。しかし、土地の人である津田師と対立を生じてしまい、それが激化したが八幡浜警察署長大仁田市太氏の調停により両者とも白紙にかえり、新たに教師派遣を願い出ることとなった。

大正五年十二月本部参拝の節、専掌山本豊師から八幡浜布教についての話を受け、種々協議し、その内容をもって金光様に御取次を頂いて、いよいよ八幡浜行きを決意したという。これは大正六年一月七日のことである。翌八日、諸先生を訪ねて八幡浜布教の挨拶を述べ、それぞれに教訓を頂いた。

かくして、一月二十日郷里を出て三原教会へ、二十二日本部参拝金光様にお届けを申し、二十三日に出発、同夜は松山市の長女の婿青山操氏宅に宿泊した。八幡浜に到着したのは一月二十五日で、多数の信徒の出迎えを受け、二十六日夕には一流料亭にて歓迎と感謝の席が設けられ、主なる信徒十四名が出席した。教会設置願は二月十七日から作製、信徒総代の決定に多少手間取るということもあったが、三月十五日提出、四月五日管長添書を頂き、四月十七日師自ら松山の県庁へ赴き、設置願を提出して、三原教会に参拝した。五月五日金光教八幡浜小教会長に任ぜられ、同十五日に本部から山本専掌を迎え、開教奉告祭が執り行われた。

師が八幡浜に来てからの布教活動は一見順調に見えたが、実際には種々の問題から非難、攻撃、排斥運動まで起こったという。当時の状況を夫人とともに八幡浜に来て生活を共にしていた三瓶教会長土肥光師(師と夫人の孫にあたる)の「古い記憶から」では、「これまでの信者はあったが、開教奉告祭が済んだころから教会所へは足掛けもせず、参拝者は一日二、三人の日が長く続いた。師はそんなことには一向無頓着で、心中はただ神様あるばかりであったが米飯から麦飯へ、麦飯からお粥へ、生活はだんだん窮迫していった。」と、つづられている。

こうした状況の中、一時は体を壊し静養することもあったが、六十の齢を重ねていよいよかくしゃくとして日夜の御用に精励され、その神徳はようやく遠近に輝くに至った。かくて昭和二年教会設立十年を迎えて、開教十年祭が行われた。この祭典には沿岸の部落から船を仕立てて団体参拝するものもあり、新築の広前にも溢れ、盛会であった。この祭典において師の十年の苦節が初めて酬いられたという。

それから少しした昭和三年三月末ごろから時々腹痛を覚え、四月一日からは臥床するようになり、計三名の医師が立ち会って診察したが、どれも変わらず結果は肝臓病ということであった。心ある信徒は誰ゆうとなく寄ってきて全快を祈念したが、病勢は好転せず六日午前十一時四十分眠るがごとく帰幽した。六十五歳であった。

初代教会長の帰幽から90年ほどの年月が経った現在まで四回の教会移転があった。現在の位置に教会が移転されたのは昭和二十三(1948)年のことである。その後、教会設立七十年を迎えた昭和六十二(1987)年に新築、御造営が成され、元々の木造建築から現在のビルのような建物になったという。その新築の際、木造建築時代の御神前・御霊前がそのままの形で残され、今でも一階会議室の中で見ることが出来る。現在は二階に新しく作られた御神前・御霊前が使われている。

写真2.四度目の移転後 木造建築

写真3.現在のビル

その木造の御神前・御霊前が残る会議室や一階ロビー、駐車場などを使って年に一回7月後半ごろにバザーが開かれ今年で29回目になるという。このバザーを始めたのは三代の多河巌氏で、大きな目的としては「開かれた教会」を目指したという。これは布教を目的としたものではなく、純粋に地域の人々との触れ合い、そして日頃の感謝を込めたものである。バザーに出品されるものは教会の方々がそれぞれ持ち寄ったもので、主に手作りの物やお菓子・日用品・手芸品などや、その場で鉄板で焼きそばを作るなどするのだが、中には漁師の方や趣味で釣りをする人などが自分で釣った新鮮な魚を持って来たり、三瓶町の農家の方が自分で育てた野菜などを持ち寄ることもあるという。このバザーで得られた収益金の一部は八幡浜市へ寄付し、その際感謝状も頂いている。これほどの盛況が見られるのは、地元の新聞社である八幡浜新聞・南海日日新聞からの取材によりバザーの日時が何週か前に告知され、バザーの様子が掲載されることで町の人に広く知られているからである。

2.信奉者たち

 本章では二名の信徒の方の入信のきっかけなどの語りについて報告させてもらう。

2−1.T氏の語り

 彼は信徒総代という役職で、教会長と信奉者の方々の間に入ってまとめ役をするものである。総代は基本三人または五人とされており、八幡浜教会では五人体制でそのうちの一人である。T氏は元々お家柄が仏教であるため、冠婚葬祭全てを金光教で執り行う教徒ではなく信徒または信奉者となる。金光様を信仰するようになったきっかけとしては母親にルーツがあるという。T氏の母親はT氏の妹を出産する際に助産婦さんの手を借りて出産したそうで、その助産婦さんが金光教を信仰している方であったため、教えを頂き、その道をつけてくださったのが金光教参拝の始まりであったという。その頃はまだ子供であったT氏は母親に連れられてお参りをしていたという。母親がどのような想いで教会に参っていたのかは分からないが、T氏はおそらく子供のことを思っていたのではないかと述べている。その頃お参りしていたのは大洲教会だそうだ。しかし、学校を出てからは都会に就職することになり、金光教の教会とは疎遠になり、お参りすることはなかった。やがて都会から自分の郷に帰って来ることになり、再び金光教に引き寄せられた、そのような道をつけてくださったという。それは都会に住む間、お参りはせずとも子供のころからの神様への思い、見守ってくれているという思いが途切れていなかったことが大きく起因しているといえるだろう。実際、郷に戻ってきて初めは自分から教会へ赴いたと思ったが、やっぱり神様がその道をつけてくださったのだと感じたとT氏は述べている。

2−2.K氏の語り

 彼もまた金光教八幡浜教会信奉者の一人である。彼の入信のきっかけも家族がきっかけであり、祖父母の入信をきっかけに両親から自分へとその流れの中で金光教に触れることとなった。祖父は元々大工の棟梁をしていたらしく、それは太平洋戦争よりも前の話である。その頃にたまたま隣町に布教に来ていた初代様のお話を聞く機会があり、金光教の自由さというものに惹かれ入信したという。大工であった祖父には、この方角に建物を建てたら良いだとか悪いだとか言う俗説が付きまといがちであったが、「日柄方角見るに及ばん」という俗説にはとらわれない考え方があり、神様にお祈りしておかげを頂き、都合のよい日がよい日であるというシンプルで自由な思想が祖父を引き付けたのだろうという。そんな祖父からK氏またその子供にまで受け継がれてきているわけだが、現在は少子高齢化により子供が教会に来るということがほとんど無くなってしまったそうだが、K氏が子供のころ、すなわち四、五十年ほど前は「少年少女会」と言って月に一回ほど教会に集まり、教会でゲームをしたり、外へ出かけてハイキングやミカン取りに出かけたこともあったそうだ。近年では、K氏の娘さんが小さいころは主に勉強や入試のこと、お参りごとなど私たちが神社にお参りするのと同じような感覚で金光教に参ることがある。また、祭典後に吉備米を奉納する御用をされている。

3.ご祈念
 
 本章では、金光教で行われるお祈りについての詳細と、実際に参加させてもらい体験したご祈念の様子を報告させてもらう。

 まず、ご祈念について教会で頂いたパンフレットを抜粋させてもらう。
「天地に命があって、すべてのものが生かされており、天地に真理があって、すべてのものが整っています。この働き、この姿を神(天地金乃神)と仰ぎ称えさせて頂いています。従いまして、私達人間の方から言えば神様はわが本体の親であり、人はみなその神徳の中に生かされている氏子(自家の子)であって、神を離れては生き得られないものなのです。これは天地の道理であります。何事も道理に基づかずに成就することはありません。天地の道理に基づき、実意丁寧な生き方を進めていくのが、金光教の信心です。」
「御取次は、神の願いを人に、人の願いを神にとりつぎ、その人その人に応じて立ちゆく道を生み出していく働きであり、だれでも、どんなことでもお願いできます。そのお願いは、ご祈念帳に記され、日夜御祈念くださります。」
「お供え物は、何を、いくらしなければならないということはありません。神様への真心を表すものです。」
 
 御祈念は教会で毎日行われている。一日に三回御祈念の時間が設けられているが、すべてに参加しなければならないということはなく、参拝の時間は自由である。朝から、九時半・十六時・十九時と分けられ、ほとんどの信奉者の方は九時半の回に御祈念へと足を運ぶ。ただ、この時間も元からそうであったわけではなく、朝は元々四時であった。それが時代のニーズに合わせて変化し、九時半になったのは昨年のことである。もちろん全教会がそうではなく、教会によって様々である。

