関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「生きていく民俗」の実践―八幡浜市「そでおか八幡浜種苗店」をめぐるファミリーヒストリー―

社会学部 3年生

常数唯

【目次】

はじめに

1.行商からの出発
1-1.袖岡家と袖岡喜多衛氏
1-2.行商と水車

2.宿毛時代

3.旅館と種苗店
3-1.菊池己之松氏との出会い
3-2.想い出旅館
3-3.そでおか八幡浜種苗店

4.袖岡利氏のライフヒストリー
4-1.袖岡利氏
4-2.日土町でのくらし
4-3.嫁入り前
4-4.袖岡家に嫁ぐ
4-5.いまのくらし

結びに

謝辞

参考文献



はじめに
 宮本常一は『生きていく民俗』において、人がどのようにしてくらしてきたかを「生業」という視点を用いて分析した。そして自給のみの社会から交易をする社会への変化が職業の分化をもたらし、さらに村から人々が移動し都市ができることで職人が誕生したと論じた。この『生きていく民俗』が1965年に刊行されてから、およそ50年の歳月がたった。現在の職業観や分類、役割には一体どのような特徴があるだろうか。かつて宮本が見た人々の「生きていく」ためのくらしはいま、新たな変化が訪れているのではないか。
そのような着眼点から本稿では、愛媛県八幡浜市の調査で出会った袖岡家のファミリーヒストリーをたどりながら、現在までの生業の変遷について分析していく。

1. 行商からの出発
 1−1.袖岡家と袖岡喜多衛氏

 袖岡家と私の出会いは、先述の通り八幡浜市での調査であった。八幡浜のまちをあてもなく彷徨っていた時、偶然「そでおか八幡浜種苗店」の店先にいらっしゃった袖岡利氏に店や家の歴史についてお聞きしたことがきっかけである。利氏に聞き込みをする中で、袖岡家が種苗店以外に現在までにさまざまな職業を経験してきたことがわかった。さらに利氏の義父である袖岡喜多衛氏による『袖岡家過去帖』(資料1、2)によって袖岡家が八幡浜に移住するまでの経緯を明確に把握することができた。そこでこの過去帖の記述と利氏の語りをもとに、喜多衛氏の代からのファミリーヒストリーをたどっていこうと思う。

▲資料1『袖岡家過去帖』外部


▲資料2『袖岡家過去帖』内部

 袖岡喜多衛氏は明治33年5月6日、愛媛県喜多郡新谷村で袖岡万作氏の次男として生まれた。生後七日目には家を売り渡し借家住まいになり、7歳のときに父親が46歳で若くして死去するなど、苦労が絶えない幼少期であった。さらに長男の重吉氏がその翌年に病死したため、喜多衛氏が戸籍上8歳で戸主となったのだった。

 1−2.行商と水車
 袖岡家は代々、種の行商を営んでいた。喜多衛氏自身も氷とともに木箱に種を入れ、一か月ほどかけて下関まで売り歩いていたそうだ。
そして大正11年12月に、喜多衛氏は親戚のすすめで篠原ヨシ子氏と結婚する。それまでに貯めた預金を使い水車製粉工場を買い、不便な場所であったが夫婦で一生懸命働いた。しかし、時代が移り変わり電力で動く製粉所が登場すると商売が立ち行かなくなってしまう。13年間辛抱したものの、水車の破損が毎年著しく働けど働けど赤字が積み重なるばかりであった。

2.宿毛時代
そんな時、高知県宿毛市片島町に住むヨシ子氏の母の兄嫁の叔父から「住みよいところだから来い」という誘いをうけて、新谷村の荷物を整理し移住することを決心する。宿毛市では豆腐屋を営んで暮らしていたという。
 しかし、移住してから一年半が過ぎたころから喜多衛氏の体の不調が目立つようになった。袖岡家は占いを好む人が多く、互いを実名ではなく占いで告げられた名前で呼び合うほどであった。そのため、不調の原因を探るべく占いに行ったところ「方角の悪い方へ来ているから病になる。八幡浜宇和島の方へ帰った方がよい」と告げられ、頼りにしていた叔父も亡くなっていたことも重なり八幡浜へ移住することになった。

3.旅館と種苗店
 3−1.菊池己之松氏との出会い
 そうして八幡浜へ一家六人で帰ってきた袖岡家はひとまず安宿に泊まり、種子店が開けるような安い借家を探すことにした。だが一か月たっても思い通りの家が見つからず途方に暮れていた。その時、ちょうど宿泊していた宿屋の主人である菊池己之松氏に「自分たちはこれから夫婦で製材所をする予定だから、宿屋をする気があるならば譲ってもよいが」との申し出を受け、権利金と旅館の夜具諸道具を含めて金八十円で宿を譲ってもらえることになった。そこで米屋に頼んでお金を貸してもらって支払いを行い、晴れて「想い出旅館」を開業した。旅館名には、「想い出して来てもらえるように」という願いが込められていたそうだ。

 3−2.想い出旅館
 旅館を開業して間もなく、後に袖岡利氏の夫となる息子の昭介氏がジフテリアにかかってしまう。医者から一本五円の注射を二本打たなければ治らないという診断を受けたが、開業したてのためお金に余裕がなく、誰一人頼る人もいなかった。そんな時に菊池己之松氏の妻の芳子氏が、「後で何とでもなるから早く注射をしてもらわねば子供の命が危ない。早く持っていけ」と十円を出してくださった。この時の有難さは一生忘れられない、と喜多衛氏は綴っている。
 それから袖岡夫婦は心を合わせて一生懸命働き次第に利益が出て、旅館を購入するためにお金を借りた米屋や新谷村を整理した時にお世話になった方々へお金を返しに行ったところ、君を信用して貸したのだから返してもらわなくとも気にして居ないのだから、と言いながら喜んで受け取ってもらえたことが喜多衛氏は非常に嬉しかったそうだ。

 3−3.そでおか八幡浜種苗店
 想い出旅館の開業と同時に袖岡家が代々受け継いでいる種苗店も開業した。店舗での販売だけでなく、夏になると喜多衛氏や昭介氏が種を計量しそれを娘たちが袋に詰めて判を押した。そうして完成した商品を昭介氏がバイクで今治市や南宇和群の方へ農協や商店に卸した。
喜多衛氏はこの過去帖の最後を『人間ハ此ノ世へ苦労ヲスル為メニ生レル者ノ様ナ考ジガスル』という言葉で締めくくっている。幼い頃に家族を失い、移住を繰り返しながら数々の職業を経験し苦境を乗り越えてきた、人一倍苦労をした喜多衛氏の人生のそのものを表す言葉であるように感じる。
こうして袖岡家は、愛媛県喜多郡新谷村から水車や高知県宿毛市での豆腐屋を経て八幡浜に至り、想い出旅館とそでおか八幡浜種苗店を営むことになった。

3. 袖岡利氏のライフヒストリー
 4−1.袖岡利氏
 ここからは八幡浜市の調査で実際にインタビューをさせていただいた袖岡利氏に焦点をあて、個人のライフヒストリーとして「生きていく民俗」について考察していく。
 袖岡利氏(旧姓小林利氏)は昭和14年1月31日、愛媛県大洲市菅田町で8人兄弟の5番目の子どもとして誕生した。「利」という名前は、利口だった伯母の名である「利子」が由来だそうだ。父親が警察官であったため転勤が多く、兄弟それぞれ出身地が異なり幼少期から移動の多い人生であったという。そして終戦の年、父母の里である日土町に住みついた。

 4−2.日土町でのくらし
 学生時代は、八幡浜市日土町にある自宅から徒歩15分ほどの日土小学校(現八幡浜市立日土小学校)に入学し、その後日土村立日土中学校(現八幡浜市保内町共立青石中学校)に通った。


▲資料3 現在の日土小学校

放課後は麦ふみやさつま芋のつる返しなど家の畑仕事を手伝ったり、兄弟や姉妹も連れて学年関係なく遊んだりしていた。畑仕事は自分の家の畑だけを手入れするのではなく、近隣の畑も助けが必要な時は住民みんなで作業を手伝った。
当時は学校での学習よりも家の仕事を優先する考えが強く、高等学校へ進学する子供は裕福な家庭であっても非常に少なかった。利氏も当初、中学校卒業後は小学校の近くにあったタオル工場で働こうと考えていた。しかし、校長先生との面談で「頭がないけん(働きます)」とその思いを伝えたところ、「頭は一つあったらよろしい。高校へ行きなさい。」と説得されたことや、父親の「これからの時代は高校を出とかなんだったらいけん」という考えのもと愛媛県立川之石高等学校に入学した。当時は園芸科と普通科があり、利氏は普通科に進学した。園芸科の学生は農家の子供が多く卒業後は家を継ぎ、普通科の学生は卒業後に酒六や東洋紡績関係の仕事に就職する生徒や商店の店員となる生徒が多かった。

 4−3.嫁入り前
 高校卒業後はタオル工場に就職し、検査員として一年間勤務した。八幡浜市は明治時代から養蚕が盛んであり、大正時代には市内に4つの綿布工場が操業するなど繊維関係の仕事に従事する人が多かった。その後、松山市で警察官となっていた兄のつてで新浜町へ移り、外科の医院に勤務することになった。専門的な資格は持っていなかったため、見習い看護師として働いていた。
 21歳になると、嫁入りのために編み物の習い事をしようと友人から誘いを受ける。そこで八幡浜へ帰郷し、商店街にある佐々木ミシン商会の二階でやっていた編み物教室に通いはじめた。そのまま店に頼まれて、一階の事務員として三年間務めた。そんなある日、日土町に来ていた石鹸売りのおじさんから縁談を持ちかけられ、お見合いをすることになった。それが袖岡昭介氏との出会いのきっかけである。

 4−4.袖岡家に嫁ぐ
 お見合い当日、袖岡家まで仲人をしてもらった石鹸売りのおじさんと二人で商店街を歩いた道のりがとても長く感じたことを今でも覚えているという。後にわかったことだが昭介氏はこの日、お見合いの席ですすめられたまんじゅうを素直にほおばっている利氏の可愛らしい姿を見て、結婚を決意したそうだ。
 そうして昭和38年3月3日、二人は結婚することとなった。披露宴は八幡浜市にあるあたご食堂(現浜味館あたご)にて30人ほどで行った。昭介氏の趣味が山登りがと聞いていた利氏は自分も一緒に山登りをしたいと思っていたが、結婚後すぐに妊娠したためその夢は叶わなかった。しかし35歳のとき、友人と富士山を登ったので満足しているそうだ。
 嫁入り後の生活は非常に忙しいものだった。朝早く起きて朝食の準備をし、客が帰ると浴衣やシーツの洗濯をしてまた次の客を迎えた。当時は、毎月滋賀の薬品会社や食品会社の関係者や、税務署の職員など多くの人々が八幡浜に宿泊していたため、想い出旅館の他にも周囲にいくつか旅館があった。また不定期で電話線を引くために訪れた電電公社の作業員や、当時は夜昼トンネルがなく回り道をしてやって来ていた松山からの来訪者も宿泊したという。
 昭和48年に義母が亡くなると、仕事の負担が増加することや火災防止のため防炎カーテンを新調しなければいけないこと、駐車場の確保が要因となり、想い出旅館を閉館することにした。それ以来、そでおか八幡浜種苗店は植木や盆栽、園芸用品を売っていた。

 4−5.いまのくらし
 現在、利氏は難病になった夫昭介氏を自宅で介護しながら種苗のみを扱い店を続けている。また20年ほど前から宇和島でクリーニング店を経営する同級生の弟に頼まれ、近隣の衣装預かりも行っている。


▲資料4 店舗外装


▲資料5 利氏と店舗内装

利氏はいま、絵てがみのやりとりを楽しんでいる。娘の結婚後、余暇の過ごし方を悩んでいた時に新聞で絵てがみの会の募集を見たことがきっかけだった。全国の人とはがきを送りあっており、私もインタビュー後たくさんの絵てがみをいただいた。これからの目標はとにかく健康でいることだと利氏は語る。以前通っていた水泳や最近施設ができたボルダリングに挑戦してみたいそうだ。
結びに
 宮本常一は、人がどのように生きていたかという疑問について生業に注目した。それはつまり、生活するための金銭をはじめ食料やモノをどのように手にしていたかという意味合いが強かったのではないだろうか。実際、袖岡喜多衛氏も生きていくために種屋をしながら水車工場や豆腐屋、旅館を営んできた。
しかし今回の調査を経て、現代における生業の役割はそれだけではなくなっていると感じた。それが「地域と関わるための手段」としての役割だ。インタビュー中、幾度となく近隣の方が種苗店を訪れた。種を買いに来た人もいたが苗や花についての質問をしに来たり収穫した作物を届けに来たり、全ての人が商品を購入したわけではなく、また利氏もそれを期待しているわけでもなかった。これこそ新たな生業の変化ではないだろうか。

利氏は自分の代でこの種苗店は閉めるつもりだそうだ。ご先祖様には申し訳ない、と利氏は話していたが『生きている民俗』の最後にはこうある。「家職・家業がしだいに姿を消して、子が親の職業を継がなくなることが一般になったとき、また出稼ぎから解放されたとき、はじめて近代化したといえるのであろうが、そこまではまだまだ遠い距離があるように思う。」(宮本 2012:244)。宮本がこの本を書いてからおよそ50年の歳月が流れたいま、近代化はついにすぐそこまできたといえよう。



謝辞
本論文の執筆にあたり、袖岡利様には誠にお世話になりました。
数日間にわたり丁寧にお話してくださったご自身や袖岡家の貴重なお話、ご用意してくださった沢山の資料や文献のおかげで無事この論文を書き上げることができました。サプライズで日土小学校を案内してくださったことや明治橋を一緒に散歩したこと、いつまでも大切な思い出です。今回このようなご縁があって幸せでした。利様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
宮本常一,2012,『生きていく民俗―生業の推移―』河出書房新社
八幡浜市,1987,『八幡浜市誌』

蒲鉾と八幡浜-谷本蒲鉾店と丸栄かまぼこ店-

社会学部 3回生
吉岡未央

【目次】

はじめに

1. 谷本蒲鉾店
1-1. 創業のころ
1-2. 戦時中の蒲鉾店
1-3. 戦後の谷本蒲鉾店
1-3-1. 缶詰かまぼこ
1-4. 谷本蒲鉾店の現在

2. 丸栄かまぼこ店
2-1. 創業のころ
2-2. スーパーマーケットの登場と丸栄かまぼこ店
2-3. 魚の仕入
2-4. かまぼこ店のプライド

結び

謝辞

参考文献



はじめに
 八幡浜市には、多くのかまぼこ店が存在する。しかし、30年前とその店舗数を比較すると、その数は、跡継ぎがいない等の理由から減少の一途をたどっている。八幡浜市ではトロール漁が盛んであり、新鮮な魚がたくさん水揚げされていた。もともと、宇和島ではかまぼこ造りが行われていたが、その新鮮な魚に目を付けた宇和島出身の鈴木峰治氏が明治20年代に八幡浜市でのかまぼこ製造に着手した。それ以来、今日まで盛んにかまぼこ造りが行われている。そのかまぼこは、八幡浜市の特産品としての地位を獲得し、愛媛県の伝統的特産品にも指定されている。また、八幡浜市の特産品である「削りかまぼこ」は、宇和島から伝わったものである。豊かな海の恵みがもたらした宝である。削りかまぼこの原材料となるエソは、トロール漁で捕ったものが使われていたので、トロール漁が休みとなる夏に、売れ残ったかまぼこが乾燥してミイラ化したものを鉋で削ったところ評判が良かったため、大正時代に入って製品化された。トロール漁の漁獲量とかまぼこの製造量については、トロール漁での漁獲量が増えると、かまぼこの製造量も増加し、漁獲量が減少すれば製造量も減少するという、深い関係にあった。しかし近年、トロール漁船が減少したこと、冷凍すり身といった安価なかまぼこの原材料が出回ったこと等が原因で、その関係は以前と比べて小さいものとなった。
 八幡浜市で毎年行われている地方祭、10月19日に大正時代頃から続くと考えられる秋祭りの前夜祭に食べる鉢盛のご馳走に、紅白のかまぼこが必ず使われ、食べられていたという。結婚式にもかまぼこは欠かせなかった。また、高級品であったかまぼこを、子どもたちはそういった機会に食べることを楽しみにしていたそうだ。かまぼこには、赤色のかまぼこと、白色のかまぼこがあり、子どもは見た目が鮮やかな赤色のかまぼこを好み、「アカジジ」と呼んで親しんでいたという。しかしながら、今日では、かまぼこは気軽に手に入る食品へと変わってしまったため、そういった光景はあまり見られなくなったそうだ。
 八幡浜市とかまぼこは文字通り、切っても切れない関係であり、八幡浜市の人々が、かまぼこと共に生きてきた日々を本論文で論じる。今回は、八幡浜市にある2つのかまぼこ店、「谷本蒲鉾店」と「丸栄かまぼこ店」を取り上げる。

1. 谷本蒲鉾店
1-1. 創業のころ
 谷本蒲鉾店は大正5年創業の老舗の蒲鉾店である。正式な記録として残っているのは大正5年であるが、実際には明治の終わり頃から既にお店はあったと考えられている。
初代の谷本繁氏は、元々は大洲市出身の農家に生まれた次男であった。次男であったので、家を出て、自立するために、当時トロール漁等で栄え、「伊予の大阪」と言われるほど商業が発達していた隣の八幡浜市に身を置き、村上氏が営んでいた「カネセ」という、酒販売等、所謂「何でも屋さん」で丁稚奉公として修業することになる。当時は現在のように時間制での労働ではなく、仕事が終わるまで、寝る間を惜しんで仕事をした。繁氏と同じように働いている人は、10人ほどいたらしく、繁氏は、大将(当時は一番偉い人は大将と呼ばれていた。)に最も信頼される存在であったそうだ。10年ほどそこで働き、商売で独り立ちする。その際、当時八幡浜では、新鮮な魚が多く手に入ることもあってかまぼこ作りが盛んに行われており、お金を稼ぐのにも手っ取り早いという理由から、蒲鉾店を始めたそうだ。
その店を始めるにあたり一番怖かったことは、「家を建てる」ということだったそうだ。当時、家を建てるために最も重要であったことは、「信用」である。「信用」とは何か。それは、「毎月、代金をきちんと払えるかどうか」ということである。初代は、何かにつけ、そのことを口を酸っぱくして2代目の嫁である琴美氏に伝えていたそうだ。
 現在、谷本蒲鉾店本店は八幡浜市の天神通りに構えているが、創業当時は今よりももう少し北側の場所を借りてかまぼこを製造していたという。しかし、いつまでもその場所を貸してもらえるという保証があるわけではないため、お金を貯めて、現在の本店の場所にお店を構えた。1階をかまぼこの製造所、2階を住居として使用し、商売を営んだ。お店の場所と魚市場は距離があったため、仕入れた魚は、トロ箱に詰め、大八車に積んで運んだそうだ。

1-2. 戦時中の蒲鉾店
 日中戦争勃発により金属供出が行われ、かまぼこを製造する機械はもちろん、火鉢でさえも、国に供出した。谷本蒲鉾店は、供出に積極的に協力したという。底引漁船は1,2隻となって、かまぼこの原材料となる魚の水揚げ量が減り、以前ほど自由に手に入りにくくなった。その影響で、かまぼこの製造が困難となった。加えて、20軒弱存在していた蒲鉾店の働き手が戦争で召集されたことで数が減り、廃業に追い込まれるところもあった。だがそんな中で、その地区で取りまとめをしていた所の未亡人宅にはかまぼこ製造に必要な機械が残してあり、谷本氏らを含め10人ほど集まって、製造を行った。青魚は天ぷらに、白身魚はちくわにした。白身魚の中でもエソと呼ばれる魚で造られるかまぼこは高級品であった。手作業も加えながら自分たちで製造したかまぼこは、その女性の指示で個数などを分担し、隣の大洲市松山市等まで、汽車に乗って、旅館等に行商して回った。生きる糧となるかまぼこを無駄にしないように、「明日は何本いりますか?」と御用聞きしながら売って回った。食糧難だったが、みんなで協力して、必死に製造・販売を続けてきた。
 大東亜戦争が始まり、さらに生活は苦しくなったが、周囲の蒲鉾店同士で協力し、何とか生計を立て、しんどい時期を乗り越えた。

1-3. 戦後の谷本蒲鉾店
 お店は、長男が継ぐ予定であったが、戦死されたため、次男であった悟朗氏が家業を継ぐこととなった。
 戦争も終わり、働き手を戦争で失ったことで、廃業を余儀なくされる店もあったし、戦争を生き残った者が製造を続けていた店もあったが、(商売に身が入らず)遊んでしまった者の店は廃業に追い込まれたりもした。そんな混乱した中で、谷本蒲鉾店は何とか自力で営業をやっていけるまでに回復した。2代目の奥様、琴美氏は戦後まもなくこの家に嫁いだ。蒲鉾店はそれぞれで営業をするようになり、8つの蒲鉾店が集まってひとつの蒲鉾店となって再出発したところも出てきた。
谷本蒲鉾店は、魚を皮と骨に分ける機械、ミンチにする機械等、製造するために必要な最低限の機械を借金することで購入した。これまで「信用」は培ってきたので、そのお金を返しながら、商売を続けていった。自分たちの食事よりも仕事に重点を置き、お金はできるだけ使わないように頑張って生活した。食事は、ご飯にお芋、かんころを入れて炊き上げ、量を増やして生活してしのいでいた。琴美氏は、「そのお芋の匂いを嗅ぐのは今ではもう嫌だ。」と語った。そうやって生活を続けていくうちに、戦争に行っていた者が帰ってくるなど、働き手も増え、漁業を離れ、農業をする者も出始めた。そして、だんだんと暮らしは豊かになっていった。
 3代目の典量央氏は、幼少の時より家業の手伝いをしていた。谷本蒲鉾店の本店は、現在は1階が販売所、2階は住居となっているが、以前、1階はかまぼこの製造所であった。家業の手伝いをすることを苦だと思ったことはなく、大学で県外に出た後も、長期休みの際には配達などを手伝ったという。典量央氏は、「弟が家業を継ぐだろう。」と考えていたが、弟は違う道に進んだため、典量央氏が後を継いだそうだ。典量央氏は、戦後の目まぐるしい経済成長の中で、2代目の悟朗氏を「このままのやり方ではだめだ。」と説得し、谷本蒲鉾店を大きくすることに注力した。

1-3-1. 缶詰かまぼこ
 戦後まもなく、明治31年に誕生した缶詰かまぼこの製造が盛んになった。それは、海外、主にアメリカ合衆国へと輸出された。缶詰のかまぼこはナイロンが登場するまで製造され、それの登場以降は製造されなくなった。缶詰かまぼことはその名のとおり、缶詰にかまぼこを入れ、日持ちするようにされたものである。板に付いているかまぼこを板からはずし、かまぼこを半分に切って、板に付いていた部分を合わせ、円形にして缶詰につめ、機械で蓋をして、出来上がりである。上から見ると資料1のような感じで、ツナ缶よりも少し高さがある程度であったらしい。「第一缶詰」と言って、缶詰かまぼこを専門で製造しているところも嘗ては存在したそうだが、現在では、その家(製造所)すらもなくなっている。


▲資料1 上から見た缶詰かまぼこのイメージ図
 3代目の谷本典量央氏は、アメリカへ向けて大量に輸出されていた缶詰かまぼこについて、「アメリカ人がかまぼこを好んで食べていたとは考えがたく、他に理由があるのではないか。」と話す。「以前、八幡浜市は、アメリカでの新しい生活を求め、北針舟が数多くアメリカへ出向していた。アメリカへ密かに渡った人は、多くが日本へ強制送還されたが、その一部はきっとひっそりとアメリカで過ごしたのではないか。」と典量央氏は語る。シアトルにある「UWAZIMAYA」という名前のスーパーマーケットを、「元々はアメリカへと渡った人、あるいはその関係者等が始めたものではないかと考え、アメリカに住む日本出身の人々が故郷への哀愁の念を抱き、かまぼこを欲したのではないか。当時、アメリカに多くの缶詰かまぼこを輸出できたのは、きっとアメリカに何かしらのツテがあったからこそなのだろう。」と語る。「今となっては、それを裏付けるための手段はないけれども・・・」とも語っていた。