 御祈念には毎日のものに加えて、月に四回の祭典がある。朔(ついたち)祈願祭・月例霊祭・月例祭とあり、月例祭が二度行われ、計四回である。

 朔祈願祭は毎月一日に、先月までの反省点やのおわび・お断り、そしてここまで命を頂き今日を迎えさせていただいたことへのお礼をする。これらを神様に伝えた後、次の月からも人の御用につかせていただくようにとのお願いをする。これらを教会で済ませた後、四国山にある奥城(お墓)へ行き、そこに祀られている先代方や信奉者の方々へ同じようにお礼をする。

写真4 四国山にある奥城
月例霊祭・月例祭は六の付く日に行われる。月例霊祭は六日、月例祭は十六日と二十六日である。しかし、月例霊祭はみなが集まりやすいようにということで第一日曜日に変更されたという。この祭典は霊様、つまりご先祖様へのお礼をするものである。そして月例祭が二度あるのは神様、つまり天地金乃神様と教祖様それぞれへのお礼である。十六日が教祖金光大神様で、二十六日が天地金乃神様である。

 次に実際に参加した御祈念の様子を述べていく。私が参加したのは信奉者の方々が多く集まる九時半の時間に参加さて頂いた。

写真5 朝の御祈念の様子

 写真5が御祈念の様子であるが、向かって真ん中が御神前、すなわち神様で左側が御霊前すなわちご先祖様である。右手に女性が正座している姿があるがその真正面にある椅子は、そこに座り教師に御取次をしてもらうのである。

・おおまかなタイムスケジュール
9:30 御祈念開始 御神前
9:40頃 御霊前
9:44頃 教会長の御教え
9;53頃 合唱(金光教の歌)
9:57頃 ラジオ体操
10;03頃 終了

 この中で合唱とラジオ体操は八幡浜教会独自のもので、合唱は三代多河巌氏が独学でピアノを練習していたことから始まったそうだ。巌氏の間はピアノを自ら弾かれていたが、その後はCDを使って歌うようになった。ラジオ体操は、現教会長多河常浩氏が十年ほど前から始められたもので、元々は共励会と言われる円になってお互いを励まし合うというものをしていたのだが、照れであったり、お互いの批判であったり本来の姿から離れてしまったため、高齢者の健康も考慮したラジオ体操に変更したという。それに加えて月に二回、市から専門家の人に来てもらい、一般の人も参加可能な健康体操をも開催している。

おわりに

 ここまで金光教について、そして金光教八幡浜教会について述べてきて、文中でも述べたようにとても「自由」な宗教であることが今回の調査で分かった。調査以前の私の印象はもっと堅苦しく、掟重視のようなイメージがどうしても強かったが、金光教自体も八幡浜教会でお話を聞かせていただいた方々もそのような印象はなく、明るい感じを受けました。この自由性があるからこそ時代に合わせた在り方を見つけることが出来、百年もの歴史を有することが出来たのだろう。K氏の祖父のようにその自由性に魅せられて信心を持つ人々がこれからも現れることが期待される。私自身これまでの人生において、宗教というものに意識的に関与したことが無かったので、今回八幡浜の地で調査を行えたことは今後の大きな糧になるだろう。

謝辞

 今回調査をさせていただくにあたって、幾分至らぬ点もありご迷惑おかけしたところもあったと思いますが、突然の来訪にも快く受け入れてくださった教会長様、並びに許す限りのお時間を頂き、お話を聞かせてくださった信奉者の皆様には大変感謝いたします。ご協力ありがとうございました。

参考文献

コトバンク https://kotobank.jp/word/金光教−67177

井上順孝 孝本貢 対馬路人 中牧弘允 西山茂,1994年,『新宗教辞典 本文篇』 弘文堂

金光教八幡浜教会 多河常浩,2018年10月,『八幡浜百年 金光教八幡浜教会百年記念誌』 株式会社 豊予社

八幡浜と旅館・ホテル

社会学部 3年生

船登大輝

【目次】

はじめに
1. 松栄旅館
1-1. 料理旅館としての出発
1-2. 行商と松栄旅館
1-3. 原発と松栄旅館
2. せと旅館
2-1. 瀬戸町から八幡浜
2-2. 遍路とせと旅館
2-3. 行商とせと旅館
3. 八幡浜センチュリーホテルイトー
3-1. 今治から八幡浜
3-2. 伊藤旅館と丸山旅館
3-3. 旅館からホテルへ
4. 清和旅館
4-1. 会館から旅館へ
4-2. 原発と清和旅館
5. ホテルトヨ
5-1. みかんとホテルトヨ
5-2. スポーツイベントとホテルトヨ

結び

謝辞

参考文献



はじめに
 私は、八幡浜地域における旅館・ホテルについて調査した。旅館やホテルは、人の出入りや出会いが多く人々の生活に密着している点で、八幡浜の人々の暮らしや文化を紐解く鍵となると考え、このテーマを選択した。道の駅八幡浜みなっとの方曰く、現在の八幡浜地域の旅館・ホテルの数は約20あるという。今回は、目次に記載している「松栄旅館」・「せと旅館」・「八幡浜センチュリーホテルイトー」・「清和旅館」・「ホテルトヨ」の5つの旅館に協力を頂き、インタビュー調査を行った。インタビューを通して、各旅館・ホテルの創業までのヒストリーや旅館のあり方に密接に関連する様々な側面等、興味深いお話を沢山聞くことができた。ここでは、八幡浜地域の旅館・ホテルの歴史や変遷について調査報告するとともに八幡浜の人々の暮らしやまちの変化について考察してみようと思う。

1. 松栄旅館

1-1. 料理旅館としての出発
 松栄旅館は、1923年(大正12年)に西宇和群宇和町出身の松岡兵太郎さんによって創業された旅館である。兵太郎さんは旅館を創業するまでは百姓に従事していたそうで、宴会の取り締まりや郷土料理を作ったりもしていたそうだ。当時、兵太郎さんの親戚が料亭を営んでいたことに憧れを抱き、材木やタバコなどの産業が盛んだった八幡浜で宴会や料理を営みたいという思いから松栄旅館を創業したそう。八幡浜で働くと成功する、八幡浜で働く事がステータスというような風潮が存在していたほど当時の八幡浜は産業が活発で、人との行き来も盛んであったため、旅館の需要が高まっていたことも背景にあるそうだ。
 また、今回インタビューに対応してくださったのは兵太郎さんの孫にあたる3代目松岡孝さんである。孝さんは、旅館を継ぐまでは神楽坂(東京)の寿司屋さんで働いていたそうだ。勤務されていた寿司屋では出前や宴会もあり、田中角栄元首相御用達のお店でもあったらしく孝さんが働いていた頃は、田中邸へよく出前していたそうだ。その後、孝さんが30歳の時に2代目のお父様にあたる松岡忠さんが倒れてしまった事を機に、松栄旅館のあとを継ぐようになったという。
 旅館名の「松栄」は、姓の松岡が栄えて欲しいという思いからとったそうだ。本来は、「ショウエイ」という読み方が正しいが、あえて「マツエ」という呼び方にしているという。孝さんの従兄弟が「松梅」という割烹を営んでいるそうで「マツウメ」という読み方だったことから、「松栄」も訓読みで統一したそうだ。


▲資料1 「松栄旅館」外観

1-2. 行商と松栄旅館
 松栄旅館の客層として行商の人々が特徴的だと仰っていた。そもそも、松栄旅館は木賃宿であるという特性から、ビジネス目的で宿泊する行商人をターゲットとし、「商人宿」としての性格を持つという。特に、孝さんのお父様にあたる2代目松岡忠さんの時代(1951~1970)は行商相手が沢山いたという。
約60〜70年前、八幡浜では蚕や生糸・材木の生産が盛んだったことから八幡浜の店で売り買いする人が多く商人の行き来も多かったそう。印象に残っていた行商人として、青木石油(のちの太陽石油)が船に燃料を売りに来たエピソードを挙げていた。戦後、八幡浜は漁業で栄えており港町で商売していたことで船が集まることから、高知から燃料を売りに来る商人が多かったようだ。また、近隣の伊予市から行商人が瀬戸内海でとれた小魚を売ろうと八幡浜を訪れたというエピソードもあったようで、行商人の生態と旅館は密接に関連すると仰っていた。
すなわち、産業が活発な八幡浜で商売をするためにビジネス目的で八幡浜を訪問し、その宿泊場所として旅館を利用する行商人の層が一定数存在していたという。しかし、近年は交通網の発達により電車や車での行き来が可能となったため、日帰り商売ができる環境に変化したことや主要産業の移り変わりにより、行商人の層は減少してきているという。