1-4. 谷本蒲鉾店の現在
 谷本蒲鉾店は現在、八幡浜市だけではなく、愛媛県松山市や、東京都にも営業所を持つ店となっている。八幡浜駅のすぐ近くに工場、販売所、ちくわとじゃこ天の製造を体験できる施設や、谷本蒲鉾店の歴史を彷彿とさせる、昔の写真を飾った、かまぼこについての博物館も併設されていて、誰でもその歴史に触れることが出来るようにしている。製造体験だが、体験者が自分で魚のすり身を竹にまいてちくわを作ったり、じゃこ天の型を用いて成型を行うことが出来る。ちくわはその場で焼いてもらい、じゃこ天もすぐに油で揚げてもらい、その場で出来立てをいただける。
 谷本蒲鉾店の工場等が駅前にあると前述したが、三代目の典量央氏は、先にも述べた通り、2代目の悟朗氏を説得し、支店を増やす等の事業の拡大に努めた。また、社会貢献にも尽力を惜しみなく注ぎ、土地の名士として、その功績は広く知られることになる。現在、谷本蒲鉾店は憲昭氏が4代目を引き継いでいる。
 谷本蒲鉾店の製品は、モンドセレクションを受賞している。モンドセレクションを受賞したことは、谷本蒲鉾店のかまぼこの品質や味が優れていることを客観的に評価されたことを表す。客観的指標を用いることで、製品に対する安全性や信頼を示している。また、谷本蒲鉾店において、一部のかまぼこは、職人が包丁一本で板に乗せるところから、かまぼこの成形をしてる。今日では機械化されてしまったかまぼこ造りの技術や伝統を過去から未来へと引き継いでいる。谷本蒲鉾店の特徴として、2代目の悟朗氏は愛媛県の認定伝統工芸士に認定されたり、3代目の典量央氏は愛媛県伝統技能食品士第一号に認定される等、多くの技能者(労働省認定技能者)を輩出している。



▲資料2 天神通りにある谷本蒲鉾店


▲資料3 駅前にある谷本蒲鉾店


▲資料4 かまぼこの博物館

2. 丸栄かまぼこ店
2-1. 創業のころ
 丸栄かまぼこ店は昭和30(1955)年頃に創業が開始された。戦後、先代の平岡栄氏と、もう一人のかまぼこ職人と共同で立ち上げられた。栄氏は、隣の大洲市の山の中で育った。竹細工などをして生計を立てていたが、次男であったこともあり、当時栄えていた八幡浜市に来た際、かまぼこ職人の方に、「独立したいがお金がないので出資して欲しい。」と言われたのが、かまぼこ店を始めるきっかけとなったのである。
 現在の店舗は八幡浜駅前にあるが、それまでに二度の移転を経験している。いずれも近くへの移転である。1度目は、駅のすぐそばへの移転だ。移転先の土地は、元々は栄氏の恩師の土地で、レンコン畑であったが、そこを恩師が手放すことになり、声をかけられたそうだ。2度目の移転は、八幡浜駅前の広場拡張に伴うもので、駅のすぐそばから少しの移転となった。このように、2度の移転を経て、今の位置にお店を構えている。お店の名前は「丸栄かまぼこ店」であるが、その名前の由来は、お店が「丸く栄える」ようにと願いが込められていのことで、先代の名前から取っている。
 創業当時は車が発達していなかったため、魚を仕入れた後は大八車にその魚を乗せ、運んだという。港とお店は2キロメートル程離れた距離にあり、数100キログラムにもなる魚を運ぶのは大変骨が折れる作業であった。「一本道であったが、勾配があったため、かなりの重さを引きながら運ぶのは、大変であった。」と孝氏は語る。大八車での仕事は、毎日の仕事であったため、多くの労力を伴ったそうだ。
 

▲資料5 丸栄かまぼこ店外観

2-2. スーパーマーケットの登場と丸栄かまぼこ店
 スーパーマーケットが登場し、気軽に安く、欲しいものが一箇所で購入できるようになり、八幡浜市にあった多くの個人での店の経営は苦しいものとなり、お店をたたまざるを得ない状況に陥ったところも出てきた。丸栄かまぼこ店も例外ではなく、スーパーマーケットの登場に苦しい思いを経験した。加えて、スーパーマーケットに置かれるかまぼこは、冷凍すり身で造られた安価なものであり、消費者が安価なものを求めたことで、店から客足が遠のくようになった。スーパーマーケットに自分の製品を置いてもらおうと交渉したが、スーパーマーケット側から値段の交渉で「話にならない。」と言われたという。「お互いに商売であるから仕方がないが・・・。」と、孝氏はやるせない気持ちを持ったことを語ってくれた。しかし、スーパーマーケットのかまぼこは安価ではあるが、味は比べ物にならず、その点で、個人経営の店が生き残っていくことになる。

2-3. 魚の仕入
 魚のセリは、ほぼ毎日のように行われている。まず、船が水揚げした魚を、魚市場の人々が手作業で、種類別、大きさ別に分ける作業が行われる。それぞれ「トロ箱」という木製の箱や、プラスチックの箱、金属の箱に分けられる。箱によってそれぞれ意味があり、発泡スチロールに入れられているものは、漁師の方が直接持ち込んだものであるという。金属の箱に入れられた魚は、養殖用の魚の餌となるもので、かまぼこの原料になるエソなどはトロ箱に入れられる。現在使われているトロ箱は、以前使われているものより一回りほど小さく、セリにかけられる魚の量も減少したとのことだった。このことについて、孝氏は、「漁をする際に魚群探知機が使われるようになり、魚が多く捕られすぎてしまって減少しているのだろう。」と話す。この場所で選別されるものもあれば、前述したように、発泡スチロールに入れ、漁師の方が既に自分で選別し、後はセリにかけるだけ・・・という状態にして持ち込むこともある。
 セリは、「セリコ」や「セリ人」と呼ばれる人物が中心となって行われる。セリコは複数人おり、どの船の魚のセリを担当するのかなど、大体決まっており、セリの準備ができ次第、セリはすぐに始められる。セリコが、セリにかける魚の箱の前に立ち、1箱いくらか、あるいは1キログラムいくらかを唱える。この唱え方は独特であり、初めて聞くと、聞き分けることがとても難しい。セリコの言葉で、セリにかけられた魚がいくらかを確認した買い手たちは、自分が着ているジャンパーを使い、他の買い手に自分がいくらでセリ落とそうとしているのかを見せないよう、手でセリコに伝える。セリコはそれを瞬時に見て、最も高く示した人を見極め、誰がいくらでセリ落としたのかを告げ、セリ落とした箱に、セリ落とした方が誰なのかがわかるお店のマークの入った紙などを置く(資料10参照)・・・というのがセリの一連の簡単な流れである。かまぼこ店は魚を練り物にするので、箱でセリ落とすことが多く、時には一度に5箱セリ落とすこともあるそうだ。また、キログラム単位でセリ落とすのは、魚屋などの業者が多い。
 セリで取引される魚はセリに行ってみないと分からず、海の状態、天候の状態によっても、魚の量は大きく左右される。丸栄かまぼこ店の孝氏は、「お店に入った注文の量や、魚の在庫等によって、多く仕入れなければならない場合と、そうでない場合とあり、その時々で判断が必要である。多く魚が必要な場合でも、思い通りに魚をセリ落とすことが出来ないこともあり、セリは博打のようなものだ。」と語る。「船ごとのセリなので、魚の品質や大きさは異なる。様々なことを総合的に考え、いくらであればセリ落とせるかを見極め、手を出す。面白い面もあれば、難しい面もある。これがセリだ。」と話す。加えて孝氏は、過去のセリでのエピソードを語ってくれた。その日、セリにかけられた魚は、海の状態が悪かった等の理由から、ごくわずかであった。しかし、お店に品物の注文が入っていたために、今日必ずセリ落とさなければならないという日があった。その時、3万円でエソというかまぼこを造るために必要な最高級の魚をセリ落としたという。セリコが値段を告げたとき、周りからは拍手喝采が起こった。この記録は依然として破られていないそうだ。


▲資料6 トロ箱


▲資料7 魚の仕分け


▲資料8 セリコが棒でセリにかけている魚を指す様子


▲資料9 セリコが上着で隠しながら、買い手が手で表した値段を見ている様子


▲資料10 孝氏がセリ落とした魚(オレンジ色の紙は、丸栄かまぼこ店のマーク)

2-4. かまぼこ店のプライド
 かまぼこ、じゃこ天・・・と一口に言っても、原材料で使う魚は、その配合等が各店で異なり、製品はその店の個性が出てくる。
丸栄かまぼこ店は、かまぼこを機械で製造している。孝氏は次のように語る。「私たちは自分のことをかまぼこ職人(かまぼこ造り全般の職人)だと考えている。プロとしてのプライドを持ち、お店の味を落とさないように、原材料にこだわり、ある一定の範囲の中で味を保ち続ける。毎日セリに足を運び、新鮮な原材料を手に入れる。他の店よりも良い原材料を使っているという自負もある。以前八幡浜に来た観光客が、その際にうち(丸栄かまぼこ店)にも訪れてかまぼこ等を購入していかれた。その同じ方が、再来の時に、『以前来たときに美味しかったからまた寄らせてもらった。』と言ってくれた。また、『美味しかったから。』と、電話で注文してくださる方もいる。自分の好みに合った食べ物を自分で選び、値段も考慮したうえで、何を選択して生活していくかが大切だ。」と語ってくれた。

結び
 今回、八幡浜市にある2軒のかまぼこ店を取り上げ、八幡浜とかまぼこの関わりを見てきた。八幡浜市トロール漁をする船が減少した今日でも、九州地方や近畿地方の船の発着場として栄え、新鮮な魚が水揚げされる全国でも有数の港である。新鮮な魚が手に入ることで、その魚を加工する商売が今日に至るまで続いている。店舗の数としては減少してしまっているが、全国有数のかまぼこの産地であることに変わりはない。かまぼこは、八幡浜独自の進化を遂げ、造り手が試行錯誤しながら伝わっている。そこには、八幡浜市の方々のかまぼこを造り続ける努力とプライドと郷土愛がある。そんなかまぼこだからこそ、八幡浜に住む人々はもちろんであるが、全国の多くの人々にも愛されているのだろう。

謝辞
 今回、本論文を執筆するにあたり、八幡浜市の方々には大変お世話になりました。感謝の念に堪えません。ありがとうございました。八幡浜市の方々は、突然の訪問にもかかわらず、皆様温かく迎えてくださいました。今回取り上げさせて頂いた谷本蒲鉾店さんの谷本琴美様、谷本典量央様、並びに丸栄かまぼこ店さんの平岡孝様をはじめとして、お忙しい中ご自分の時間を割いて、私の話や質問に耳を傾け、快く答えてくださった八幡浜の皆様、ありがとうございました。皆様のご協力なしには、本論文を完成させることは不可能であり、皆様にお力添えいただけましたこと、皆様に出会えましたことに感謝し、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。今後の皆様の益々のご発展をお祈り申し上げて、私の謝辞とさせていただきます。本当にありがとうございました。

参考文献
愛媛県生涯学習センター,1992,
「えひめの記憶-宇和海と生活文化(3)かまぼこ-八幡浜特産品としての伝統」
(www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/2/view/353,2018年9月4日アクセス).
八幡浜蒲鉾協同組合,1984,『八幡浜のかまぼこ』八幡浜蒲鉾協同組合.
八幡浜市公式HP,2018,「練り製品」
(http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2014091100028/,2018年9月6日アクセス).
八幡浜市史編集纂会,1987,『八幡浜市誌』八幡浜市,648-649.

「八幡浜ちゃんぽん」の発見―日常食から「ご当地グルメ」へ―

社会学部3年生

井本佳奈

【目次】

はじめに

1 ちゃんぽんの導入

1―1 丸山ちゃんぽん

1―2 ロンドン

1―3 イーグル

1―4 味楽食堂

2 「八幡浜ちゃんぽん」の発見

2―1 八幡浜商工会議所青年部

2―2 八幡浜ちゃんぽんの現在

むすび

謝辞

参考文献


はじめに

 愛媛県八幡浜市には「八幡浜ちゃんぽん」という市民に愛されるご当地グルメがある。市内にはちゃんぽんを提供するお店がいくつもあり、八幡浜を象徴する食べ物であることが感じられる。長崎のちゃんぽんは豚骨ベースで白濁した濃厚なスープであるのに対して、八幡浜ちゃんぽんは鶏ガラや和風だしベースの黄金色のスープが特徴となっている。
私は聞き取り調査をする中で、ご当地グルメと知られる以前からこの地域では日常食としてちゃんぽんを食べていたことや、ちゃんぽんのルーツについて「長崎から入ってきた」、「中国からきた」など諸説あることを知り、比較的中心街にある以下4つのちゃんぽん提供店で、お店を始め、ちゃんぽんが導入された経緯についてお話を伺った。本論文でいう日常食とは普段の家庭内の食事だけでなく日常的に食べていた外食も含めたものを指す。

1ちゃんぽんの導入

1―1 丸山ちゃんぽん

 創業昭和23年で現存するちゃんぽん提供店で最も古い丸山ちゃんぽん。2代目の山口清氏と奥さんのミヤ子氏にお話を伺った。お二人とも市が八幡浜ちゃんぽんを売りだして以降テレビや新聞など多くの取材がくることになるとは思っておられなかったようで、こんなことなら先代から色々ちゃんと聞いておけば良かったと微笑みながら話し始めてくださった。創業者である山口升雄氏は明治41年今治波止浜で生まれ、元々は姉のカツ氏が昭和4年八幡浜に創業した伊藤旅館(現センチュリーホテルイトー)を番頭として手伝っていた。その後、升雄氏はカツエ氏と結婚しカツエ氏も伊藤旅館で女中として料理を作るお手伝いをしていたが、カツ氏にも子供ができ、暖簾分けということで昭和10年宇和島へ行き屋号である丸山から名を取った丸山旅館を創業したという。しかし、昭和20年空襲で宇和島が焼けてしまい、再び姉を頼りに八幡浜へ戻ることになり、昭和23年姉カツ氏の営む伊藤旅館の一角で丸山食堂を始める。これが現在の丸山ちゃんぽんの始まりである。だが最初からちゃんぽんを売っていたわけではなく、元々はうどんやところてんなどの代用食などを提供していたそうだ。ちゃんぽんを始められたきっかけは、積極的に料理を生み出したりアレンジして商売を引っ張っていたカツエ氏が升雄氏の地元である今治に行った際、中国人が経営するお店に入ったことだという。そこでヒントをもらい旅館のうどんだしを生かしたちゃんぽんを始めたという。そしてホテルの片隅で6年営業したのち、昭和29年に現在の店舗へ移って、平成5年に「丸山ちゃんぽん」という店名を正式に登録し現在に至っている。今年でちょうど開業して70年だ。


写真1 丸山ちゃんぽん外観


写真2 丸山ちゃんぽん2代目 山口清氏
 
1―2 ロンドン

 創業昭和25年のロンドン。現在2代目菊池公佐氏の奥様ヒデ氏にお話を伺った。創業者であるヒデ氏の父・中広正明氏は大正3年八幡浜出身で昭和23年頃から夏期のみアイスキャンディーを作って売り、冬は喫茶をする店を開いていた。そのころから店名はロンドンで、アイスキャンディーというハイカラな横文字にちなんで付けられたらしい。夏には田舎の小売店やスーパーにもリアカーでアイスキャンディーを売りに行っていたという。その後徐々に定食屋になっていき、正明氏がアイスキャンディーの材料を仕入れに汽車で大阪に向かっている時、高松で満洲楼という中華料理店を営む中国人に出会う。その中国人に「八幡浜には中華料理がないね」と言われちゃんぽんを教えてもらったことをきっかけに、元々味の濃いちゃんぽんを試行錯誤して、あっさりした味のちゃんぽんを作り提供し始めたという。その後、ちゃんぽんをデパートやスーパーへ売る外商も開始した。最初は八幡浜に大型スーパーができるという話に商店街のお店はお客さんが減るのを懸念して皆反対していたが、スーパーなら何でも売ってくれるし結局は大手に頼らないとだめだということで、何かうちも売るものがないか考えてパック詰めしたちゃんぽんを30年ほど前からスーパーなどで売り始めたという。「反対していたが逆に助かった」と語るヒデ氏。現在は道の駅にも販売している。
ちなみに正明氏はロンドンを創業後、ロンドン別館という名前の日本料理店も開き、そこは現在、正明氏の息子でヒデ氏の弟さんが継ぎ八幡浜唯一の中華料理を提供する店となっている。というのも弟さんは高校卒業後、正明氏が出会った中国人が営む高松の中華料理店・満洲楼に修行に行っていたというのだ。ヒデ氏は「店の名前はロンドン、外観は日本庭園、料理は中華、面白いでしょ」と笑顔で教えて下さった。


写真3 ロンドン外観


写真4 道の駅で販売されているロンドンの持ち帰り用ちゃんぽん
 
1―3 イーグル

 創業昭和37年。現在3代目の中広俊太氏、2代目の中広銀次郎氏にお話を伺った。イーグルの創業者である中広賢一氏はロンドンの創業者・中広正明氏の弟で、イーグルを創業する前はロンドンで料理人としてお手伝いをしていた。賢一氏はそれ以前元々賢一氏の叔父さんが東京の麻布十番で経営していた「イーグル」という洋食店でケーキの職人をしていた。この叔父さんは元々職を求めてアメリカへ移住しアメリカで食堂をしていたが、子供たちが朝鮮戦争で日本へ通訳として来ていたということもあり、日本へ戻ってきて日本でも洋食店を開いたという。賢一氏も戦争に行っていたので戦後八幡浜に帰ってきてもそんなに仕事がないから、叔父に東京へ来ないかと誘われたこともあり、東京に行きイーグルでケーキや料理の勉強をする。しかしその後、叔父さんは東京の店を辞めようと、賢一氏に継がないかと話を持ち掛けたが、その時丁度ロンドンが忙しいから帰ってきてほしいという話もあって、賢一氏は家族がいる八幡浜に帰ることとなり、叔父さんも結局東京の店は閉め、アメリカへ帰ったという。そしてロンドンを手伝った後、「イーグル」として独立。このイーグルという名前は東京で働いていた店からきている。イーグルのちゃんぽんは元々はロンドンからの流れで始まっているが、賢一氏は自分でするなら自分の味にと、ロンドンとは違う独自の味でちゃんぽんを提供している。鶏ガラベースの野菜たっぷりのちゃんぽんだ。八幡浜のちゃんぽんについて「八幡浜は魚とミカンの町で魚介がありすぎて、八幡浜の人はいつでも食べられるから、あえてなるべく魚介を加えない鶏ガラでつくるちゃんぽんが多いんじゃないか」と銀次郎氏は話してくださった。


写真5 イーグル3代目 中広俊太氏

1―4 味楽食堂

 創業昭和47年。蕗秀廣氏・美千代氏ご夫婦にお話を伺った。現在2代目の蕗秀廣氏によると、先代の秀廣氏の父・蕗治男氏は山口県の人で戦時中は海軍でコックをしていたという。そして戦後になって一時大阪の料亭で修行をしていたが八幡浜出身の奥さんに出会い八幡浜に来たそう。そこで最初からお店を開いていたのではなく、秀廣氏が生まれたときには、治男氏は商店街辺りの軒下で当時周りにはない屋台をしていたという。屋台では初めは焼き鳥を売っていた。戦後なので安いレバーなどで作った焼き鳥だ。コックの経験がある治男氏はのちに自分で作った麺で作ったラーメンも売り出し始める。その後、昭和47年現在の店舗の場所ではなく駅前で味楽食堂を創業。ちゃんぽんはお店になってから出し始めたというが、秀廣氏が生まれたころからちゃんぽんというものはあり、詳しいルーツというのは実際治男氏から聞いていないのでよく分からないそうだ。しかし味楽食堂のちゃんぽんは、治男氏が元々屋台でラーメンをしていたことから、とんこつと鶏ガラでとった中華系のスープでずっとやっていると秀廣氏は語る。現在は道の駅でも、道の駅社長の強い後押しによって始まった持ち帰り用ちゃんぽんが販売されている。そして駅前の店舗で47年営業していたが、天井が漏電し煙がでて水を掛けられたら終わりという状況になってしまう。その時は店をもう辞めようと思ったそうだが、商工会や道の駅の社長の「八幡浜の活性化につながるから」、「中心街の丸い円の中に4、5軒あった方が離れてあるよりいいじゃん」という言葉と、道の駅の持ち帰り用のちゃんぽんを売っていたスペースを営業が停止している2か月間、道の駅がずっと空けて待っていてくれたこともあって、思い切って現在の八幡浜商工会館の前の店舗で昨年から営業を再開し現在に至っている。
 治男氏はコックの経験で確かな腕と知識を持ちながら、その技術を人に教える人の良い方だったようで、八幡浜の元々かき氷の蜜を作っていた方に、麺を作りたいと言われて麺の作り方を教えたり、八幡浜の製菓店には蒸しパンを作る技術も教えたという。事実かどうかは分からないけど小さいころから父親にそんな話を聞いてきたという秀廣氏は、麺作りを教えた方は、その後製麺で出世し「愛麺」という権利を得て愛媛で麺を売り始め、今では一周回って味楽食堂の麺も「愛麺」から買っているというエピソードも笑いながら教えてくださった。



写真6 味楽食堂 外観


写真7 蕗氏ご夫婦


写真8 道の駅で販売されている味楽食堂の持ち帰り用ちゃんぽん

 
2 「八幡浜ちゃんぽん」の発見

2―1 八幡浜商工会議所青年部

 人口が減少し、地場産業が衰退する中、何とか八幡浜に活力を取り戻そうと立ち上がったのが八幡浜商工会議所青年部であった。多くは地元の企業や商店の後継者で、八幡浜で馴染み深いちゃんぽんに着目し、八幡浜ちゃんぽんを通して町を元気にしたい、八幡浜ちゃんぽんを多くの人に知ってもらいたいという思いを込めて平成18年「八幡浜ちゃんぽんプロジェクト」を発足し、八幡浜商工会議所青年部において「町おこし委員会」が設立された。

2―2 八幡浜ちゃんぽんの現在

 プロジェクト発足以降の主な取り組みは以下の通りである。

・平成18年 前年の平成17年3月28日に旧八幡浜市保内町が合併して現在の八幡浜市が設置されたことから、3月28日を八幡浜ちゃんぽん記念日と制定。
・平成19年 お店や町の情報を詰め込んだ「八幡浜ちゃんぽんバイブル」の発売。
八幡浜ちゃんぽん大集会」開催。
・平成22年 「八幡浜ちゃんぽんバイブル」に掲載された「八幡浜ちゃんぽんMAP」を単体として改訂配布。八幡浜商工会議所青年部の方が取り組んできたプロジェクトをさら発展させるため、行政がより携わって、「みかん」と「魚」のまち八幡浜市に「ちゃんぽん」を加え、町をもっと元気にすることを目的に八幡浜市商工観光課内に「商工観光係長・ちゃんぽん担当」を設置。また、「八幡浜ちゃんぽん」をさらに盛り上げるため、全国からPRキャラクターのイラストを募集し、選考を経て、八幡浜ちゃんぽんと“チャンピオン”をキーワードに王様をイメージしたキャラクターに決定し「はまぽん」と名付けられる。
平成23年 「八幡浜ちゃんぽん物語」というキャンペーンソングを発売。
平成26年 「八幡浜市は、八幡浜ちゃんぽんを地域資源として最大限に活用し地域振興に努める」などといった内容が盛り込まれた「八幡浜ちゃんぽん振興条例」を施行。

むすび

 今回の調査では4軒のちゃんぽん提供店でお話を伺った。この調査を通して分かったことは以下の4点である。
八幡浜ちゃんぽんというものは市がプロジェクトとして売り出す前から、日常食としてずっと食べられていた。

・ちゃんぽんもお店によってそれぞれのルーツがある。

八幡浜より前に今治や高松ではすでにちゃんぽんがあった。

八幡浜ちゃんぽんと一括りにされていてもその味はお店によってさまざまで、スープから独自に工夫されて違う。

しかし現在どのお店も2代目、3代目で、詳しいルーツを正確には聞いていないという声もあって、八幡浜ちゃんぽんとして有名になって、取材を受けるようになるとは思ってなかったから、先代の方にもっと正確に聞いておけば良かったという声が印象的だった。

謝辞

 本論文の作成にあたり、多くの八幡浜の方にお話を伺いました。お話を伺った全ての皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。
突然の訪問にも関わらず、お忙しい中、拙い私の質問にも丁寧に答えて下さった丸山ちゃんぽんの山口様ご夫婦、ロンドンの菊池様、味楽食堂の蕗様ご夫婦、イーグルの中広様、皆様の温かい協力なしでは本論文を作成することはできませんでした。本当にたくさんのお話を聞かせていただいたことに感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献

商工観光課, 2017, 「八幡浜ちゃんぽん」八幡浜市公式ホームページ
(2018年8月20日取得, http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2014091600085/)
アサヒグループ, 2018, 「八幡浜ちゃんぽん」八幡浜ちゃんぽんの魅力&観光巡りMap
(2018年8月20日取得,
https://www.asahibeer.co.jp/area/09/38/yawatahama/appeal/index.html#a01)

「地域紙」とは何か −「八幡浜新聞」の事例−

社会学部3年生
藪下華奈

【目次】

はじめに
1 八幡浜と地域紙
2 八幡浜新聞の90年
2-1 八幡浜新聞の創業
2-2 戦時体制と八幡浜新聞
2-3 戦後の八幡浜新聞
3 八幡浜新聞の現在
3-1 八幡浜新聞の一日
3-2 購読者
むすび
謝辞
参考文献


はじめに
 地域紙とはブロック紙、県紙よりも狭いエリアに密着する新聞のことである。今回の調査では八幡浜市の地域紙である八幡浜新聞をフィールド対象とし、八幡浜新聞社を夫婦で経営されている松井一浩氏、潤子氏を中心に話を伺った。県紙やブロック紙とは異なる地域紙ならではの特徴を主に明らかにする。

1 八幡浜と地域紙
 八幡浜市にはかつて多くの地域紙が発行されていた。その中でも現在も地元の人たちの記憶にあるのが八幡浜民報、南海日日新聞八幡浜新聞だ。八幡浜民報は終戦直後に発行された地域紙であり、購読者によると政治に批判的な記事が多かったそうだ。2015年に終刊している。南海日日新聞は1975年に創刊された地域紙で、原発に反対の姿勢をとっていた。1日おきに発行されており、八幡浜の地域紙としては部数が少なかった。2008年に休刊している。そして今回取り上げる八幡浜新聞は1926年に創刊された地域紙で、現在も土、日曜と祝祭日を除く月から金曜に毎日発行されており、八幡浜市で最も歴史のある地域紙である。公平公正な記事を掲載することを心掛けており、市民の多くから支持されている。現在八幡浜市で発行されている地域紙は、八幡浜新聞のみである。

写真(1)八幡浜新聞社

2 八幡浜新聞の90年
2-1 八幡浜新聞の創業
 八幡浜新聞は1926年に、潤子氏の祖父にあたる松井松之助氏によって創刊された。創刊前、松之助氏は大阪で警察官をしていたが退職し、八幡浜に戻って新聞発行をはじめたという。具体的な動機はわからないとのことだが、かつて八幡浜は「伊予の大阪」と呼ばれるほど町が発達しており、新聞も多く発行されていたのでそれらの影響を受けたことが大きいと考えられる。当時の記事を拝見すると面白い記事が掲載されていた。写真(3)は1935年の記事の一部だが、八幡浜の市民がお金を落としたという極めて個人的な記事が掲載されている。当時は現在とは異なり、個人情報を掲載しても問題がなかったため、名前も実名で報道されている。戦前の珍しい記事は、写真(3)しか見つけることができなかったが、潤子氏いわく、当時は駆け落ちや心中などの情報も掲載されていたようだ。地域の情報を市民に提供する地域紙ならではの役割を果たしていたことが考えられる。

写真(2)八幡浜新聞を創業した松井松之助氏

写真(3)1935年の八幡浜新聞の一部。

2-2 戦時体制と八幡浜新聞
 八幡浜の地域紙はもともと多くの広告を載せる「広告新聞」として発行されていた。八幡浜は商業が盛んだったため、多くの広告が集まったという。しかし日露戦争の影響により「皇国新聞」と名を改め、市民に戦況を報じる新聞として市民に戦果のゆくえを伝えた。市民は戦況に一喜一憂し、このころから八幡浜市民は新聞に興味を持ち始めたのではないかと言われている。1926年に創刊された八幡浜新聞も、「皇国新聞」として発行した。しかし太平洋戦争中の1942年、紙不足を理由に言論統制が行われ、「一県一紙」へと新聞の統廃合が行われることになった。当時小学生だった潤子氏の父である脩氏は、警察署長のところへ毎日ゲラ刷りを持っていき、検閲のハンコをもらっていたそうだ。しかし、ある日突然廃刊させられ、転業をしなければならなくなった。松井一家は生計を立てるため農業をはじめ、にわとりを飼い、椅子なども作っていたそうだ。

2-3 戦後の八幡浜新聞
 松之助氏は、戦後1947年から旬刊紙を再開し、1950年には日刊紙を再開した。戦後まもなくは物資不足により、購読数が減ったが、高度経済成長期から少しずつ右肩上がりになった。このころから広告量も増え始めた。「コレサワ時計店」は、1940年から広告を載せている時計屋である。当時、時計の修理や、印鑑、メガネも販売し、繁盛していたため、広告を出していたそうだ。八幡浜市はお年寄りが多く新聞の広告の影響が強いため、現在も出し続けている。八幡浜新聞社にとっても、八幡浜市の店にとっても八幡浜新聞の広告は重要な役割を持ち続けている。
 八幡浜新聞ならではの戦後から現在まで続いているコーナーがある。「戸籍の窓」というコーナーである。このコーナーでは八幡浜市民の出生、死亡を実名で載せている。一浩氏は毎日市役所で、市民の出生死亡の資料を受け取り、新聞に載せる。これらを始めたきっかけは、市民に「不義理をしたくないから載せてほしい」と頼まれたからだそうだ。「戸籍の窓」を見るためだけに購読している読者もいるほど「戸籍の窓」は市民にとって重要なコーナーとなっている。一浩氏は市役所へ向かう際、出生死亡の資料を受け取るだけでなく、八幡浜市内の学校の行事日程や市内のイベント予定をまとめた資料も受け取り、記事作成の参考にする。これらから八幡浜新聞は、購読者に八幡浜市の情報を伝える地域紙ならではの役割を果たしていることがわかる。他にも「卓上一言」というコラムが読者に人気である。松之助氏が「卓上風雲」として掲載していたものを脩氏が引き継ぎ、毎日掲載とした。紙面の中では唯一、主観的な考えを交えて書いており、読者から親しまれ、反響も多いという。脩氏が亡くなられてからは、一浩氏が書いている。

写真(4)1935年の「コレサワ時計店」の広告

写真(5)広告で埋め尽くされる八幡浜新聞

写真(6)「戸籍の窓」

写真(7)「卓上一言」

3 八幡浜新聞の現在
3-1 八幡浜新聞の1日
 今回の調査で、八幡浜新聞ができあがるまでの1日を密着させていただいた。現在の八幡浜新聞は、4人で作成されている。松井さんご夫妻と、校閲担当の山口氏、印刷担当の吉良氏である。それぞれの担当を整理し、新聞作りの工程をまとめる。

(1)記事作成(一浩氏):発行前日に取材したネタをまとめて記事を打つ。その際、「卓上一言」のコラムも書く。それらの原稿をUSBに保存し、潤子氏に渡す。1970年代までは活字を使用していたため、現在よりも時間がかかったという。
(2)編集(潤子氏):受け取った原稿に打ち間違いがないかを確認する。なければ見出しをつけ、それぞれの記事の位置や写真の調節を行う。できあがったら一浩氏に見せ、確認してもらう。
(3)校閲(山口氏):記事内容に関する資料と記事を照らし合わせる。固有名詞のスペルミスや、内容と資料が矛盾していないかを確かめる。
(4)最終確認(一浩氏、潤子氏):山口氏から指摘があった場合、確認を行う。当日に事故や火事などの緊急速報がある場合は記事内容の変更を行う。
(5)印刷(吉良氏):記事の版をとり、印刷する。
(6)配達:八幡浜新聞社以外で働いている方が仕事終わりに配達を行う。隣の町や配達が難しい地域には、郵送で配送する。

写真(8)取材先で記事の写真を撮影する一浩氏

写真(9)昔使用していた活字

写真(10)八幡浜新聞社にある辞書などの資料

写真(11)記事の校閲。指摘が書き込まれている。

写真(12)新聞の版

写真(13)印刷

写真(14)郵送する新聞

3-2 購読者
 八幡浜市では1990年代から若者の人口が減少し、八幡浜新聞の購読者数も右肩下がりとなった。現在の八幡浜市も若者より高齢者が多いため、購読者のほとんどは高齢者であるという。その中で古くから八幡浜新聞を購読し続けている方に話を伺った。元八幡浜市市議会議員、谷本廣一郎氏である。谷本氏いわく、八幡浜市にはかつて多くの地域紙が発行されていたという。その中で、八幡浜新聞を購読することに決めたのは偏りがない新聞であるからだという。例えば八幡浜市では、原発の危険性が問題視されており、原発反対の立場をとる地域紙は、ほとんど批判に偏った記事を掲載していたそうだ。谷本氏が市議会議員であったときも、政治について偏った記事を載せられたことがあるという。しかし、八幡浜新聞は偏った記事を載せなかったそうだ。潤子氏いわく、原子力発電についてはスタッフに専門的知識を持つ者がいない。情報発信する立場からすると勉強不足であり、読者に申し訳ないことだが、賛成派と反対派両者の意見を等分に掲載することを心掛けてきたそうだ。これは原子力問題に限ったことではなく、選挙戦の候補者のコメントからインターハイ出場選手紹介に至るまで、行数、写真の大きさ、距離など、できるだけ公平になるよう心掛けている。八幡浜新聞が古くから購読者に信頼されているのは、この心がけが影響しているからだと考えられる。

結び
八幡浜市で多くの地域紙が発行されていたのは、かつて「伊予の大阪」と呼ばれるほど町が栄えており、多くの広告が出されていたからである。当時と比べると減少したが、現在でも広告を出し続けている店もある。八幡浜市は新聞を購読している高齢者が多いため、広告の影響は大きい。
・戦前の八幡浜新聞は市民の個人的な落とし物、駆け落ち、心中などの情報を細かく掲載していた。現在でも「戸籍の窓」や、市内の行事日程などを掲載しており、地域紙ならではの役割を果たしている。
八幡浜新聞は戦争の影響で廃刊に追い込まれ、復刊後も物資不足により購読者数が不安定となった。その後、高度経済成長期の影響もあり、少しずつ回復するが、少子高齢化の影響で再び右肩下がりとなる。しかし、公平公正な記事を信頼する古くからの購読者の支えもあり、現在まで続く八幡浜市で最も歴史のある地域紙となった。

謝辞
 本論文執筆にあたりご協力いただいた松井一浩様、潤子様をはじめとする八幡浜新聞社の皆様、コレサワ時計店様、谷本廣一郎様、調査にご協力いただいた皆様、お忙しい中温かく迎えていただき、ありがとうございました。皆様のお力なくして本論文を完成させることは叶いませんでした。突然の訪問にも関わらず、調査にご協力いただき、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
四方洋(2015),『新聞のある町 地域ジャーナリズムの研究』,株式会社清水弘文堂書房
八幡浜新聞物語」,『季刊 Atlas第8号』,1998年7月31日号,(有)インデクス内・アトラス社
八幡浜新聞社」,『日本地域新聞ガイド 2006-2007版』,2006年3月号,日本地域新聞協議会

㋮と生きる−愛媛県八幡浜市 松浦有毅氏の語りから−

社会学部3年生

植田 悠渡

【目次】

はじめに

1.みかん栽培のはじまり

2.アメリカに渡った人々と真穴

3.真穴から杵築へ

4.現在の暮らしと活動

結び

謝辞

参考文献


はじめに
 西宇和みかんと呼ばれ日本全国で人気のみかんは、愛媛県八幡浜市とそこから延びる佐田岬半島伊方町西予市三瓶町の2市1町にまたがる西宇和地域で生産され、JAにしうわの管内から出荷されるみかんの総称である。西宇和地域の海岸は、宇和海と瀬戸内海に囲まれたリアス式海岸となっている。地形は起伏の多い傾斜地が広がり、平野部は少ない。さらに日照量、気温、降水量という気象条件に恵まれ、柑橘栽培に適した環境である。
 今回の調査では八幡浜市網代に位置する真穴柑橘共同選果場から出荷される真穴みかんについて多く話を伺った。真穴とは真網代地区と穴井地区の総称である。

↑マークがついているところが真穴

↑真穴柑橘共同選果場
この地域では座敷雛という伝統行事が有名で、そのことから「ひなの里」と名前を付けたみかんを出荷している。取材をするにつれてインターネットや文献では知ることのできない話もたくさん知ることができた。主に話を伺ったのはここ真穴でみかん農家を営みつつ、平成15年からの4年間、真穴共同選果場の共選長を務め、後に本稿で参考文献として使用する「北針」という本の制作、講演などにまつわる活動である「地域文化振興協議会・北針」の会長、「真穴みかんの里雇用促進協議会」の代表、「真穴座敷雛保存会」の会長、「真穴の子どもを育てる会」の会長など地域の様々な活動に熱心に取り組まれている松浦有毅氏である。本稿では、松浦有毅氏の語りに沿って取材内容を報告する。

1.みかん栽培のはじまり
今でこそ全国に認知されるほどになった真穴のブランドみかんだが、柑橘の導入は125
年以上も前に遡る。1891年(明治24年)に真網代大円寺の住職が佐田岬の三崎村から持ってきた夏柑を桑園に植えたことが真穴におけるみかん栽培の始まりだとされている。

大円寺八幡浜市網代
それ以前は陸地では麦や甘藷、海ではイワシ漁などで半農半漁の生活をしており、明治以降は養蚕が盛んとなった。1907年(明治40年)には真網代に製糸組合ができ、農家が集まって養蚕組合を設立するなど生計の大半を養蚕でまかなっていた。このことから分かるように、昭和の初め頃まではみかんの収穫量も少なく、みかんだけで生活することは難しかったようだ。
 1912年(明治45年)に真網代柑橘組合が設立し、みかんの出荷も増え始め高値で売れるようになっていった。最新となる平成27年度のデータでは真穴の農家戸数は182戸、栽培面積は264.83ha、温州みかんの合計生産量が7,209,020㎏であった。

↑現在のみかん農家は専業の方がほとんどである
 真穴に向かう途中で海に養殖の施設が広がっているのが見えた。何を育てているのか聞いてみると、タイやスズキ、マスだそうだ。漁船も多く港に泊まっていて、そちらもまた漁業を専業でされている様子だった。

2.アメリカに渡った人々と真穴
 明治30年を皮切りに真穴からアメリカの西海岸に渡る人々が増えていった。長男が真穴で親の職を引き継いで生計を立てると次男三男が継ぐ土地が無くなることや経済的な理由から渡航者は増加した。松浦氏は日本経済新聞の取材の中で真穴について「土地柄として、進取の気質に富み、他所からの情報にも敏感だった。それゆえ、大きな夢を抱いて荒波を突き進むことができたのだろう。」(日本経済新聞,2008年4月23日,「文化」)と語っている。その証拠に、アメリカに渡った人々はガーデニング、芝の手入れ、料理など、身一つでできる仕事を日本人の器用さを活かしてお金を儲けた。多くの人々が日本にお金だけでなくチョコレート、コーヒーやココアを始め様々な食べ物やお土産、そして見聞を持ち帰ってきた。それに触発されますます新天地で一旗挙げたいと思う人たちは増えた。結核が流行った時代にはアメリカで手に入る抗生物質を送ってもらった人もいたと松浦氏は語ってくれた。
アメリカへの渡航は明治時代のうちは良かったものの、大正時代に入る頃にはアメリカでは白人の職が奪われる危機感、そして日露戦争の勝利による日本人への恐怖感もあり排斥運動が高まった。サンフランシスコの当時の新聞には日本人は勤勉だという記述があったらしく、使う立場にとっては便利な存在であったが、同時にそれは労働者からすると脅威だったと予想される。


アメリカでの鉄道工事の様子
 その頃からは密航という形でのアメリ渡航が相次ぐようになった。汽船への潜伏を手引きしてもらう方法もあったようだがかなりの大金が必要だったため、当時底引き網漁に使用されていた打瀬船という小さな帆船を使い太平洋の横断を試みた。

 ↑アメリカへの密航に使われたものと同じ形の打瀬船
1913(大正2年)に初めて出航した打瀬船は旧保内町(現八幡浜市)のものだった。真穴からも天神丸という名の打瀬船に15人が乗って源蔵前の入り江から太平洋に漕ぎ出した記録が残っている。磁石と帆のみで58日かけてサンフランシスコのポイントアレナへの上陸に成功したが、すぐに捕まり強制送還になった。真穴も含めて合計で6隻の太平洋横断が成功している。

 ↑密航出発地の源蔵前

 ↑源蔵前に建つ記念碑
1905年(明治38年)にアメリ渡航者の家族を中心に渡航者の無事を祈るアメリカ講「萬歳講(ばんざいこう)」が作られた。家族が年に数回氏神様に集まり、お籠もりをして宮司さんにお札やお守りをもらい、それをアメリカの家族の元に送っていたようだ。真網代では「アメリカ籠もり」、真穴では「萬歳講」と呼ばれていて、今も続いているのは真網代の「アメリカ籠もり」だ。時代とともに疎遠になりつつあるが現在も神事として残っている。

アメリカ籠もりの様子(2015年)
さて、このような彼らの努力による真穴への恩恵はとてもみかん栽培とその発展に大きく貢献している。アメリカの文化、産業、生活様式を真穴での生活に取り入れた例として、農道の整備がとても重要だ。私が取材に行ったとき、トラックに乗せてもらって畑の間を縫うように整備された農道を通って山の上まで登ることができた。当時アメリカは車が発展しており、道が広くて快適だった。真穴にも道を作ればいいという話が持ち上がり、昭和8年に着工し、後に全長18kmにもなる農道の整備が進められた。

↑農道整備時の写真(年代不明)
水に関する整備も早く、水洗トイレが他の地域に比べて早かったと松浦氏は語ってくれた。動力噴霧機の導入は1945年(昭和20年)で、これらの整備が進むことにより栽培の効率が上がり、品質の良いみかんの生産量の増加に繋がったと言える。
 そのようにアメリカから帰国する人が多かった中で、永住する人たちもいた。松浦氏の家族の中だと、母親の兄は早くからアメリカで成功していたため、松浦氏の両親もアメリカと縁があり、住んでいたこともあったという。アメリカ滞在時に生まれた長男はアメリカに市民権があったため永住して、今は二代目・三代目の世代になっているという。松浦氏の父親は40年ほどアメリカに住んだ後に真穴に帰ってみかん農家をし、母親は永住した。そういった永住者たちはアメリカの社会に溶け込み、子どもは学校を出て会社に勤めているという。自分のルーツを確かめたいと真穴を訪れた人もいたようだ。

3.真穴から杵築へ
 昔の家族は兄弟が多く、次男三男は土地がないため他の園地を求めて外へ出て行った。1952年(昭和27年)に九州の大分県杵築市に移住して温州みかんの栽培を始めたという記録があり、松浦氏の話によると30軒以上は杵築市へ行ったようだ。真穴から以外にも、同じ理由で山口県広島県の次男三男も入ってきていたという。なぜ杵築市の大内という場所なのかというと、地形がゆるやかで機械の導入がしやすく、生産費を抑えることができたことが一番の理由である。そのため真穴の一人あたりの平均農地面積が一町二反(一町=10,000㎡、一反=1,000㎡)だったことに対し、大内では三町という大きい土地を管理することができた。主に屋外の畑で育てる露地栽培の方法をとり、ゆるやかな地形に対して縦に農道を整備した。真穴と同じように石垣を組んだが、九州は火山灰の堆積した土地であり、酸が強くみかんの育ちが悪かった。量の時代ではなく質の時代へと変わっていくにつれ、品質が真穴に劣るみかんは単価で考えると値段の差が大きく、杵築市の規模でやっていてもほぼ同じ程度の収入だった。松浦氏も杵築市に土地を所有しており子どもに継いでもらうつもりだったが、放置状態になっているという。
 当時杵築市への移住を決断して海を渡った人々は帰ってきた人は少なく、ほとんどが九州にそのまま住むことを決めたという。もちろん二代目・三代目の世代になっているが、二代目までは農業に従事していても、そこから先は会社で働く道を選ぶ人が増え、農業から離れた生活を送っているようだ。しかし一部では今でもみかん栽培は行われていて、1974年(昭和49年)頃からハウス栽培が増えてきた。寒い時期にハウス内を加温し、春と同じ環境を作ることで、露地栽培よりも早い時期に収穫ができる点が特徴だ。
 真穴から隣の三瓶町などにも移る農家もいたが、真穴のブランドに並ぶことができずに撤退したようだ。松浦氏の語りの中から三瓶町の人々はオーストラリアへ真珠を採りに行っていたという話も聞けた。真珠だけでなく大きな貝はボタンにするなど、出稼ぎの流行があったようだ。しかし海へ潜っての作業のため、死亡者が多数出たとのことだった。ただ稼ぐことが目的だったため、永住者などはいなかった。

4.現在の暮らしと活動
 冒頭でも少し触れたが、松浦氏は幅広い地域の活動に参加している。そのどれもが真穴の暮らしを豊かにするための活動であり、みかん栽培だけでなく生活全体がいきいきとしている真穴の空気に私も少しながら触れることができた。松浦氏が参加した取り組みの中で最も感激したものが、「みかんの里アルバイター事業」である。真穴だけでなくどこの地域、どの農業も直面しているが、農繁期の人手不足が問題になっていた。

↑真穴のアンケート調査で後継者の有無を質問した際の回答
 そうした中1994年(平成6年)にアルバイター事業を始めたのが、なんと松浦氏だった。真穴とすぐ近くの川上と舌田のみかん畑も範囲で、時期は11月〜12月下旬頃まで住み込みで働いて給料は平均して30万円ほどもらえる。当初の雇用人数は32人、翌年は27人とそれから増減はありつつも去年の2017年はなんと250人を採用した。真穴みかんの名が全国的になってきたこともあり、面接は東京の新宿で行い、採用のお知らせを送るシステムになっているという。アルバイターは農家の家にホームステイする。2015年11月12日に八幡浜市が閉校となった小学校を改築して作ったアルバイターが宿泊できる施設「マンダリン」をオープンした。以来そこで寝泊りをし、朝から働きに出るという人もいる。
はじめにも紹介したが、松浦氏は「真穴みかんの里雇用促進協議会」の会長を務め、この制度の発展に携わってきた。お話によると始めた当時は3つの目標を立てていたという。1つ目は単純に労働力不足を補うため、2つ目は真穴みかんの宣伝、そして3つ目にお嫁さん不足の状況を良くしたいという思いだった。時間が経つにつれ若者が減っていき後継者不足になることを不安に感じていたようだ。松浦氏によるとマンダリンのような施設も嬉しいが、本音としては農家のお宅に住み込みで働いてもらい、約1ヶ月寝食を共に過ごすという体験を重視しているようだった。親交が深まると来年また来てくれることも多くなり、そこが一つの帰ってくる場所になるからである。実際に農家の後継者と結婚まで至ったアルバイターもいる。
また、冒頭に紹介した「地域文化振興協議会・北針」についても説明しておく。「北針」とは、打瀬船でポイントアレナに上陸した15名の旅について描いた小説の題名である。この本の作者である大野芳氏の取材のサポートを松浦氏がつとめたことから繋がった縁で1993年(平成5年)に発足したこの会の代表として活動してきた。翌年の94年には打瀬船の出航の地である源蔵前海岸に記念碑を完成させた。「北針」と名の付いた清酒を販売、講演会の開催、半分の大きさで打瀬船を復元するなど多岐にわたる活動を行ってきた。アメリカへの3回の足跡調査の末、真穴の打瀬船が上陸したポイントアレナには1996年(平成8年)に記念碑が建てられた。

↑当時の吉見市長が除幕式に参加する様子
同年、活動の様子はテレビ愛媛に取り上げられ、ドキュメンタリー番組「密航船、天神丸物語〜海を渡ったガイナ奴」が放映されるなど、地域の取り組みをしっかりアピールした。

結び
・柑橘導入から125年以上経った今も気候、地形に恵まれた真穴の地でみかん栽培を続けている農家の方たちの苦労と努力の成果を肌で感じることができた。
・導入から発展までの歴史の中にアメリカとの強い関わりがあることが分かった。昔の人々のフロンティア精神を今も受け継ぎ、真穴の人々は生きている。
・次男三男の移住を余儀なくされるほど昔は大家族が当たり前だったようだ。杵築での当時の様子を知ることができた。
・真穴の農家を長い目で見て支えていけるアルバイターの制度を取り入れ、地域の文化や先人の意志までも絶やさずに受け継いでいこうという様々な取り組みを知ることができた。

謝辞
 今回の論文作成にあたっては、八幡浜市のたくさんの方々にご協力いただきました。真穴柑橘共同選果部会の事務所長の宇都宮英晃様をはじめ、車で畑の方まで案内してくださった事務所の方々。二日に渡って快く取材に応じてくださった松浦有毅様、そしてお忙しい中連絡を取っていただいた息子さんの喜孝様。真穴地区公民館を取材の場として開けてくださり、最後は車で送ってくださった高田夫妻。本当にありがとうございました。
ここで最後に紹介しておきたいものが、真穴共同選果場に訪れた際に資料として購入させていただいた「真穴みかん 柑橘導入125年−2016−」という本です。

これは農家の方たちなどが協力した記念誌編集委員会が、節目ごとに真穴に関する資料を集めて一冊の本を作るという活動で、前回は100周年の記念の年に発刊されたものです。内容は、基本的な数字のデータ、年表、座談会、資料写真などそれぞれがとても濃く、全190ページ以上にも渡ってオールカラーでした。他の生産地ではこのような本は出していないとのことだったのですが、今回この本があったことで大変レポートの作成に役立ちました。大切に保存しています。本当にありがとうございました。

参考文献

愛媛県生涯学習センター,『データベース「えひめの記憶」』
(i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/47/view/6227,2018年8月22日にアクセス).
大野芳,2010,『北針(復刻版)』,潮出版社
川井龍介,2018,『第8回 成功者のあとを追って』
(www.discovernikkei.org/es/journal/2018/3/23/uwajimaya-8,2018年8月22日にアクセス).
柑橘導入125年記念誌編集委員会,2017,『真穴みかん 柑橘導入125年−2016−』.
日本経済新聞,2008,『文化』.
真穴地区公民館ブログ,2015,『渡航者の安全祈願「アメリカ籠もり」』
https://maanakouminkan.blog.fc2.com/blog-entry-60.html,2018年8月22日にアクセス).
八幡浜商工会議所百年記念史部会 編,2001,『八幡浜商工会議所百年史』八幡浜商工会議所.