1-3. 原発と松栄旅館
 松栄旅館の在り方や変遷を握る要素として最も特徴的なのが原発であるという。松栄旅館では創業以来、客層の中で原発関係者による宿泊が最も多いそうだ。八幡浜の隣町の伊方町伊方原発があるため、原発工事やその定期検査・建設等の目的で宿泊する人が昔から多いそう。加えて原発関係者は単身赴任の人が多く、長期にわたって滞在する傾向があるのが特徴的であるという。そのため、松栄旅館は「長期滞在者用の旅館」である事をモットーとしており、長い人で5年滞在する人もいるという。
 伊方町原発が設置されるようになった経緯についてこんな話があるという。元々、四国電力伊方町ではなく、原子力需要のあった高知県窪川町(現・四万十町)に設置する計画だったという。しかし、当時宮崎大学の四天王といわれていた福田さんという方が伊方町の住人に伊方を活性化させようと原発設置を呼び掛けた。これを機に福田氏の同級生でかつ原発を推進する当時の衆議院江藤隆美氏の協力を得て伊方町原発が設置されるようになったという経緯があるらしい。
 これを機に伊方市に原発が設置されるようになり、現在は一号機・二号機・三号機の三つが設置されているという。原発の稼働状態は、旅館のあり方を大きく左右するという。(これについては同様の話が清和旅館でも聞けた為、4-2で詳細を述べる)

2. せと旅館

2-1. 瀬戸町から八幡浜
 せと旅館は、今回インタビューを試みた五島典子さんの配偶者(五島宏さん)のご両親によって80〜90年前から創業されている旅館である。宏さんのご両親は瀬戸町西宇和郡出身であり、お父様である五島伊勢松さんは旅館を創業するまで瀬戸町四津浜村の第20代、21代村長を務めていたそう。その為、県や国との折衷や行き来が多く、八幡浜市へ出向く機会も多かったようだ。当時、八幡浜ではタバコや蚕の生産が盛んに行われ、「タバコ組合」や「紙組合」をはじめとする組合や会議が多かったという。そうした人々の集まる場所や議員同士の交流の拠点にしたいという思いを村長時代に抱いたことから、瀬戸町よりも人の集まりが多かった八幡浜で旅館を創業する事を決意したそう。加えて、経営や料理を務める奥様(五島スミエさん)と協力し、伊勢松さんが村長時代に培った人脈や人様を大切にする精神が旅館の創業に活きていたと仰っていた。その後、典子さんが57年前からスミエさんの跡を継ぐ形となり、現在も経営を継続している。
旅館名の「せと」は、五島さんの出身地「瀬戸」からとって付けたものだという。


▲資料2 「せと旅館」外観

2-2. 遍路とせと旅館
 せと旅館では、お遍路を目的に八幡浜へ訪問し宿泊する層が一定数存在するという。お遍路とは、「八十八ヶ所の四国遍路」のことをさし、引法大師(空海)が修行した場所をたどり、四国に点在する88カ所の霊場を時計回りに巡る壮大な寺院巡礼のことをいう。お遍路は僧侶たちによって中世から始まった文化であり、江戸時代以降庶民に広がったという。目的は宗教的な修行だけでなく、病気平穏、先祖供養、家内安全などのほか、リフレッシュや自己発見など人によって様々であり、特に九州や関東地方の人に参加者が多いという。
お遍路の中で地理的に八幡浜に一番近いのは43番の明石寺(めいせきじ)であるが、明石寺を訪問する為に八幡浜に宿泊する人は少ないそうだ。八十八ヶ所の四国遍路には、八十八ヶ所の番外礼所にあたる「別格」と呼ばれるものがあり、別格とは弘報大師(空海)が四国で、八十八ヶ所以外で残した足跡をもとに、20の寺院が集まって1968年に霊場として創設されたものをさす(=「霊場別格二十寺参り」とも言うらしい)。八幡浜ではその「別格」に位置づけられる「出石寺(しゅっせきじ)」(八幡浜から車で1時間程度に位置)をお参りするために訪問する人が多く、一般的には八十八ヶ所をすべて回った人たちが別格を訪れる傾向があるという。交通網が整備されていなかった昔に比べると、今では車で訪れることが可能となり、日帰りでお参りが出来るためお遍路の客層は減少してきているというが、近年では霊場別格二十寺参りへの認識が全国的に少しずつ広まってきていることもあり、出石寺を訪れるという目的で宿泊する層は毎年一定数存在するという。

2-3. 行商とせと旅館
 せと旅館においても、松栄旅館同様ビジネスを目的とする行商の客層が一定数を占めるという。
印象的な行商人のエピソードとして、約70〜80年前の富山の薬屋と京都・大阪地域からの呉服店の行商人を挙げていた。富山の薬売りセールスは非常に多かったようで、年に1~2回八幡浜地域の各家に直接訪問し商売をしていた時期があったそうで、その商売の宿泊場所として旅館を利用する傾向があったそう。一方、京都・大阪地域の呉服店は、各店舗に呉服を売りに訪問する傾向があったようで、連泊で商売をするために旅館を利用する人が多かったそう。呉服店や繊維関係の商人は、得意先や店舗同士のやりとりも多く、最終的に八幡浜の商店街に店を構えることもあったそうだ。いずれの商人も、元々は田舎地域に売り出す傾向があったらしい。そのため、長期的に商売を行う行商人が多く旅館が利用されやすかったようだ。
八幡浜はかつては商業や産業が活発であり、加えて別府や大阪への物の行き来の交通アクセスの拠点としても利用されやすいため、行商の人々のフットワークと旅館は密接に関連すると仰っていた。

3. 八幡浜センチュリーホテルイトー

3-1. 今治から八幡浜
 八幡浜センチュリーホテルイトーは、昭和4年(1929年)から元々は旅館形式で創業されたホテルである。創業者は明治30年生まれ今治出身の伊藤カツさんという方で、創業以前は主人を既に亡くしていたことから、出稼ぎという形で松山で女中として旅館に勤めていたそうだ。そして1929年、当時八幡浜で活発だった薬や呉服の行商の人々の宿泊場所の確保が困難だという状況を踏まえて松山を離れ、産業が活発であった八幡浜に旅館を出すことを決意したそう。
 今回インタビューに応じてくださった伊藤直美さんは伊藤カツさんの孫の嫁であり、カツさんの娘の伊藤フジノさんという方の後を継いだ3代目にあたる方である。今治出身のカツさんやフジノさんとは違い、生まれも育ちも八幡浜で、創業以前は広島で広島電鉄の栄養士として勤務されていたそう。直美さんが25歳の時、八幡浜に戻りフジノさんの跡を継ぐ形となり現在まで約50年勤務されている。現在は、直美さんの息子の伊藤篤司さんが社長を務め、1985年にホテル形式に移行して以降も八幡浜で経営を継続している。
ちなみに、ホテル名には4代続く「伊藤」の姓と100年(century)企業を目指すという意味が込められているという。


▲資料3 「八幡浜センチュリーホテルイトー」外観

3-2. 伊藤旅館と丸山旅館
 伊藤旅館(八幡浜センチュリーホテルイトーの旅館時代の旧名)は、かつて戦争で焼けてなくなってしまった丸山旅館と深い関わりを持つ。丸山旅館は、山口升雄さんという伊藤カツさんの弟が創業した旅館であり、宇和島地域に店を構えていたそう。山口氏は丸山旅館を創業するまでの間伊藤旅館で女中として働いていたそうで、カツさんに子供ができた事を機に宇和島で丸山旅館を創業したという。ところが、昭和20年の空襲により丸山旅館は焼けてなくなってしまい、戦災で焼け出された山口氏がカツさんを頼りに八幡浜疎開し、伊藤旅館の一角で丸山食堂を開業したという。この食堂で、丸山ちゃんぽんやあんかけ焼きそばが伊藤旅館におけるメニューとして提供されていたという。
伊藤さん曰く、中華料理の調理師の経験もあった山口さんがちゃんぽんの提供を始めたことが八幡浜ちゃんぽんの誕生にも繋がったという説もあるという。諸説あるそうだが、八幡浜ちゃんぽんの始まりが山口氏だったともいわれているそうだ。

3-3. 旅館からホテルへ
 イトー旅館は1985年に旅館形式からホテル形式へと移行した。現在、ホテル(宴会)形式になって約30年が経つそうで、50年以上は旅館形式だったそう。
 旅館からホテルへと移行したきっかけは、時代の流れの中で「個室」が求められるようになった事だという。かつては、薬屋や呉服をはじめとするビジネス色の強い「商人宿」としての性格に需要があった。しかし、1964年の東京オリンピックなどを機に社会はインバウンド対策に力を入れるようになり、個室が確保されておりバス・トイレが設置された「国際観光旅館」としての性格が求められる風潮が高まったという。また、時代とともに少しずつ商人の種類も変化しているという。「薬」は商人の商売を待つ形から医者や薬局を訪れるように変化し、「呉服」は需要があった昔とは違い現在は着物を着る文化もなくなってきている。ホテル形式となった今では原発工事や道路関係などの事務職の客層が多いという。
社会の流れや客層の変化、ニーズに合わせて旅館・ホテルのあり方は変遷し続けていると仰っていた。