八幡浜の宮嶋神社 ― 厳島信仰の地域的展開 ―

社会学部3年生

山内 鳳将

【目次】

はじめに

1.勘定と宮嶋神社

 1−1.八幡浜市向灘 勘定

 1−2.宮嶋神社

2.由緒と信仰

 2−1.由緒

 2−2.信仰

3.十七夜まつり

4.合祀の回避

結び


はじめに

 今回の調査は、愛媛県八幡浜市をフィールドに行われた。この報告書では、向灘の勘定という地区にある宮嶋神社(厳島神社)について取り上げる。名前からも分かるように、広島県廿日市市にある厳島神社を総本社とする「厳島」の名を冠する神社の一つである。向灘勘定では、神社や祭りそのものだけではなく、風習やしきたりなど、地域全体を包括する厳島神社の影響が見られた。全国に分布する「厳島」と名のつく神社の一つとして勘定の宮島神社をとらえ、八幡浜市向灘という地域でどのように展開されてきたのかについて記していく。

1. 勘定と宮嶋神社
1-1 八幡浜市向灘 勘定

 本調査のフィールドである、八幡浜市向灘勘定について記述する。八幡浜市愛媛県西部に位置し、佐田岬半島の付け根にあたる市である。宇和海に面した八幡浜港を中心に古くから九州や関西との海上交易が盛んに行われ、商業・交通の要として発展し「伊予の大阪」と謳われた。また、リアス式海岸が形成されていることなどから、豊かな漁場としても知られており、水産加工品のかまぼこは特産品として有名である。向灘は、この八幡浜港の北岸一帯の地域である。権現山の南麓に位置し、東から順に、高城、中浦、大内浦、杖の浦、勘定の5地区からなる。宮嶋神社は勘定にあり、地域の産土神となっている。江戸期には、向灘は同じく八幡浜市の穴井と並び、当時盛んであった鰯漁の中心を担っていた。現在でも、向灘の南部海岸沿いに走る県道八幡浜保内線(海岸通り)に沿って中型トロール業者の事務所がある。また、北部権現山の斜面は、その多くをミカン園が占めており、その品質は「日の丸」印として全国的に知られている。今ではミカン栽培が主な産業となっており、漁業はかつてに比べれば減少傾向にあるというが、かつては半農半漁という生活様式が広く浸透していたという。勘定というのは、向灘5地区の中でも面積、人口の両面で最も規模が大きい地区で、かつては漁民が多く大きなお金が動くことから、勘定奉行が居たという話があり、それが地域の名の由来だという説があるそうだ。

1-2 宮嶋神社

 まずこの神社について、厳島神社と記載される場合(愛媛県神社庁など)もあるが、鳥居に「宮嶋神社」とあること、そして地域住民に「宮嶋様」という呼び名で親しまれていることから、本文中では宮嶋神社という表記で統一する。宮嶋神社は、先述のとおり八幡浜市向灘の勘定地区にある神社である。

写真1.宮嶋神社の外観

写真2.宮嶋神社の拝殿

勘定は海沿いに位置する5地区の中でも特に海に近い地区であり、宮嶋神社も現在の海岸線から直線距離で約60〜70メートルという近さにある。実際に、海際から路地の先に神社を視認することができるという距離である。また、現在の海岸線である県道八幡浜保内線が走る部分は埋立地であり、それ以前の生活道路はそこから20メートルほど内陸側に入ったところにある細い道であった。その分海岸線も今より少し内陸側にあり、その頃は今のようにコンクリートの塀できちんと海と仕切られているのではなく、雁木で海に降りられるようになっていて、宮嶋神社はより海に近い立地であったといえる。住宅に囲まれた神社の境内は、鳥居をくぐると階段が6段有り、それを登ったすぐ左手に手水鉢がある。その先に、それぞれ一対づつの狛犬と灯篭が置かれており、正面には拝殿、その後ろに本殿が配置されている。また、境内右手には小さな鳥居と狛犬、そして祠が2宇祀られている。

写真3.境内の祠

境内には木が生えており、小さな木が多いが、大きめの切り株がいくつか見られることから、かつては大きな木が数本生えていたと推測される。比較的小さな境内であり、上記の建物以外に社務所などはなく、常駐の宮司さんはいないため、八幡浜市矢野神山にある八幡神社宮司さんである清家貞宏氏が兼任されている。兼務社というあり方は戦前から続いているそうで、実際に宮嶋神社の方に訪れるのは祭りが行われる際、年に2度程だという。また、氏子も二重氏子という形態を取っており、およそ130戸だという宮嶋神社の氏子は、同時に八幡神社の氏子でもある。

写真4.八幡神社

氏子はほとんどが勘定の方で、向灘以外に住む氏子の方はほとんどいないという。さらに、八幡神社の近辺での聞き書きでは、多くの方が宮嶋神社の存在そのものを知らないということから、宮嶋神社が向灘、とりわけ勘定という限定的な地域に根ざした場所であることが分かった。

2. 由緒と信仰
2-1 由緒
 
 勘定の宮嶋神社は、先述のとおり厳島神社という名称でも知られている。その名前からも分かるように、この神社は広島県廿日市市にある厳島神社にその由緒がある。後朱雀天皇の頃、永承年間に神城浦(勘定)の漁民清兵衛が霊夢に感じて安芸の厳島神社に参拝して神印(神璽)をいただいて帰り、祭神として鎮祭したのがはじまりだという由来譚が口伝で残っている。個人で祀っていたものが、後に神城浦全区の産土神となったとされている。主祭神宗像三女神として知られる多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津毘売命となっていて、これは広島の厳島神社と同じである。また、春にはお神楽が行われ、旧暦の6月17日は祭りの日となっており、これも広島の厳島神社の管絃祭にならっている。このことから、宮司さんや氏子が広島の厳島神社の管絃祭に出向くことは事実上不可能となっている。
広島の厳島神社についてであるが、全国に1425社あるという「厳島」の名を冠した神社の総本社である。そのはじまりは原始時代に周辺の沿岸、島々の住民が弥山を主峰とする宮島の山容に神霊を感じ、これを畏敬するに至ったことに端を発する。「厳島」の名を冠する神社は全国的に分布をしているが、広島からの地理的な近さや海上守護の御利益があることなどから、愛媛県では特に東予から南予にかけての沿岸部・島嶼部の海に生活の場を求めた人々を中心に受容、浸透、拡大していったものと考えられる。松山や今治をはじめ、県全域に分布しており、八幡浜だけでも勘定の他にも舌間など、8社の厳島神社が存在している。

2−2 信仰

 勘定の宮嶋神社は、当初漁民によって鎮祭されたことから、漁や海に関する信仰があったのではないかと考えられる。実際に、境内にある10本の古杉が緑色であれば大漁の年になり、黄色になると不漁の年になるといった言い伝えがあったそうだ。この杉は他にも、1本が枯れると悪疫が流行したため、あらかじめ凶年を知ることができたという話もある。少なくなったとは言え、漁師の町であることは今も変わらないことから、豊漁や海上安全のために信仰する人も多いという。かつて、この地域でトロール漁が盛んだった頃にはトロール船で広島の厳島神社を参拝したという話もあったが、実際に体験したという人には出会えなかった。

写真5.海辺から路地の奥に見える宮嶋神社

 多くの文献や資料でこの宮嶋神社について言及されるのは、安産成就の大神として有名であるという点である。境内には、子種石というものがあり、不妊の婦人は三日間参籠し、神に祈って石を懐にすると必ず妊娠すると伝えられているという記載が多く見受けられる。また、かつて宮嶋神社の氏子は広島の厳島神社の風習に則ったと考えられる形式でのお産を行っていたそうだ。出産のための産屋と呼ばれる小屋を設置し、その小屋で出産をするというもので、小屋を設けることができない場合はお産の数日前から部屋に2畳程の仕切りをして床をとり、安静にしておくという風習であった。このような風習は勘定という地域や、氏子の間に特有のものであったが、安産成就という意味では、かつて八幡浜市において一定の知名度があったようで、祭日には近隣の婦女子が渡船で参拝して賑わったという記述が見受けられる。安産成就としての性格を持つようになったのはかなり昔のことであるようで、いつ、どのような文脈でご利益が付与されたかに関しての資料や文献は一切残っておらず、定かな情報は存在しないが、宮司の清家氏によると、御神体が女性の神様であることに起因している可能性があるという。
 お産の風習からも分かるように、宮嶋神社の氏子や、勘定の住民は総本社である広島の厳島神社の風習や習慣の影響を色濃く受けている部分がある。それは、勘定という地域のケガレに対する忌避という価値観においても同様である。例えば、月経の際に勘定にいると祟があるとされ、勘定以外の集落にある親戚の家で過ごすといったものや、産後一ヶ月は戸外に出ることが禁じられるといったものである。これを出人(でびと)といい、5〜60年前までは一般的に行われていたという。産後や不幸があった際には宮嶋神社の境内に入れないといった風習は一部で今でも存在している。また、葬式の際に家から死体を運び出すにあたって、宮嶋神社の前の道は避けなければいけないという。他にも、死者の布団を海で洗うという風習がこのあたりにあったようだが、布団を海まで運ぶ際も宮嶋神社の前は避け、神社から離れた場所で洗ったという。その頃は海岸線が現在の県道249号線よりも内側にあり、40〜50メートルおきに雁木が設置されていた。

写真6.向灘の雁木の様子(八幡浜市誌第四巻、P.70)

水死体や溺死体を引き上げる際にも、神社にケガレを寄せ付けないための決まりがあったという。今、宮嶋神社の正面にある海沿いの電柱から一つ隣の電柱の外側あたりに桟橋のようなものが有り、そこから引き上げなければならなかったそうだ。これらは、広島で厳島神社のある宮島全体が神域、御神体とされ、血や死といったケガレを徹底的に忌避した事と関係している。向灘では、勘定という地域を神域である島に見立てて、ケガレを忌避したとされている。この見立ては、勘定という地名にも影響を与えている。先述のとおり、勘定という地名の由来として伝わっているのは、漁師が多い地域で大きなお金の動きがある場所であったために、勘定奉行がいた地域であったからだという話である。また、現在の地図やバス停など、公式的なものとして使われているのも勘定という表記である。しかし、文献等で、読み方は同じく「かんじょう」であるが、「神城」という表記が用いられている場合がある。お話を聞いた谷本廣一郎氏によると、地域の人々には今でも親しみのある「神城」という表記は、島全域を神とする厳島神社に倣い、地区を神の島に見立てる考えから使われるようになった表記だという。長らく、勘定と神城という2つの表記が併用されていたのだが、公民館や青年団といったものが出来るにあたって、市役所等による公的な名称を定める必要性が浮上し、元々の勘定という表記で統一されたという。
 これらの信仰を集め、また広島の厳島神社の風習を受け入れ実行していた時代は確かにあったようだ。しかし、上記の信仰は今では失われたものも多い。例えば、悪疫や凶歳を
占う際に用いられた古杉は今現在では境内に存在しない。谷本氏によると、台風などで境内の大きな木は折れたり倒れたりし、神社そのものの屋根や、近隣の建物へも損傷の原因となったため伐採されたという。また、子種石に関しても、境内にそれらしき石は見当たらず、清家宮司はあったという事はご存知だったが現在に子種石そのものは伝わっていなかった。また、全てではないが、上記の風習の多くは今から数世代前に途絶えてしまったようである。

3. 十七夜祭り

 広島の厳島神社では、毎年旧暦の6月17日に管絃祭という祭りが行われている。この日付は、海上の神事であることから、潮の干満を考慮したものである。その日付から別名十七夜祭りとも言われるこの祭りは、平安時代に都で盛行した池や河川に船を浮かべて行う優雅な「管絃の遊び」が元になっていて、これを平清盛厳島神社に移し、神様をお慰めする神事として執り行うようになったものが現在行われている管絃祭の起源である。宮島全体が神とされ人が住めなかった時代には、対岸の地御前神社から厳島神社まで管絃船で管絃を合奏する神事であったが、島内に人が住むようになってからは、厳島神社から管絃船が出御し、地御前神社を経由し還御するという現在の形式へと変化した。この管絃祭という神事は宮島に限らず、瀬戸内沿岸各地で今に伝えられている。こうした各地の管絃祭も本来は海上が主であったと考えられているが、現在では「おかげんさん」「十七夜」という名称で、山間部や河川等でも多様な存続をしている。愛媛県でも各地にこの祭りが行われており、勘定の宮島神社では「十七夜祭り」という名称で、旧暦の6月17日に行われている。この祭りは県道を一つ神社側に入った旧道を中心に行われる。

写真7.右の県道と左の旧道が分岐する場所

写真8.旧道から見た宮嶋神社

祭りの際はこの旧道を宮嶋神社から50メートル程東に進んだ位置に鳥居が立てられる。地面に木の柱を建てるための穴があり、柱を立てたあとその周りを藁で巻き、山から採ってきた長さ50センチ程の杉の葉をそこに差し込んでいくのだ。すると、表面が緑の杉の葉で覆われた鳥居ができるのだという。鳥居の両側は旧道に沿って屋台が出るほか、鳥居の横にある日の丸みかん農産物集出荷施設の中も店が出るという。提灯が神社から鳥居を繋ぐように吊るされ、そのまま集出荷施設の間を海側へと伸び、県道沿いの海際には木の棒を中央にして富士山のような形で吊るされるようだ。現在でも、規模は縮小傾向にあるものの、このような形で執り行われている。

写真9.鳥居の芯を立てる穴

写真10.祭りの際に鳥居が立つ場所

写真11.日の丸みかん農産物集出荷施設

写真12.対岸から見た向灘

 今、向灘と対岸の大黒町や魚市場などとの交通は、昭和58年に完成した渡海橋(とうかいばし)を陸路で渡るのが一般的である。しかし、かつて向灘と対岸をつなぐ移動手段といえば渡海船(とうかいせん)が主流であった。谷本氏によると、今「フジグラン」や魚市場があるあたりから一銭で中浦へと渡る一銭渡海や、五銭で勘定のあたりまで渡る本渡海があったという。日常的に使われてもいたが、みかんの運搬にも利用されていたといい、大八車で船まで運ぶのも渡海船の役割だったという。昭和20年代には海岸道路ができた関係などから陸路がメインとなり、渡海船は姿を消したそうだ。さて、このように船で渡ることが当たり前だった時代には、宮嶋神社の祭りへも渡海船が使われていたのだが、昭和21年に強制力は無いものの、谷本氏をはじめとする有志の神城青年団が出来た後は、祭りの日に青年団が無料で、宮嶋神社の鳥居から真っ直ぐ海に出たところにあった雁木まで渡し舟を行っていたという。カタクチイワシをとる、四つ張り漁の船が20人程乗せられるもので、これを2艘借りて往復したそうだ。当時、年中行事の進行は青年団が担っており、青年団もそれをきちんと自覚していたことや、地域の人々も我が事として宮嶋様と向き合っていたということもあり、祭りとなると「宮嶋様のことだから」と青年団に船を貸してくれたと谷本氏はおっしゃっていた。これは対岸のマチの人々のためのものであったが、より昔は厳島管絃祭の海上御渡にあやかって向灘の各浦からも小舟に乗って参詣するという風習があった。戦後の十七夜祭りは八幡浜市でも有名で、宮島様の夏祭りということで娯楽のないマチの若者が大勢やってきて賑わっていたという。また、夜も遅くなると渡し舟の乗客はマチの飲み屋やキャバレー、花柳界の女性が多く、店が終わったあとに商売繁盛を願ってお参りした。なぜ商売繁盛というご利益が付与されたのかは分かってはいないが、「ここにお参りするとすっきりする」といった話もあったそうだ。これらの人々のお店はマチの中心ではなくはずれにあったという。

写真13.祭りに関する位置関係

写真14.山型の提灯を吊るすための土台

昭和の間はこのような賑わいが続いていたが、平成に入ってからは、お祭り自体は行われているものの、向灘以外からの参加者が減少し当時の賑わいは失われている。屋台も、戦後の全盛期には場所の取り合いになるほど集まっていたそうで、多くの人が氷屋やラムネ屋が来ていたとおっしゃっていたが、その時に比べると屋台の数も減っているという。また、時期の都合上、台風が重なることも多く、その影響で今年は提灯や鳥居が危険だということで設置されなかったそうだ。

4. 合祀の回避

向灘の五地区には、それぞれに地域の氏神となる神社がかつては存在した。しかし
昭和2年に勘定の宮嶋神社を除く四地区、六社の神社は権現山にある石鎚神社に合祀され、石鎚向日神社として祀られている。この際、宮嶋神社がなぜ合祀されなかったのかについて、考えられる理由を本章で記していく。まず、何度か触れたように、勘定奉行がいたというだけあって、元々他の集落よりも裕福であったと考えられる。面積、人口ともに五集落で最も規模が大きく、漁師の親方が多かったという事からも、漁業面で経済的に潤っていたということが分かる。さらにもう一つ裕福だった理由がある。アメリカ移民の先駆者である西井久八の生まれが勘定であったという事である。西井久八は1856年に勘定で生まれ、海外渡航を夢見て外国船の水夫として働き渡米し、洋食店や農地経営など様々な事業で成功し、大実業家となった人物である。その後久八自身が帰国し日本人を連れて渡米したこともある。また、久八の成功談が伝わっている八幡浜では、日米移民紳士協約が成立し渡米が難しくなったあとも密航による渡米が絶えなかった。このような背景で八幡浜地方からのアメリカ移民は非常に多いのだが、特に勘定は西井久八の生まれ故郷ということもあり渡航者が多く、向灘から渡航した計101名のうち56名が勘定からの渡航者である。西井久八の人脈を頼り、アメリカで成功した渡航者は故郷にお金を送ったため、渡航者の多い勘定では当然他の地区よりも経済的に潤ったと考えられる。
 宮嶋神社は、元々は海上安全や豊漁というご利益があり、海から近く漁師の多い勘定の人々にとってとても身近で、生活との関係が深い存在である。また、これまで様々紹介したとおり、その信仰は宮嶋神社だけではなく、勘定(神城)という地域全体としての意味合いが強いという事もあり、海の神、漁の神を自分たちの手で祀りたいという思いが強かったという事も考えられる。他の四地区の人々に、自分の地区の氏神様を自分たちの手で祀りたいという考えが無かったとは言えない。しかし、実際には神社の維持だけでなく、祭りや年中行事などを行いながら維持していくのは相当なコストと労力が必要となってくる。実際に、合祀以降勘定の宮嶋神社の氏子たちは、祭りに際して宮嶋神社、二重氏子である関係から八幡神社、さらに向灘として祀っている石鎚向日神社の3社の祭りに春夏それぞれに負担金が生じる。三ヶ所に負担金がかかるのは勘定だけであることから、谷本氏が世話役であった頃に負担金を減らしてもらったというが、それでもほかの地域より多くの負担金が必要であるといえる。もちろんそれ以外の理由との複合的な要因で合祀が行われたのは間違いないが、そういった点に関しては、勘定という地区の裕福な経済状況というのが合祀の回避の一因であったと考えられる。

結び

 これまで、宮嶋神社に関する信仰や祭りの事例について記述してきた。これらの信仰、習慣は今残っている物自体少なく、今の住民の数世代前までで途絶えたものや、或いはまさに今新たな世代に受け継がれなくなっているものも多かった。実際に安産にまつわる話などは、地域住民でも知らない方が多かった印象がある。しかし一方で、神社の由緒が広島の厳島神社にあることや、そこから持ってきた神印(神璽)の話については、今回お話を聞いたほとんどの人がご存知だった。そして、そのことに対する信頼感というのは非常に大きく、地域の人々には「由緒正しい宮嶋様はなんでも聞いてくださる」というふうに捉えられているようで、今では豊漁の神、安産の大神という風に特化しているわけではなく、「なんでも聞いて下さる」願いの中の1つとして豊漁や安産、或いは商売繁盛が位置づけられていると言えるだろう。

謝辞

 今回の調査にあたって、谷本廣一郎様と奥様、宮司の清家貞宏様、谷本様にお取次ぎいただいた総代長の岩切様、並びに聞き書きをさせていただいた向灘地区の方々をはじめ、色々とお世話になったみなと交流館など、その他本当に多くの方々にご協力頂きました事を、この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。

参考文献

・竹内理三 編,(1981),『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』,株式会社 角川書店
・野坂元良 編,(2002),『厳島信仰辞典』,戎光祥出版株式会社
・宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町市編さん室,(1987),『宮島の歴史と民俗
No.5』, 宮島町立宮島歴史民俗資料館
八幡浜市,(1987),『八幡浜市誌』,豊予社
八幡浜市誌編纂室,(2018),『合併10周年記念版 八幡浜市誌 第2巻 自然環境編 民俗・文化編 産業経済編』,八幡浜市
八幡浜市誌編纂室,(2018),『合併10周年記念版 八幡浜市誌 第4巻 写真集』,八幡浜市
・尾上悟楼庵,(2005),『八幡浜のまつり』,八幡浜新聞連載,八幡浜市民図書館 製本
八幡浜新聞港街抄録尾上悟楼庵 まつり物語⑥、⑧〜⑬
・福田アジオ他 編,(1999),『日本民俗大辞典 上』,株式会社吉川弘文館
愛媛県神社庁 http://ehime-jinjacho.jp/

地蔵の祀り直しと人々 −八幡浜市大平「おかげ地蔵」の事例−

                               社会学部 3回生
                                   大石桃子
はじめに
1. 七曲りと地蔵
1.1 里道と七曲り
1.2 七曲りと里道

2. おかげ地蔵
2.1 国道建設と地蔵の移動
2.2 宮本俊之氏と地蔵
2.3 地蔵の現在

3. 参る人と休む人
3.1 参る人
3.2 休む人

結び
謝辞
参考文献

はじめに
末法思想の流行とともに地獄での救済者として信仰された地蔵は、仏教の一菩薩として重要な役割を果たしつつ、現代においても人々の暮らしの中で「お地蔵さん」として身近に受容され受け継がれている。人口、人々の暮らし、土地といった様々な変化のなかで、その形、受容のされ方を変えながらもなお我々の生活の中で信仰され、生き続けているものである。本稿では、八幡浜市大平にある「おかげ地蔵」の研究を事例に、地蔵の移動と祀り方の変化、そして現代においてお地蔵さんが人々に受容されている在り方について論じる。

1. 七曲りと地蔵

1.1 里道と七曲り
現在八幡浜市大平から山を越えた保内町へ向かってのびる国道197号線沿いには、突然視界が開け、大平の町が見渡せる地点が存在する。何件かの家と小さな畑に囲まれた山の中に位置する地点であるが、周辺を見渡すと国道から外れたところに、細い道なき小道があり、そこからも大平から山への登山が可能となっている。現在でも特に舗装された跡はなく、人々が山中から八幡浜へと降りていく、いわゆる八幡浜への出入り道として作られた道だと考えられる。

写真1. 大平から国道197号線沿いへ続く小道
幼少期から八幡浜で生まれ育ったという60代ほどの住民の方によると、大平から保内町へ向かって上がってくる小道は、50年前の国道建設以前から存在する「里道」と呼ばれる道だという。里道は大平の町から延びてきて、現在の国道を渡って反対側にある山の中まで続いており、山中の小道は曲がりくねっていたことから人々から「七曲りの道」と名付けられ利用されていた。里道は現在でも存在し、人ひとりが歩けるほどの小さな道として利用されているが、山中に通っていた七曲りの道は国道建設の際のコンクリート舗装によって埋め立てられ、現在は存在していない。道路建設以前、七曲りの道は保内町まで続いた、人専用の道であったという。

写真2. 道路沿いの、コンクリートで舗装された山。道路建設以前、七曲りの道が通っていた。

1.2 七曲りと地蔵
 現在埋め立てられた七曲りの道には、道路建設以前、それぞれの曲がり角に小さなお地蔵さんが並んでいたという。おそらく七か所以上あったであろうその道の曲がり角に存在していたお地蔵さんは総勢で12〜13体ほどで、七曲りの道を通る人々に身近な地蔵として親しまれていた。その地蔵がいつ作られ、どうしてその角に配置されるようになったかは不明であるが、道を通る人々によってお供えがなされ、お世話されていたことから、地域住民に大切に信仰されていたものだと考えられる。

2. おかげ地蔵

2.1 国道建設と地蔵の移動
約50年前、高知県から大分県へ延びる国道197号線の一部として、八幡浜〜大洲間に国道が建設された。国道は大平から保内町まで続き、里道と七曲りの道を分断する形で建設されたため、安全のためとして舗装されたコンクリートによって、七曲りの道は埋め立てられ山の一部となった。その際、地域の人々は里道と七曲りの分断地点である平地に「名坂おかげ地蔵尊」を新設し、七曲りのそれぞれの角に存在した地蔵を回収したのち、地蔵をそこへ祀り直した。地蔵尊設立には、地域住民からの寄付金と八幡浜市の協力があったという。おかげ地蔵が設立された際、新たに7体の地蔵が祀られ、写真3の上7体の地蔵が新しくおかげ地蔵に備えられた地蔵、そして下12〜13体の地蔵が七曲りの道から回収された地蔵である。新たな7体の地蔵のうち、中心の地蔵を挟んだ左の3体と右の3体は六地蔵であり、左から金剛悲地蔵、金剛宝地蔵、金剛願地蔵、金剛撞地蔵、光放王、預天賀地蔵である。七曲りの道から回収された地蔵には、すべて赤い頭巾が着せられ、頭巾には「平成30年」という年号と寄付した方であろう人々の名が記されている。地蔵の周りにはぬいぐるみやおもちゃ、お菓子といった様々なお供え物が置かれており、地域住民の方からよく世話されていることがうかがえる。おかげ地蔵尊はプレハブの小屋であり、入って前方に地蔵が祀られ、そのすぐ左手には訪問者帳が置かれた机があり、建物の中にはいくつかの椅子と長机も設置されている。
プレハブを出て右側にはガラス張りの小さなボックスがあり、その中にもお地蔵さんが1体祀られている。(写真4)住民の方いわく、もともと七曲りから集められた地蔵はみなガラス張りのボックスの方に供えられていたが、数年前に1体を除いて他はみな中へと移されたという。道路建設以来、様々な変化はあったものの設立と同時に作られた石材やお供えとともに現在の形で落ち着いている。

写真3. おかげ地蔵尊に祀られている地蔵

写真4. 建物の外にある地蔵

写真5. おかげ地蔵尊と刻まれた石材

2.2 宮本俊之氏と地蔵
おかげ地蔵尊設立を成し遂げ、その管理・存続に率先して取り組んだ方が宮本俊之氏である。宮本氏は八幡浜市交通安全協会の会長を長年務めており、国道が建設された際おかげ地蔵尊を建て、3年前にお亡くなりになるまでずっと管理を担当していた。建設の際の寄付の募集や、年に一回の地蔵盆、お坊さんとのやり取り、そして地蔵尊の掃除や世話など地蔵尊の存続に尽力された。宮本氏が交通安全協会の会長であったことから、おかげ地蔵尊では交通安全講習が住民に向けて行われたり、警察官が訪問し住民と交流する場が設けられた。円満寺のお坊さんである武内氏によると、宮本氏と宮本氏の奥さんは頻繁にお寺に参拝に来られる熱心な仏教信者であり、地蔵供養と読経などにも熱心に取り組まれていたそうである。武内氏と交流のあった建徳寺のお坊さんが地蔵尊設立当時、読経のためおかげ地蔵を訪問しており、宮本氏ご夫妻はその建徳寺に月1.2回ほど参拝していたそうだ。交通安全協会の会長、そして熱心な仏教信者である宮本氏だからこそ、おかげ地蔵尊の設立・存続を成し得たのである。現在、地蔵の前には宮本氏が地蔵尊を世話している写真が飾られている。

2.3 地蔵の現在
 現在もおかげ地蔵尊はきれいに管理されており、毎日数人の参拝者が訪れている。現在の活動で最も大きなものは、おかげ地蔵尊設立以来、毎年5月に開催されている地蔵盆である。今年は5月24日に開催され数人の参加者が募ったという。しかし、参拝者の方の話によると、現在の地蔵盆祭りは以前と比べると参加者が少なく、参加しているほとんどは地域のお年寄りや病院の患者数人だという。以前はお餅まきなどが実施され、たくさんの人が参加したというが、現在では参加者が年々減少していてもの寂しい思いがするとおっしゃっていた。参加者が少なくなっている現状でもなお、今年の地蔵盆でも例年通り円満寺の武内氏によるお経念仏が行われ、その後交通安全協会の警察官による、お年寄りの方々に向けての交通安全講習が行われている。参加者の変化とともに、実施方法は変化しているが、毎年の地蔵盆は地域の人々に有意義なものとして行われ続けている。
 現在、おかげ地蔵尊を管理されている村上為彦氏の活動もおかげ地蔵尊存続において重要である。三年前に宮本氏がお亡くなりになって以来、管理を任され、お札の管理・地蔵尊の掃除を担っており、可能な限り毎日地蔵尊に参拝されている。熱心に管理を務められているが、村上氏いわく、村上氏一人での管理は大変であることから、今後は地域全体で地蔵尊を管理していくよう考えているという。

3. 参る人と休む人
おかげ地蔵尊には毎日数人の参拝者が訪れる。地蔵尊によく参拝するという方によると、主に訪れるのは、おかげ地蔵尊の熱心な信者の方、近辺の病院患者とそのお見舞い客、散歩途中の地域住民、地域の老人会の人々である。そして、四国八十八ヶ所のルートから外れているため珍しくはあるが、お遍路さんが地蔵尊の建物の中で寝泊まりすることもあるという。このように様々な参拝者が訪れるおかげ地蔵尊であるが、今回の研究で分かったことは、地蔵尊への朝の訪問者と夕方の訪問者の間には違いが存在し、訪れる目的、時間、過ごし方において両者特徴的であるということだ。
3.1 参る人
 朝に地蔵尊へ訪れる人は主に、地蔵へ参ることを目的に訪れている。およそ7〜10人ほどの地元の住民が朝、地蔵へ手を合わせて去っていく。お賽銭を入れ手を合わせ、地蔵尊で出会った人に一礼して地蔵尊を離れる人がほとんどだが、滞在時間は5分もないほどだ。自転車で通りすがりにお辞儀だけをして去ってゆく人もいた。朝9時ごろに訪れた方は、毎日大平から保内町までの散歩途中におかげ地蔵尊で手を合わせるのが日課だという。ご利益などは考えていないが、地蔵尊へ参ることが自分の健康と暮らしに良いと考えているそうだ。朝10時前に訪れたご夫婦は、毎朝おかげ地蔵に参拝し、願い事や家族の健康などを祈っているという。ご夫婦曰はく、おかげ地蔵はご利益があると評判で、各地から信仰者が訪れている。実際、おかげ地蔵のいわれやご利益について知ることはできなかったが、ご夫婦にとっておかげ地蔵は何でも叶えてくれる地蔵だという。朝の参拝者は、散歩の途中で立ち寄るといった人が多かったが、おかげ地蔵へは手を合わせ、自らの健康や幸せを願い、すぐに立ち去っていく、そしてまた次の日もその次の日も日課として地蔵へ参りに来るという人がほとんどである。


写真6.7 朝、参る人々

3.3 休む人
 夕方におかげ地蔵を訪れる人の特徴としては、地蔵尊に滞在する時間が長く、そこを休み場所として利用しているということだ。実際、地蔵に手を合わしてすぐ去っていく人もいたが、ほとんどの人は手を合わせに来るというよりも、中でゆっくり休むか、外の石段で誰かとゆっくり会話しに来る人が多い。地蔵尊は小さなプレハブ上の室内にあり、5〜6人が座れるベンチもあるため、ゆっくりと滞在できる休憩所になり得るのだ。朝に比べて、日が沈むころは訪問客は少なく3〜5人程度であったが、ベンチに腰掛ける人は、朝よりも多かった。おかげ地蔵の前の石段に腰かけてランニングの休憩をとっている人や地蔵尊の中で友人と待ち合わせしているという人はそれぞれ、地蔵尊を参る場所としてではなく、休む場所として利用しているようであった。また、三日間の研究の中で、実際夕方に訪れる訪問者に多く出会うことはできなかったものの、前日の日中にはなかった飲み終えた甘酒の缶が、次の日の朝に増えていたり、朝にたばこの吸い殻が増えていたという点で、夕方の訪問者が地蔵尊の中で滞在しゆっくり時間を過ごしていったということが考えられる。

写真8 研究2日目の夕方にあった甘酒のゴミ

写真9 3日目の朝には一つ増えていた。

結び
国道の建設とともに行われたおかげ地蔵尊の設立によって、山中に存在した地蔵は祀り直され、新たに祀られた地蔵とともに今もなお人々に信仰され受け継がれている。今回の実地調査によって明らかになったことは、地蔵尊誕生までの大きな動き、そして地蔵を訪れる人々と地蔵尊との関係である。おかげ地蔵尊は、朝、参拝する場として存在し、夕方は、休憩所としての役割も持つ。今もなお大切に守られているお地蔵さんは、人々の暮らしの中で様々な在り方で受容され続けている。

謝辞
本論文の執筆に際し、様々な方のご協力を頂きました。心から感謝申し上げます。お忙しい中、たくさんのお話を聞かせていただき、貴重な資料を提供してくださった村上為彦様、武内正和様には大変お世話になりました。皆様の協力なくしては本論の執筆は叶いませんでした。突然の訪問にもかかわらず真摯にご協力いただき、誠にありがとうございました。

参考文献
・小川直之(1996), 『歴史民俗学ノート-地蔵・斬首・日記-』吉川弘文館
・国道197号(大洲・八幡浜・西宇和間)地域高規格道路建設促進期成同盟会, 「国道197号「大洲・八幡浜自動車道」全線の早期完成を目指す」(http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2016052500014/files/2802.pdf, 8/10 アクセス)

神社合祀と祠のゆくえ―八幡浜市と向灘地域の事例―

社会学部 3年生
山田 彩世

【目次】
はじめに
1章 向灘と神社合祀
1−1 八幡浜市向灘
  1−1−1 勘定
  1−1−2 杖之浦
  1−1−3 大内浦
  1−1−4 中浦
  1−1−5 高城
 1−2 神社合祀 
  1−2−1 権現山
  1−2−2 神社合祀
  1−2−3 向日神社
2章 祠のゆくえ
 2−1 杖之浦
 2−2 大内浦
 2−3 中浦
 2−4 高城
3章 急傾斜地崩壊対策事業と一ノ宮神社の再興
 3−1 脇田神社
 3−2 急傾斜地崩壊対策事業
 3−3 一ノ宮神社の再興
結び


はじめに
 本稿では、愛媛県八幡浜市向灘地域の5つの地区の神社について取りあげる。勘定以外の地区にあった神社は1927年に権現山の上にある神社に合祀されたが、1つを除いて今もなお祠は現存している。今回の調査では、向灘地域に住んでいる人々に聞きとり調査を行い、残っていた資料とともに神社合祀と祠のゆくえを明らかにし、まとめたものである。


1章 向灘と神社合祀
1−1 八幡浜市向灘
 愛媛県八幡浜市の北西部に位置する向灘地域は、勘定・杖之浦・大内浦・中浦・高城の5つの地区から成る。北は権現山を経て保内町、南は八幡浜湾に接し、江戸時代初期にはすでに漁業や海運業が行われており、近年急速に市街地化した。また、今から約80年前の1927年までは各地区に1つ神社が存在していた。


▲向灘地区の地図(Googleマップより)

1−1−1 勘定
 勘定は別名「神城(かみしろ)」とも言われおり、厳島神社の本家の安芸の宮島が神の島ということから昭和の初めごろから「神城」と呼び始め、戦後に公民館活動が行われるに至って「神城公民館」が登場すると、いつの間にか「勘定」が「神城」に書き換えられていたという歴史がある。また、後朱雀天皇の永承年間(1046年〜1052年)に、勘定浦の漁師であった清兵衛がある夜の夢に市杵島姫命(別名:狭依毘売命)の姿を見て、安芸の国の厳島神社に参詣した。そして神璽を受けて帰郷し、これをわが家の祭神として祀っていたのち、勘定全体の氏神に発展したものが勘定にある宮嶋神社の所以である。


▲勘定 宮嶋神社


▲勘定 宮嶋神社

1−1−2 杖之浦
 杖之浦は古くは「天田」と称したが、「天は雨を降らし、田は水に緑あり、毎年、元水の災を蒙る」として、杖之浦と改めたという。杖は老を扶くるの儀をとり、遺陥を防がんとの願いによる改名だった。また、杖之浦は天保時代の八幡浜浦の地図には「つえのうら」では無く、「ついのうら」と書かれてあり、潰しの浦であることを示している。杖之浦地区では、土地の陥落するすることを「都恵奴気」という。これは潰え抜ける意であるが、部落ではこれを嫌って「杖之浦」に改めた。また、杖之浦には朧神社があった。斉2 (855)年、地震に次いで夏、大雨が降り、田畑の崩壊が続いた。これを恐れてスサノオノ命とクシナダ姫を祀り、出雲八重垣の故事に則り、土地堅確を祝し、氏神としたのが朧神社であると伝えられている。荒神として八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオノ命なれば、天災をも防ぐことができると考えたのが朧神社の祭神とした理由のようである。

1−1−3 大内浦
 大内浦には産敷神社・守神社があった。「産敷神社」「守神社」この2社は、大内浦の東西にあり、東を男神タカミムスビ神、西は女神・カミムスビ神という。産敷神社を本社として、守神社は境外末社である。向灘に人が住み始めたのは古い時代からだが、上古草創の時代、海はひどく荒れて山では猛獣が威を振るっていた。そのため魚介・穀物類は取れず、住民は食糧難に陥っていた。養老4 (720)年、清家貞綱はそのような民衆の請いを入れて、男・女神の2廟を大内浦の東西に創建した。また、平家一門が西海に逃れたとき、安徳天皇をこの大内浦にかくまっていた。天皇のいるところを大内山ということから、この地区を大内浦と呼んだ。

1−1−4 中浦
 中浦には敷地神社があった。「敷地神社」はむかし、向灘一帯の山に鹿の大群が棲息して田畑の作物を食い荒らしていた。これを踏まえ、矢野神山の八幡宮清家治部太夫貞綱が五穀豊穣のため、神亀元(724)年、一宮神社を勧請して中浦産土神としてお祀りしたのが「敷地神社」である。春秋の大祭には八幡宮古伝の神楽32番が奉納され、大きくにぎわったものだった。惜しくも明治7年、戦火のため社殿類焼し、棟礼や日記などの記録は残存していない。

1−1−5 高城
 天授年間(1374~1379年)に萩森城主・宇都宮公綱の侍大将、向井源蔵が向灘の近辺を守護していた。その居城を高城と呼んだため、部落の名も高城と呼ぶようになった。また、源蔵は一宮大神を信仰し、弓矢冥加守護神と仰いでいた。その後、天正13 (1585)年、萩森落城後は高城浦の産土神として高城の一宮神社に祀られ、崇高をあつめていた。

1−2 神社合祀 
1−2−1 権現山
 向灘地域の北に位置する讃岐山、通称「権現山」にはもともと石鎚山を神体山とする石鎚神社が鎮座されていた。昭和2年9月28日に杖之浦の朧神社、大内浦の産敷神社・守神社、中浦の敷地神社、高城の一宮神社と石鎚神社を合併合祀した。

1−2−2 神社合祀
 昭和2年9月28日に勘定の宮嶋神社を除く残り4つの地区にあった神社は権現山の石鎚神社に合祀された。その際に石鎚神社は「向日神社」に改称された。
合祀理由としては主に3つ挙げられる。1つ目は当時4つの地区で行われていたお祭りを住民はそれぞれ行き来していたので、合理的に1つにまとめるためである。2つ目は神社の維持が大変でお金もかかるためである。合祀すると管理責任は各地区ではなく八幡神社になる。3つ目は権現山にはもともと石鎚神社が鎮座していたが、参拝者が少なかったため、合祀して参拝者を増やすためである。また、近くの神社に合祀されなかった理由としては、近くに広い土地が無かった、4つの地区から平等な距離にあるところに置くため権現山に上げた、とされている。
 勘定の宮嶋神社だけは由緒がはっきりしており、部落の財政状況も豊かであり、神社経営に支障がなかったため合祀されなかった。

1−2−3 向日神社
 向日神社がある権現山では、毎年旧暦6月1日にお山開きが行われる。1年ごとに向灘の5地区を持ち回りで公民館にてお神楽を行う。前日の宵宮祭では宮司さんは山の上で神事を行い、御神像を拝戴し、公民館に持って行く。当日は本祭りが行われ、祠の前に御神像を置き、お供え、神事、お神楽の順で祭りが進んで行く。普段御神像は向日神社にあるので、お祭りの日は拝む対象をつくるために御神像が下ろされる。
 平成20年、向日神社に祀られている各部落の氏神様の本殿がかなり古くなっていたので、高城の一宮神社の常任総代である若松正氏が中心となって新しく建て替えた。この際、一宮神社のみを建て替えるのではなく、4部落同時に行うことで費用が安く済むという理由から4社同時に建て替えられた。


▲若松正氏


▲建て替え前の本殿


▲建て替え後の本殿


▲御神像

2章 祠のゆくえ
2−1 杖之浦
 現在朧神社の跡地には御神体は無いものの、祠と鳥居は残されており、祠の周りには千羽鶴やみかんがお供えされている。また、現在残っている祠と鳥居は昭和48年3月吉日に再建されたものである。


▲現在の朧神社 
     

▲朧神社の鳥居右下


▲朧神社の祠

2−2 大内浦
 現在は、大内浦公民館の裏に祠だけが残っている。神社名は書かれていない。今でもお山開きのお神楽をする際は祠の前に向日神社の御神像をお祀りするという。


▲大内浦公民館の前


▲大内浦公民館の入り口


▲大内浦公民館の裏の祠

2−3 中浦
 明治7年、戦火で社殿類焼したため、鳥居も祠も残っていないが、神社跡地ということで土地が売れないため、現在敷地神社の跡地には柑橘系の木が植えられている。

2−4 高城
 一宮神社の御神体は合祀によって向日神社にある本殿に移されたが、祠だけ脇田という
ところに移された。現在、一宮神社の跡地はアパートが建てられている。


中浦 敷地神社跡地


▲高城 一宮神社跡地

3章 急傾斜地崩壊対策事業と一ノ宮神社の再興
3−1 脇田神社
 一宮神社は合祀後、祠だけ脇田というところに移された。移されたところはたまたま村上さんという人の土地であり、年月が経つにつれてその祠が一宮神社のものだということは忘れられ、人々は脇田神社や村上神社と呼ぶようになっていた。

3−2 急傾斜地崩壊対策事業
 急傾斜地崩壊対策事業とは、当時昭和46年の市会議員を務めていた谷本廣一郎氏によって進められた事業である。杖之浦にある谷本さんの姉の家の裏が崩れ、県と市にお願いして工事をすることになったが、当時は莫大な工事費がかかった。しかし、姉の家はトロール漁船に乗っていたため、収入があり、隣人もトロール漁船の親方ということで負担金1軒あたり200万円~300万円で工事を行った。工事後、裏は崩れなくなり、周辺住民も工事を行いたかったが、負担金の額を聞いて工事を諦めた。谷本氏が負担金のない公式の工事をしてもらえるように声をあげたが、市も県も取り上げてくれなかった。地元の人からは家の裏の崩壊に対して何とかして欲しいとの声が沢山あがり、それを受けて谷本氏が県へ猛烈に抗議をした結果、県と市が9割、土地を持っている住民が1割の負担をするということが決まった。しかし1割の負担も出せない住民のために、さらに谷本氏が議会で3年間訴え続け、県費で全額工事費を出すことが決定した。住民は工事負担金が無いということで土地を無償で提供し、急速に急傾斜地の工事が進んでいった。今では市内全域の危険区域の工事にまで発展し、県自ら急傾斜地崩壊対策事業に積極的に取り組んでいる。
 
3−3 一ノ宮神社の再興
 今から約20年前、村上さんの土地も急傾斜地崩壊対策事業の工事が入ると言われ、土地の中にあった通称脇田神社の祠を移動しなければいけなくなった。そこで祠を開けてみると「一ノ宮神社」と書かれた木の札が出てきた。当時神社の常任総代であった若松氏をはじめ20人の人が集まって、その神社の名前を「一ノ宮神社」とすることに決めた。そこで、たまたま村上さんの土地に祠があっただけで村上さんの所有物ではなかったので、工事のために祠を高城地区が移転させ、高城地区のものとして祀ることになった。


▲谷本氏夫妻


▲高城 移転後の一ノ宮神社


▲高城 一ノ宮神社の祠

結び
向灘地域の事例によると、神社合祀され、御神体向日神社の本殿にあるにも関わらず、残存している祠に拝む人がいることが分かった。本来なら祠には拝む対象がいないはずだが、合祀したからと言って御神体がいないと言うわけではなく、残存している神社にも神様がいる人々は考えている。さらに、一宮神社の事例は合祀後に移転され、長いときを経て現在一ノ宮神社として合祀されたはずの神社が同じ名前で再興されている。

※高城の一宮神社は移転前の記録には「一宮神社」として残されていたため、移転前のものを指す際は「一ノ宮神社」ではなく「一宮神社」と本稿では記載している。

謝辞
 今回の論文作成にあたって沢山の方にご協力いただきました。一緒に聞いてまわってくださった尾下熟様、大変貴重な資料を提供してくださった若松正様、清家貞文様、何度もお話を聞かせていただいた谷本廣一郎様、調査に協力してくださった八幡浜の皆様のおかげで本論文を完成させることができました。お忙しい中、突然の訪問に対応していただき本当にありがとうございました。

参考文献
・「愛媛県神社庁」,〈ehime-jinjacho.jp/〉2018年5月15日アクセス.
・下中邦彦編(1980)『日本歴史地名体系第39巻 愛媛県の地名』平凡社
・竹内理三編(1981)『角川日本地名大辞典 38愛媛県角川書店
・一宮神社の復旧(新築)工事について
八幡浜新聞港町抄録尾上悟楼庵 まつり物語⑨~⑩

四万十の「大文字」

社会学部 森田 麻中

【目次】

はじめに

1.「小京都中村」の大文字

2.間崎地区と「大文字」

3.「大文字」をめぐる歴史認識

結び

謝辞

参考文献

はじめに

 現在の高知県四万十市間崎には十代地山という、地元の人々からは大文字山と呼ばれている山があり、そこでは毎年旧暦7月16日にあたる日に大文字の送り火を行っている。この間崎地区における大文字の送り火は横一の長さが23m、人の字の長さは左右ともに25m、字の幅は3mの白抜きになっており、右と左の払いの字の先が細くなった大の字に火を灯す行事である。大文字といえば、有名で規模も大きいもので、京都で古くから行われている大文字五山の送り火がある。
この通称「大文字」は京を囲む五山で点される送り火であることから、正式には「大文字五山の送り火」ともいう。見物人も繰り出す大規模な祭りという意味からは大文字祭礼と呼びうる。大文字五山送り火は毎年8月16日の盆の翌日に行われる仏教的な行事であり、ふたたび冥府に帰る精霊を送るという意味を持っている。「大文字」「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」の五山で点火される送り盆の行事である。大文字五山の送り火の起源や創始年代については、これほど大規模な祭り、行事であるのにもかかわらず、不思議とわかっていない。

 なぜ、四万十市で大文字が行われるようになったか、というと応仁の乱をさけてやってきた一条公が持ってきたとされている。それについて調べたことを論じていく。

1.「小京都中村」の大文字

 間崎地区は中村駅から10㎞程移動したところにある地域であり、そこに地域の人から大文字山と呼ばれる十代地山がある。この大文字山は茶わんをふせたような形をした山であり、山の右側に後ろから回り込む形で山頂までの山道が整備されている。山頂には山の神をまつる小さな祠がある。その山の神をまつる祠は長い年月と雨風で傷んでしまっていたため2年ほど前に補強工事が施工された。

写真1・大文字山

間崎の大文字山送り火は今から500年前に始まったといわれている。大文字山のふもとにある、高知県環境共生課によって立てられた大文字の送り火についての立て札にはこのように記されている。

今から五百年有余年前、前関白一条教房公は、京都の戦乱をさけて家領の中村に下向され、京に模した町づくりを行った。東山、鴨川、祇園等京都にちなんだ地名をはじめ、町並みも中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
この大文字山送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良、父教房の精霊を送るとともに、みやびやかな京都に対する思慕の念から始めたと、この間崎地区では言い伝えられている。現在も旧盆の十六日には、間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている。

写真2・山のふもとの立て札

この看板に記されている通り、中村の町は500年前、応仁の乱に戦禍をさけて家領の中村に下向された一条家に関係している。下向してきた一条教房は京都に模した町づくりを行ったため、中村の中心は一条神社や碁盤の目になった町並みが残っている。中村に来、13年後58才で教房はなくなり、後を息子である房家が継いだ。この大文字の送り火は二代目房家が祖父の兼良、父の教房の精霊を送るため、また宗を懐かしんで始めたとも言われている。この大文字の送り火は間崎の人々が自分たちで行っている行事であり口伝で伝えられ、やり方も古くから間崎に住む人々の間で共有され、今日まで受け継がれている。

2.間崎地区と「大文字」

 この章では実際にどのように大文字の送り火が行われているかについて論じようと思う。

間崎の大文字は間崎地区を昔は7つに分けていたが、現在は全部で4つの地区に分け、毎年交代で当番をしている。その年の当番に当たった地区から話し合いで選出される当番長は什長と呼ばれ、一年の任期の間様々な仕事を担当する。什長というのは元々、軍のひとまとめのことで、10軒でひとつにしていたことからそう呼ばれるようになったと言われている。この大文字で使われるまきを事前に準備するための各方面への連絡や、当日の神事や食事の手配などこの大文字の送り火も什長が中心となって進められている。