4. 清和旅館

4-1. 会館から旅館へ
 清和旅館は、約90年前に元々は会館形式で創業されたという。創業者は今回インタビューに応じてくださった佐々木康二さんのひいおじいさまにあたる佐々木甚兵さんである。甚平さんは佐田岬出身で、会館を創業するまでは鉄鋼関係の町工場を営んでいたという。鉄鋼で儲かったために大きな土地があった事から、旅館の他にも様々な事業を展開していたという。その事業の中に洋服屋や散髪屋なども含まれていたため、八幡浜地域に多目的で集まれる場を提供しようという思いで「清和会館」を営むようになったという。
会館から旅館形式に移行したのは今から約50年前だという。 社員の老化や八幡浜の人口減少により洋服屋や散髪屋などの事業が淘汰された事も一因だというが、移行の一番のきっかけは八幡浜地域に商店街が出来たことだという。八幡浜は半分以上の土地が埋め立てであったため商店街の位置には元々海しか広がっていなかったらしい。商店街の台頭により客が商店街の方へと流れ、商店街の商売には及ばないという判断から当時需要が高まっていた旅館のみの形式へと路線を変更したという。
清和旅館の「清和」は、2代目のおじいさまの名前の「清三郎」からとったものだという。


▲資料4 「清和旅館」外観

4-2. 原発と清和旅館
インタビューに対応して頂いた佐々木康二さんは、ひいおじいさん(約40年勤務)・おじいさん(約30年勤務)に次ぐ三代目にあたる方である。旅館を継ぐ前は測量会社のサラリーマンだったそうで、老朽化に伴う15年前の建て替え工事を機に旅館を継ぐ決意を固めたそう。
康二さんが強調していたことは、やはり原発の稼働状況によって旅館のあり方が大きく変わってくるというということだった。一号機、二号機、三号機それぞれの稼働状態や当時の八幡浜のまちの様子・客層について詳しい話が聞けたので以下に順に列挙する。
一号機(1977年9月30日から稼働)、二号機(1982年3月19日から稼働)は今からそれぞれ約40〜35年前に稼働され、この頃は高速道路やトンネルが未完成な状態で道路も整備されていない時代だったという。一方で、材木やタバコをはじめとする産業が活発で、人の行き来が盛んであったため、映画館やスケート場・ボウリング場など娯楽施設や商業施設が栄えていたそうだ。交通網が未発達の状態でかつ商人を中心とする人の行き来が盛んになったため、宿泊場所である旅館の需要が急速に高まったそうだ。そのため、当時は旅館の数が増え、原発やトンネル工事に携わる人達を中心に宿泊者が急増したという。
しかし、2011年の東日本大震災を機に、安全性や金銭面の問題から四国電力の判断により廃炉が決定し一号機は約2年前(2016年5月10日)に、二号機は約4ヶ月前(2018年5月23日)に終了したという。
三号機は、約20年前(1994年3月29日)から稼働しており、2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により一時運転が停止していたが2016年には再稼働したという。しかし、再び昨年広島の最高裁判所の判断により運転差し止めが決定されたという。九州の阿蘇山噴火が大規模噴火した際に火砕流が海をこえて伊方市に到達する可能性があると指摘されたためであるそうだ。これに対し、八幡浜住民はこの可能性はこじつけであると反発する声が多いという。伊方市の原発稼働状態が八幡浜における商売に大きく影響してくるためである。
旅館においても、昨年以降原発が稼働していないため客数が減少してきており、経営を継続するにあって原発稼働が鍵を握ると仰っている。康二さんが旅館を経営してきたこれまでの15年間の中でも東日本大震災や広島の最高裁での判断は大きなターニングポイントになったという。震災前は、原発関係者による宿泊者が沢山いて休みもなかったほどであったそうだが、ターニングポイントとなる出来事が発生して以降は一気に客数が減少し、自身の生活も激変してしまったという。世間では原発反対の風潮が高まる中、原発を稼働して欲しいという声が強い事は、それだけ原発稼働が八幡浜における旅館のあり方や八幡浜地域全体に大きな影響力を持っているということを示していると思う、と仰っていた。

5. ホテルトヨ

5-1. みかんとホテルトヨ
ホテルトヨは、昭和45年(1970年)創業すなわち50年弱にわたって経営されているホテルである。創業当時からホテル形式だったそうで、人の行き来が多い駅のロータリー(現在は空き地)で経営をはじめたそう。現在も、JR八幡浜駅から徒歩3分程の場所に位置している。
ホテルトヨでもメインとなる客層は原発関係であるというが、加えて他旅館・ホテルではあまり見られない特徴的な客層を聞き取ることができた。それは、東京からみかんを買い付けてくる客層である。約20~30年前から、東京の大手スーパーや青果市場など(農協)が新聞に掲載されている情報からみかんについてリサーチし、八幡浜のみかんを買い付ける際に宿泊する客層が一定数いるらしい。みかん主流のJA(農協)の客層としては、買い付け客に加えて肥料・農薬、選果機のメーカー等のお客様もいるという。八幡浜の主要産業がかつての蚕や生糸から現在に至るまでに「みかん」へと移行した八幡浜産業の移り変わりが客層の変化にも表れているのではないかと仰っていた。一方で、他の旅館では挙げられていた行商人の層は創業時から比較的少なかったという。
「ホテルトヨ」という名前は、創業されたお父様(田安照豊さん)とインタビューさせて頂いた息子の田安豊人さんの名前に「豊(トヨ)」という字が共通して含まれていたことからとったという。


▲資料5「ホテルトヨ」外観

5-2. スポーツイベントとホテルトヨ
 ホテルトヨの客層の特徴として、最近ではスポーツイベントに伴う客層が挙げられるという。
 八幡浜地域では、20年程前から八幡浜市が運営するソフトボール大会やマウンテンバイク大会が開催されるようになり、それらの参加者や関係者が宿泊する層が多いそう。ソフトボールは主に女子学生の参加、マウンテンバイクでは、現在海外からの参戦者もいるほどの大規模な大会となっており、市民の愛好家達によってコースや道路が整備されていったという。加えて、愛媛県全体でサイクリング観光促進が行われている風潮から、近年ではバイクや自転車のツーリング客が増加傾向にあり、それによる宿泊者も増えてきているという。
 近年ではこうした八幡浜地域でのイベントや観光促進プロジェクトが、旅館の客層や在り方に変遷をもたらしてきているそうだ。

結び
以上の旅館・ホテルの調査から、考察できることを以下に記す。
まず、旅館のヒストリーは実に様々であることが改めて考察できる。創業までの経緯や創業者の境遇、旅館の変遷は旅館によって実に様々であり、旅館の名前の由来も名前からとったもの、出身地からとったもの、読み方にこだわりがあるものなどバリエーションに富んでいることが分かった。
また、創業した時期や社会背景によって客層に違いがあるという特徴も見出すことができた。約100年前に創業された比較的古い松栄旅館やせと旅館では、蚕や生糸・材木・タバコなどの産業が非常に盛んな時代であり行商の層が大部分を占めていた。一方で、約50年前に創業された比較的新しいホテルトヨでは行商の客層の話はあまり挙がらず、みかんやスポーツイベントといった新たな客層のお話を聞くことができた。これは、八幡浜の主要産業が蚕や生糸からみかんに移り変わった事が影響しているといえ、時代や産業の移り変わりによって旅館のあり方が変化しているということができる。
このように、八幡浜地域における旅館・ホテルは「行商」・「原発」・「お遍路」・「みかん」・「スポーツイベント」・「交通網」など様々な側面(要素)と密接に関わりがある事が分かった。また、時代や産業の移り変わりによって求められる旅館のあり方は変化してきており、八幡浜の人々の暮らしや社会の変化と密接に関わっているといえる。すなわち、今回の調査を通して旅館・ホテルのあり方を左右する上記の側面(要素)が、八幡浜地域で暮らす人々の暮らしや社会をあらわす重要な要素であると私は結論づける。

謝辞
 本論文を作成するにあたり、八幡浜市の多くの方々にお世話になりました。この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。お忙しい中、突然の訪問にも関わらずインタビューに快く対応頂き、笑顔で温かく迎えてくださった松栄旅館・せと旅館・八幡浜センチュリーホテルイトー・清和旅館・ホテルトヨの皆さまにはただただ感謝いたしております。皆さまのご尽力なしには、本論文を作成することは出来ませんでした。深く感謝しております。今後の皆さまの益々のご発展をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
四国電力株式会社HP, 2018,「設備概要」,
(http://www.yonden.co.jp/energy/atom/ikata/page_02.html , 2018年8月26日アクセス)
日本旅館協会・四国支部連合会, 2012, 「四国霊場八十八ヶ所御案内帖」, 2-3
八幡浜市史編集纂会, 1987, 「八幡浜史誌」, 124-125 142-143