 実際の流れとして、大文字の送り火は朝から準備される。大文字山の整備は朝から行われ、草刈りや去年の炭の片づけなどを行う。それから大の字の形にまきを並べるのだが、まきはあらかじめ調達し、準備したものである。全部で92世帯の各世帯からまきを1束ずつ集めているが、大文字を40分ほど燃え続けさせるためには大量に必要であり、足りない分のまきは製材店で補充している。そのまきを鉈やチェーンソーで適当なサイズに割り、それを麻紐で束ねておくという作業を10人で3日間ほどかけてやっておく。当日には山頂までその準備しておいた大量のまきを運び、大の字形に並べ、紐をほどいて組む。すぐに火が消えてしまわぬよう、また火がまきに移りやすいよう、布に灯油を染みこませたものをまきの下に仕込んでおき、一画目の横棒の最初の方にはまきを多めにし、あとの方に書く字はまきを少なめにする。そのまきを更に大文字を昔から知っているご年配の方からアドバイスを受けつつ字がぼやけないようにまきの位置や量を微調整して準備をしておく。また、雨が予想された年はまきの上にブルーシートを直前まで点火直前まで被せておいたという。大雨が降った年になかなか火が付かなかったことはあったが、その年もなんとか火は灯せたので、雨で中止になったことは記憶にある限りないそうだ。

 この十代地山の頂上には山の神を祀る祠があり、祠そのものは2年前ほど前に崩れかけていたものを修復している。この山の神については、元々山の神がいて仕事に従事していた人たちがいたか、山の神を祭っていた人たちがいたかであろうが、そこに一条氏が目を付けたのではないか。祭っていた神様は、大物主ではないか、などと言われているがはっきりしたことはわかっていない。朝の準備を終え、軽く腹ごしらえとおみきを入れてから、17時頃になればこの十代地山にて神事を行う。山の神へのお供え物として持ち寄った米、酒、鯛などの魚、果物、野菜、椎茸や昆布などの乾物、お菓子を並べる。上の段には左から魚、米、酒を、下の段にはかし、果物、乾物、野菜を供え、祝詞をあげ、榊を台にあげてお奉りをする。そして、五穀豊穣と地域の人々の健康、安寧を願ってお祈りする。

写真3・山の頂上の祠

 18時半ごろになると大文字山の近くの広場、四万十市野鳥自然公園で盆踊りが催される。この盆踊りは大雨で中止になったり、昔戦時中に途切れたりすることはあったものの戦後は中止と復活を繰り返しつつも、現在は続いている。盆踊りを踊ったり、太鼓を披露したりと大文字点火が始まるまで催され、大文字が点火される19時になると一度中断される。大文字の点火前にも組んでおいた灯油を含んだ布とまきの上から灯油をかけておき、19時になると大文字点火の合図である煙火があがる。この大文字の点火作業に使われるトーチは竹を切り出したものであり、長さは1mほど、トーチの先には灯油を含んだ布がつけられている。この煙火を合図にそのトーチに火をつけ、点火する際は二人一組になって火をつけていく。まずは一画目の横画を左から右に声を掛け合いながら同時に灯していく。一画目が終わると上に戻り、二画目の左の払いの部分を灯していく。二画目が終われば再び上に戻り、三画目の右はらいを灯していく。二画目と三画目の点火作業に当たる人は一画目と交わる部分が高熱になり、灯せば上に戻らないといけないので特に大変である。昔はまきを組む作業から男性だけで行われていたが今は人手不足もあり、まきを組む作業も女性が行っている。この点火作業はだいたい7、8人で行われ、危険な作業なので男性のみで行われている。
 この大文字が完成する19時15分頃になると式典が近くの四万十市野鳥公園の広場で行われ、地区長の挨拶のあと、市長と市議会議員が祝辞を述べ、それから再び、盆踊りが再開される。大文字は40分ぐらい燃え続け、20時頃になれば水をかけて火を消す。消火を終えてからの下山は21時ぐらいであり、それでようやく大文字の送り火の一日が終了する。

3.「大文字」をめぐる歴史認識

 この大文字の送り火の起源に関しての資料や文献は残っておらず、この大文字の送り火は口伝で伝わっている。地域全体を4つの組に分け、当番什長を選出し、その当番まとまった組が一年の行事を担当する。この大文字の送り火にいたっても朝からこんな手順でどのぐらいのまきを組んでというのも当番の什長の判断に任され、細かいところは昔から大文字を知っている年配のご老人に指導してもらうなどで伝わっているのである。

 大文字の送り火に関しては前述の通り、一条公に由来し、その起源は500年前にあると言われ、今日まで続いているという。だが、この一条公ゆかりの通説と500年の歴史を揺るがしかねない出来事があった。その出来事とは現在の間崎地区長である中山典夫氏の娘である中山知意氏が当時小学生のとき書いた自由研究で、『「間崎大文字の送り火」について』という祖母から大文字について聞き取りをして書かれたもので、自由研究の第二章「間崎の人々のなげき、祖母のなげき」に記されている。それは次のような内容のものである。

 二、間崎の人々のなげき、祖母のなげき
 今年の六月十三日、間崎中の人々がなげくような出来事がありました。その日の新聞に『間崎大文字の送り火、一条公ゆかりの通説はくつがえされる。五百年の歴史は、実は二百五十年であった。市文化財保護審が確認』という記事がでたということです。つまり、大文字の送り火が『一条公ゆかりのものではない』というのです。間崎の人々にとって、本当に、寝耳に水のおどろきでした。
 一条公ゆかりという文献資料があるわけでもないし、あくまでも伝承されたものであるから、異説の出ることもあるだろうが、その書き方が、あまりに人の心をきずつけるものであったから、部落の人々は話し合い、このことについて市の関係者の説明を求めることにしたそうです。
 そのために、部落の人たちが調べてみると、この異説は、まだ研究段階であり、あの記事は、一部の人の話を聞いて新聞社が勝手に作ったことが分かったそうです。
 二百五十年でも、五百年でも、長い伝統のある送り火です。今からも間崎の人々に、親から子へ、子から孫へと受け継がれていくでしょう。でも、やっぱり、間崎で生まれ育った私も『一条公ゆかり』『五百年の歴史』の説であってほしいと願っています。

写真4・「間崎大文字の送り火」自由研究

 この自由研究では今から28年前に発行された高知新聞に「一条公ゆかりのものでない」「500年の歴史はない」という記事が掲載され、今まで間崎地区に口伝えで代々伝わってきた大文字の送り火の伝承とは食い違う内容の新聞記事に対して嘆き悲しむ間崎住民の思いが書かれている。この自由研究中に出てくる高知新聞は平成2年6月13日の記事で、次のような記事が記されている。

 中村市間崎に古くから伝わり、これまで一条氏が始めた、とされていた大文字の送り火の起源について、市文化財保護議会(山本恒男会長)が「通説より二百年遅い江戸中期、享保年間」とする資料を確認した。同審議会は「地元民が営々と伝えてきた貴重な文化に変わりはない」として、近く、同行事を文化指定するよう市教委に答申する見込みだが、通説が覆されるだけに今後は波紋を広げそうだ。
(中略)
 今回、同審議会が「送り火が始まったのが江戸中期」とした最大の根拠は、江戸後期の文化八年(一八一一年)に山之内家の家老だった深尾氏の家臣で、国学者の岡宗泰純が著した『西郊余翰』(「南路志翼四十二」に原本収容)の記述。
幡多地域一帯を見聞した泰純はこの中で「間崎村西山の山腹に大文字あり」と記したうえで、「享保年中見善寺の僧侶江翁良邑京都東山に模して作りたりとそ」(原文のまま)と、享保年間(一七一六‐一七三六年)に現在の間崎の薬師堂近くにあったとされる見善寺の僧りょが始めたものであることを紹介。さらに送り火について「世々一条公の名残といへとも左にあらす」と、当時から既に伝わっていた「一条公ゆかり」説を否定している。「僧侶江翁良邑」がどんな人物だったか今のところはっきりしないが、ある郷土史家は「「『西郊余翰』」は審議会が史料収集中に確認した送り火に関する最も古い文書で、享保時代に始まったことはまず間違いない」。また、別の郷土史家も「一条公ゆかり」というのは一条文化への誇りから生まれた一つの『伝承』だろう」と結論付けている。


写真5・『高知新聞』1990年6月13日付、大文字の送り火についての記事

この新聞記事に根拠として取り扱われていた『西郊余翰』の原本が収容されているという「南路志翼」について、『国書総目録』(岩波書店)を参照したが『南路志』しか載っておらず、『南路志』の間崎村についての記載もすべて確認したのだが、『西郊余翰』及び「南路志翼」は見当たらなかった。この『西郊余翰』は江戸時代後期の国学者、岡宗泰純によってかかれたとされている。『西郊余翰』そのものは柳田国男が『雪国の春』(角川学芸出版)を著した際、一部は引用されているのだが、『西郊余翰』の全貌ははっきりとしていない。
 『中村市史』(第一法規出版)には大文字の送り火についての口絵には大文字が載っているが大文字に関する記述はなく、『中世土佐幡多荘の寺院と地域社会』(リーブル出版)と『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院)の中世と一条氏を取り上げた2冊本を参照しても大文字の記述はなかった。かつて間崎地区に見善寺という寺はあったであろうが、享保時代からなのか、僧侶が始めたのかまでは明らかにされていない。現在の間崎地区には薬師堂は存在しているが、見善寺が存在したということは伝わっていないという。

 前述の通り、間崎の大文字はほとんど口伝えの伝承であり、大文字に関しての資料や文献は残っていないが、間崎地区に住む人々によって今日まで伝えられているのである。
『間崎の人々のなげき、祖母のなげき』の自由研究では大文字の送り火に500年の歴史はなく、250年の歴史で享保時代に始まったといわれ、なげき悲しむ間崎の人々の思いが記されている。「500年の歴史はない」「一条公ゆかりではない」と書かれた新聞の記事に対して悲しみ、説明を求める程に「500年続いている」「一条公ゆかりであってほしい」ということが間崎地区に住む人々の歴史認識なのである。

謝辞

今回の論文作成にあたって、ご協力をいただいた中山典夫様、娘の知意様。薮ご夫妻様。そしてごお話を聞かせていただいた間崎にお住いのみなさま。お忙しい中、お話していただき本当にありがとうございました。皆様のご協力なしにこの論文を書き上げることは叶いませんでした。心より感謝申し上げます。


参考文献

和崎春日『大文字の都市人類学的研究−左大文字を中心として』(1996年、刀水書房)

市村高男『中世土佐の世界と一条氏』(2010年、高志書院)

東近伸『中世土佐幡多荘の寺院と地域社会』(2014年、リーブル出版)

中村市史編纂委員会『中村市史続編』(1984年、第一法規出版)

炭焼きの人生ー四万十市 今城正剛氏の事例ー

社会学部 山田 馨

[目次]

はじめに

第一章 三原村での炭焼き
第二章 椎葉村
第三章 幡木材センター
第四章 炭焼きの復活

むすび
謝辞 
参考文献

はじめに
 木炭は1950年代までは主に燃料として使用されていたが、ガスや電気の普及で木炭はほとんど使われなくなった。2006年に海外からの輸入量が国内生産量の10倍を超え、現在も輸入量が国内生産量を上回っており、国内での生産量は減少している。
 白炭とは黒炭よりも硬くて炭素を含む割合も大きく、火力が強く長持ちする点を特徴とする木炭で、その分白炭を焼くには技術が必要となる。中でも原料としてカシやウバメガシといった硬い材質の木を使用した白炭のことを備長炭と呼ぶ。
 本稿では、10代のころ炭焼きを行っており現在炭焼きを再開し、四万十市で唯一備長炭を生産している今城正剛氏の事例について取り上げる。

第一章 三原村での炭焼き
 今城正剛氏は、1939年2月15日に高知県三原村で8人兄弟の5人目として生まれた。13歳から15歳まで、3つ上の兄と2人で山小屋に住み、学校に通いながら炭を焼いて家を支えた。もともと炭焼きは農民が農作業の合間に行う仕事で、三原村でも多くの人が白炭を焼いて生活していた。当時三原村は開拓地として開拓されており、吾川郡安芸郡の人たちも開拓地を求めて開拓し農地を作り、人口が増加していた。畑では麦やイモ、タバコの葉を作り多くの人が生活していた。毎朝麦と米を10:1で混ぜて薪で米を炊き、電気も通っていなく娯楽もない中、火を焚いた明かりの中で生活していた。三原村は東西南北にとても広く、4年生までの分校もありとても賑やかな村だった。今城氏が暮らす村にも特別に分校ができ、先生も住宅付きで来られていた。

第二章 椎葉村
 15歳の時、兄が高校に行き、今城氏は三原村を出て一人で宮崎県椎葉村に行き炭焼きを続けることにした。地図を見て場所を山が広い九州に決め、宿毛から船で別府に向かい、そこから列車に乗り宮崎県延岡市へ、そこからバスに乗り宮崎県椎葉村に到着した。布団を丸めて担いで持っていき、山の中に小屋を建ててその布団を敷いただけの場所で生活し、炭を焼いた。    
 木を切るためには6万5000円の山代が必要だったが、そのお金がないため農協に借りに行った。しかし15歳の少年が一人で山にこもって炭を焼くといっても、初めは全く相手にしてもらえずお金を借りることができなかった。何度も組合の方と話すことで信用され、組合のお金は貸すことができないが個人のお金なら貸してもいいと言ってもらうことができた。そのお金で山を買い、そこから2年間木切りから1人で行い、山の中にこもって炭を焼いた。出来上がった炭は農協に持っていって売り、そのお金で米などを買って生活し、仕送りもできた。

第三章 幡多木材センター
 17歳の時、椎葉村で買った分の山を切り終え、三原村に帰った。三原村では3年ほど炭焼きをし、兄の建築の仕事の手伝いをした。主に材木の裁断や建築用材の製材を行った。
 1964年、25歳のときに中村に移り住んだ。建築の仕事を5年ほどして、兄が製材を設立することになり、それを預かって経営した。その後受け取り自営となり、幡多木材センターとして愛媛県宇和島まで建築用材を販売して働いた。
 62歳の時、材木センターを息子に譲り、その後は趣味のゴルフや、中村で11年間歌謡ショーを開催していた。歌謡ショーは毎年6月に行われ、地元の歌好きな人たちが集まり演奏や歌唱をした。750人ほど収容できる会場だったが、多い時には1000人集まったほどの人気なイベントだった。


第四章 炭焼きの復活
 今城氏は、友人から中村に黒炭を焼く人はいるが白炭を焼く人がいないという話を聞き、炭焼きを再開することに決めた。そして2016年、76歳のとき高知県四万十市実崎に炭窯をつくり炭焼きを再開した。


(写真1)今城正剛氏・千恵子氏


(写真2)炭窯の入口


(写真3)釜の様子①


(写真4)釜の様子②

 窯には30㎝程の穴が6個あり、この穴から木を入れて炭を焼いている。備長炭を焼くにはウバメガシやカシなど硬い材質の木が必要で、ここではカシの木を使って炭を焼いている。出来上がった備長炭は焼き鳥屋に持って行って使われたりBBQセットの販売を行ったり、四万十市にある珈琲店では炭焼き珈琲に使用されている。


(写真5)カシの木


(写真6)焼き上がった備長炭


(写真7)焼き上がった備長炭
 
今城氏の炭焼きの活動は地元の高知新聞に掲載された。

(写真8)高知新聞 2017年 3月27日

 今城氏が炭焼きを再開した理由は四万十市に白炭を焼く人がいないと聞いた際に焼いたことがあるため自分にならできると思ったこと、また、若者に炭を焼く楽しみを伝え残したいという思いからだった。しかし、昔の白炭と今の備長炭には多大な差があるため、再開には多くの問題が生じて大変だった。
炭焼きは楽しみもあるが、炭に焼きあがるまでの過程の調整にスリルがあるそうだ。現在は2人の若者が楽しみながら働いている。
 炭を焼く木は20年ほどで丁度よい木になるが、現在の木は60年ほど過ぎているので少し大きくなり、手間がかかる。カシやウバメガシにはたくさん実が付き、動物のえさとなり農家の方々が農作物を荒らされることがなくなると考えている。そのためカシやウバメガシの木を新たに植え、災害に強い山にして広葉樹を日本中に広めてほしいと願っている。
 炭を焼きたい若者がきても、1つの窯で2人以上は経済的に厳しい。四万十市に若者の働く場を増やしたいと日々炭焼きに励んでいる。

むすび
・現在四万十市で唯一備長炭を焼いている今城氏は、高知県三原村、宮崎県椎葉村で炭を焼いていた。そして炭焼きを離れてからも兄の建築業の手伝いや木材センターの経営など、木材にかかわった仕事をおこなってきた。
・若者に炭を焼く楽しみを伝え残したい、四万十市に若者の働く場を増やしたいという思いから炭焼きを再開した。
・炭を焼くことには楽しみもあるが、炭が焼き上がるまでの過程にスリルがあり面白い。
・カシやウバメガシの木が新たに植えられて広葉樹が日本中に広まること、もっと釜を作り若者が働ける場所となることを望んでいる。

謝辞
 本論文執筆にあたりご協力いただいた今城正剛様、千恵子様、お忙しい中何度もお話をしていただき、ありがとうございました。炭焼きについて教えてくださり、また、ご自身の炭焼きの経験について貴重なお話をしていただきました。心より感謝申し上げます。

参考文献
「図説土佐備長炭 21世紀に伝えたいこと」飛鳥出版室、2013
聞き書き紀州備長炭に生きる:ウバメガシの森から」農産漁村文化協会、2007
「炭焼きの20世紀―書置きとしての歴史から未来へ」彩流社、2003
「民俗の技術」朝倉書店、1998

遍路と渡し−四万十市 下田・初崎間の渡船を巡って−

社会学部 門田凌

【目次】
はじめに
1、四万十市下田
2、下田の渡船
3、渡船の廃止と復活
結び
謝辞
参考文献


はじめに
 全国には河川や港湾の両岸を往復し人々を運ぶ渡船が約38か所存在する。フェリーや水上バスを除くと、現在運航しているものは、東は岩手県北上市北上川渡し、西は長崎県西海市の瀬川汽船と広く存在する。
 今回はその中の一つ、高知県四万十市四万十川河口付近で運航する「下田・初崎渡し」を取り上げる。2005年までは四万十市営(旧中村市)で運航され、2009年からは地元住民らによる「下田の渡し保存会」によって運航されている。
 公営であった渡船が廃止され、ブランクを経て地元有志によって運航されていく経緯と下田とお遍路の関係について書いていく。


1、四万十市下田
 高知県四万十市は県の南西に位置し、太平洋に面した両隣にはカツオ漁で有名な佐賀の黒潮町、四国最南端の足摺岬がある土佐清水市が隣接している。四国最長で最後の清流と呼ばれる四万十川が市全域に流れており、沈下橋、屋形船などの観光名所が多数存在する。
 事例として取り上げる下田地区は四万十川河口部分を指し、古くは河口の一大拠点として隆盛を極めた。ここから炭を中心に材木、和紙などを積んで大阪や神戸の阪神地域に出荷された。阪神地域からも塩、米などが持ち込まれ、それらを一時保管する大型木造倉庫も建てられていた。現在は地区の下半分が居住地区と漁港、上半分にはキャンプ場や温泉などレジャー施設が点在している。

図1 四万十川河口下田地区(国土地理院より引用)

写真1 下田の街並み


2、下田の渡舟
 四万十川にはかつて数多くの渡船が存在し、渡し舟にはおよそ3種類存在した。
①架線・滑車式渡し舟――滑車と舟をワイヤーで繋いで川の流れで動かす。
②架線と手繰り網を使って舟を動かす。
③櫓舟で運航する。――経営母体は県営・市営・村営・私営がある。
 運航形態としては個人の善意で運航されたものや、番人がいて渡し賃を取っていたものもあった。渡し賃を取るにしても村民は無料だが部外者は有料といったケースも存在した。昭和時代には四万十川の約20か所で運航され、個人間での申し合わせで運航されていたものを含めるともっと数は多い。
 今回取り上げる四万十川下流の下田の渡船は、上記地図の下田港から対岸の初崎までを結んでいる。タイプは③で、昭和初期から存在し昭和40年代まではいわゆる個人の申し合わせで運航され、そこからは市営で行われた。1976年からは約30年、市の所有である「みなと丸」で運航されてきた。同船は、定員13名、運賃大人100円で1日5回運航されていた。
 1996年にはこの渡船の上流に四万十大橋が開通し、利用客が一時低迷したが、お遍路さんの増加や市のホームページでの宣伝効果もあり増加傾向に転じ、2003年には800名超の利用者があった。(現在の利用者数は年間約250人程度。)また、航路自体は「市道」の一部で環境省が指定する「四国のみち」のルートでもある。利用者のほとんどはお遍路さん。地元の利用者は、高齢者が多く、対岸の知り合いなどに会いに行く用途などで使われる。
 四万十川を渡るお遍路のルートは下田の渡船から4キロ上流に架かる四万十大橋を通るルートと下田の渡船を使うルートがある。現在は四万十大橋を使うのが一般的になっている。

写真2 四万十大橋


3、渡船の廃止と復活 
 下田の渡しは、住民の対岸交通や四万十川を渡るお遍路さんの遍路道として昭和初期から運航されてきた。当時は、櫓船で個人の申し合わせで運航され、その後運営母体が市に移る。
 市営によって運航されてきた「みなと丸」は1976年から就航以来30年が経過し、老朽化が進んできた。1977年には年間5000人ほどの利用者がいたが、道路橋の建設、モータリゼーションの到来の影響を受け、徐々に利用客数が減少する。全盛期に比べ減少したものの2003年には800名超の利用者を記録し増加傾向にあり、お遍路さんの利用も多数あったが、運航コストがかさむことを理由に市議会は運航継続を断念した。また、財政状況からも新規に船を購入することも叶わず、2005年12月31日をもって廃止された。
 こうしてお遍路さんの遍路手段の一つを絶つ形になってしまった。それから、2009年に「下田の渡し保存会」が渡船を復活させるまで4年間の空白期間が生まれた。

・沖章栄氏による復活
 沖氏は高校卒業後、土佐佐賀で7年間カツオ漁に従事し、その後結婚、奥様の土木会社の役員を務めながら、下田の漁協組合員として「下田の渡し保存会」を立ち上げた方である。「下田の渡し保存会」は現在、メンバーが3人在籍し、いずれの方も地元住民である。
 2005年に市営の渡船が廃止され、お遍路のルートが絶たれた後、ある出来事が起こる。元々下田の渡船乗り場であったところにお遍路用の一本の杖と笠がさしてあったのである。おそらく、渡船が廃止されたことへの‘無言’の抗議だと思われる。

写真3 元渡船乗り場。ここに遍路の笠と杖がさしてあった。

 沖氏に渡船が廃止されお遍路ルートが絶たれてしまったことへの責任はない。しかし、その光景を見た沖氏は地元住民として申し訳なさと後悔の気持ちに苛まれたという。渡船を復活させるには費用の面でも労力の面でも多大な負担がかかる。実際、仕事中に渡船運航の依頼を受ければ、仕事を中断し港に向かう。運航コストも自治体などの補助は一切なく、私財で賄っている。このような沖氏の善意から「下田の渡し」は復活を遂げた。

写真4 下田渡し保存会による渡船

・お遍路と渡船
 昔から下田では遍路が家々を回り、その見返りとして米などを支給する‘托鉢’の文化があった。現在ではそのような行為は見られないが、沖氏は渡船が悪天候などで欠航の時にはお接待として代わりに車で対岸まで送り届けるような個人レベルの行為は存在する。サポートする形、規模は様々なものが見られるが、お遍路を助けるという文化が下田には生きられている。


結び
 市の財政健全化によって失われた「下田・初崎渡船」を惜しむ声が港に‘無言の抗議’として現れた。それを見た沖氏は、お遍路の足がなくなったことへの申し訳なさから自らが中心となって渡船復活に動く。その結果、現在お遍路の足として、対岸交通として機能する渡船が運航され続けられている。
 下田では、ある種の接待なる文化を見ることができ、単なる移動手段としての渡船ではなく、そこにお遍路と下田の繋がりをみることができた。


謝辞
 今回の論文作成にあたってたくさんの方々のご協力、ありがとうございました。ご多忙にも関わらず、時間を割いていただき、貴重なお話をしてくださった沖章栄氏には感謝申し上げます。ありがとうございました。


参考文献
佐藤久光(2016)『四国遍路の社会学岩田書院
佐藤久光(2014)『巡拝記にみる四国遍路』株式会社朱鷺書房
浅川泰宏(2008)『巡礼の文化人類学的研究―四国遍路の接待文化―』古今書院
野本寛一(1999)『人と自然と 四万十川民俗誌』雄山閣出版

下田地域の太鼓台

社会学
鈴木祐花



【目次】

はじめに

第一章 下田地域の太鼓台
第一節 下田地域
第二節 太鼓台

第二章 太鼓台の中断そして復活へ
第一節 人口減少による中断
第二節 復活の動き

第三章 現在の太鼓台
第一節 祭りの過程
第二節 下田の人びとにとっての太鼓台

むすび

謝辞

参考文献

はじめに
本稿では高知県四万十市下田地域に伝わる伝統的行事の太鼓台について取り上げる。太鼓台がどのような歴史を持ち下田地域の人びとにとってどのようなものであるかを明らかにしていく。
また、本稿では下田全体を「下田地域」、下田地域の中の集落の下田を「下田」と区別して表記する。


第一章 下田地域の太鼓台
第一節 下田

【写真1 下田地域の地区分け】

下田地域は高知県四万十市に位置する港町であり、地域の中で松野山、下田上、下田下、串江、和田、水戸地区に分けることができる。
また、「徳川時代における下田浦の繁盛は非常なものにして人家稠密して商業は繁盛なりき。漁業亦盛にして、漁獲物豊富なりき。」(宇賀嘉弥太 18) の記述からもわかる通り江戸時代から漁業が盛んな漁師町である。かつては下田港から船で木炭や材木などの物資を大阪・堺に運搬しており、四万十の流通の拠点とされていた。
 ここで下田と水戸の関係性について詳しく述べていく。もともと下田が船着き場として利用されていたのだが、土砂の蓄積などの理由から、徐々により河口に近く船の往来がしやすい水戸が港としての機能を果たすようになったため下田は下田、水戸は水戸の各々の地区としてのプライドや意識が芽生え、対抗意識を持つようになっていった。現在では若い世代同士だとそのような意識はもう薄れているが、年配の世代の中にはいまだに相手地区に対して対抗意識を持っている者もいるそうである。

第二節 太鼓台
 下田地域には祭りの際に太鼓台を出台する伝統がある。この太鼓台の起源は江戸時代にさかのぼる。経済、流通の中心地として力を持っていた下田地域の人々の間でこの有り余るパワーを何かに還元しようということで、物資の運搬などで親交のあった大阪の堺から太鼓台を購入することになったのである。もともとはだんじりを購入する予定であったが、道幅が狭く建物が密集している下田地域の道路を通ることができなかったため太鼓台を購入し、それが現在まで続く太鼓台のはじまりとされている。
もともと下田地域には三台の太鼓台があり、下田(下田上と下田下を合わせた地区)・串江・水戸の三地区がそれぞれ一台ずつ太鼓台を保有していた。しかし、串江の太鼓台が火事により焼失してしまったため残った二台の太鼓台を祭りの日に出台することになった。同日、同時刻に二台出るということで、二台の太鼓台が町の中で出くわす度に喧嘩をしていたそうである。昭和30〜40年代の写真には女性物のワンピースを着用し化粧した男性たちが太鼓台を担ぐ様子が写っており、これは自分が誰かばれないようにして相手の太鼓台に向かっていったのではないかということが推測できる。喧嘩といっても本気の殴り合いなどではなく、地区同士のコミュニケーションの形の一つとして行われていたといえるだろう。

第二章 太鼓台の中断、そして復活へ
第一節 人口減少による中断
 下田地域で江戸時代から続いている歴史ある太鼓台だが、一時中断していた時期がある。水戸の太鼓台の老朽化、水戸・下田両地区にいえる担ぎ手不足により、平成11年頃にはどちらの太鼓台も出台を中断せざるを得ない事態になってしまったのである。下田地域の名物であった太鼓台は中断され、祭りの際には神輿だけが巡行する状態になる。

第二節 復活の動き
 この現状を打破しようと立ち上がったのが太鼓台保存会である。保存会は下田の青年たちが中心となり平成13年に結成された。保存会の結成により下田の太鼓台が復活することとなり、そこから下田の一台のみが出台する状況が約十年ほど続く。
 最近になり水戸の人びとの間で水戸の太鼓台を新調し復活させようとする機運が高まりつつある時に、「ふるさと文化再興事業」を知り、その支援を受け平成21年に太鼓台を新調することができた。こうして中断を余儀なくされていた下田地域の太鼓台は無事に二台とも復活を遂げることになったのである。
 しかし元の通りにそのまま戻ったわけではない。太鼓台は新調できたものの担ぎ手不足は深刻であり、保存会員と地区代表らによる話し合いの結果、毎年二台の出台は不可能と判断し今後は保存会が二台の太鼓台の管理運営責任者となり、一年交代で双方の太鼓台を出台することに決定した。
 前述したとおり下田と水戸は馴れ合うことをあまり好まないため、この決定に対して「水戸の太鼓台を下田の人に担がせるなんてあり得ない」などといったような年長者からの反発もあったそうだが、保存会員を中心に団結することでかつての活気ある太鼓台をよみがえらせることができたといえる。また、水戸の人びとは水戸の太鼓台のほうが下田の太鼓台よりも大きく重さがあるということをとても誇りに思っていたり、下田も水戸の人たちも地区ごとに存在するテーマカラー(下田は黄色、水戸は水色)を大事にしていたりしているところからも、太鼓台を通して自分たちの地区への誇りやプライドを垣間見ることができる。

第三章 現在の太鼓台
第一節 祭りの過程
 現在、下田地域で太鼓台が出台する祭りは二つある。一つは水戸(港)柱神社の祭り、もう一つは住吉神社の祭りである。
 水戸(港)柱神社の祭りは七月第三土曜・七月第三日曜に行われ、土曜は宵宮祭りとして対岸の初崎にある水戸(港)柱神社から貴船神社への御霊遷しの神事が行われる。船に貴船神社の神輿を乗せ四万十川を渡り初崎まで到着後、水戸(港)柱神社の御霊を神輿に移し貴船神社に還御する。日曜には本祭りが行われ、下田地域を貴船神社の神輿が巡幸する。神事を済ませた後水戸(港)柱神社に還御し御霊戻しの神事が行われ、船に乗り貴船神社へと帰る。その後、保存会による太鼓台の出台が行われる。太鼓台の巡行順路は、下田集会所を出発し貴船神社、串江、和田を通り水戸を巡回後串江を通って下田下に戻り、下田上、松野山に到達後下田上の集会所が終点となる。

【写真2 下田にある貴船神社

【写真3 水戸(港)柱神社祭りの太鼓台のルート】
住吉神社の祭りは七月最後の土曜日曜に行われ、水戸(港)柱神社の祭りと同じように土曜に宵宮、日曜に本祭りがある。太鼓台を出台するのは本祭りの神輿巡幸のあとである。太鼓台巡行のルートは水戸地区にある住吉神社を出発後串江を巡回し下田の貴船神社へ、その後下田下、松野山、下田上、串江、和田を通り住吉神社に戻ってくる。

【写真4 水戸にある住吉神社

【写真5 住吉神社祭りの太鼓台のルート】
二つの祭りはどちらとも太鼓台が出台するという似たような祭りなのかと思いきや、調べてみると全く異なるものだとわかる。祭り自体は神事の進め方から順路まで異なっているにも関わらず、どちらの祭りにも太鼓台が登場し下田地域を巡行する。全く別の二つの祭りを太鼓台という一つの伝統が繋いでいるという興味深い構図が浮かんでくる。裏を返せば太鼓台はそれほど下田地域の人びとに根付いている伝統的文化であるといえるだろう。
普段太鼓台は下田集会所、住吉神社でそれぞれ保管されている。



【写真4・5・6 住吉神社に保管されている太鼓台】
どちらの祭りで出台する太鼓台も一ヶ月ほど前から保存会員が準備する。布を裁断し、中に籾殻を詰めて太鼓台の飾りである「フトン」や「シボリ」を完成させる。また、宵宮の日に保存会員総出で太鼓台の組み立て作業が行われる。
また、巡行中の役割も様々である。台の動きを指示する先導役、台の運行の舵を取る舵取り、台の上に乗り太鼓を叩いてリズムをとる太鼓打ち、太鼓台の歌を歌いながら巡行する歌い手、そして担ぎ手など色々な役回りが存在する。担ぎ手は太鼓台を担ぎながら歌い手の歌に合いの手を入れ町を練り歩く。広い場所に差し掛かると「ヤリマッセ―」の掛け声とともに激しく台を廻し、「サセ、サセー」の掛け声で台を高く持ち上げ、「サイトリマッセー」の声で持ち上げた台を激しく廻す。これが太鼓台巡行の一番の見せ場であり、観ている人たちからも合いの手や歓声が飛ぶ。



【写真7・8・9 太鼓台の歌】
大人たちが担ぐ太鼓台の後ろには子ども太鼓台がついて回る。大人太鼓台の余った布で飾り付けられていて、いつか大きな太鼓台を担ぐ日を夢見ながら大人たちの逞しい背中を追いかけていくのである。
このようにして約1トンの太鼓台を担ぎ七時間ほど下田地域を練り歩くのだ。お話を伺った川村氏によると、1トンという重さは恐怖を覚えるほどのもので、あまりの重さに自分が太鼓台を担ぐことに貢献できているかもわからないほどだそうであり、太鼓台を担ぐには重さに対する恐怖心に打ち勝つ勇気が必要なのだそうだ。巡行を終えた担ぎ手たちの肩は腫れ上がり、内出血を起こすこともある。これが下田地域の夏の風物詩である。
第二節 下田地域の人びとにとっての太鼓台
 下田地域には様々な流通ネットワークがあり、すべての人々の間で利害関係が一致するわけではない。そのような中で、誰しもが利害関係なく参加できるものの代表格として太鼓台がある。若い世代が主軸となって盛り上げることで町全体を活性化させることができ、次の世代へバトンを繋いでいくことができるのである。引継ぎが上手くいかずなくなってしまう伝統や祭りが多い中、太鼓台は世代間の繋がりが深く、多くの人が町の誇りに思っているといえる。子ども太鼓台や太鼓台保存会の存在などからもわかるように、次の世代につなげていくという意識をしっかりと感じることができる。また、太鼓台の準備や役割を学ぶだけでなく、太鼓台を通じて下田地域の社会の在り方やこの町で生きる者としての意識などを間接的に肌で学んでいくのである。そして、ある意味で本当の「下田の人間」になっていくのだ。

むすび
今回調査を通してわかったことは以下の通りである。
⦿太鼓台の起源は江戸時代にまでさかのぼり、近年一度中断しているが町の人たちの熱意により復活を果たした
⦿体系を変化させながらも今なお続く下田地域の伝統文化である
⦿現在は2つの異なる祭りで太鼓台が出台している
⦿太鼓台は下田地域の人びとにとって成長の場であり、太鼓台を通じて組織・社会の在り方を学ぶ

お話を伺っていてもとても前向きに答えていただき、太鼓台がいかに下田地域の人たちにとって生活に根付いているものなのか身をもって感じることができた。一度中断してしまったものを復活させ、形をかえながらも新たな歴史を紡いでいくことは簡単なことではない。そこで終わりにするのではなくもう一度立ち上がったからこそ未来へと繋がっていくものであり、下田地域の人びとの熱量を改めて感じた。また、下田という地域も四万十の中心部とは一線を画す独自の雰囲気があり、とても興味深く、おもしろい町であった。

謝辞
 本論文の執筆に際し、様々な方のご協力を頂きました。お忙しい中、いろいろなお話を聞かせていただき、大変貴重な資料をご提供してくださった鎌田虎男様、間崎大介様、川村慎也様、そして調査に協力してくださったすべての皆様のお力なくして本論文を完成させることは叶いませんでした。突然の訪問にもかかわらず調査に真摯にご協力いただき、深く感謝いたします。本当にありがとうございました。

参考文献
津野幸右・太鼓台保存会,2011,『太鼓台』太鼓台保存会
浦田真紀,2012,『史料紹介 宇賀嘉弥太「下田郷土史料」』
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史 続編』中村市

中村の人びとと提灯台

社会学部 赤井詩織

[目次]
はじめに


第一章 市民祭以前の提灯台
第一節 第二次世界大戦
第二節 中村駅の開業と提灯台


第二章 市民祭と提灯台
第一節 なかむら市民祭としまんと市民祭
第二節 提灯台の唄
第三節 燃える提灯台と現在の提灯台
第四節 お清めの儀式


第三章 枚方市と提灯台
第一節 姉妹都市 枚方
第二節 枚方祭りと提灯台


第四章 祭りの外に持ち出される提灯台
第一節 中村高校の甲子園出場
第二節 結婚式の披露宴
第三節 商工会議所の青色申告会50周年


結び

謝辞

参考文献




はじめに
 現在の四万十市では、毎年七月の第三土曜日に四万十市民祭が行われている。市民祭の中で、提灯台パレードと呼ばれるイベントが行われており、その際に登場する提灯台について取り上げる。
 四万十市は、平成17年4月10日に中村市幡多郡西土佐村が合併した都市である。また、中村市は、昭和29年に中村町、下田町、東山村、蕨岡村、後川村、八束村、具同村、東中筋村、富山村、大川筋村、中筋村が合併した市であり、西土佐村は江川崎村、津大村が合併した村である。今回、調査した地域は、四万十市の中でも中村と呼ばれる地域である。
 提灯台は、1467年、一条教房応仁の乱を避け、京都から中村に逃れる際、伝えたと語られている。しかし、500年前から提灯台が存在したと語られているにも関わらず、インターネット上では、四万十市民祭が行われている13年間のみ提灯台における記録が残されている。ネット上では語られていない空白の時間は、中村の人びとの間でどのように語られているのかについて調査した。また、祭り以外において、提灯台が使用されている場合はどのような場合であるのかについて調査した。


第一章 市民祭以前の提灯台

第一節 第二次世界大戦以前
 提灯台は口伝で伝えられているため、記録や文献はほぼ存在していない。それ故、提灯台の起源は不明である。
しかし、中村市史に基づいて、江戸時代幕末に提灯台が存在していたことが分かる。

小野英(嘉永四生)の幼少期の思い出記、年中行事の項に、「六月十五日、二十五日氏神様ノ祭リ、提灯台ヲ町々カラ出シ、夜ハニワカナドデオモシロイコトモアル。」とある。これが資料で見る提灯台の初見であり、前記中西亀仙記にも「夏祭、宵祭り、提灯台を舁ぐ。皆若衆の奉仕なり。」ともある。共に幕末期の夏祭り町内での出し物であったことを知る。(中村市史編纂委員会1984:975)

 また、調査より、第二次世界大戦以前まで提灯台が使用されていたが、戦後途絶えていたことが分かった。しかし、昭和26年〜28年頃に提灯台を担ぐ文化が復活する。戦後すぐ復活不可能であった理由として、昭和21年に起こった南海大震災により、小京都の跡形はなくなり、提灯台を担ぐ余裕がなかったのではないかと推測されている。昭和30年になかむら市民祭が開催されるようになり、提灯台パレードの中に提灯台が登場する。

第二節 中村駅の開業と提灯台
 昭和45年、日本国有鉄道中村駅が開通する。その際、中村全地区の提灯台、30基〜40基が中村駅の前で担がれ、中村駅開通を祝った。


第二章 市民祭と提灯台

第一節 なかむら市民祭としまんと市民祭
 市民祭は、昭和30年から平成16年はなかむら市民祭、平成17年から現在にかけて、しまんと市民祭が行われている。上記に述べたが、現在の四万十市は平成17年に中村市と西土佐村が合併した都市である。その際、なかむら市民祭からしまんと市民祭へ名前が変化した。
市民祭の中に、提灯台パレードと呼ばれるイベントがあり、その際に提灯台が登場する。提灯台は団体によって、工夫がなされている。


(写真1)中村青年会議所の提灯台


(写真2)中村青年会議所の提灯台


(写真3)中村青年会議所の提灯台


(写真4)提灯台


(写真5)提灯台⑤ 四万十市教育委員会提供


 提灯台に使用されている提灯は180個、花は736〜772個であり、大きさは4m×4m×6mが標準サイズとされている。そして、提灯台の中には太鼓が乗せられている。
団体ごとに工夫がなされているのは提灯台のみではない。提灯台パレードの際、提灯台前方にトラック二台を走らせ、トラックごとに役割が存在する。最も前を走るトラックはその団体をPRする意味合いがあり、トラックの上ではうぐいす嬢が団体に寄付金を募った人名や企業が読み上げ、また、お酒が積まれている。その後ろを走るトラックには演奏者が乗っている。毎年、ドラムやギター、三味線など異なる楽器を演奏し、いかに目立たせるか、工夫がなされている。また、提灯台の唄の歌い手が二台目のトラックの横について歩く。そして、トラック後方には提灯台を誘導する先導、提灯台、場合によっては子供提灯台や女提灯台が続く。


(写真6)中村青年会議所をPRするトラック


(写真7)トラックの上で演奏している様子

 提灯台を担ぐ際の歩き方は「練る」と呼ばれ、酔っ払いの千鳥足をイメージしたものであり、土佐の小京都と呼ばれる中村は、碁盤の目のような地形をしているため、碁盤の目の交差点で提灯台を勢いよく回す文化が存在する。この時、回す速さは遠心力で人が飛ぶくらいに早く回されるため、参加者は男に限定され、パレードの見せどころでもあると言われている。


(写真8)提灯台を回している様子

 パレードのコースは決まっており、四万十市役所前と高知銀行前のふたつの出発地点がある。市役所、東下町、天神橋、一条通、大橋通の一周がコースであり、提灯台を練りながら歩く。
 提灯台は毎年、団体ごとにおよそ一週間から二週間かけて組み立てられている。提灯台はパレードが終わると解体され、翌年の祭りまで保管される。

(写真9)提灯台組み立ての様子

 毎年、提灯台の団体数に違いが見られ、地元の人びとはパレードの参加人数が減少傾向にある認識を持っている。この理由として、中村の人びとの高齢化が進み、毎年出さずに一年おきに提灯台を出す団体があることに加え、提灯台の高さや提灯を吊るす段が増え、人数が減少したように見えるのではないか、と語った人もいる。また、提灯台パレードに参加する中村の人びとの人数は減少しているが、中村以外の地域の人びとに協力してもらい、近年は提灯台を回している。以下の表から参加人数にほとんど変動がないことが確認できる。

なかむら市民祭(昭和60年以前の記録なし)
 提灯台(団体数)  提灯台(参加者)
昭和61年   11            790
昭和62年   10            705
昭和63年   10            680
平成元年   12            780
平成2年    11            680
平成3年    13            940
平成4年    11            690
平成5年    16            1085
平成6年    13            900
平成7年   13            833
平成8年    12            910
平成9年    10            850
平成10年   10            768
平成11年   7            610
平成12年   9            630
平成13年   9            720
平成14年   11            920
平成15年   11            880
平成16年   9            790


しまんと市民祭
平成17年   13            960
平成18年   9            730
平成19年   10            745
平成20年   10            730
平成21年   12            890
平成22年   8            500
平成23年   14            810
平成24年   11            850
平成25年   11            930
平成26年   9            800
平成27年   11            810
平成28年   8            530
平成29年   11            950

第二節 提灯台の唄
 提灯台パレードの際、提灯台の唄が唄われる。この唄は夜這の唄である。100番まで存在していると言われており、元は三重の(※)伊勢音頭ではないかと語られている。祭りでは、歌い手が好む番号を100番の中から4番を選び、唄う。
市民祭で配布される団扇の裏面には、提灯台の唄の一部が記載されている。

(写真10)団扇表面


(写真11)団扇裏面

 以下は提灯台の唄であるが、ここに記載しているのは40番のみである。1番ごとに改行している。<>の部分は合いの手であり、担ぎ手も歌う部分である。

灯台の唄
下へ下え へと<よいよい>いかだを流す<よいせ どこせ>、流す筏にそれぞれ鮎が飛ぶ。<ささやとこせのよいやな、姉も せい 妹とも せい>

姉がさすかよ<よいよい>、妹とがさすかよ<よいせどこせ>、同じ蛇の目の唐傘を

四万十川の鵜の鳥さえも<よいよい>あいをくわえて<よいよい>瀬を上る。

七つ八つから<よいよい>いろはを習い<よいせどこせ>はの字忘れて色ばかり。

表(思)てナ来たかよ<よいよい>裏から来たか<よいせどこせ>私しゃ表(思)て来た。

藤にゆかりの<よいよい>一条さんの<よいせどこせ>おんしのところにやりたい藤娘。

表来たかよ<よいよい>裏から来たかー<よいせどこせ>私しやな裏からそれぞえ おもてきた<お囃子>

土佐の中村<よいよい>祇園の祭り<よいせどこせ>娘若衆の勇み肌

不場の八幡太鼓の音で<よいよい>男神女神の<よいせどこせ>こし合わせ

恋に焦がれて<よいよい>なく蝉よりも<よいせどこせ>泣かぬ蛍が身を焦がす。

恋に焦がれ鳴く蝉よりも帯びにヤ短しタスキにや長し、お伊勢、いの笠の紐

藤にゆかりの一条公さんよ、お雪かわいや化粧の井戸
清き流れの四万十川にうつし身をやく大文字、ついて行かんか提灯台に消して苦労はさせはせぬ

花の中村<よいよい>祇園お祭<よいせどこせ>娘若衆のそれぞえ 勇み肌

可愛けれやこそ小石を投げる、憎くて小石が投けらりょうか

幡多の中村一条公さんを、しのぶ今宵の提灯台 通よや名が立つ通はねや切れる 通ひやめたら人が取る

咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る

何もくよくよ川端柳、水の流れ見て暮らす。鮎は瀬にすむ

鳥りや木に止まる、人は情けの下にすむ。

櫻三月<よいよい>あやめは五月<よいせどこせ>菊は九月の土曜に咲く

女来て寝た<よいよい>東の山に<よいせどこせ>おいせなあ坊んさんそれぞえ、鐘を突く<ささやとこせのよいやな、姉もせい 妹もせい>

幡多の中村<よいよい>一条公さまを、<よこせどこせ>忍ぶなあ、今宵のそれぞえ提灯台<後同じ>

花の中村<よいよい>祇園の祭り<よいせどこせ>娘があ若衆のそれぞえ 勇み肌<ささ同じ>

夏のなあ夜空を<よいよい>茜に染めて、よいせどこせ昔なあなつかしそれぞえ、大文字<ささ同じ>

恋しなけりゃこそ<よいよい>小石を投げる<よいせどこせ>憎てない石が それぞえ投げられようか<ささ同じ>

下へ下えと枯れ木を流す<よいせどこせ>流すなあ枯れ木にそれぞえ 花が咲く<後お囃子>

うとんなあ来てねた 東の山に<よいとせどこせ>おいせなあ坊んさんそれぞえ鐘を突く<後お囃子>

不破のなー八幡、<よいよい>太鼓の音で<よいせどこせ>男神なー女神の それぞえの輿合わせ<ささなんでもせい同じ>

藤になあゆかりの<よいよい>一条公さんよ<よいせどこせ>お雪かわいやそれぞえ化粧の井戸<お囃子>

清きなあ流れの<よいよい>四万十川に<よいせどこせ>うつしなく身をやくそれぞえ、大文字<ささやっとこせのよいやな姉もせい妹ともせいささなんでもせい>

小姓に似合いのそれぞえの藤娘<後お囃子>

付いてゆかんか<よいよい>その提灯に<よいせどこせ>けしてなあ苦労はそれぞえ させわせぬ

夢で見るよしや<よいよい>惚れよか浅 眞<よいせどこせ>惚れたらそれぞえ 寝はせぬ<後お囃子>

好きと嫌いは<よいよい>どれほどちがう <よいせどこせ>命ただやる程ちかう

憎くてたたくと思うなよ<よいよい>キセル可愛けりゃこそ<よいせどこせ>吸いもする

土佐のな中村<よいよい>一条公さんの<よいせどこせ>昔栄し それぞえ城下町

不破の八幡<よいよい>宵宮祭り<よいせどこせ>ちらと見た女がそれぞえ忘れぬ

伊勢は津でもつ<よいよい>津は伊勢でもつ<よいせどこせ>尾張名古屋はそれぞえ城でもつ

春の四万十<よいよい>白帆で下りや<よいせどこせ>秋は紅葉のそれぞえ登船

東山には<よいよい>湯煙立てば<よいせどこせ>西の小富士はそれぞえ雪化粧<ささやっとこせのよおいやな姉もせい妹もせいささなんでもせい>


第三節 燃える提灯台と現在の提灯台
 今や祭りの中に形式化されている提灯台パレードであるが、昔は現在とは違う風潮や目的が存在していた。
 現在の提灯台は提灯の中にLED電球が入れられているが、以前は提灯の中にろうそくが入れられていた。
 ひと昔前の提灯台は「喧嘩神輿」とも呼ばれ、自身が担いでいる提灯台と相手が担いでいる提灯台をぶつけ合い、喧嘩を行う文化が存在した。「喧嘩神輿」の目的は、相手の提灯台の提灯や花を燃やす目的で担がれ、襲う相手を探しながら碁盤の目の街を練り歩く。その際、碁盤の目上にある交差点で敵の提灯台と対面すると、敵の提灯台を壊し、更に碁盤の目を進むと、再び交差点で敵の提灯台と出会い、壊す、という流れが繰り返されていた。そして、燃える提灯台では、火を消すという意味合いでバケツの水が交差点に用意されており、「喧嘩神輿」後には、水を提灯台にかける文化が存在した。ところが、現在も提灯台を回し終えた後に水をかけてもらう文化が存在する。若者は暑さを紛らわせるために水をかぶると考えているが、これは燃える提灯台の文化の名残であると考えられている。
30年以上前、赤鉄橋を提灯台パレードの出発点にした際、赤鉄橋に沿って縦に並び、集合する時点で喧嘩が始まった年もあった。
 しかし、「喧嘩神輿」をただ単に繰り返しているわけではない。このような流れを繰り返して提灯台が向かう先は、栄町であった。栄町は当時、飲み屋やスナックが立ち並ぶ街であったために、男が提灯台を担ぎ、女に自身のかっこよさを主張する場であったと語られている。
現在の提灯台は観光化や地域活性化の意味合いを持っており、以前の提灯台の目的とは相反することが分かる。提灯台一条教房から伝えられたと語られる場合もあるが、祭りをする際に一条教房を意識することは皆無に等しい。