「生きていく民俗」の実践―八幡浜市「そでおか八幡浜種苗店」をめぐるファミリーヒストリー―

社会学部 3年生

常数唯

【目次】

はじめに

1.行商からの出発
1-1.袖岡家と袖岡喜多衛氏
1-2.行商と水車

2.宿毛時代

3.旅館と種苗店
3-1.菊池己之松氏との出会い
3-2.想い出旅館
3-3.そでおか八幡浜種苗店

4.袖岡利氏のライフヒストリー
4-1.袖岡利氏
4-2.日土町でのくらし
4-3.嫁入り前
4-4.袖岡家に嫁ぐ
4-5.いまのくらし

結びに

謝辞

参考文献



はじめに
 宮本常一は『生きていく民俗』において、人がどのようにしてくらしてきたかを「生業」という視点を用いて分析した。そして自給のみの社会から交易をする社会への変化が職業の分化をもたらし、さらに村から人々が移動し都市ができることで職人が誕生したと論じた。この『生きていく民俗』が1965年に刊行されてから、およそ50年の歳月がたった。現在の職業観や分類、役割には一体どのような特徴があるだろうか。かつて宮本が見た人々の「生きていく」ためのくらしはいま、新たな変化が訪れているのではないか。
そのような着眼点から本稿では、愛媛県八幡浜市の調査で出会った袖岡家のファミリーヒストリーをたどりながら、現在までの生業の変遷について分析していく。

1. 行商からの出発
 1−1.袖岡家と袖岡喜多衛氏

 袖岡家と私の出会いは、先述の通り八幡浜市での調査であった。八幡浜のまちをあてもなく彷徨っていた時、偶然「そでおか八幡浜種苗店」の店先にいらっしゃった袖岡利氏に店や家の歴史についてお聞きしたことがきっかけである。利氏に聞き込みをする中で、袖岡家が種苗店以外に現在までにさまざまな職業を経験してきたことがわかった。さらに利氏の義父である袖岡喜多衛氏による『袖岡家過去帖』(資料1、2)によって袖岡家が八幡浜に移住するまでの経緯を明確に把握することができた。そこでこの過去帖の記述と利氏の語りをもとに、喜多衛氏の代からのファミリーヒストリーをたどっていこうと思う。

▲資料1『袖岡家過去帖』外部


▲資料2『袖岡家過去帖』内部

 袖岡喜多衛氏は明治33年5月6日、愛媛県喜多郡新谷村で袖岡万作氏の次男として生まれた。生後七日目には家を売り渡し借家住まいになり、7歳のときに父親が46歳で若くして死去するなど、苦労が絶えない幼少期であった。さらに長男の重吉氏がその翌年に病死したため、喜多衛氏が戸籍上8歳で戸主となったのだった。

 1−2.行商と水車
 袖岡家は代々、種の行商を営んでいた。喜多衛氏自身も氷とともに木箱に種を入れ、一か月ほどかけて下関まで売り歩いていたそうだ。
そして大正11年12月に、喜多衛氏は親戚のすすめで篠原ヨシ子氏と結婚する。それまでに貯めた預金を使い水車製粉工場を買い、不便な場所であったが夫婦で一生懸命働いた。しかし、時代が移り変わり電力で動く製粉所が登場すると商売が立ち行かなくなってしまう。13年間辛抱したものの、水車の破損が毎年著しく働けど働けど赤字が積み重なるばかりであった。

2.宿毛時代
そんな時、高知県宿毛市片島町に住むヨシ子氏の母の兄嫁の叔父から「住みよいところだから来い」という誘いをうけて、新谷村の荷物を整理し移住することを決心する。宿毛市では豆腐屋を営んで暮らしていたという。
 しかし、移住してから一年半が過ぎたころから喜多衛氏の体の不調が目立つようになった。袖岡家は占いを好む人が多く、互いを実名ではなく占いで告げられた名前で呼び合うほどであった。そのため、不調の原因を探るべく占いに行ったところ「方角の悪い方へ来ているから病になる。八幡浜宇和島の方へ帰った方がよい」と告げられ、頼りにしていた叔父も亡くなっていたことも重なり八幡浜へ移住することになった。

3.旅館と種苗店
 3−1.菊池己之松氏との出会い
 そうして八幡浜へ一家六人で帰ってきた袖岡家はひとまず安宿に泊まり、種子店が開けるような安い借家を探すことにした。だが一か月たっても思い通りの家が見つからず途方に暮れていた。その時、ちょうど宿泊していた宿屋の主人である菊池己之松氏に「自分たちはこれから夫婦で製材所をする予定だから、宿屋をする気があるならば譲ってもよいが」との申し出を受け、権利金と旅館の夜具諸道具を含めて金八十円で宿を譲ってもらえることになった。そこで米屋に頼んでお金を貸してもらって支払いを行い、晴れて「想い出旅館」を開業した。旅館名には、「想い出して来てもらえるように」という願いが込められていたそうだ。

 3−2.想い出旅館
 旅館を開業して間もなく、後に袖岡利氏の夫となる息子の昭介氏がジフテリアにかかってしまう。医者から一本五円の注射を二本打たなければ治らないという診断を受けたが、開業したてのためお金に余裕がなく、誰一人頼る人もいなかった。そんな時に菊池己之松氏の妻の芳子氏が、「後で何とでもなるから早く注射をしてもらわねば子供の命が危ない。早く持っていけ」と十円を出してくださった。この時の有難さは一生忘れられない、と喜多衛氏は綴っている。
 それから袖岡夫婦は心を合わせて一生懸命働き次第に利益が出て、旅館を購入するためにお金を借りた米屋や新谷村を整理した時にお世話になった方々へお金を返しに行ったところ、君を信用して貸したのだから返してもらわなくとも気にして居ないのだから、と言いながら喜んで受け取ってもらえたことが喜多衛氏は非常に嬉しかったそうだ。

 3−3.そでおか八幡浜種苗店
 想い出旅館の開業と同時に袖岡家が代々受け継いでいる種苗店も開業した。店舗での販売だけでなく、夏になると喜多衛氏や昭介氏が種を計量しそれを娘たちが袋に詰めて判を押した。そうして完成した商品を昭介氏がバイクで今治市や南宇和群の方へ農協や商店に卸した。
喜多衛氏はこの過去帖の最後を『人間ハ此ノ世へ苦労ヲスル為メニ生レル者ノ様ナ考ジガスル』という言葉で締めくくっている。幼い頃に家族を失い、移住を繰り返しながら数々の職業を経験し苦境を乗り越えてきた、人一倍苦労をした喜多衛氏の人生のそのものを表す言葉であるように感じる。
こうして袖岡家は、愛媛県喜多郡新谷村から水車や高知県宿毛市での豆腐屋を経て八幡浜に至り、想い出旅館とそでおか八幡浜種苗店を営むことになった。

3. 袖岡利氏のライフヒストリー
 4−1.袖岡利氏
 ここからは八幡浜市の調査で実際にインタビューをさせていただいた袖岡利氏に焦点をあて、個人のライフヒストリーとして「生きていく民俗」について考察していく。
 袖岡利氏(旧姓小林利氏)は昭和14年1月31日、愛媛県大洲市菅田町で8人兄弟の5番目の子どもとして誕生した。「利」という名前は、利口だった伯母の名である「利子」が由来だそうだ。父親が警察官であったため転勤が多く、兄弟それぞれ出身地が異なり幼少期から移動の多い人生であったという。そして終戦の年、父母の里である日土町に住みついた。

 4−2.日土町でのくらし
 学生時代は、八幡浜市日土町にある自宅から徒歩15分ほどの日土小学校(現八幡浜市立日土小学校)に入学し、その後日土村立日土中学校(現八幡浜市保内町共立青石中学校)に通った。


▲資料3 現在の日土小学校

放課後は麦ふみやさつま芋のつる返しなど家の畑仕事を手伝ったり、兄弟や姉妹も連れて学年関係なく遊んだりしていた。畑仕事は自分の家の畑だけを手入れするのではなく、近隣の畑も助けが必要な時は住民みんなで作業を手伝った。
当時は学校での学習よりも家の仕事を優先する考えが強く、高等学校へ進学する子供は裕福な家庭であっても非常に少なかった。利氏も当初、中学校卒業後は小学校の近くにあったタオル工場で働こうと考えていた。しかし、校長先生との面談で「頭がないけん(働きます)」とその思いを伝えたところ、「頭は一つあったらよろしい。高校へ行きなさい。」と説得されたことや、父親の「これからの時代は高校を出とかなんだったらいけん」という考えのもと愛媛県立川之石高等学校に入学した。当時は園芸科と普通科があり、利氏は普通科に進学した。園芸科の学生は農家の子供が多く卒業後は家を継ぎ、普通科の学生は卒業後に酒六や東洋紡績関係の仕事に就職する生徒や商店の店員となる生徒が多かった。

 4−3.嫁入り前
 高校卒業後はタオル工場に就職し、検査員として一年間勤務した。八幡浜市は明治時代から養蚕が盛んであり、大正時代には市内に4つの綿布工場が操業するなど繊維関係の仕事に従事する人が多かった。その後、松山市で警察官となっていた兄のつてで新浜町へ移り、外科の医院に勤務することになった。専門的な資格は持っていなかったため、見習い看護師として働いていた。
 21歳になると、嫁入りのために編み物の習い事をしようと友人から誘いを受ける。そこで八幡浜へ帰郷し、商店街にある佐々木ミシン商会の二階でやっていた編み物教室に通いはじめた。そのまま店に頼まれて、一階の事務員として三年間務めた。そんなある日、日土町に来ていた石鹸売りのおじさんから縁談を持ちかけられ、お見合いをすることになった。それが袖岡昭介氏との出会いのきっかけである。

 4−4.袖岡家に嫁ぐ
 お見合い当日、袖岡家まで仲人をしてもらった石鹸売りのおじさんと二人で商店街を歩いた道のりがとても長く感じたことを今でも覚えているという。後にわかったことだが昭介氏はこの日、お見合いの席ですすめられたまんじゅうを素直にほおばっている利氏の可愛らしい姿を見て、結婚を決意したそうだ。
 そうして昭和38年3月3日、二人は結婚することとなった。披露宴は八幡浜市にあるあたご食堂(現浜味館あたご)にて30人ほどで行った。昭介氏の趣味が山登りがと聞いていた利氏は自分も一緒に山登りをしたいと思っていたが、結婚後すぐに妊娠したためその夢は叶わなかった。しかし35歳のとき、友人と富士山を登ったので満足しているそうだ。
 嫁入り後の生活は非常に忙しいものだった。朝早く起きて朝食の準備をし、客が帰ると浴衣やシーツの洗濯をしてまた次の客を迎えた。当時は、毎月滋賀の薬品会社や食品会社の関係者や、税務署の職員など多くの人々が八幡浜に宿泊していたため、想い出旅館の他にも周囲にいくつか旅館があった。また不定期で電話線を引くために訪れた電電公社の作業員や、当時は夜昼トンネルがなく回り道をしてやって来ていた松山からの来訪者も宿泊したという。
 昭和48年に義母が亡くなると、仕事の負担が増加することや火災防止のため防炎カーテンを新調しなければいけないこと、駐車場の確保が要因となり、想い出旅館を閉館することにした。それ以来、そでおか八幡浜種苗店は植木や盆栽、園芸用品を売っていた。

 4−5.いまのくらし
 現在、利氏は難病になった夫昭介氏を自宅で介護しながら種苗のみを扱い店を続けている。また20年ほど前から宇和島でクリーニング店を経営する同級生の弟に頼まれ、近隣の衣装預かりも行っている。


▲資料4 店舗外装


▲資料5 利氏と店舗内装

利氏はいま、絵てがみのやりとりを楽しんでいる。娘の結婚後、余暇の過ごし方を悩んでいた時に新聞で絵てがみの会の募集を見たことがきっかけだった。全国の人とはがきを送りあっており、私もインタビュー後たくさんの絵てがみをいただいた。これからの目標はとにかく健康でいることだと利氏は語る。以前通っていた水泳や最近施設ができたボルダリングに挑戦してみたいそうだ。
結びに
 宮本常一は、人がどのように生きていたかという疑問について生業に注目した。それはつまり、生活するための金銭をはじめ食料やモノをどのように手にしていたかという意味合いが強かったのではないだろうか。実際、袖岡喜多衛氏も生きていくために種屋をしながら水車工場や豆腐屋、旅館を営んできた。
しかし今回の調査を経て、現代における生業の役割はそれだけではなくなっていると感じた。それが「地域と関わるための手段」としての役割だ。インタビュー中、幾度となく近隣の方が種苗店を訪れた。種を買いに来た人もいたが苗や花についての質問をしに来たり収穫した作物を届けに来たり、全ての人が商品を購入したわけではなく、また利氏もそれを期待しているわけでもなかった。これこそ新たな生業の変化ではないだろうか。

利氏は自分の代でこの種苗店は閉めるつもりだそうだ。ご先祖様には申し訳ない、と利氏は話していたが『生きている民俗』の最後にはこうある。「家職・家業がしだいに姿を消して、子が親の職業を継がなくなることが一般になったとき、また出稼ぎから解放されたとき、はじめて近代化したといえるのであろうが、そこまではまだまだ遠い距離があるように思う。」(宮本 2012:244)。宮本がこの本を書いてからおよそ50年の歳月が流れたいま、近代化はついにすぐそこまできたといえよう。



謝辞
本論文の執筆にあたり、袖岡利様には誠にお世話になりました。
数日間にわたり丁寧にお話してくださったご自身や袖岡家の貴重なお話、ご用意してくださった沢山の資料や文献のおかげで無事この論文を書き上げることができました。サプライズで日土小学校を案内してくださったことや明治橋を一緒に散歩したこと、いつまでも大切な思い出です。今回このようなご縁があって幸せでした。利様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
宮本常一,2012,『生きていく民俗―生業の推移―』河出書房新社
八幡浜市,1987,『八幡浜市誌』

蒲鉾と八幡浜-谷本蒲鉾店と丸栄かまぼこ店-

社会学部 3回生
吉岡未央

【目次】

はじめに

1. 谷本蒲鉾店
1-1. 創業のころ
1-2. 戦時中の蒲鉾店
1-3. 戦後の谷本蒲鉾店
1-3-1. 缶詰かまぼこ
1-4. 谷本蒲鉾店の現在

2. 丸栄かまぼこ店
2-1. 創業のころ
2-2. スーパーマーケットの登場と丸栄かまぼこ店
2-3. 魚の仕入
2-4. かまぼこ店のプライド

結び

謝辞

参考文献



はじめに
 八幡浜市には、多くのかまぼこ店が存在する。しかし、30年前とその店舗数を比較すると、その数は、跡継ぎがいない等の理由から減少の一途をたどっている。八幡浜市ではトロール漁が盛んであり、新鮮な魚がたくさん水揚げされていた。もともと、宇和島ではかまぼこ造りが行われていたが、その新鮮な魚に目を付けた宇和島出身の鈴木峰治氏が明治20年代に八幡浜市でのかまぼこ製造に着手した。それ以来、今日まで盛んにかまぼこ造りが行われている。そのかまぼこは、八幡浜市の特産品としての地位を獲得し、愛媛県の伝統的特産品にも指定されている。また、八幡浜市の特産品である「削りかまぼこ」は、宇和島から伝わったものである。豊かな海の恵みがもたらした宝である。削りかまぼこの原材料となるエソは、トロール漁で捕ったものが使われていたので、トロール漁が休みとなる夏に、売れ残ったかまぼこが乾燥してミイラ化したものを鉋で削ったところ評判が良かったため、大正時代に入って製品化された。トロール漁の漁獲量とかまぼこの製造量については、トロール漁での漁獲量が増えると、かまぼこの製造量も増加し、漁獲量が減少すれば製造量も減少するという、深い関係にあった。しかし近年、トロール漁船が減少したこと、冷凍すり身といった安価なかまぼこの原材料が出回ったこと等が原因で、その関係は以前と比べて小さいものとなった。
 八幡浜市で毎年行われている地方祭、10月19日に大正時代頃から続くと考えられる秋祭りの前夜祭に食べる鉢盛のご馳走に、紅白のかまぼこが必ず使われ、食べられていたという。結婚式にもかまぼこは欠かせなかった。また、高級品であったかまぼこを、子どもたちはそういった機会に食べることを楽しみにしていたそうだ。かまぼこには、赤色のかまぼこと、白色のかまぼこがあり、子どもは見た目が鮮やかな赤色のかまぼこを好み、「アカジジ」と呼んで親しんでいたという。しかしながら、今日では、かまぼこは気軽に手に入る食品へと変わってしまったため、そういった光景はあまり見られなくなったそうだ。
 八幡浜市とかまぼこは文字通り、切っても切れない関係であり、八幡浜市の人々が、かまぼこと共に生きてきた日々を本論文で論じる。今回は、八幡浜市にある2つのかまぼこ店、「谷本蒲鉾店」と「丸栄かまぼこ店」を取り上げる。

1. 谷本蒲鉾店
1-1. 創業のころ
 谷本蒲鉾店は大正5年創業の老舗の蒲鉾店である。正式な記録として残っているのは大正5年であるが、実際には明治の終わり頃から既にお店はあったと考えられている。
初代の谷本繁氏は、元々は大洲市出身の農家に生まれた次男であった。次男であったので、家を出て、自立するために、当時トロール漁等で栄え、「伊予の大阪」と言われるほど商業が発達していた隣の八幡浜市に身を置き、村上氏が営んでいた「カネセ」という、酒販売等、所謂「何でも屋さん」で丁稚奉公として修業することになる。当時は現在のように時間制での労働ではなく、仕事が終わるまで、寝る間を惜しんで仕事をした。繁氏と同じように働いている人は、10人ほどいたらしく、繁氏は、大将(当時は一番偉い人は大将と呼ばれていた。)に最も信頼される存在であったそうだ。10年ほどそこで働き、商売で独り立ちする。その際、当時八幡浜では、新鮮な魚が多く手に入ることもあってかまぼこ作りが盛んに行われており、お金を稼ぐのにも手っ取り早いという理由から、蒲鉾店を始めたそうだ。
その店を始めるにあたり一番怖かったことは、「家を建てる」ということだったそうだ。当時、家を建てるために最も重要であったことは、「信用」である。「信用」とは何か。それは、「毎月、代金をきちんと払えるかどうか」ということである。初代は、何かにつけ、そのことを口を酸っぱくして2代目の嫁である琴美氏に伝えていたそうだ。
 現在、谷本蒲鉾店本店は八幡浜市の天神通りに構えているが、創業当時は今よりももう少し北側の場所を借りてかまぼこを製造していたという。しかし、いつまでもその場所を貸してもらえるという保証があるわけではないため、お金を貯めて、現在の本店の場所にお店を構えた。1階をかまぼこの製造所、2階を住居として使用し、商売を営んだ。お店の場所と魚市場は距離があったため、仕入れた魚は、トロ箱に詰め、大八車に積んで運んだそうだ。