第三節 お清めの儀式
 提灯台パレードの際に開会式が行われるが、近年、提灯台お清めの儀式が行われるようになる。パレード開始前、お酒を飲むが、提灯台の重さで肩を痛めるため、自身を酔わせて痛みを麻痺させることが目的である。その際、口に含んだお酒を提灯台の四方に吹きかけ、提灯台を清める。お酒のほかに、塩も四方にまくそうだ。お清めの最後には、団体の最も位が上の者にお酒を吹きかけ、儀式が終了する。

(写真12)提灯台に酒を吹きかける様子①


(写真13)提灯台に酒を吹きかける様子②


(写真14)提灯台に酒を吹きかける様子③


(写真15)委員長に酒を吹きかける様子

第三章 枚方市と提灯台

第一節 姉妹都市 枚方
 昭和49年、枚方市中村市が友好都市提携を結ぶ。当時、中村青年会議所の理事長を務めた柿谷友造さんと、枚方青年会議所の理事長が知り合いであったことや、中村市市長と枚方市市長の両者が社会党であったことを理由として、提携を結ぶに至る。現在、四万十市枚方市も提携都市であり、枚方四万十市の物産展を開催したり、枚方祭りに参加したりと、交流を行っている。

第二節 枚方祭りと提灯台
 述べたように、枚方市と友好都市提携を結んでいることから、枚方祭りの際、提灯台枚方まで運び、提灯台を回している。友好都市を結んで40年経つ都市に提灯台枚方市へ寄贈するが、提灯台を定期的に回すようになるのは平成26年からのことである。
 そして、枚方祭りは夜に盆踊りが行われるが、その際に提灯台を櫓と見立て、提灯台の周りで盆踊りが行われている。

(写真16)枚方祭りに持ち出された提灯台


第四章 祭りの外に持ち出される提灯台

第一節 中村高校の甲子園出場
 祭り以外における提灯台はどのような場合があるのか、調査した。

 中村高校は昭和52年に甲子園出場を果たす。中村高校を応援するスタンドに提灯台が登場していた様子が、高知新聞昭和52年4月3日月曜日の新聞記事から読み取ることが出来る。記事の見出しには、「『提灯台』も盛り上げ」と記されている。記事の本文には、「アルプススタンドの最上段に中村名物の『提灯台』二台がお見えした。本物のミニ版だが、紅白のちょうちんをつるし、熱戦のふん囲気を盛り上げていた」(『高知新聞』1997.4)と書かれている。このように、中村高校を応援する目的で提灯台を使用することは、中村の人びとにとって、提灯台アイデンティティであることが考えられる。

 加えて、友好都市である枚方市が応援に駆け付けたことが分かる記事があり、「『友好都市』の大阪・枚方市民は、この日、一回戦の時より増員して約八百人を動員」(『高知新聞』1997.4)と記されている。

(写真17)『高知新聞』1997.4

第二節 結婚式の披露宴
 次に、中村青年会議所山崎隆之さんの結婚式披露宴にて、本来の提灯台の半分ほどの大きさの提灯台が登場した。その際の様子が分かる写真が以下のものである。

(写真18)披露宴で提灯台を担ぐ様子①


(写真19)披露宴で提灯台を担ぐ様子②


(写真20)披露宴で提灯台を担ぐ様子③

第三節 商工会議所の青色申告会五十周年記念行事
 最後に例に挙げるのは、商工会議所が青色申告会50周年を記念し、二台の子供提灯台が登場した例である。

(写真21)青色申告会五十周年記念行事で担がれる提灯台

 その他、中村をPRする際には提灯台を使用することがある。
 第二節、第三節より、祝い事に提灯台を担ぐ文化が見られる。したがって、この二つの例からも、中村の人びとにとって提灯台アイデンティティとなるものではないかと考えることができる。


結び
・提灯台は500年前から伝わったと語られているが、インターネット上では13年間のみ記録が残されている。
・提灯台は口伝で伝えられているため、記録や文献はほぼ存在しない。
・提灯台の起源は不明である。
・『中村市史 続編』より、江戸時代幕末に提灯台の存在を確認した。
・戦前まで提灯台は存在したが、戦後途絶える。
・昭和26年〜28年に提灯台を担ぐ文化が復活する。
・昭和30年、なかむら市民祭の中で提灯台パレードが行われる。
・昭和45年、日本国有鉄道中村駅開通時、提灯台が担がれ、開通を祝った。
・昭和30年〜平成16年はなかむら市民祭、四万十市合併後は平成17年から現在にかけてしまんと市民祭が行われている
・市民祭の際、提灯台パレードが行われ、提灯台が登場する。
・提灯台の標準サイズは4m×4m×6mであり、提灯180個、花736個〜772個で組み立てられている。
・提灯台の中には、太鼓が乗せられている。
・パレードに登場する提灯台やトラック、演奏は団体ごとに工夫を凝らしている。
・パレードの際、提灯台の唄が唄われる。
・提灯台を担ぐ際の歩き方は練ると呼ばれる。
・提灯台を交差点で回す。
・近年、中村の人びとの高齢化が進み、中村以外の地域の人びとに協力してもらい、提灯台を担いでいる。
・パレードの団体数は毎年少しの変動が見られる。
・提灯台の唄は100番存在する。
・提灯台の唄は三重の伊勢音頭が元であると語られている。
・祭り当日は4番ほど選ばれて唄われる。
・提灯台の唄は夜這の唄である。
・現在の提灯にはLED電球、以前の提灯にはろうそくが入れられていた。
・提灯台に気をぶつけ合う「喧嘩神輿」と呼ばれる文化が存在した。
・「喧嘩神輿」は提灯台をぶつけ合う敵を探しながら練り歩いた。
・「喧嘩神輿」を行いながら提灯台が向かう先は栄町である。
・栄町で提灯台を担ぐ姿を女にアピールする場であったと語られている。
・「喧嘩神輿」後は火を消すため、提灯台にバケツの水がかけられた。
・現在の提灯台は観光課や地域活性化の役割を持っている。
・提灯台一条教房から伝えられたと語られているが、祭りをする際、一条公を意識することはない。
・パレード開始前、お酒を飲み、酔うことで提灯台の重さを紛らわせている。
・お清めの儀式の際、提灯台に酒や塩をまき、提灯台を清める。
・昭和49年、枚方市中村市が友好都市提携を結ぶ。
・現在も四万十市枚方市は提携都市である。
枚方市四万十市物産展を開催するなど、交流が行われている。
枚方祭りに提灯台が登場する。
枚方祭りの盆踊りの際、提灯台を櫓と見立て、提灯台の周りで盆踊りをしている。
・昭和52年、中村高校が甲子園出場の際、スタンドに提灯台が登場する。
枚方応援団が中村高校甲子園出場時、応援に駆け付けた。
・結婚式の披露宴に提灯台が登場する例あった。
・商工会議所青色申告会50周年記念行事に提灯台が登場する。
・応援や祝い事の際、提灯台を組み立てることとから、中村の人びとにとって、提灯台アイデンティティとなるものではないかと考えられる。

謝辞
 本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力して頂きました。四万十市観光協会の皆様、中村青年会議所の皆様、吉井清泰様、柿谷友造様、貴重なお話を伺わせて頂き、提灯台について理解を深めることが出来ました。ご多忙の中、私のために時間を取っていただき、ありがとうございました。
 皆様のご協力がなければ、本論文を執筆することはできませんでした。この場をお借りして、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

注(※) 伊勢音頭
 伊勢音頭には、二つの意味がある。一つ目は、伊勢古市の遊郭で遊女に唄わせた唄、二つ目は江戸時代の伊勢国で唄われた民謡のことである。

参考文献 
中村市史編纂委員会,1984,『中村市史 続編』第一法規出版株式会社.
・1997.「『提灯台』も盛り上げ」『高知新聞』1997年4月3日,12面

生業と夫婦の民俗誌 四万十市・西土佐口屋内の事例から

社会学部 和田康太郎

目次

序論
1. 研究の目的
2. 調査地について
一章 現代における女性労働の場
1. 「しゃえんじり」について
2. 開業に至るまで
二章 男女協働の場
1. 生業の変遷
2. 林業の現場
3. 漁業の現場
4. 舟母の現場
三章 男性労働の場
1. 生業ごとの男女の分担
2. 猟の現場
結論
1. 「女性は強い」のか
2. 都市生活者が学ぶべきこと


序論

1.研究の目的 
一般的に語られる高知県の県民性のひとつに、女性が強い、というものがある。高知の女性は一言で表すならば男勝りであり、よく働く気の強い人が多いとされている。土佐弁ではこうした女性像を「はちきん」という言葉で表すのはよく知られたことである。
 私は本調査で四万十市の西土佐口屋内地区を訪れたが、確かに行動力、活力にあふれる女性が多い印象を受けた。また地元の方々と交流する中で、この地域の生業の変遷が見えてきた。そこで本研究では生業の場で実際に「女性が強い」、すなわち女性が権威をもつ立場であるのか、という問いの答えを明らかにしようと考えた。しかし、本調査を進めていくことよって明らかになったのはこの問いの答えだけではなかった。この地域の暮らしぶりを見てゆくと、それが現代日本における都市生活者への示唆に富んだものであるということも判明したのである。
 そこで以下では、西土佐口屋内地区における人々の生業という題材から、時の流れとともに変化する男女(夫婦)の労働モデルに着目し、実際の労働の場で男女はどのような立場をとるか、またその暮らしが如何に示唆的であるかという2点について、その答えを示す。また、労働の場についての詳細な記述は、特に記載のない限り実地での聞き取り調査に基づくものである。

2.調査地について
 今回調査した高知県四万十市・西土佐口屋内地区は四万十川河口から直線距離で約20kmの位置にある。平成17年の中村市との合併により四万十市が誕生するまでは、幡多郡西土佐村に属していた。平成30年2月現在、世帯数は65世帯、人口にして114人が暮らす地区である。四万十川の支流である黒尊川との合流地点に位置しており、漁業(アユ、ウナギ等)が盛んである。四万十川流域では伝統的な漁業の方法として火振り漁がおこなわれているが、口屋内においてもこれが行われる。また稲作や畑作なども盛んにおこなわれている。

図1 口屋内中心部を縦貫する四万十川

図2 川の西側の集落では、田畑が多くみられる


一章 現代における女性労働の場

図3 「しゃえんじり」の料理

図4 「しゃえんじり」裏手にあるしゃえんじり

1.「しゃえんじり」について
 口屋内という場所は、以前は交通・物流の要衝として栄え、商店や飲食店、また映画館などが軒を連ねていたそうだ。そんな歓楽街が存在した場所に、1軒の料理屋が建っている。その名も「しゃえんじり」である。この名前は幡多の方言で家庭菜園を意味する(しゃえん=菜園・じり=土地)。しゃえんじりは西土佐の家庭では一般的なもので、「しゃえんじり」では名前の通りしゃえんじりで獲れる野菜や、四万十川の川の幸を使用した家庭料理を提供している。
 以前は飲食店が軒を連ねていた、と述べたが、「しゃえんじり」自体の歴史はそう古いものではない。開業したのが平成17年の3月であるから、13年ほどの歴史である。ではなぜ13年前、開業に至ったのだろうか。

2.開業に至るまで
 「しゃえんじり」の代表である岩本久子さんの話によれば、当時はこの地域の基幹産業である林業が衰退した時期で、働く場所を失い、収入が低下した世帯も多かったという。岩本さんは「木材の輸入自由化」が原因であると語っていたが、林野庁の統計を見れば、確かに平成17年前後は木材自給率が20%を割り込む年もあるなどかなり低下している。口屋内の人々は生業として林業を営む人が多いため、相当な打撃があったことは確かだろう。そこで収入の低下した世帯の「女性」が主体となり、新たな働き場として、また地域おこしのため、田舎料理の店を出す計画を立てたという。この計画も女性が中心となって進められ、同時期に閉鎖された保育所の空家を利用して開店した。この際建物の改装工事を行ったが、その建築資材は「男性」が解体された家屋などから調達してくるなどしたという。
 この事例について考えれば、一見「女性が主役」であり、「男性が支える」という図式に思える。やはり、女性は強いのだろうか。より核心に迫るべく、私は「しゃえんじり」に至る足跡をたどることとした。


二章 男女協働の場

1.生業の変遷
岩本さんによれば「しゃえんじり」が計画されたきっかけは林業の衰退であった。つまりそれまでは林業が盛んだったわけである。そこで口屋内の人々から過去の生業について聞き取りを行い、その内容をつなぎ合わせていくことにした。
口屋内では昭和3,40年代は炭焼きを中心としながら、黒尊川流域での林業(炭の材料、また資材として)・また四万十川での舟母(せんば・舟運業務)が盛んにおこなわれていた。エネルギー革命によって木炭の需要が低下すると炭焼きと同時に舟母も衰退し、以降は林業が中心となり、現代では前述の通り林業の衰退によって他の生業を中心に据えるようになったようである。

2.林業の現場
では、林業が栄えていたころの労働の場において、男女の役割はどのようなものだったのだろうか。林業の現場に関して、数年前まで林業を営んでいたという和田悦雄さん、鈴美さんご夫婦に話を伺った。悦雄さんは昭和40年代から林業に従事しており、70歳のとき足を悪くして引退してからは米づくりを中心としているという。また鈴美さんは現在「しゃえんじり」で働いている方である。
林業というのは数十年という長いサイクルで営まれるものであり、当然和田さんらが営んでいた林業も例外ではない。木を植え、育て、伐採するという工程の中には、さまざまな作業が含まれるが、ご夫婦はこの作業について、順を追って教えてくださった。
まず苗を植える前に、地拵えを行う。植える苗の数は山の斜面を真上から平面として見て、1町歩(約1万平方メートル)につき3000本というように決まっており、それに合わせて整地してゆくのだが、この作業は女性が行うという。
地拵えが終わるとここに苗木を植えるのだが、その苗木を購入してきて、苗木を背負って持ってこなければならない。この苗木の買い付けも植え付け作業も、男女で行うものだという。苗を植えると4~7年くらいの間は周りの草刈りを行う。10年が経過し、木がある程度成長するころには雑木を切り、その後は枝打ちをしたり、間伐をしたりなどしながら手入れをしていく。こうした仕事も、すべて男女で行うものだという。苗を植えることには炭焼きも行っていたそうだが、これも男女の仕事である。
育った木を伐採する際、チェーンソーを用いて木を切るのは男性の仕事である。木を切った後は川岸へ集めるのだが、川の向こう岸へ木材を渡す際、まとめた丸太をロープウェイのようにして「飛ばす」という作業をしていた。この作業では、男性は丸太の上に乗ることもあったようだ。では女性はこの時何をしていたかというと、誘導や、木を束ねるなどの地上での業務を担当したという。この「木を飛ばす」仕事について特筆すべきは、男女の分担があると同時に、夫婦のペアで行うものだったということだ。夫婦で行う理由について悦雄さんは「この仕事は危険であるから、信頼のある相手としかできない」と語った。夫婦で行う仕事には、そうしなければならない理由があるのだ。

図5 伐った木をワイヤーに吊るして渡す様子(『四万十川がたり』より)


3.漁業の現場

図6 口屋内沈下橋と漁舟(口屋内地区活性化協議会蔵)

和田さんご夫婦は、口屋内では唯一「夫婦で漁業を行う家」でもある。地域の方々の話によれば、現在でこそ他の家庭の人と共同で行ったり、漁業権を譲渡してしまったりする家がほとんどになっているが、以前はどの家庭も夫婦で漁業を営んでいたという。そして夫婦で行う漁業では、舟(=家庭)ごとに男女の役割分担の形が決まっているそうだ。
 例として和田さんの舟の分担を示すと、網を上げるまでは悦雄さんが艪を漕ぎ、網を上げるときは鈴美さんが艪に回る。一般的な家庭では終始女性が艪を漕ぎ、男性が網を扱うという分担が多いため、こうした分担は珍しいという。この立ち回りに関して、鈴美さん曰く「網を上げるのは、重いから力がいる。女の人は艪を漕げない人もいるけど、私は艪も漕げるし網も入れられるからこうしている」のだという。話を聞くと、鈴美さんは悦雄さんと結婚するまで、口屋内から少し下流に移動した位置にある久保川という地域に住んでいたそうである。この地域では児童の登下校のための渡船が各家庭の持ち回りで運行されていたため、艪を漕ぐのが上手いそうである。こうした例からもわかるように、漁業の現場における分業は、各家庭の適正に合わせて決められるものなのである。

4.舟母の現場

図7 四万十川を往く舟母(『四万十川がたり』より)

ここまで林業、漁業の現場について見てきた。こうした生業は現在でも行われているものだが、現在では見られなくなった生業においても夫婦協働の象徴的な場が存在したようである。それが先述した「舟母」である。舟母は四万十川流域における物流の主軸であったが、約50年前の沈下橋の増加とともに物理的に通行が困難となり、衰退していった。実際に舟母を運航していた人はもう少なくなってきているが、当時を知る人として、ご両親が舟母に携わっていたという渡辺幸寿さんにお話を伺った。
 舟母は西土佐と中村の港町を結ぶものである。渡辺さんの家の舟では、積み荷は主に炭焼きによって生産された木炭で、これを積んで口屋内を出た舟は河口部の下田地区にある倉庫で荷役を行う。帰りも空荷では帰らず、食料を仕入れて舟に積み込み、中村で一泊してから西土佐へと帰っていたそうである。
 前述したように、舟母は夫婦での労働の場であり、舟は夫婦一組で運航されていた。しかし、渡辺さん曰く「娘は舟母にはやらん」とよく言われるほどに、女性にとって大変な仕事であったようである。舟母は帆掛け船であるから、風のない日の運航は困難である。そうした日には女性が岸から船を引っ張って運航していたという。ただでさえ重労働であるのに、冬場などの冷たい川岸での作業の過酷さは想像に難くない。
 ならば、何故夫婦で働くのだろうか。この理由として渡辺さんは「家計が同じであるという信頼」、そして「ほぼすべての家が様々な仕事を兼業している」こと、つまり「夫婦で仕事をしないと忙しい」という要素を挙げた。私が口屋内に行った際の印象的だった会話に、「川の漁を行っている人に話を聞きたい」と話したら「この辺の人は皆漁をしている」と言われた、というものがある。「しゃえんじり」に関する説明にも含めたように各家庭に畑があり、夫婦で畑仕事を行っている。今回林業については和田さんのお話を軸に考察したが、渡辺さんも営林署にお勤めであった方で、林業全盛期にはやはりほぼすべての家庭が林業に従事していたそうである。こうしたことを考えれば、夫婦で働かねば仕事が回らないというのは明らかであろう。そして渡辺さんは「夫婦で働くというのは炭焼き、舟母の頃から続いてきた考え方だ」と語っていた。代々夫婦で働くことによって、生活を維持してきたのである。


三章 男性労働の場

1.生業単位の男女分担
?章では生業の一つ一つの中で男女の分担が行われている事例を取り上げ、その理由について考察してきたが、すべての生業において男女協働が行われているわけではない。例として、養蚕を行うのは女性の仕事、牛を飼うのは男性の仕事、というものがある。この種の生業の例として、ここでは山での猟を取り上げる。川での漁は男女協働であるが、山の猟は男性労働の場であるそうだ。舟母についてお話してくださった渡辺さんは猟を行っており、引き続きお話を伺うことにした。

2.猟の現場
昭和40年代中盤から後半にかけて、口屋内の周辺の造林地ではイノシシ・シカによる被害が深刻化した。植林をしても苗を食べられる、成長した木も皮を齧られ、そこから腐ってしまうというものである。当時営林署にお勤めであった渡辺さんはこうした害獣の駆除を行うこととなった。こうした経緯であるからそもそもの目的は駆除なのだが、獲れたイノシシ・シカは食用となる。昨今「ジビエ料理」が注目されているが、こうした裏側の事情もあるのだ。
山の猟では跳ね上げ式の仕掛けを用いた罠猟が行われる。10人程度のグループで行動し、渡辺さんのグループには口屋内の人々の他にも玖木や中半などの周辺地区の人々もいたという。組織的な猟とはいえ、各個の縄張りに関してなどは「暗黙のルール」によって決まっていた部分は多かったそうである。しかし最近では市や県の政策により外部の猟師の流入が激しく、こうしたルールは淘汰されてしまっているようだ。また獲物の獲れるポイントなどの変化も生じており、近年では害獣そのものとは違った部分での苦労も絶えないようである。
こうした「男性労働の場」である山の猟だが、ここで獲れた獲物は口屋内でも消費されている。消費される場所の一つとして料理屋しゃえんじりがあるのだが、こちらが「女性労働の場」であるのは興味深い。

図8 「しゃえんじり」で提供されるシカ肉のコロッケ


結論

1.「女性が強い」のか
 私は「女性が強いと言われ、実際そうした印象を受ける社会において、本当に女性は強いのだろうか」という疑問からこの研究に着手したが、暮らしの営みを具に見ていると、生活の中で、特に労働の場においては、立場の上下は無に等しいのではないか、と感じられた。
複数の生業を各家庭で同時に行い、そうした家が集まった社会であるからこそ、欠けてよいピースなど存在しないのである。しかしそれは丸々同じ仕事をするというわけではなく、男性のみの労働、女性のみの労働も存在するが、それはお互いの適性を考えてのことであり、お互いが支え合うことで成立するものだといえる。この視点から言えば、「しゃえんじり」誕生にまつわるエピソードとして紹介した「女性が企画し、男性が店舗の改装を手伝った」という話も、どちらが主役ということではなく、適材適所でお互いが支え合っているからこそであろうと考えられる。こうした社会からは「女性の労働」「男女の協働」「男性の労働」の3つが、一つの円の上に並んでいるような社会の姿を見て取れる。こうした社会であるからこそ男女が同じだけ働き、同じだけ収入を得る。そのためどちらが強いということはない、フラットな関係性が築かれるのだ。

2.都市生活者が学ぶべきこと
これまで取り上げてきたような男女協働の労働モデルは、口屋内という地域のものでもあり、日本の伝統的農村生活の姿でもある。我々がこのような生活モデルの表層を見て「女性が強い」と感じるのは、「男は仕事・女は家事」という都市生活の女性観を刷り込まれているからではないだろうか。即ち「女性が強い」の構造を分解すると、「高知の男性<高知の女性」ではなく、「世間一般の女性<高知の女性」というわけである。「女性が強い」と言うと「かかあ天下」というイメージに直結しがちであるが、実態はそうではないというのは今まで述べてきたとおりである。我々の思う「女性」より、実際の女性が強いというだけなのだ。
このギャップから都市生活者は多くを学ぶべきである。昨今の日本社会では「男女平等」「男女共同参画社会」などというスローガンが頻繁に掲げられるが、我々の目指すべき社会の姿は、農村に暮らす人々の社会なのではないだろうか。労働や家庭の場において女性の立場が弱いと思われてきた都市生活者のライフスタイルでは「仕掛けられた男女平等」が横行し、時に男女がお互いに苛烈なまなざしを向けあったり、逆に労りすぎたりするようなシーンが多々見かけられる。マッチョイズムや行き過ぎたフェミニズムは、こうした土壌から生まれるものだと私は考える。我々は一度原点に立ち返り、「自然な男女平等」について今一度真剣に検討すべきではないか。あらゆることから学び、内省のもとに成立するより良き社会の実現を、切に願うばかりである。


参考資料
西土佐村史編纂委員会編(2009)『西土佐村史:永久保存版』四万十市
蟹江節子(1999)『四万十川がたり』山と渓谷社
四万十市人口推移表 http://www.city.shimanto.lg.jp/life/toukei/shimanto/tukibetu.html (2018/2/5閲覧)
木材供給量及び木材自給率の推移(グラフ) http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/kikaku/attach/pdf/170926-2.pdf (2018/2/7閲覧)
美しい郷 口屋内 http://kuchiyanai.blog.fc2.com/ (2017/11/30閲覧)


本レポートの作成にあたり、岩本さん、和田さんご夫婦、渡辺さんをはじめとした口屋内にお住いの方々や、地域おこし協力隊の高濱さんには、さまざまなことについて教えていただいた。ご協力いただいたすべての方に感謝しつつ、筆を置くこととする。