1-2. 戦時中の蒲鉾店
 日中戦争勃発により金属供出が行われ、かまぼこを製造する機械はもちろん、火鉢でさえも、国に供出した。谷本蒲鉾店は、供出に積極的に協力したという。底引漁船は1,2隻となって、かまぼこの原材料となる魚の水揚げ量が減り、以前ほど自由に手に入りにくくなった。その影響で、かまぼこの製造が困難となった。加えて、20軒弱存在していた蒲鉾店の働き手が戦争で召集されたことで数が減り、廃業に追い込まれるところもあった。だがそんな中で、その地区で取りまとめをしていた所の未亡人宅にはかまぼこ製造に必要な機械が残してあり、谷本氏らを含め10人ほど集まって、製造を行った。青魚は天ぷらに、白身魚はちくわにした。白身魚の中でもエソと呼ばれる魚で造られるかまぼこは高級品であった。手作業も加えながら自分たちで製造したかまぼこは、その女性の指示で個数などを分担し、隣の大洲市松山市等まで、汽車に乗って、旅館等に行商して回った。生きる糧となるかまぼこを無駄にしないように、「明日は何本いりますか?」と御用聞きしながら売って回った。食糧難だったが、みんなで協力して、必死に製造・販売を続けてきた。
 大東亜戦争が始まり、さらに生活は苦しくなったが、周囲の蒲鉾店同士で協力し、何とか生計を立て、しんどい時期を乗り越えた。

1-3. 戦後の谷本蒲鉾店
 お店は、長男が継ぐ予定であったが、戦死されたため、次男であった悟朗氏が家業を継ぐこととなった。
 戦争も終わり、働き手を戦争で失ったことで、廃業を余儀なくされる店もあったし、戦争を生き残った者が製造を続けていた店もあったが、(商売に身が入らず)遊んでしまった者の店は廃業に追い込まれたりもした。そんな混乱した中で、谷本蒲鉾店は何とか自力で営業をやっていけるまでに回復した。2代目の奥様、琴美氏は戦後まもなくこの家に嫁いだ。蒲鉾店はそれぞれで営業をするようになり、8つの蒲鉾店が集まってひとつの蒲鉾店となって再出発したところも出てきた。
谷本蒲鉾店は、魚を皮と骨に分ける機械、ミンチにする機械等、製造するために必要な最低限の機械を借金することで購入した。これまで「信用」は培ってきたので、そのお金を返しながら、商売を続けていった。自分たちの食事よりも仕事に重点を置き、お金はできるだけ使わないように頑張って生活した。食事は、ご飯にお芋、かんころを入れて炊き上げ、量を増やして生活してしのいでいた。琴美氏は、「そのお芋の匂いを嗅ぐのは今ではもう嫌だ。」と語った。そうやって生活を続けていくうちに、戦争に行っていた者が帰ってくるなど、働き手も増え、漁業を離れ、農業をする者も出始めた。そして、だんだんと暮らしは豊かになっていった。
 3代目の典量央氏は、幼少の時より家業の手伝いをしていた。谷本蒲鉾店の本店は、現在は1階が販売所、2階は住居となっているが、以前、1階はかまぼこの製造所であった。家業の手伝いをすることを苦だと思ったことはなく、大学で県外に出た後も、長期休みの際には配達などを手伝ったという。典量央氏は、「弟が家業を継ぐだろう。」と考えていたが、弟は違う道に進んだため、典量央氏が後を継いだそうだ。典量央氏は、戦後の目まぐるしい経済成長の中で、2代目の悟朗氏を「このままのやり方ではだめだ。」と説得し、谷本蒲鉾店を大きくすることに注力した。

1-3-1. 缶詰かまぼこ
 戦後まもなく、明治31年に誕生した缶詰かまぼこの製造が盛んになった。それは、海外、主にアメリカ合衆国へと輸出された。缶詰のかまぼこはナイロンが登場するまで製造され、それの登場以降は製造されなくなった。缶詰かまぼことはその名のとおり、缶詰にかまぼこを入れ、日持ちするようにされたものである。板に付いているかまぼこを板からはずし、かまぼこを半分に切って、板に付いていた部分を合わせ、円形にして缶詰につめ、機械で蓋をして、出来上がりである。上から見ると資料1のような感じで、ツナ缶よりも少し高さがある程度であったらしい。「第一缶詰」と言って、缶詰かまぼこを専門で製造しているところも嘗ては存在したそうだが、現在では、その家(製造所)すらもなくなっている。


▲資料1 上から見た缶詰かまぼこのイメージ図
 3代目の谷本典量央氏は、アメリカへ向けて大量に輸出されていた缶詰かまぼこについて、「アメリカ人がかまぼこを好んで食べていたとは考えがたく、他に理由があるのではないか。」と話す。「以前、八幡浜市は、アメリカでの新しい生活を求め、北針舟が数多くアメリカへ出向していた。アメリカへ密かに渡った人は、多くが日本へ強制送還されたが、その一部はきっとひっそりとアメリカで過ごしたのではないか。」と典量央氏は語る。シアトルにある「UWAZIMAYA」という名前のスーパーマーケットを、「元々はアメリカへと渡った人、あるいはその関係者等が始めたものではないかと考え、アメリカに住む日本出身の人々が故郷への哀愁の念を抱き、かまぼこを欲したのではないか。当時、アメリカに多くの缶詰かまぼこを輸出できたのは、きっとアメリカに何かしらのツテがあったからこそなのだろう。」と語る。「今となっては、それを裏付けるための手段はないけれども・・・」とも語っていた。

1-4. 谷本蒲鉾店の現在
 谷本蒲鉾店は現在、八幡浜市だけではなく、愛媛県松山市や、東京都にも営業所を持つ店となっている。八幡浜駅のすぐ近くに工場、販売所、ちくわとじゃこ天の製造を体験できる施設や、谷本蒲鉾店の歴史を彷彿とさせる、昔の写真を飾った、かまぼこについての博物館も併設されていて、誰でもその歴史に触れることが出来るようにしている。製造体験だが、体験者が自分で魚のすり身を竹にまいてちくわを作ったり、じゃこ天の型を用いて成型を行うことが出来る。ちくわはその場で焼いてもらい、じゃこ天もすぐに油で揚げてもらい、その場で出来立てをいただける。
 谷本蒲鉾店の工場等が駅前にあると前述したが、三代目の典量央氏は、先にも述べた通り、2代目の悟朗氏を説得し、支店を増やす等の事業の拡大に努めた。また、社会貢献にも尽力を惜しみなく注ぎ、土地の名士として、その功績は広く知られることになる。現在、谷本蒲鉾店は憲昭氏が4代目を引き継いでいる。
 谷本蒲鉾店の製品は、モンドセレクションを受賞している。モンドセレクションを受賞したことは、谷本蒲鉾店のかまぼこの品質や味が優れていることを客観的に評価されたことを表す。客観的指標を用いることで、製品に対する安全性や信頼を示している。また、谷本蒲鉾店において、一部のかまぼこは、職人が包丁一本で板に乗せるところから、かまぼこの成形をしてる。今日では機械化されてしまったかまぼこ造りの技術や伝統を過去から未来へと引き継いでいる。谷本蒲鉾店の特徴として、2代目の悟朗氏は愛媛県の認定伝統工芸士に認定されたり、3代目の典量央氏は愛媛県伝統技能食品士第一号に認定される等、多くの技能者(労働省認定技能者)を輩出している。



▲資料2 天神通りにある谷本蒲鉾店


▲資料3 駅前にある谷本蒲鉾店


▲資料4 かまぼこの博物館

2. 丸栄かまぼこ店
2-1. 創業のころ
 丸栄かまぼこ店は昭和30(1955)年頃に創業が開始された。戦後、先代の平岡栄氏と、もう一人のかまぼこ職人と共同で立ち上げられた。栄氏は、隣の大洲市の山の中で育った。竹細工などをして生計を立てていたが、次男であったこともあり、当時栄えていた八幡浜市に来た際、かまぼこ職人の方に、「独立したいがお金がないので出資して欲しい。」と言われたのが、かまぼこ店を始めるきっかけとなったのである。
 現在の店舗は八幡浜駅前にあるが、それまでに二度の移転を経験している。いずれも近くへの移転である。1度目は、駅のすぐそばへの移転だ。移転先の土地は、元々は栄氏の恩師の土地で、レンコン畑であったが、そこを恩師が手放すことになり、声をかけられたそうだ。2度目の移転は、八幡浜駅前の広場拡張に伴うもので、駅のすぐそばから少しの移転となった。このように、2度の移転を経て、今の位置にお店を構えている。お店の名前は「丸栄かまぼこ店」であるが、その名前の由来は、お店が「丸く栄える」ようにと願いが込められていのことで、先代の名前から取っている。
 創業当時は車が発達していなかったため、魚を仕入れた後は大八車にその魚を乗せ、運んだという。港とお店は2キロメートル程離れた距離にあり、数100キログラムにもなる魚を運ぶのは大変骨が折れる作業であった。「一本道であったが、勾配があったため、かなりの重さを引きながら運ぶのは、大変であった。」と孝氏は語る。大八車での仕事は、毎日の仕事であったため、多くの労力を伴ったそうだ。
 

▲資料5 丸栄かまぼこ店外観

2-2. スーパーマーケットの登場と丸栄かまぼこ店
 スーパーマーケットが登場し、気軽に安く、欲しいものが一箇所で購入できるようになり、八幡浜市にあった多くの個人での店の経営は苦しいものとなり、お店をたたまざるを得ない状況に陥ったところも出てきた。丸栄かまぼこ店も例外ではなく、スーパーマーケットの登場に苦しい思いを経験した。加えて、スーパーマーケットに置かれるかまぼこは、冷凍すり身で造られた安価なものであり、消費者が安価なものを求めたことで、店から客足が遠のくようになった。スーパーマーケットに自分の製品を置いてもらおうと交渉したが、スーパーマーケット側から値段の交渉で「話にならない。」と言われたという。「お互いに商売であるから仕方がないが・・・。」と、孝氏はやるせない気持ちを持ったことを語ってくれた。しかし、スーパーマーケットのかまぼこは安価ではあるが、味は比べ物にならず、その点で、個人経営の店が生き残っていくことになる。

2-3. 魚の仕入
 魚のセリは、ほぼ毎日のように行われている。まず、船が水揚げした魚を、魚市場の人々が手作業で、種類別、大きさ別に分ける作業が行われる。それぞれ「トロ箱」という木製の箱や、プラスチックの箱、金属の箱に分けられる。箱によってそれぞれ意味があり、発泡スチロールに入れられているものは、漁師の方が直接持ち込んだものであるという。金属の箱に入れられた魚は、養殖用の魚の餌となるもので、かまぼこの原料になるエソなどはトロ箱に入れられる。現在使われているトロ箱は、以前使われているものより一回りほど小さく、セリにかけられる魚の量も減少したとのことだった。このことについて、孝氏は、「漁をする際に魚群探知機が使われるようになり、魚が多く捕られすぎてしまって減少しているのだろう。」と話す。この場所で選別されるものもあれば、前述したように、発泡スチロールに入れ、漁師の方が既に自分で選別し、後はセリにかけるだけ・・・という状態にして持ち込むこともある。
 セリは、「セリコ」や「セリ人」と呼ばれる人物が中心となって行われる。セリコは複数人おり、どの船の魚のセリを担当するのかなど、大体決まっており、セリの準備ができ次第、セリはすぐに始められる。セリコが、セリにかける魚の箱の前に立ち、1箱いくらか、あるいは1キログラムいくらかを唱える。この唱え方は独特であり、初めて聞くと、聞き分けることがとても難しい。セリコの言葉で、セリにかけられた魚がいくらかを確認した買い手たちは、自分が着ているジャンパーを使い、他の買い手に自分がいくらでセリ落とそうとしているのかを見せないよう、手でセリコに伝える。セリコはそれを瞬時に見て、最も高く示した人を見極め、誰がいくらでセリ落としたのかを告げ、セリ落とした箱に、セリ落とした方が誰なのかがわかるお店のマークの入った紙などを置く(資料10参照)・・・というのがセリの一連の簡単な流れである。かまぼこ店は魚を練り物にするので、箱でセリ落とすことが多く、時には一度に5箱セリ落とすこともあるそうだ。また、キログラム単位でセリ落とすのは、魚屋などの業者が多い。
 セリで取引される魚はセリに行ってみないと分からず、海の状態、天候の状態によっても、魚の量は大きく左右される。丸栄かまぼこ店の孝氏は、「お店に入った注文の量や、魚の在庫等によって、多く仕入れなければならない場合と、そうでない場合とあり、その時々で判断が必要である。多く魚が必要な場合でも、思い通りに魚をセリ落とすことが出来ないこともあり、セリは博打のようなものだ。」と語る。「船ごとのセリなので、魚の品質や大きさは異なる。様々なことを総合的に考え、いくらであればセリ落とせるかを見極め、手を出す。面白い面もあれば、難しい面もある。これがセリだ。」と話す。加えて孝氏は、過去のセリでのエピソードを語ってくれた。その日、セリにかけられた魚は、海の状態が悪かった等の理由から、ごくわずかであった。しかし、お店に品物の注文が入っていたために、今日必ずセリ落とさなければならないという日があった。その時、3万円でエソというかまぼこを造るために必要な最高級の魚をセリ落としたという。セリコが値段を告げたとき、周りからは拍手喝采が起こった。この記録は依然として破られていないそうだ。


▲資料6 トロ箱


▲資料7 魚の仕分け


▲資料8 セリコが棒でセリにかけている魚を指す様子


▲資料9 セリコが上着で隠しながら、買い手が手で表した値段を見ている様子


▲資料10 孝氏がセリ落とした魚(オレンジ色の紙は、丸栄かまぼこ店のマーク)

2-4. かまぼこ店のプライド
 かまぼこ、じゃこ天・・・と一口に言っても、原材料で使う魚は、その配合等が各店で異なり、製品はその店の個性が出てくる。
丸栄かまぼこ店は、かまぼこを機械で製造している。孝氏は次のように語る。「私たちは自分のことをかまぼこ職人(かまぼこ造り全般の職人)だと考えている。プロとしてのプライドを持ち、お店の味を落とさないように、原材料にこだわり、ある一定の範囲の中で味を保ち続ける。毎日セリに足を運び、新鮮な原材料を手に入れる。他の店よりも良い原材料を使っているという自負もある。以前八幡浜に来た観光客が、その際にうち(丸栄かまぼこ店)にも訪れてかまぼこ等を購入していかれた。その同じ方が、再来の時に、『以前来たときに美味しかったからまた寄らせてもらった。』と言ってくれた。また、『美味しかったから。』と、電話で注文してくださる方もいる。自分の好みに合った食べ物を自分で選び、値段も考慮したうえで、何を選択して生活していくかが大切だ。」と語ってくれた。

結び
 今回、八幡浜市にある2軒のかまぼこ店を取り上げ、八幡浜とかまぼこの関わりを見てきた。八幡浜市トロール漁をする船が減少した今日でも、九州地方や近畿地方の船の発着場として栄え、新鮮な魚が水揚げされる全国でも有数の港である。新鮮な魚が手に入ることで、その魚を加工する商売が今日に至るまで続いている。店舗の数としては減少してしまっているが、全国有数のかまぼこの産地であることに変わりはない。かまぼこは、八幡浜独自の進化を遂げ、造り手が試行錯誤しながら伝わっている。そこには、八幡浜市の方々のかまぼこを造り続ける努力とプライドと郷土愛がある。そんなかまぼこだからこそ、八幡浜に住む人々はもちろんであるが、全国の多くの人々にも愛されているのだろう。

謝辞
 今回、本論文を執筆するにあたり、八幡浜市の方々には大変お世話になりました。感謝の念に堪えません。ありがとうございました。八幡浜市の方々は、突然の訪問にもかかわらず、皆様温かく迎えてくださいました。今回取り上げさせて頂いた谷本蒲鉾店さんの谷本琴美様、谷本典量央様、並びに丸栄かまぼこ店さんの平岡孝様をはじめとして、お忙しい中ご自分の時間を割いて、私の話や質問に耳を傾け、快く答えてくださった八幡浜の皆様、ありがとうございました。皆様のご協力なしには、本論文を完成させることは不可能であり、皆様にお力添えいただけましたこと、皆様に出会えましたことに感謝し、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。今後の皆様の益々のご発展をお祈り申し上げて、私の謝辞とさせていただきます。本当にありがとうございました。

参考文献
愛媛県生涯学習センター,1992,
「えひめの記憶-宇和海と生活文化(3)かまぼこ-八幡浜特産品としての伝統」
(www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/2/view/353,2018年9月4日アクセス).
八幡浜蒲鉾協同組合,1984,『八幡浜のかまぼこ』八幡浜蒲鉾協同組合.
八幡浜市公式HP,2018,「練り製品」
(http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2014091100028/,2018年9月6日アクセス).
八幡浜市史編集纂会,1987,『八幡浜市誌』八幡浜市,648-649.